杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

静岡で日本酒学を究める!

2019-08-28 20:30:25 | 地酒

 2015年にスタートした朝日テレビカルチャー静岡スクールの地酒講座、おかげさまで5年目を迎えました。こんなに長く続くとは正直びっくりです。

 

 有料のカルチャースクールで酒の講座を担当する講師は、プロの酒販店や唎酒師が務めるべきもので、いくら事情通だからといっても私のような業界外人間がでしゃばるべきではないと、これまでオファーがあっても知り合いの酒販店さんや業界内にいる有識者を講師に推薦してきました。ところがある試飲イベントで偶然、朝日テレビカルチャーの事務方にいた高校の同級生とバッタリ会って、無類の酒好きの彼女から「うちには日本酒の講座がないから、ぜひやってくんない?」と言われ、ちょうど『杯が満ちるまで』の出版時期と重なったので、本の営業魂?をくすぐられ、1期ぐらいならと軽い気持ちで引き受けてしまったのでした。

 最初のうちは、『杯が満ちるまで』の取材ネタをベースに酒蔵見学を織り交ぜてなんとかカリキュラムを組めたものの、毎月1回、12回×4年も続ければネタ切れはやむを得ず。酒販店オーナーが講師を務める講座と違い、私の場合、試飲酒は自分で方々走り回って買い揃えなければならないし、いただく講師料+教材費より大概予算オーバー。酒蔵見学も取引先しか見学不可と断られるところがありますし、ゲストを探そうと思っても結構断られる。これは私に人望がないせいかもしれませんが(苦笑)、カルチャー講師を引き受けて、カリキュラムを作って継続させるって、よっぽど信念がなければ務まらないというのが正直な思いです。

 

 そんなこんなで半年ごとに更新の時期がやってくると胃が痛くなる思いをしてきたのですが、今年は5月に東広島の独立行政法人酒類総合研究所の研究発表会で、新潟大学が開講させた日本酒学(SAKEOLOGY)の話を聞いて、日本酒の世界も、味や品質云々ばかりでなく文化的科学的な学問領域に目を向け始めたと慧眼しました。日本酒の市場を海外に広げるのも重要ですが、国内市場を掘り起こし次世代の飲み手を育てるには、正しい知識や伝統を伝えることが大事だろうと思い、私自身、このところ酒の歴史や文化に目を向けてきました。こういうことを国立大学が本格的に取り組み始めたことに大きな希望を感じ、勇気をもらったのです。

 そしてー

 2019年10月期からの朝日テレビカルチャーでは、SAKEOLOGY@SHIZUOKAと銘打ち、静岡での日本酒学確立に挑戦します。業界外人間の私に何ができるか、気軽に試飲を楽しむカルチャーらしさを失ってもいいのか逡巡しつつも、酒販店オーナー講師のように試飲酒を潤沢に揃えたり酒蔵見学するのが難しいならば、私ができることを、私らしくやるしかないと開き直った結果です。

 

 


セノバ日本酒学 SAKEOLOGY@SHIZUOKA

 

1回 10月5日 「文学」酒を伝える名文解説 講師/鈴木真弓(コピーライター) 

 

2回 11月2日 「経済」プロに聞く!酒税のしくみ ゲスト講師/内川正樹氏(税理士・元名古屋国税局酒類業担当官)

 

3回 12月7日 「実践」生酛づくり体験(会場/杉井酒造) 解説・指導/杉井均乃介氏(杉井酒造蔵元杜氏)

 

4回 2月1日 「文化」酒席のマナー ゲスト講師/望月静雄氏(茶道家・日本秘書協会元理事)

 

5回 229日 「農業」日本一の稲オタクが語る酒米 ゲスト講師/松下明弘氏(稲作農家)

 

6回 3月7日 「醸造学」農大醸造科のカリキュラムと日本酒の未来 ゲスト講師/戸塚堅二郎氏(静岡平喜酒造蔵元杜氏)

 


 仰々しいタイトルにもかかわらず、ゲスト講師を引き受けてくださった先生方には本当に感謝してもしきれません。名古屋国税局にいらした頃からずっと私の活動を応援してくださった内川さん、酒造繁忙期に講座指定日に合わせて生酛の酛摺り計画を立て直してくれた杉井さん、私の茶道の師匠である望月先生、カルチャー講師に来ていただくのは申し訳ないくらいBIGになった松下さん、そして過去にカルチャーで蔵見学をさせていただいたとき、非常に丁寧でクレバーな解説が秀逸だった戸塚さん。私自身が「この人に聞いてみたい、一緒に酒を語りたい」と思ったスペシャリスト揃い。我ながら、これだけの講師陣を揃えられたのは奇跡だと思っています。

 お申込みは朝日テレビカルチャー静岡スクールのHP(こちら)から。ぜひお待ちしています!

 

*なお、カルチャーの新聞折込チラシには「SAKELOGY」と誤植がありました。正しくは「SAKEOLOGY」です。申し訳ありません。


興津宿朝鮮船漂着一件から学ぶ

2019-08-25 20:10:23 | 朝鮮通信使

 前回ご案内したとおり、8月24日(土)夜、興津生涯学習交流館で『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の上映会&トークショーが開かれました。50名定員での募集でしたが、蓋を開けてみたら100人近い方々が駆けつけてくださり、映画を初めて観るという方も多かったので大変感激しました。ご参加の皆さま、開催に尽力された朝鮮通信使静岡ネットワークの皆さま、本当にありがとうございました。

 

 北村欽哉先生とのトークは時間が限られていましたが、地元興津の方と思われる質問者から「興津宿朝鮮船漂着事件のことを紹介してほしい」とリクエストがあり、北村先生が駆け足でお話されました。日韓関係がギクシャクしている今、この歴史秘話は多くの人に伝える価値があると思いましたので、当ブログに2013年5月に投稿した記事を再掲します。

 

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 『興津宿朝鮮船漂着一件』とは、江戸中期の明和7年(1770)5月5日、清水の興津宿の海岸に、13人の朝鮮人が乗っていた朝鮮船が漂着した事件のことです。

 船は済州島の商船で、1月28日に出航し、朝鮮半島南部の所安島というところへ向かったのですが、嵐に遭遇して数ヶ月も漂流していたそう。日本海で遭難した船が、太平洋側の駿河湾に漂着したというのはビックリですが、興津宿の医師と交わした筆談した記録がちゃんと残っています。要訳すると―

 

(医師)みなさんはどこの国の、どちらにお住まいの方々ですか?

(船員)朝鮮国全羅郡都領厳県(=済州島)拝振村の者です。

(医師)どこに行こうとして遭難したのですか?

 (船員)我が国の所安島に行こうとしたら、嵐に遭い、航路を見失ってしまいました。船の道具や帆や様々なものを失ってしまい、何ヶ月も海上を漂流し、5月にここに到着しました。

 (医師)国を離れるときは何人乗船していたのですか?

 (船員)34人乗っていましたが、21人が溺死してしまいました。海上がひどく荒れていました。

 (医師)数ヶ月、船中で何を食べて生き延びていたのですか?水はなかったと思われますが、どうされていたんですか?

 (船員)はじめは天から降る雨を集めて使い、一日3回ご飯を炊きましたが、その後は久しく雨が降らず、生米を食べてしのぎました。

 (医師)13人のお名前と年齢を教えてください。

 (船員)金取成、34歳。船頭を務めています・・・

 (医師)朝鮮国の人は何を食べているのですか?

 (船員)我が国では猪、鹿、鶏、牛、魚、豹などの肉を食べています。

 *『落穂雑談』『一言集』より

 

 彼らの救出から1ヶ月後の明和7年6月、13人に対して一人1頭ずつ馬があてがわれ、長崎を経て帰国の途に。難破船も、港から港へと継送しながら大坂まで運ばれ、長崎→対馬経由で送還されました。

 馬に乗せるというのは、当時では国賓待遇。難破船も扱いも大変丁寧です。幕府はわずか1ヶ月の間に、彼らを厚遇しながら帰国せよと各藩に通達したわけです。これは、朝鮮通信使の招聘によって、日朝両国の間に相互協定が出来上がり、諸藩にもその認識が共有されていたことを裏付けます。

 当時、このようにして漂流民を送還した例は、記録にあるだけで197例。朝鮮船の場合は上記のように、当時の外交窓口であった長崎奉行所を経て、対馬→釜山の倭館へと送還されたそうです。

 

 話は逸れますが、釜山の倭館というのは朝鮮王朝と幕府の仲介役を担う対馬藩士や対馬商人が常駐するいわば在外公館のようなもので、敷地は約10万坪。当時、長崎にあった出島は4千坪、長崎唐人屋敷は1万坪程度だったことを考えると、破格の規模ですね。

 対馬藩は現地から絹、生糸、高麗人参などを仕入れ、長崎経由で入ってくるものと同等品質のものを格安で販売し、京都で人気を集めました。これに目をつけた越後屋がダミー会社をつくって独占販売し、江戸で大儲けしたそうです。時代劇の「越後屋、おぬしもワルじゃのぅ」の台詞はこんなことから生まれたのかな(笑)。

 

 朝鮮通信使外交は、秀吉が引き起こした文禄慶長の役(1592~98)という理不尽な侵略戦争からわずか9年後の1607年にスタートしました。最初の使節団が来日したとき、彼らは日本の担当者に鉄砲が欲しいとオファーしたそうです。高性能の鉄砲がなかったため、朝鮮軍は日本との戦いで苦戦したんですね。いくらなんでも、ちょっと前まで対戦国だった相手に大胆な注文です・・・。

 でもこのとき、家康は、「もし仮にふたたび戦争をする羽目になってしまったら、戦わなければならないが、そのとき、兵器を持たない相手と戦う気はさらさらない。いわんや、大切な隣国が欲しいというのになぜ止められようか」と答えたのです。

 家康が、秀吉の侵略戦争の後始末で、交渉相手だった松雲大師に「自分はこの戦争に参加していない。朝鮮に恨みは一切ない」と弁明し、相手の機嫌を取ったことは承知していましたが、こんな具体的な言葉で反省の意思を表明していたとは・・・。「武器が欲しいならどうぞどうぞ」と聞けば、日本側が本当に再び戦争を起こしやしないか“探り”を入れていた第1回目の通信使にも、それなりの説得力があるというものです。

 通信使はこのとき、堺から大量の銃を持ち帰りました。銃器を欲していた主な理由は、朝鮮半島北部から女真族の侵攻が危ぶまれ、その防衛対策のためでした。家康側がそういう背景をリサーチした上で対応したのなら、大変に優れた外交インテリジェンスといえるんじゃないでしょうか。このエピソード、映画制作時に知っていたら脚本に書いていたのになあ・・・残念!

 

 ところで朝鮮通信使外交が順調に推移していた元禄時代、江尻の高札場に『竹島渡航禁止の御触書』なるものが掲げられました。もちろん江尻だけじゃなく、全国の港町にも。

 内容は「日本人は竹島に絶対に渡ってはいけない」というもの。ここで言う【竹島】とは、問題になっている島根沖の竹島ではなく、韓国領海内の鬱陵(ウルルン)島のこと。この島は倭寇の拠点で、海賊行為を働く日本人のみならず、朝鮮人、中国人など周辺国出身のヤバイ連中の根城だったんですね。朝鮮王朝はこの島に対し、空島(無人)政策をとっていたのですが、アワビの宝庫でもあったため、日本の対馬あたりの漁民がひそかに渡ってアワビの密漁をしていたそうです。

 そのことが朝鮮国内で発覚し、「日本人が勝手に漁をしているのに、なんで朝鮮人はダメなのか!」と騒ぎになります。対馬藩は「鬱陵島はうちらの領土だ」と開き直り、幕府内でも賛否両論。元禄バブル絶頂期のこと「いっそのこと戦って奪い取れ!」と強硬論も出てきます。「今まで苦労してようやく対朝関係が安定し経済が潤っているのに、戦争なんかもってのほか!」と対馬藩内でも論争となり、徳川将軍の「日本人は渡航不可!」の最終結論で一件落着。この穏便な解決が、その後の漂流事件のスムーズな解決にもつながったと言われています。

 

 もちろん今とは政治状況が異なり、一概に比較はできません。外交とは、武器を持たない戦争とも言われますが、自己を正当化し、主張を押し通すだけが外交ではないんだろう、ということを歴史は教えてくれます。

 「この興津沖の一件はぜひ韓国側にも知っていただきたい」と力強く締めくくられた北村先生。 世界を見渡しても、いがみ合いや紛争がまったくないという隣国同士は皆無でしょう。それでも国境を接するもの同士、一生付き合っていかなければならないのですから、衝突があってもどこかで妥協し、譲り合っていくしかない。韓国朝鮮半島は陸続きではないにしろ、日本にとっては取り換えようのない隣人なのだから、感情論に走らず、叡智を活かし、現実的な判断をした先人に学ぶべきだとつくづく実感します。


朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録 興津上映会のご案内

2019-08-13 10:36:56 | 朝鮮通信使

 久しぶりに映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の上映会が開催されることになりました。2007年の製作から12年。20代30代の方はこの作品の存在すら知らない人も多いと思いますので、時を経てもこのような上映会を企画していただけるのは作り手名利に尽きるというもの。本当にありがたいことです。

 

 今回の上映会は、朝鮮通信使の顕彰事業を行う静岡市内の5団体(在日本大韓民国民団静岡支部、静岡に文化の風をの会、NPO法人AYUドリーム、興津地区連合自治会朝鮮通信使興津保存会、静岡県朝鮮通信使研究会)が連携した協働団体〈朝鮮通信使静岡ネットワーク〉の発足事業の一環で企画されました。

 会場は興津生涯学習交流館(こちらを)。意外にも興津での上映会は初めてです。なんといっても興津には徳川家康が最初の朝鮮通信使をもてなした清見寺があり、通信使が清見寺に遺した漢詩がユネスコ世界記憶遺産にも登録されたことから、地元団体(AYUドリーム、自治会連合会)が毎年、朝鮮通信使再現行列のイベントを開催して盛り上げています。

 映画の中でも清見寺の場面は終盤のハイライトですが、なぜか今まで興津で上映する機会がありませんでした。今回、朝鮮通信使静岡ネットワークの発足事業で記念講演を依頼された北村欽哉先生が「ならばこの作品を上映しよう」と企画し、私にもお声かけをしてくださったのでした。

 

 ご承知のとおり、日韓関係は今、複雑な局面に立っています。映画の序盤でしっかり紹介した長崎県対馬では、1980年頃から地元商工会が中心となって毎年8月の厳原港まつりの目玉に朝鮮通信使行列を開催するなど市を挙げて日韓交流イベントに注力してきましたが、今年の厳原港まつりでは、元徴用工問題や日本の対韓輸出規制強化などによる関係悪化を受け、韓国にある2つの友好姉妹都市の職員計約20人が出席を取りやめ、釜山市から寄港予定だった通信使の復元木造船の参加も中止になりました。

 それでも朝鮮通信使行列は8月4日、韓国から「草の根レベルの交流は絶やしてはいけない」という有志60人が参加し、計260人の行列イベントが無事催行されたそう。その決断と行動に敬意を表したいと思います。

 

 顧みると徳川家康は、秀吉が戦争を仕掛けた相手国との難しい戦後処理や国交回復をわずか9年で成し遂げ、朝鮮王朝側も攻め込んできた相手国に、国を代表する超一級の文化人を使節団として送り込んだのでした。紙の文書しか通信手段のない時代、これは本当に、リスク承知で将来を見据えた明確な政治判断があったのだと実感します。

 今の世の中、民意によって選ばれたリーダーが家康や朝鮮国王と同じような政治決断は簡単には出来ないと理解しつつも、相手の真意を探り、関係改善を図ろうとしたとき、どのような決断・行動をとるべきか、人間の判断能力は400年前も今もさほどの差はないような気がする。だからこそ、現代人はテレビや映画等でさかんに制作される歴史検証作品を通して温故知新を図りたいと願うわけです。

 日韓関係が難しい今、このタイミングで、家康が通信使をもてなした興津でこの作品を上映できる意義をかみしめながら、当日を迎えたいと思います。入場無料ですので、ぜひふるってお越しください。

 

 なお席に限りがありますので、主催者に電話で事前申込みをお願いします。申込先=NPO法人AYUドリーム事務局 TEL 054-369-1154