10月18日は商工会議所ミーティングを終えた後、タシケントで古くからにぎわうチョルス・バザールでお買い物。サマルカンドのジョブ・バザールはどちらかといえば観光客向けでしたが、こちらは上野のアメ横みたいな雰囲気で、衣料品や日用雑貨、生鮮食料品を買い求める庶民でにぎわっていました。
夜は念願の国立ナヴォイ劇場で、地元バレエ団による「白鳥の湖」を鑑賞しました。1939年に着工し、戦火が激しくなった42年以降一時休止、戦況が有利になった44年から工事再開し、ソ連革命30周年記念の1947年、モスクワ、レニングラード、キエフと並ぶ“ボリショイ劇場(超一級劇場の称号)”として完成した壮麗な劇場です。当初は最終日19日の午前中に見学のみの予定でしたが、鴇田団長や通訳マフールさんのはからいでバレエ鑑賞券が急きょ入手でき、このような夜のライトアップも堪能できて、得難い思い出となりました。
劇場内は6つのロビーがあって、それぞれ「タシケント」「サマルカンド」「ブハラ」「ホレズム」「フェルガナ」「テルメズ」とウズベキスタンの地名が付けられました。それぞれの地域に伝わる意匠が室内に施されているようです。ナヴォイとはウズベク文学の父といわれるアリーシェル・ナヴォイ(1441~1501)のこと。ティムール朝時代の宰相を務めるかたわら、数多くの詩を残した人物です。
1966年4月26日、タシケントをマグニチュード5.2の直下型大地震が襲い、日干し煉瓦造りの家々8万戸をはじめ、約240の政府機関の建物、180の教育施設、250の工場施設が倒壊。町は壊滅状態となりました。町の中心にあるナヴォイ公園に逃げのびた人々は、他と同じように煉瓦造りの建造物であるにもかかわらず、びくともせずに建っていたナヴォイ劇場の姿に感動します。そして、この劇場をはじめ、ウズベキスタン全土で国土再建に関わった日本人抑留兵のことを記憶する市民が、この国を親日国にする源泉となったのでした。
戦時中に建設が始まったナヴォイ劇場は、たびたび工事が中断しましたが、革命記念30周年の1947年竣工が必須であったため、大戦終結後の45年には日本人が投入されました。シベリアに抑留されていた日本人捕虜はこのときウズベキスタン全土に約3万人護送されたのです。日本とは正反対の西へ西へと送られた人々の心境はいかばかりだったでしょう・・・昨年末、別の取材で静岡護国神社を訪ねたんですが、戦争の遺品を展示する平和祈念館でシベリア抑留兵の軌跡を記したボードをみつけ、ああ、静岡からもウズベキスタンで強制労働していた人がいたんだな…と胸が熱くなりました。
タシケントに送られた日本人約1000人のうち、ナヴォイ劇場の建設現場には、24歳の永田行夫隊長率いる旧陸軍航空部隊の工兵457名が入りました。現場ではロシア人技師長のもと、ウズベク人労働者とともに土木作業、煉瓦積み、板金、電気配線、溶接、指物、壁の彫刻等に従事。永田隊長は若いながらも「さすが日本人が建設したものは出来が違うといわれるものを本気で作ろう」と現場を鼓舞し、収容所での待遇改善を粘り強く交渉して部下の士気を高めたそうです。
部下からはもちろん、ソ連側やウズベク人たちからも篤い信頼を集めた永田隊長は、ナヴォイ完成後も他の収容所で働いて、1949年にようやく帰国。2008年に亡くなるまで毎年のように第四ラーゲル会(収容所の名称)を開いていたとか。2001年8月にはナヴォイ劇場で上演された日本のオペラ『夕鶴』を当時の仲間20人とともに鑑賞し、共に汗を流したウズベクの人々との再会を果たされたそうです。
ナヴォイ劇場が大地震でも倒壊しなかったのは日本人のおかげ、と言い切ってしまうのは誇張のようにも思いますが、当時のソ連が威信をかけて強固に築いた権威ある劇場に日本人の技能も大いに活かされ、今、こうして芸術の殿堂としてウズベキスタンの人々に愛されているという事実には感動を禁じ得ません。ときに衝突し合う民族の誇りと意地が、ここでは互いに認めリスペクトし合うダイバーシティ=21世紀型の新しい思想に早くも変換されていたのです。
ウズベキスタン全土で強制労働に従事した日本人約3万人は、それぞれの地域で日本人としての矜持を示しました。日本人が建設に関わった運河と水力発電所は各地に点在。タシケントの南東にあるアングレン市では炭鉱の仕事に従事した日本人のことを、市史で「第二次世界大戦後、この地にやってきた日本人戦争捕虜は、町の建築整備に大きな貢献をした。彼らと一緒に働いた者たちはその勤勉さと几帳面さをいまだに覚えているくらいである。日本人収容所の規律は厳格であったが、現地の住民たちはそのころ珍しかったペン先が金メッキの万年筆を日本人から買ったり交換したりすることができた」と紹介しています。
ツアー最終日の10月19日、タシケント市郊外にあるムスリム墓地の一角に造られた日本人墓地を参拝しました。タシケント地区で亡くなった日本人79名が眠っており、一つ一つの墓標には個人の名前と出身地が。静岡県出身者の墓標も2つありました。
同様の墓地はウズベキスタン全土で13カ所。ソ連時代は現地ウズベクの人々が私費で守り、ウズベキスタン独立後、日本大使に赴任した中山恭子氏らの尽力で募金が集められ、ウズベキスタン政府を動かすことができたようです。きれいに整備されたすべての日本人墓地には桜も植樹されました。シルクロードのオアシスに咲く桜・・・想像するだけでも素敵ですね。ここでお花見ができたら、土屋さん平井さんのお墓に静岡の地酒を献上したい、と思いました。
今、サッカーJ1ジュビロ磐田には、J1初のウズベキスタン代表選手であるフォジル・ムサエフ選手(29)が所属しています。昨年はMFとしてリーグ戦31試合に出場し、4得点をマーク。2018年1月9日付け静岡新聞朝刊には「チームをアジアチャンピオンズリーグ(ACL)に出場させたい、母国の代表にも復帰したい」と熱く語るムサエフ選手とご家族が紹介されていました。
ウズベキスタンは今年のロシアW杯は惜しくも出場権を逃しましたが、U-20では日本代表に勝利するなど東京五輪世代では文句なしの強豪国。五輪競技では過去、ボクシング、レスリング、柔道等の格闘技で多くのメダリストを輩出していますので、2020年にはウズベキスタンのアスリートをぜひ応援しよう、静岡で事前合宿を誘致できないか等とツアーメンバーで語り合いました。
今回の我々のツアーが静岡県とウズベキスタンの関係にどれほどの影響があったのかは、今まださっぱり、といったところですが、私自身は、商工会議所ミーティングの通訳ベクット氏が「人と人との交流が大事」と念を押されたように、ムサエフ選手、加藤九祚先生、永田隊長、ナヴォイ、ウルグベク、ティムール・・・今回出合った人物を深く知り、関心を持ち続けることで交流の新たな扉が開くのでは、と感じています。ウズベキスタンの情報は、日本ウズベキスタン協会(こちら)や日本ウズベキスタンシルクロード財団(こちら)等の交流団体から発信されていますので、それぞれの機会を活かし、今回のツアーを有意義なものにしていければと思います。
桜が咲くころ、本当に、もう一度行きたいな!
<参考文献>
〇蔦信彦著『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』
〇胡口靖夫著『ウズベキスタンと現代の日本』
〇中山恭子著『ウズベキスタンの桜』