杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

素晴らしき柱(メンター)たち

2021-01-09 13:59:40 | 日記・エッセイ・コラム

 昨年末以来ご報告したいことが山ほどありすぎて、まとめる時間がないうちに年が改まってしまい、正月、公私ともにお世話になっていた恩人の訃報を受け、喪に服す気持ちで松の内を過ごしていました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 昨年12月16日から22日まで、西武池袋本店『静岡ごちそうマルシェ』の地酒コーナーのコンサル&販売業務を担当させていただきました。食の催事は時節柄、出店者数を絞り、試飲試食は不可、大々的にコマーシャルも出来ず、例年とは違う様相でしたが、こういう時だから出来ること、気づくことの多かった貴重な7日間。仕込み繁忙期をおして杉錦の蔵元杉井均乃介さん、英君蔵元の望月裕祐さん、また日本酒ライターの大先輩である松崎晴雄さんと藤田千恵子さん、同志のフォトグラファー多々良栄里さん、書道家岩科蓮花さん、藤枝から稲作農家松下明弘さんが駆けつけてくれて、本当に心強かったです。ありがとうございました。

 

 最終日にはヴィノスやまざきの種本祐子社長が、慰労のディナーをご馳走してくれました。酒類をめぐる環境が激変する中で、つねに一歩も二歩も先を見据えて思い切った判断をされる祐子さんの行動力、こういう時期だからこそ一層頼もしく思います。今年2021年は、1996年発足のしずおか地酒研究会25周年の節目にあたるため、東京でも何か仕掛けられたら、とワクワクするお話ができました。

 

 12月28日には上川陽子さんの新刊『難問から、逃げない。』が静岡新聞社から発売となりました。ご一緒しているコミュニティFMの番組〈かみかわ陽子ラジオシェイク〉の2014年から2020年までの放送内容をベースに、3度目となる法務大臣就任にあたっての所感や憲法改正議論等、硬派な内容もしっかり組み込んでまとめたものです。ラジオトークの書き起こしや編集作業を請け負ったのが、ちょうど昨年4月から5月にかけての緊急事態宣言下で、秋口の発行を目指して準備をしてきました。急転直下の入閣で慌ただしくなり、時間切れ寸前でしたが、それでも国会議員になって20年という節目の2020年に出版したいというご本人の熱意が結実したのでした。

 『難問から、逃げない。』でも取り上げたのが、再犯防止に向けての更生保護活動。再犯防止は法務省の大きな活動テーマであり、陽子さんが誘致に尽力し、1年延期の労を経て今年4月に開催される国連犯罪防止刑事司法会議・京都コングレスのメインテーマにもなっています。私もラジオシェイクを通してこの分野で長年地道に尽力されている保護司や協力雇用主の方々の存在を知りました。

 静岡にも静岡県就労支援事業者機構(こちらという保護司・協力雇用主の団体があります。偶然、この機構の後藤清雄理事長と酒縁のあった私は、12月初旬に開催された機構総会での記念講演会を拝聴する機会に恵まれました。講師は三宅晶子さん。三宅さんが立ち上げた㈱ヒューマンコメディ(こちらは、全国の協力雇用主の情報をまとめた受刑者向けの就職情報誌CHANCE!!の出版で知られ、昨年はNHKの『逆転人生』『ハートフルTV』等でも紹介されました。

 HPに公開されている三宅さんのプロフィールを再掲すると、

1971年生まれ。新潟市出身。中学時代から非行を繰り返し、高校を1年で退学。地元のお好み焼き屋に就職していた時に大学進学を志す。早稲田大学第二文学部卒業。貿易事務、中国・カナダ留学を経て、2004年商社に入社。2014年退職後、人材育成の道に進むことを決め、生きづらさを抱える人を知るため受刑者支援の団体等でボランティアをおこなう。その活動中、非行歴や犯罪歴のある人の社会復帰が困難な現状を知る。
2015年7月、(株)ヒューマン・コメディ設立。受刑者等の採用支援・教育支援をおこなう。2018年3月、日本初の受刑者等専用求人誌『Chance!!(チャンス)』創刊。アンガーマネジメントファシリテーター。依存症予防教育アドバイザー。

 起業のきっかけは、少年院から届いた一通の手紙。ある施設で親しくなった17歳の女の子で、両親が健在ながら15年以上施設で過ごし、腕にはリストカットの跡がいくつもある。彼女からの手紙を読んで、身元引受人になって一緒に生活することに。そして自ら少年院・刑務所等を出た方を支援する事業を起そうと決意。2015年7月、彼女の誕生日に会社を登記しました。毎年、会社の記念日に「生まれてきてくれて、ありがとう」と伝えたかったため、だそうです。

 ヒューマン・コメディという社名には、「人生は、いくらでも変えられる。誰かを笑顔にして、最後は自分も笑って死ねるように生きる。許された人は許す人になる。そうしてやさしい社会をつくる」という思いが込められています。

 総会の後、後藤理事長が三宅さんと会食する席を用意してくれました。新潟ご出身の三宅さんは日本酒もお好きとのことで、地酒ネタですっかり盛り上がってしまいました。

 以前このブログ記事(こちら)で紹介させていただいた静岡勧善会の近藤理事長とも相席が叶い、まったく異なるチャンネルをつなげてくれた地酒の縁に心から手を合わせたくなりました。

 

 静岡ごちそうマルシェ会期中、滞在していた池袋のホテルの隣がグランドシネマサンシャインという新しいシネコンで、日本屈指のIMAXスクリーンがあるということで、話題の『鬼滅の刃』をレイトショー鑑賞しました。

 漫画やアニメは未見で、10月下旬、京都の亀甲屋さんで偶然出会った静岡出身の大手雑誌編集者に、『杯が満ちるまで』を進呈した返礼に『鬼滅の刃』の特集号を送ってもらい、市松模様の羽織の主人公と金髪ギョロ目の剣士の名前を取り違えていた事を知ったレベル。そんな浅い初心者でも、スクリーンの迫力と相まって全身&目頭が熱くなり、栄養ドリンク1週間分飲んだぐらいの元気をもらい、西武の催事を乗り切った観がありました。

 お正月の三が日は、多くの初心者ファン同様、漫画全巻を電子版で読破し、今はNetflixでアニメ版を順に観ています。日本古来の民俗伝承や禅の調息法、ロード・オブ・ザ・リングにも似た圧倒的巨悪に対峙する小さき仲間と柱の勇者たちとのフェローシップ等々、自分が好んできた世界との親和性も高く、久々に、誰かが創った〈物語〉に夢中になれた自分にホッとしています。魘夢役とレゴラス役の声優さんが同一人物と知って驚愕しましたが(笑)。

 柱である煉獄さんが炭治郎たちに示した姿勢のように、今、心から信頼できるメンターの存在が求められているのだろうと思います。煉獄さんはアニメの世界の理想に過ぎない存在かもしれませんが、現実に向き合い、課題を克服しようとするとき、どこかに「こうあらねばならぬ」という至高の願いがある人とない人では、周囲に与える影響力が格段に違ってきます。

 上川さんが日本という国を背負って政治に向き合う姿勢、種本さんや三宅さんが取引先や社員や要支援者に向き合う姿勢には、現実を冷静に分析しながらも、そこに安易な妥協や緩みを感じません。責務を担った者の潔い生き方は心から美しいと思う。煉獄さんにそういう思いを感じた観客が、日本の映画の動員記録を塗り替え、現実に、苦境に在った出版業界やコラボ商品を企画した各企業に利益をもたらしたのですから、理想が現実を救うというのは確かなんですね。

 実は昨年12月、三宅さんにお会いする前日の夜、静岡市女性会館が企画したメンターカフェのゲストに呼ばれ、自分の経験や生き方についてお話しする機会がありました。自分が取材した分野の話ではなく、自分自身のことを人前で話すというのは初めての経験で、自己肯定力の弱い自分がメンターと呼ばれることに戸惑いもあったので、ここでは自分の好きな『我唯知足』『自未得度先度他』『動中工夫勝静中』という禅語を、自分の生き方の理想として伝えました。口でしゃべっただけなので、まさにこれから、煉獄さんのように己の姿勢で示さなければなりません。

 そんなこんなで、更新頻度はゆっくりになってしまうかもしれませんが、理想の実現を求めつつ、今年も『杯が乾くまで』をどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 


平成最後の日によせて

2019-04-30 14:18:43 | 日記・エッセイ・コラム

 平成最後の日ということで、しばらくお休みしていたブログを再開します。テンプレートも一新しました。よろしくお願いします。

 平成の30年間、山あり谷ありでしたが〈ライター〉を肩書に仕事し続けてこられた幸運に、あらためて感謝したいと思います。とりわけ、初めて酒蔵を訪れたのが平成元年2月でしたから、当時の、静岡の酒の取材をライフワークにしたいという夢を、平成が終わる今も追い続けていられることに深い感慨を覚えます。

 人が成長するのは、知らないことや経験しないこと、遠くから憧れ眺める対象を必死に追いかける時間だと思います。一つのテーマを長く追っかけていると、ついつい知ったつもりになったり後から来る人を軽く見たりしがちです。でも自分のこれまでの知見なんて、大宇宙のチリみたいに微小なモノなんだと、どこかでつねに意識し続けていかなければ、成長はおろか、人としての停滞・衰退を招くでしょう。多くの人に何かを伝える仕事で最たるリスクとは、不遜な自意識。「貪欲で愚かであれ」というスティーブ・ジョブズの言葉がしみじみ響きます。

 長くかかわってきたことにも、つねに新鮮な感動や発見ができる感性を持つために、令和時代にふさわしい第二第三のライフワークを見つけ、このブログでも発信していけたらと思っています。

 今後とも「杯が乾くまで」をどうぞよろしくお願いします。


平成最後の盆に寄せて

2018-08-15 10:58:39 | 日記・エッセイ・コラム

 久しぶりの投稿です。昨年の大晦日に父が急死してから、あっという間の初盆。まさに光陰矢の如しの心境です。

 平成最後の今年、正月に父を送ってからというもの、この8月までに多くの縁故者を見送ることになりました。こんな年はもちろん初めて。今まで漫然と学んで来た仏教や禅の教えが、机上の空論にすら感じられました。それでも空論ではなく実学として日々の行動につながればいいなと願いつつ、今年見送った故人を偲んでみたいと思います。

 

 3月17日は、静岡県ニュービジネス協議会で長年お付き合いした食味研究家・石川美知子さんのお通夜でした。美知子さんとは昨年10月にニュービジネス協議会のウズベキスタン研修旅行にご一緒し、少しお痩せになったかなあと気になりましたが、ご本人はいたってご健勝。共に無事、7泊8日の研修を終えて成田に帰国し、そのまま都内で打ち合わせだとおっしゃる美知子さんの背を見送ったのが最期でした。

サマルカンド・レギスタンス広場にて。2列目右から2人目の美知子さん。

 栄養士の知識や経験を食ビジネスにつなげた女性起業家の先駆けとして多方面で活躍され、ガラスの天井に挑んだファーストペンギン、とでも言うべきでしょうか、いろいろな意味で大胆かつ繊細な実業家でした。どこかで無理をしながらもアクセル全力で人生を走り切ったのでしょう。今から30年近く前、ニュービジネス協議会の広報の仕事を始めて間もない頃、ちょうどお盆のこの時期、美知子さんの友人の美大の先生がデザインしたというカラフルな浴衣で、郡上八幡の徹夜踊りにご一緒したことが一番の思い出です。

 

 

 5月15日は、元祖梅にんにくでお馴染み・㈱梅辰の岩倉龍夫会長の葬儀でした。会長の一人娘で現社長岩倉みゆきさんは私の中学高校の同級生。会長はみゆきさんの中学時代に梅辰を創業し、その後、みゆきさんが会社を手伝うようになってから私もちょこちょこ会社の広報を手伝わせてもらうようになり、よく顔を合わせました。2016年に梅辰創業40周年記念で『一日八粒のしあわせ』という記念誌を作らせてもらったときは長時間インタビューし、梅辰創業時のご苦労や梅にんにくの誕生秘話をじっくり聴かせてもらいました。

 昭和6年浜松生まれの岩倉龍夫会長。人間魚雷になる覚悟で航空隊に入隊し、出撃直前に終戦。空襲で家を焼かれ、働き手のない家族を支えるために静岡に出て下駄屋の住み込み奉公から始め、さまざまな業種の訪問販売で実績を積み上げ、梅辰を創業。商売の原点ともいえる行商というスタイルを堅持し、長年信頼関係を築き上げた顧客に支えられてきました。40周年記念誌編集時は、創業当時から梅にんにくの行商を続けている80代の個人代理店主にインタビューし、ネット通販全盛の今もこういうビジネスモデルが残っていることに、半ば感動したものです。昭和と平成をまさに生き切った人生だと感服します。

 

 

 5月27日は『萩錦』の蔵元・萩原吉博社長のお通夜。3日前の5月24日に、奥様で萩錦杜氏の萩原郁子さんと、岩手県遠野市にある萩錦前杜氏・小田島健次さん宅で落ち合い、翌25日に一緒に南部杜氏自醸会へ参加する予定で私はひと足先に小田島さん宅入りしていたのですが、24日朝、萩原社長は郁子さんを静岡駅まで車で送って、家に戻る運転途中に体調急変し、そのまま帰らぬ人に。郁子さんは新幹線で東京まで着いてからトンボ帰りされたのでした。遠野の小田島さん宅で、小田島さんの弟子で『富士錦』杜氏の小林一雲さん、小田島さんの蔵人仲間だった菅沼テツさんと共に、郁子さんの到着を待っていた私は、あまりの突然の知らせに言葉もありませんでした。

 萩原夫妻とは、1998年に静岡新聞社から出版した『地酒をもう一杯』の取材時にじっくりお話をうかがって以来のおつきあい。このときすでに郁子さんは現場で杜氏の補佐役を務めておられ、こんな働き者の蔵元夫人は他にいない!と感動し、そのことを『地酒をもう一杯』の記述や写真にも反映させたのですが、出版後、東広島の全国新酒鑑評会一般公開会場で偶然、吉博社長にお会いしたとき、郁子さんメインの掲載写真にいきなりクレームを付けられ、「そこに!?」とびっくりしたのが最初の強烈な思い出です。

 以来、若干の苦手意識を持ちつつ(苦笑)、しずおか地酒研究会の活動にもなんとかご協力をいただき、年月を経て、美大講師をされていた娘の綾乃さんがご主人共々家業を継ぐために戻ってからは、お会いするたびに社長の表情がおだやかに変わられたと実感しました。「娘さん良かったですね」と声を掛けると「まさかこんなふうになるとはねえ…」と照れ笑いした表情が懐かしく思い出されます。

 昨年、朝日テレビカルチャー静岡スクールで蔵見学をお願いしたときは、緊張しながらカンペを読み読み、歓迎のあいさつをしてくださいました。わざわざカンペを準備してくださったのかと驚き、その真摯なお姿に、この人は本当に裏表のない正直者なんだなあとホッコリしたのが最後の思い出となりました。

 小田島さん引退後、平成29酒造年度から郁子さんが杜氏となり、綾乃さんも南部杜氏組合で研修を受けて次期杜氏の道を歩み始めた、その矢先の急逝。郁子さんがお通夜で号泣されていたお姿にも胸を打たれました。郁子さん綾乃さんの母娘が醸す萩錦、社長がこの世に託した静岡の宝物として、しっかり応援していきたいと思います。

 

 

 6月16日には、ホテルアソシア静岡で開かれた『金両基先生を偲ぶ会』に参加しました。4月2日にお亡くなりで、御身内の葬儀の後、日韓の縁故者が集まる席が設けられ、多くの人々が先生の偉功を偲びました。私が最後にお会いしたのは、2月4日に興津清見寺で開かれた朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産登録記念式典のとき。清見寺に掲げられた朝鮮通信使・南壷谷の漢詩扁額「夜過清見寺」に久しぶりに感動したことをフェイスブックに投稿したら、金先生から「私は南壷谷一族の子孫」という驚きの返信コメントをいただきました(こちらの記事を)。

 金両基先生とは、2007年に制作した映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の脚本監修をお願いしたときからのおつきあい。朝鮮通信使に関する知識ゼロの山本起也監督と私がにわか勉強で書いた脚本について、「歴史を時系列になぞっているだけ、映画としての面白みがない」と想定外のダメ出しをもらい、山本監督の創作意欲に火がついて、2週間で脚本を全面改訂し、同時にロケハンをやり直し、撮影2週間、編集2週間というゲリラ制作となりました。私自身は映画作りの現場は初めてだったので、ローカル映画ってこういうやり方なんだと半ば楽しんで?いたわけですが、製作サイド(静岡市)は気が気ではなかっただろうと思います。

 その後、金先生は私の地酒活動にも関心を寄せてくださって、2008年10月には藤枝の稲作農家・松下明弘さん、『喜久醉』蔵元杜氏・青島孝さんと‟変人トリオ”を組んで「国境を越えた匠たち」と題したしずおか地酒研究会トークセッションにご出演いただきました。息子世代の2人を冷やかし励ます先生の、底抜けに快活な笑顔が昨日のことのように蘇って来ました(セッションの内容はこちらこちらこちらを)。

 金先生も、昭和と平成を生き切った世代。その言動には表裏がなく、相手が自分の子ども世代であろうと知ったかぶりの未熟者であろうと手加減せず、一人前として真正面から本音で意見をぶつけてくれる方でした。こういう大人は少なくなったなあ、(苦労知らずの)自分の世代はこういう大人にはなれないなあとつくづく思います・・・。

 

 

 8月3日は、蒲原の『幸せの酒・銘酒いちかわ』店主市川祐一郎さんの愛妻・朋子さんのお通夜。54歳という働き盛りで4人のお子さんの逞しいお母さま。7年前に患った乳がんの転移ということで、悔やんでも悔やみきれなかっただろうと思います。

 市川さんは、22年前、私がしずおか地酒研究会を作ったときに賛同者になってくれるかも、と喜久醉さん正雪さんから紹介してもらった酒販店でした。先代から店を引き継ぎ、この2銘柄を柱に地酒専門店として生まれ変わろうと意欲満々だった市川さん。全国の酒販店の中でもいち早くネット通販を始め、e-sakaya.comという全酒屋憧れのドメインをお持ちです(サイトはこちら)。

 そんなご主人の挑戦をしっかり支え、私がお店にうかがうと、「夕飯ご一緒してきませんか?」とご家族の食卓に迎えてくれたのが朋子さんでした。まだ小学生だったお子さんたちから「お父さんとどういう関係なの?」と怪しまれた(笑)のを、今でも懐かしく思い出します。

 2年前に『杯が満ちるまで』の取材でうかがったときは、市川さん、市川さんのお母様と一緒に‶しあわせの酒”を笑顔で紹介してくれた朋子さん。この頃すでに転移が判明し、抗ガン治療を受けておられたと後々知って、本当の辛さを知っている人は、辛さを顔には出さない強さを持っているんだ、と思い知らされました。

 

 お盆にちなみ、今年これまでお見送りさせていただいた方々への思い出をつづってみましたが、他にも参列が叶わなかった故人が何人かいらっしゃいます。

 その方々への思いも込めて、あらためて盂蘭盆会の意味を紐解いてみると、梵語でウランバナ=逆さまにされたような苦しみ、という意味だそうです。

 盂蘭盆会は、釈迦の弟子のひとり・目連というお坊さんの母親を、餓鬼の世界から救いたいという願いから始まったもので、なぜ母親が餓鬼の世界で苦しんでいるかといえば、我が子可愛さのあまり、他人の子よりも我が子さえよければ、という欲にさいなまれ、貪る心を釈迦に指摘されたから。目連にしてみれば、自分という存在が母に罪深い行いをさせているということ。どんな聖人であっても母親から生まれ来る以上、等しく背負う罪であると自覚し、修行中の僧が自発的に懺悔をする日と位置づけ、餓鬼の心を鎮める『観音経』『大悲呪』『開甘露門』というお経を読む。日本に伝わってからはお盆の日には地獄の釜が開いて、亡霊が苦しみから解放されるという伝えも加わり、年に1度、ご先祖の霊が帰ってくると信じられるようになりました。(『臨済宗仏事のこころ』藤原東演著より)。

 

 苦しみを持たない人は、この世にもあの世にもいない。そんなふうに思うだけで、今、苦しいと思うことが少し軽くなる気がする・・・そんな平成最後のお盆です。


バスに乗って逝った父

2018-01-07 13:27:02 | 日記・エッセイ・コラム

 ウズベキスタンレポートの連載中ですが、ひと言お礼とご報告を。

 実は昨年大晦日、父が急逝し、2日(火)に通夜、3日(水)葬儀という慌ただしい年明けとなってしまいました。享年84歳。初七日にあたる6日(土)は朝日テレビカルチャー地酒講座で蔵見学引率の仕事が入っていて、訪問した富士高砂酒造(富士宮市)の仕込み蔵に安置されている富士山頂下山仏を拝ませていただき、少し落ち着きましたのでご報告申し上げます。

 

 

 父の訃報は時期が時期なので親族だけに知らせ、こじんまり送ることにしたのですが、3日葬儀後の祓いの食事(仕出し弁当)を頼めるお店が、葬儀社さんでも見つからず、やむを得ず31日夜、フェイスブックにSOSを出したところ、多くの皆さんから情報提供&弔意をいただき、お店も無事見つかりました。偶然、しずおか地酒研究会でもお世話になったことのある両替町の日本料理「新」(あらた)さんでした。

 

 通夜や葬儀には、わざわざ日時と会場を探して参列してくださったり、お花や弔電を送ってくださる人もいらっしゃいました。酒造繁忙期にもかかわらず葬儀に駆けつけてくださったり、わが家へ直接お線香を上げに来てくださったり、御香典を郵送してくださった蔵元さんもいらっしゃいました。自分はその方々に一方的にお世話になっていたものと思っていましたので、思いがけないご厚情に感謝の言葉が見つかりません。こういうときに行動してくださった方々との絆を再認識させてくれた意味で、父にも感謝しなければと思います。本当にありがとうございます。

 父には心臓の持病があり、一昨年、運転免許を返納してからは家に引きこもりがちになり、足腰も弱っていました。実家には障害を持つ弟もいますので、母一人に世話をさせるのは大変ということで昨年11月に私も実家へ居を移し、久しぶりに家族4人の生活を始めました。

 昨年末は私が日替わりで買ってくる蔵の新酒を、父は「まみちゃんの酒はどれも美味しいなあ」と言って喜んで晩酌していました。私が西武池袋本店の仕事で1週間留守をしていたときは、私の酒ストックには手を付けず、安いパックの焼酎でガマン?していたようで、私が戻ってからは、夕方、私が仕事から帰って酒瓶を取り出すのを、まるでおあずけをくらうワンコのように(笑)待っていました。

 直前まで何の異変もなく、亡くなる3日前には一人でバスとJRに乗って用宗漁港の直売所までシラスとサクラエビを買いに行き、亡くなった当日も朝は普通に一緒にご飯を食べて、9時過ぎに清水の河岸の市に魚を買いに一人でバスに乗って出かけたのでした。母と弟もそれぞれ大晦日の買い出しに出かけ、私は家で留守番をしながらウズベキスタン視察記を書いていた10時前、静岡市立病院から、父が心停止の状態で運ばれたとの電話。取り急ぎ一人で病院に駆けつけたところ、1時間近く心臓マッサージを受けている状態で、家族の同意がなければマッサージは止められないと言われ、母に連絡が取れない状況での判断に、一瞬、逡巡したものの、「わかりました」と同意をしました。

 担当医や警察の説明によると、バスがJR静岡駅に到着したとき、乗客から「座席で寝ている人がいるよ」と報告を受けた運転手さんが異変を察して救急車を呼んでくれたようです。・・・美味しい酒の肴を探しに出かけたまま、逝っちゃったんですね。

 

 父は長年、県の土木技師として、静岡県内の道路や橋の建設保守に携わっていました。人付き合いが下手で、県庁内では出世コースから完全に外れ、土木事務所の支所勤めで終わった人ですが、山に入って道なきところに道を造り、橋を架け、市街地では難しい用地交渉をして道路を拡張する仕事に終始、現場で汗を流しました。自然災害が発生すれば休みなしの復旧作業にも従事したものです。

 私が駆け出しライターのころ、SBSの情報番組『そこが知りたい』で働くお父さんのお弁当をリサーチをしていたときに道路工事現場の親方を紹介してくれて、その親方から「あんたのお父さんは早朝でも休みの日でも現場に来て気が済むまで点検するんだよ、こっちも気が抜けないよ」と苦笑いされたことがありました。シンガポールのツアー旅行に参加したときは、自己紹介タイムで「トラックの過積載が道路を痛め、事故のもとになる。荷物の詰め込み過ぎには注意してください」と場違いな挨拶をしてこちらが恥ずかしい思いをしましたが、今思えばそれくらいの仕事人間だったのでしょう。父が手掛けた道路は、私が知っている限りでは安倍奥の俵沢、西伊豆の松崎~下田、西富士道路、焼津の大崩海岸周辺等々。これら付近を通るときは父を偲んでくださいと、施主挨拶で紹介させていただきました。

 道を造るという仕事は、私のような気楽な稼業に比べると、はるかにプレッシャーの大きい仕事だったと思います。休みの日には一人で山に登って写真を撮ったり、時刻表を片手に鉄道路線めぐりをするのが、父の唯一の趣味でした。団体行動が苦手で友人も少なく、定年後は母が山登りに付き合うようになりましたが、心臓の手術を2回やってドクターストップをかけられたのが父の気力を失わせたのだと思います。ちなみに母は60歳を過ぎてから父に付き合った登山に魅了され、日本百名山を踏破し、80歳を超えた今でも月3~4回、登山仲間とウォーキングに出かけています。

 父の手帖には、罫線に沿ってびっちり、その日の行先、距離、時間が記録されていました。登山に行くときも、近所に買い物に行くときも同じ。土木技師らしい記録習慣がそのまんま、残っていたようです。もう一度見たいなと思ったのですが、葬儀後、父の私物を片付けていた母が「あんな意味の分からない数字だらけの手帖なんて捨てちゃったよ」とひと言。女は勁いなあと苦笑いするしかありません。

 生前、父は終活の話を嫌がり、いざというときのことを何も決めていなかったため、病院で渡された葬儀社リストを参考に、昔、親戚が使ったらしい葬儀社に頼み、お経をあげていただくお寺さんはその葬儀社から紹介してもらいました。日頃から自分は仏教に親しんでいたのに、こんなとき何も役に立たないと情けなくなりましたが、紹介されたお寺が、偶然、臨済宗妙心寺派で、自分がいつも坐禅のときに読経している『大悲呪』『白隠禅師坐禅和讃』で送っていただき、『冬山弘真信士』(俗名・鈴木弘敏)というシンプルで分かりやすい戒名を授けていただきました。旅立ったのが、白隠遠忌250年の2017年大晦日の静岡駅前ですから、もしかしたら白隠さんのお近くへ行けたかもしれない、なんて妄想しました。有難い仏縁です。  

 新さんがご用意くださった祓いのお弁当は、市場がお休みで食材が少ない時期とは思えない味わい豊かなお弁当で、父が最期に残した豪華な酒肴だな、と思いました。

 

 フェイスブックのコメントでは多くの皆さんから「幸せな最期だね」と言われました。はいそうですね、とすぐに返せる心境にはまだ至っていませんが、こうして記録し、個人の“死”を、個人の歴史の“史”として物語化していくことで、心の底から父の旅路が幸運だったと実感できるのかもしれません。改めて皆さまのご厚情に心より感謝申し上げます。

 

 


グレートトラバースを観て

2016-01-05 19:14:01 | 日記・エッセイ・コラム

 2016年が本格始動しました。9年目を迎えた【杯が乾くまで】、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 今年の年賀状はちょっと奮発してカラー印刷。1本の稲が手から手へつながれ、一杯の酒、一冊の本へと結実した過程を紹介させていただきました。お世話になった皆さまにはあらためて御礼申し上げます。

 

 

 年末年始は久しぶりにお寺のバイトで体を動かし、世の中が動き始めてから本格的に寝正月です(笑)。昨年末に京都の松尾大社、奈良の正暦寺に【杯が満ちるまで】の出版報告御礼参りに行ったので、初詣はパス。録画していた映画や紀行番組を観たり、山積みしてある未読本をめくったりとダラダラ過ごしています。

 正月番組でついつい見入ってしまったのが、日本百名山ひと筆書き踏破のグレートトラバース(こちらを参照)。プロアドベンチャーレーサー田中陽希さんが、屋久島・宮之浦岳からスタートし、北海道・利尻島の利尻岳まで総移動距離7,800km、累積標高10万mをおよそ200日間、完全人力(徒歩とカヤックのみ)で踏破した番組で、一昨年に放送されたものの再放送でした。

 

 正月に実家で母が百名山についてやたら熱く語るのにつきあううちに、百名山の名前ぐらい知っておかないと恥ずかしいかなあ~と思い始め、百名山をいっぺんに観られるなら、と録画してみたらすごく面白くって、プロアドベンチャーレーサーという職業が存在するんだな~、百名山がひと筆書きのように順番に回れるんだな~、それぞれの山を一般登山者の半分ぐらいのタイムで踏破しちゃう田中さんに完全密着するカメラクルーもすごいな~など等、いちいち感心させられました。芸能人がやらされるチャレンジ番組とは違い、プロがスポンサーを集めて企画したチャレンジレースにテレビが密着取材した、という形のようです。そりゃそうですよね、百名山を完全人力200日で踏破するなんて、テレビ局が企画したところで挑戦者を探すのは困難でしょう。

 印象的だったのは、田中さんがもともと自分で挑戦したい!楽しみたい!と思って始めたことなのに、テレビを観て感動したという視聴者から追いかけられたり待ち伏せされたり、「頂上でずっと待っていたのに着くのが遅い」と言われたりしてナーバスになり、加えて肉体的疲労でドクターストップがかかったり、落雷にあったりカヤックで転覆したりと命の危険を経験し、やがて、「自分の挑戦を通して日本の自然の素晴らしさや登山の魅力を多くの人が知る機会になれば」という意識に転換していったこと。最初っから「日本の自然の素晴らしさや登山の魅力を伝えるために」なんて大上段に構えてなかったんですね。個人的な動機が社会的な使命へと変容していく様子が心を打ちました。

 

 登山経験皆無の私には、しんどい思いをして山を登る楽しさや魅力が、いまいちピンと来ないんですが、何かをひたすら続けて行なう、途中で挫折しそうになる自分を奮い立たせる、厳しい目標に挑戦し続ける・・・そういう経験を経た人にしか見えてこない景色がある、ということだけは観念的に理解できる気がします。それは、変化に富んだ、“常に非ず”の風土に腰を据えて生きる、農耕民族たる日本人が、もともと根っこに持っていた強靭さ。あきらめない強さというのか、あきらめたくてもあきらめようのない、どうしようもない自然の移り変わりや気候変動に対して、ときには攻め、ときには引くなど柔軟に立ち向かう。米や作物を育てる人、自然災害に遭った人からはそういう話をしばしば聞くし、登山家にもそういう判断力が必要なのではないかと想像します。田中さんも「自分の身体に訊きながら」、攻め時、引き時を見計らって進んでいました。

 

 山登りといえば、日本には山岳信仰の実践者たる修験者がいて、富士山にも登拝という伝統があります。私が勉強している白隠禅師も、若かりし頃、己の悟りや鍛錬のために全国を行脚し、山中で禅病(うつ病)と闘い、やがて憑き物が落ちたように大悟し、後年はひたすら人々の魂の救済に努めたといわれます。

 田中さんはもちろん宗教者ではありませんが、田中さんの行為はきわめて基層的というか、視聴者が感動するのも日本人として根っこに眠っているものをくすぶられるから、かもしれませんね。

 

 自分も山登りに挑戦!と宣言できるほどの自信はまだありませんが、静岡新聞社から低山ウォーキングや伊豆ジオパークめぐりのような初心者うってつけのガイド本も出ていますので、ちょっとずつ挑戦してみよっかな~と若干前向きになってます。登山した後の一杯の酒ってのもじっくり味わってみたいですしね・・・!