杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

白隠達磨と無功徳

2015-03-23 10:02:14 | 白隠禅師

 先週、サクラの記事をUPしてから毎日ポカポカ陽気が続いて、静岡では22日に開花宣言が出ました。20日から22日は久しぶりにお寺で肉体労働。肩こり・首こり・頭蓋むくみがピークに達し、クラクラ目眩が続いていたので、高いところやら広いところやらで思いきり身体を動かし、お掃除ストレッチしました。掃除なら掃除に専念しなきゃ修行にならないのにマズイですね(苦笑)。

 

 本堂の床の間をお掃除していたとき、ふと目が合った白隠作の達磨像。お彼岸のせいなのか、どうも呼び止められているような気がして、掛け軸の埃を拭ったあと正座し、あらためて画賛を読んでみました。といってもその場ではとても判読できないので、写メに撮って家でネット検索。花園大学国際禅学研究所のサイトをちょこちょこいじると、芳澤先生の解説に即座に辿り着けるのです。いい時代になりました♪

 

 バイト先のお寺にある白隠達磨には、こういう賛が添えられています。

 

   嗟君未到金陵日、寡婦掃眉坐緑氈  

  君既到金陵城後、慈烏失母咽寒  

 

 梁の武帝の達磨大師への思いを詠った詩のようで、意味は、

 

「君(達磨)がまだ金陵(=南京)に到着しないうちは、武帝はさながら、未亡人がお化粧をして来るはずのない夫を待ちわびるよう。君がやって来られたのちは、孝行鳥が孝養を尽すべき母を失って咽び泣くようだ」。

 

 達磨と武帝―といえば、禅語【無功徳】の逸話で知られています。筋金入りの仏教信者を自認していた武帝は、インドからやってきた高僧を喜び勇んで迎え、自分が巨大な寺院伽藍を建立し、たくさん写経もし、仏典を著して布教に尽力したことを自慢し、自分にはどれくらい功徳があるか?と訊いた。ところが達磨の返事はそっけなく「無功徳」。ガッカリした武帝は「縁がなかった」と思い、達磨は金陵を去って揚子江を渡った。のちに武帝は「無功徳」の真意を知って後悔した・・・というお話です。

 この賛の最後の「慈烏失母咽寒煙」、武帝にとって達磨が考を尽くすべき相手ではなかったと歎いたのか、「無功徳」の真意を知って後悔して泣いたという意味なのか、浅学の私にはわかりませんが、この達磨さまのお顔は端正で堂々とされていて、「大いなる善行には大いなる功徳があるはずだ」という武帝の慢心を諌めた凄みを感じます。

 

 そう、禅の教えってこういうところが厳しいのですね。大多数の凡人は、善き行いをした後、褒められたい、報われたい、名を残したいという気持ちが湧いてくるのが自然です。

 私自身、ほんのささやかなボランティア活動をしたときに、相手から「ありがとう」のひと言がないとさびしい、物足りない・・・と感じたことが度々ありました。地酒の取材や普及活動もほとんどが非営利ですから、蔵元さんや酒屋さんから感謝されて当然だろうという思いがどこかにある。「善いことをしている」と自覚し、自分に満足した瞬間に、「無功徳」と言われてしまうのなら、資本主義自由経済の世の中では人々のやる気を削いでしまわないか?と反論したくなる。

 でも、たとえ見返りがなくても正しいことだと信じて続けられるものがあったとしたら、見返りによって満足したり不愉快になったりと心が乱れるよりも、ずっと自由で楽だろうなあと想像します。そうやって継続できるものは、世の中に本当に必要とされている、誰かの何かの役に立っているはず。継続という事実がその証拠だろうとも言えるでしょう。

 

 私にとって唯一、見返りがなくても心が落ち着くのが、このブログです。アクセス数が少なく、コメントもほとんど来ないのに寝る間を惜しんで書く意味があるのかと悩んだときもありましたが、禅の勉強を始めてから、自分の体験を活字に起こして公表するというのは、自分を見つめなおす修養作用があると気づきました。書く内容によっては、誰かに褒められたい、感謝されたいという慢心がついつい湧いて出るのですが、そういうときには使う語彙が偏ってきます。いったん画面を閉じてしばらく時間を置いてから再起動させてみると、そのいびつさに気づく。言葉がスーッと入ってこない、どうもバランスがよくない・・・そうか、これって慢心なんだな、と自覚するのです。掲載後も何度も推敲し、このまま保存しておいていいと判断した瞬間、ひとつ山を登り終えたような開放気分になる。誰も読まなくても、誰がどう読んでも、書こうと思ったテーマに真摯に向き合えた時間がもてたことにホッとします。

 

 「無功徳」という教えには、報いや見返りにこだわる自我に気づかせ、そんなものがなければ心が自由で楽になるよ、というメッセージが込められているような気がします。もちろんもっと深遠な哲学があって、だからこそ禅祖至宝の言葉として今に伝わっているのでしょうし、白隠さんがこの達磨図に込めたメッセージは違うかもしれませんが、私自身は幸運にもこの画を間近に見る機会を得たことに感謝し、この画を見るたびに己の心の滓や濁りを自覚して、澄み酒のごとく濾過したい、と願っています。

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私的桜譜

2015-03-18 13:32:41 | 歴史

 急に春めいてきました。来週には静岡県清酒鑑評会一般公開(23日12時~グランシップ・入場無料・申込不要)があり、桜の開花予報が出て本格的な春の到来を実感します。昨日(17日)の段階で城北公園の枝垂桜がこの状態。桜の開花って今までさほど意識したことはなく、ああ咲いたなあ~、ああ散ったなあ~で終わっていたのですが、今年は少し気持ちを込めてお花見しようと思っています。

 

 

 14日(土)、東京農業大学「食と農」の博物館で開催された生き物文化誌学会園芸例会【サクラをもっと知ろう~その文化、由来、管理】に参加しました。この学会(こちらを)は日本国中で例会が開かれ、遠方の例会にはなかなか参加できないため、東京や京都での例会はテーマに関係なく積極参加しています。理系(おもに生物学)の識者がたが文化論や文明論を探求されるユニークな学会。以前プランクトンについて学んだ例会(こちらを)は本当に眼からウロコの連続でした。

 今回のテーマは、ずばり、サクラ。学会会長で一般財団法人進化生物学研究所・湯浅浩二先生の「花が咲く、というだけのことが、テレビや新聞のトップ項目になる国は世界中探してもほかにはない」という冒頭の挨拶でハッとさせられました。サクラってやっぱり特別な花なんですね・・・。

 

 まずは、言葉を扱う仕事をしているのに知らなくて恥ずかしくなったのが、「サクラ」の語源です。なんとなく「咲く」「等」がくっついた言葉だとウラ覚えしていたのですが、実は「サ」「クラ」がくっついたという説が最近の主流だそうです。

 「サ」とは、五月、五月雨、早乙女、早苗に象徴される「稲」のこと。

 「クラ」は、盤座(いわくら)、鞍、倉に通じる言葉で、「神の座」のこと。

 前年の秋、収穫に感謝する秋祭りが終わって山の神様が里を去られた。冬を越して春になり、神様がふたたび里へお戻りになり、田の神になってさあ稲作が始まる。サクラとは、神様が里に帰ってこられた証しとして咲かせた花、という意味です。花見の風習は世界各国それぞれですが、日本のように昼間から集団でサクラの木の下で酒を飲んで踊って騒ぐという国民はない。訪日外国人にはクレイジーに見えるかもしれないけれど、日本人にとってサクラがそういう存在だと解れば納得してもらえそうな気がします。・・・こういうことを当の日本人がちゃんと説明できなきゃマズイですよね。

 

 サクラの品種。ソメイヨシノ、ヤマザクラ、ヤエザクラぐらいしか知らない花オンチの私ですが、日本には10種類の原種があるそうです。

 ●ヤマザクラ 宮城・新潟以西

 ●オオヤマザクラ 北海道、東北地方

 ●カスミザクラ 北海道~四国

 ●オオシマザクラ 関東沿岸、伊豆諸島

 ●エドヒガン 本州、四国、九州

 ●マメザクラ 関東~中部、北陸~近畿、中国

 ●タカネザクラ 北海道、本州中部以北

 ●チョウジザクラ 岩手~広島

 ●ミヤマザクラ 北海道~九州の深い山

 ●カンヒザクラ 沖縄

 

 また海外原産のサクラでは、ヒマヤラザクラ(ネパール~ブータン~ミャンマー~ラオス北部~中国雲南省)、ヒマヤラザクラ・カンヒザクラ系(中国南部~台湾)、シナミザクラ(中国)などがあります。

 ヤエザクラは原種ではなく、自然交雑したもので、2系統あるそうです。1つは奈良八重桜(カスミザクラ×ヤマザクラ)。聖武天皇が三笠山で発見したと伝わります。

 もう1つは里桜でこちらが現在のヤエザクラの主流。オオシマザクラ系統で鎌倉時代、京都千本ゑんま堂引接寺で咲いた「普賢象」が、最古の里桜系ヤエザクラといわれます。オオシマザクラは関東沿岸や伊豆諸島の一部でしか自生していなかったのですが、鎌倉期の武家や宗教家たちが接木の技術によって全国に広めたそう。ちなみにソメイヨシノは明治24年、オオシマザクラとエドヒガンの自然交雑で上野公園で発見され、ちょうど4月の入学式頃に満開になるので学校や兵舎に一気に普及。河津桜は昭和30年、オオシマザクラとカンヒザクラの自然交雑で伊豆の河津町で発見。枝垂桜はエドヒガン系が多くいろんな種類があるようです。

 今、日本で咲いているサクラの大半が、オオシマザクラ系なんですね。自生地は限られているのに遺伝子は強い!

 

 それにしても「普賢象」って花の名前にしてはユニークです。雌しべが葉っぱのように長くスーッと伸びて、普賢菩薩がお乗りになっている象の鼻に似ていることからその名が付いたそう。鎌倉にある「普賢堂」という谷(切通し)が語源になっているともいわれます。画像は千本ゑんま堂のHPで確認してみてください。

 

 七年不見普賢堂   蹀亦東西難過墻   乱後逢花春夢似   一枝晴雪満衣香

 (七年ぶりに見るこの桜  東西の対立は長引いたが、 戦乱の後で出逢った花は夢のよう 雪に見まがう香が満ちる)

 

 これは、応仁の乱のとき、東軍細川勝元に仕えていた禅僧・横川景三(おうせんけいさん)が、西軍エリアに咲いていた普賢象を、終戦後、7年ぶりに見ることができた喜びを詠ったものです。

 普賢象というサクラは、咲き終わったらソメイヨシノみたいに花びらがハラハラと散るのではなく、椿のように花ごとボトッと落ちる。打ち首になった囚人にも喩えられたようです。千本ゑんま堂のある一帯は、「化野」「鳥辺野」と並んで平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたります。ゑんま堂から蓮台野の間に石仏や卒塔婆が無数に建立されたことから「千本」の地名が残ったそう。そして引接寺の「引接」とは、「引導」と同じ意味。そんな場所で生まれたサクラですから、仏に仕える身で戦闘に参加した横川景三が格別な思いを抱くのも無理からぬことだと思います。

 

 17日夜、志太杜氏発祥の地である旧大井川町藤守地区に伝わる国指定重要無形民俗文化財【藤守の田遊び】に行ってきました。室町末期の元亀年間(1570~1573)頃から始まった伝統芸能で、一年の豊作を願い、田んぼの耕作から収穫・奉納まで25場面を演じて踊ります。クライマックスの21番猿田楽では、8人の青年が紅白の万燈花で飾ったショッコをかぶって踊ります。その華やかさといったら、さながら満開の夜桜を観ているようでした。サクラとチューリップが同時鑑賞できるはままつフラワーパーク(昨年4月初め)の夜桜ライトアップと比べてみてください。

 

 

 里に神が降りてきた喜びを表現する一方で、首を落とされた武士や囚人たちへの慰霊を象徴し、今は人生の節目や門出を祝うサクラ。どんな時代でも、どんな自然条件でも、異なる品種との交雑をいとわず生き延びてきた植物としての強さと美しさに、何か学ぶものがあるような気がします。

 ・・・とりあえずこの春は、千本ゑんま堂の普賢象を観に行こうかな、と思います。


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イラストルポと出版文化

2015-03-13 12:53:55 | 本と雑誌

 先日、若い酒徒から「篠田酒店エスパルスドリームプラザ店に酒造りのイラスト画が飾ってあって、思わず見入ってしまいましたよ」と言われ、業界団体が作った広報用の酒造工程図のことかと思って聞いてみたら、どうやら私が【静岡の文化73号~特集静岡の食文化】(2003年県文化財団発行)で磯自慢酒造の杜氏・多田信男さんを描いたイラストルポのことでした(今は飾ってありません)。

 

 

 それから間もなく、フェイスブックで「ワインバーに置いてあった雑誌sizo;ka。こういう雑誌、今でも作れないのかな」という書き込みがあり、私が描いたイラストルポのページが写真で紹介されていました。その記事を見た人から「マユミさんは画を描くんですか!?」という驚きのコメントがあり、昔書いたものが見知らぬバーに置いてあって愛飲家の眼にとまるなんて・・・と嬉しくなり、同時に、こういう仕事ができた時代が遠くなったな・・・という寂寥感に襲われました。

 

 イラストで紹介するというのは、普通に取材し、写真を撮って書く記事の数倍~数十倍、現場観察力が求められます。昔、漫画家の大和和紀さんが源氏物語を描くのに「絵に描くことが歴史を最も理解できる」とおっしゃっていたとおりです。私の場合、職人の手仕事を取材する機会が多かったのですが、職人の表情はもちろん道具や設備の一つひとつを、デフォルメするにしても、構造や背景を理解しなければ画にできない。イラストルポの仕事は、私の取材力をトコトン鍛えてくれました。そういう場を与えてくれた静岡のローカル雑誌のほとんどが、今は廃刊となっています。

 

 先日、静岡新聞出版部の編集者に、出版物が置かれた環境―とりわけ旧態依然とした書店流通体系について聞き、そんな中でも紙ベースの読み物を作って、まっとうに支持されるには何が必要なのか、考え続ける毎日です。静岡は豊かで暮らしやすい土地だと言われてきました。日本一の富士山や駿河湾があって、歴史もあるし産業もある。食材の数も日本一と知事がさかんに自慢します。でも京都や金沢のような文化都市のイメージがない。徳川家康が駿府で印刷技術を興し、葵文庫という優れた蔵本もあるというのに出版文化が育っていない。文化の豊かさや教育の質のバロメーターって、ひとつはその地域に出版・書販事業が健全に育っているかだと思うのですが、自分も含め、この業界に関わる人間の責任であるし、産・学・官のサポートも必要でしょう。まっとうな出版文化を育てようという人々とつながりたい・・・今はその思いで一杯です。

 

 私のような肩書きのない一介のライターに表現の場を与え、育ててくれたローカル雑誌。今読んでも色褪せない、むしろ時代を先取りしていたかのような重量感ある内容です。一部ですが紹介させていただきます。

 

 

 私のイラストルポ・デビュー作品です。昭和62年(1987)静岡新聞社発行の【狩野川通信】。建設省沼津工事事務所のスポンサードで作ったムック本です。昨年、Mr狩野川と紹介した「狩野川屋」の山本征和さんを久しぶりに訪ねたら、まだこの本がカウンターに置いてあって、いまだに似顔絵を客から冷やかされる、と喜んでくれました。

 

 

 1994年から3年間、静岡新聞社で制作された季刊誌【しずおか味覚情報誌・旬平くん】。静岡県農林水産業振興会のサポートを受け、編集者の平野斗紀子さんが心血を注いで作った雑誌です。私はイラストルポ「ただいま仕込み中」を連載させてもらい、上記の山田豆腐店(静岡)をはじめ、山口水産のなまり節(松崎町)、天野醤油(御殿場)、天野重太郎商店(焼津)のカツオ角煮、七尾たくあん(熱海)、富士開拓農協の手作りチーズなど、食の担い手をガッツリ取材しました。酒蔵がなかったのが残念といえば残念かな。

 

 

 【旬平くん】のイラストルポを評価していただき、新たに連載の場を持ったのが、【SHAKE Shizuoka】(1997~98)。花城ハムの花城光康さんを取材した号です。この雑誌は上川陽子さんが議員になる前に自主発行していた静岡ミニコミ誌。陽子さんとはこの雑誌の制作をきっかけに知り合いました。出会ったのは陽子さんのおば様が経営されていた紺屋町のおでんや「いずみ」。偶然カウンターで飲んでいたときです。酒と雑誌づくりという純粋?な縁のおかげか、今もなお、FM-Hi【かみかわ陽子ラジオシェイク】へと続いています。

 

 イラストルポの最後の仕事が、前述の【SIZO;KA】でした。東京の出版社にいた編集者本間さとるさんが、故郷の藤枝で2007年から09年まで自費出版した季刊情報誌です。本間さんとはまったく面識がなかったのですが、何かで私が描いたものを見て連絡をくれて、酒蔵ルポを連載することに。無報酬でしたが酒の記事が書けることが無性に嬉しく、張り合いをもって描かせていただきました。考えてみればこの20数年、酒の記事で報酬を得たのはほんのわずかで、酒のライターとしてはアマチュアなんです、私(笑)。

 

 こうしてみると、私がイラストルポを発表した媒体は、いわゆる商業雑誌として成功したものではなく、個人の努力か行政の支援に頼らざるを得ないものばかりでしたが、資本先がどうであれ、制作者の熱意は変わりません。地域の中の身近な取材対象者や読者に真摯に寄り添い、また地域のクリエイター(カメラマン、デザイナー、ライター等)を育てようと多くのチャンスを与えてくれました。こういう熱意ある人々と時代を共有でき、本当にラッキーだったと思います。

 ネットコミュニケーションが発達した現在、紙ベースの読み物に求められる情報は何か、皆、悩んでいると思いますが、「色褪せないものを残す」こと、これに尽きますね。歴史愛好者からしてみたら、この時代の市井の情報が信頼できる媒体として残っていないと、後世の歴史家がこの時代の判断を誤るかもしれないと危惧します。我々の子孫に、「ご先祖様が生きた時代は、なんだかよくわからない、つまらない時代だなあ」と思われるのは悔しいじゃないですか。都合よく上書きされない情報を残す、という意味でも、出版文化はしっかり守り、継承していかねばなりません。

 今現在、書く場を失いつつある時代遅れのライターに何が出来るのか、本当に自問自答する毎日。心ある出版文化の担い手とつながりたい・・・心からそう願っています。


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テツカ・イカチが伝えるもの

2015-03-11 00:04:48 | 歴史

 アメリカ先住民最古の民族・ホピ族をご存知でしょうか?。アメリカ中西部のフォーコーナーズ(アリゾナ・ユタ・コロラド・ニューメキシコの4州が交わる地域)で数千年にわたって移住を繰り返し、現在、アリゾナ州ナバホ居留地に囲まれた高原砂漠地帯に定住しています。私は3年前の夏、偶然、旅行でホピ族が暮らす村を訪れて初めてその存在を知り(こちらを)、現在焼津市で開催中の市民ビキニデーにて思わぬ“再会”を果たしました。(自分の意図しない、思いがけない出会いが、2回以上続くと、これは偶然ではなく必然だと思って勉強するようにしています)。

 3月7日(土)に開催された映画『ホピの予言』の上映会。これに合わせて、ホピ族の長老たちが1975年から1991年まで発行していたニューズレター【テツカ・イカチ】の日本語版が紹介されました。3年前の旅行で、ホピは写真や記録を一切残さない、口承による伝統文化を守り続けている民族だと聞いたので、映画やニューズレターが存在していること自体、ビックリしました。が、じっくり目を通してみて、彼らがそのような広報手段を取らざるを得なくなった状況が理解でき、心が痛みました。【テツカ・イカチ】を読み始めたここ数日、なぜか頻繁に、めまいや立ち眩みに見舞われています。疲労が重なっているだけだと思いますが、あまり経験のない体調変化ゆえ、これは何かの啓示か・・・なんて思ってしまいます(苦笑)。

 

 

 『ホピの予言』。映画の詳細は製作元ライフ・アンド・ライフ社の公式サイト(こちら)をご覧いただくとして、私がホピ族について強烈な印象を持ったのも、まさに彼らの“灰のつまったひょうたんが空から落ちてくる”という予言がきっかけでした。“恐怖の大王が降りて来る”で話題になったノストラダムスの大予言よりもはるかに具体的です。

 彼らが先祖代々継承してきた予言によると、かつてこの世には3つの世界があり、人類が創造主グレイト・スピリットへの感謝を忘れるたびに創造主の怒りに触れて滅ぼされ、太霊による浄化が行なわれ、今は第3の世界を滅ぼした大洪水を生き残った祖先が中央アメリカ西岸に漂着。太霊マサウより第4の世界を生き抜くための教えと予言を記した「石版」を授かったという。第4の世界にもいずれ滅亡=大いなる浄化の日がやってくるが、その前兆として、

 

○馬以外のものが引く数珠繋ぎになった馬車を、白人が発明するだろう。
○空に道ができるだろう。
○空中にクモの巣が張り巡らされるだろう。

 

 このような兆候が現れても、長老たちはけっして口外しませんでしたが、

 

○灰の詰まったひょうたんが空から落ちてくる。このひょうたんはとてつもない破壊力を持ち、川を煮えたぎらせ、不治の奇病を引き起こし、大地を焼き尽くし、長いこと生命を育たなくさせてしまう。

○そのひょうたんは、母なる大地の心臓(=地下鉱石)を掘り出して作られる。

 

 この予言が、1945年の広島長崎への原爆投下というカタチで現実のものとなったとき、長老たちは「大いなる浄化の日が確実に近づいている」と悟ります。広島長崎へ投下された原爆の原料ウランがホピの居留地から掘出されたからです。彼らは国連へ特使を派遣し、予言を公表しようとし、3度訪ねて門前払いをされ、4度目にようやく受け入れてもらえたのでした。そのことも予言に記されていたそうです。

 

○私たちの大地の東の端に、世界の指導者たちが集まってさまざまな問題を話し合う場となる大理石の家が建つ。その門を4回叩くだろう。

 

 「大いなる浄化の日」の最後の前兆は、白人が「空の家」を天に置く時だという。また「大いなる浄化の日」には不可思議な霧の中に、カギ十字の集団、太陽の集団、赤い色で評される第3の集団が出現し、すべてが生まれ変わるか、あるいはすべてが破滅する。この3つの集団の働きいかんで、太霊は西から「非常に多くの冷酷な民」を興し、大地を破壊するという。

 「白人が作った空の家」とは国際宇宙ステーションじゃないかと思いますが、「カギ十字集団」「太陽の集団」「レッドカラーの集団」「西から興る冷酷な民」って今の国際情勢に照らし合わせると、いろんな解釈ができそうですね。日本が含まれているような気もするし・・・。

 

 ・・・こういう話から入ったほうが面白いだろうと、ついついキーを打つ手が走っちゃいましたが、そもそも彼らは終末思想で世間を洗脳する宗教者や預言者ではありません。【テツカ・イカチ】を読み込んでいくと、ホピ族の生き方や価値観そのものにやはり感銘を受けます。このニューズレター集は、一方的な先住民政策を押し付けようとするアメリカ政府の傀儡となったホピ部族政府と対立する伝統派の長老たちが、ホピ本来の生き方や価値観を次世代の子どもたちに残そうと、歴史証言資料として16年間にわたり発行したもの。立場の違い、世代間のギャップ等に翻弄される長老たちが、予言に込められた差し迫る危機に際し、伝統を守り続けてきた矜持、あるいは今伝えておかねばならない覚悟というものが伝わってきます。

 彼らは太霊マサウに、自然と宇宙のサイクルを守る約束をし、大地と交わって農作物を育て、世界のバランスを保つため、祈りを捧げる暮らしを続けてきました。彼らが暮らすアリゾナの砂漠地帯は、グランドキャニオンに代表されるように、人間が生きるにはあまりにも過酷で困難な地です。ここでトウモロコシや豆類を育てながら、自給自足と非暴力を貫いてきました。

 政治的なメッセージが多い【テツカ・イカチ】の中で、私自身は農作業の様子をつづった部分に惹かれました。
 

 

 トウモロコシは気候と土さえ合えば、たいての場所で育ちます。ホピの地は乾ききっていますが、私たちは水をやったり肥料をやったりしません。ホピは長い経験から、それぞれの作物に最適な、肥沃な土地を見つけることができるのです。(中略)長老たちは、ものを育てるということが、大切な神聖なことだと言うでしょう。そこには多くの重要な意味があります。食べ物なくしては生命はありえないからです。誰かが食べ物を作るから、すべての生命が健康で、幸福に生き続けられるのです。だから作る者は喜んで心を込めて作らなければなりません。そうして畑と少しずつ交わっていき、調和の中で働くことができるようになるのです。

 植え付けの時は、心がすこやかでなければなりません。憎しみや悲しみを持っていてはだめです。種に向かって歌い、語りかけ、喜びと共に芽吹くよう力づけねばならないからです。芽が出たら彼らに感謝し、力強く伸びるよう勇気付けるのです。育ったなら彼らに感謝するとともに、収穫させてくれて食物の準備を助けてくれた目に見えないスピリットにも感謝します。これらが、作物を育てるための知恵のほんの一部です。

 伝統的な農法はとてもユニークです。環境と自然の法則を考慮しなくてはなりません。種はきれいに列に並べ、少なくとも4、5歩分の間隔をあけて植え付けます。トウモロコシとメロンは同じくらいの間隔で離し、豆やほかの作物は2歩分離せばよいのです。灌漑用の水がないのですが、この方法で植えると、雨が降るまでそれぞれの苗が根を深く下ろし、育つために必要な土壌中の水分が均等に行き渡るのです。

 どんなものにも誕生して生命を謳歌するときと場所があり、それぞれに最適な時があることをホピは知っています。それは注目すべき知恵で、自然のバランスが壊れたときに、どんな兆候が見られるかを知っているのです。

 春が近づくと、時を告げるもの、目印になるものをよく見ておかなければなりません。太陽が夏の家(夏至)に向かい始めると、地平線のある特定の目印となる場所から昇り、春が来たことを告げます。それを見てホピは植え付けを始めるのです。

 ホピはまた、開花時期がそれぞれ決まっている、特定の砂漠の花にも注意して観察しています。それらの自然の事象に注意を向けることで、ホピは地球が安定し、バランスが保たれていることを知るのです。自然な季節の巡りに合わせて必ず起きる事柄が、いったいどこで起こり、始まっているかを、各地で開かれる「農産物直売市」が教えてくれるだろうと、と私たちの教えは伝えています。私たちの儀式のサイクルもまた、ほかの違う役割を持っているのですが、悲しいかな、すたれてきています。これも何かも兆しかもしれません。

 なぜ儀式という不可思議なものが、私たちのトウモロコシを育てるのでしょうか。私たちの理論はほとんどの人にとって、さほど意味のないものかもしれません。しかしホピはそれらを導いてくれる、霊的な導きに誇りを持っています。(テツカ・イカチ第29号/1985年発行より・永峰秀司訳)

 

 これを読むと、自然農法の教科書のようだし、禅宗の典座(台所役)の心得のようだし、以前紹介した二宮金次郎の伝記(こちら)のようでもあります。植物の種に語りかけながら蒔くなんて、なんだかとても日本的だし、いかに厳しい土地であっても、大地と調和しようとする謙虚な心が、命の糧を導くのだと分かる。農作物直売市に並ぶ作物で季節の移り変わりを見定める・・・思わず、「あるある」って言いたくなりますね。

 日本の江戸時代以前にも、こういう暮らしがあったはずだ、と思います。グレイト・スピリットへの信仰は日本の神道に近しいような気がするし、灰色のひょうたんが日本の大地で炸裂したのも、不可思議な縁を感じます。「今さら電気や水道のない自給自足の暮らしに戻れるはずがない」と思う一方で、3・11以降、いろいろな局面で立ち止まって振り返る人も増えたはず。中には“自給自足できる暮らしが一番強い”と感じている人も少なくないでしょう。

 【テツカ・イカチ】とは【大地と生命】という意味だそうです。今の時代に生かされている意味を、落ち着いて考える時間を我々も持ちたいもの。なお【テツカ・イカチ】はこちらで入手できますので、興味のある方はぜひ!

 


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焼津平和学の未来

2015-03-08 13:50:18 | 社会・経済

 8月6日、8月9日、3月1日、3月11日―この日付にピンと来る人もいらっしゃると思います。そう、日本人が「被爆」「被曝」した日ですね。(被爆=原子力爆弾を受けた、被曝=放射線を浴びた、の意)。このうち、3月1日は最初、「何の日だっけ?」と首をかしげたのですが、静岡県民が忘れてはいけない日でした!

 私の古いライター仲間で、今は焼津市議会議員として活躍中の秋山博子(こちらを参照)さんから、『焼津流・平和の作り方2015~市民のビキニデー』というイベント情報をいただき、3月7日(土)に開かれた博子さんの講演会「平和都市焼津とビキニ事件」&映画『ホピの予言』鑑賞会に行ってきました。

 秋山博子さんは焼津市北浜通りの生まれ。お父様は漁師、弟さんは以前、両替町で「たべものや」という刺身の美味しい居酒屋を経営し、私もずいぶんお世話になりました(弟さん、今は船乗りになっているそうです)。ビキニ事件に関わるようになったのは、2001年静岡新聞社発行の『ぐるぐるマップ焼津版』の制作。この年に開催された全国豊かな海づくり大会の連動企画で、焼津の町の魅力や歴史をたっぷり紹介した特集号です(私も『界隈探検~永遠のふるさとのかたち』というコーナーを執筆させていただきました)。焼津漁業の取材を担当した博子さん、文中でビキニ事件にふれることはなかったものの、この事件の本質を追究するきっかけになったそうです。

 

 

 1954年3月1日、焼津港所属の第五福竜丸が太平洋ビキニ環礁(現地時間2月28日)で行なわれたアメリカの水爆実験『キャッスル作戦』に巻き込まれ、“死の灰”を浴びました。広島・長崎の悲劇からわずか10年後のこと。ちなみに1945年の広島・長崎の原爆投下も『キャッスル作戦』といい、1946年には『クロスロード作戦』といってビキニ環礁と、ビキニの西305キロのエニウェトク環礁で核実験が、1948年には『サンドストーン作戦』がエニウェトクで、51年には『グリーンハウス作戦』がエニウェトクで、52年も同地で『アイビー作戦』、そして54年ビキニでの『キャッスル作戦』。広島・長崎から第五福竜丸まで10年間、膨大な数の核実験が行なわれていたのです。

 第五福竜丸は1954年3月1日に被曝した後、2週間かけて3月14日に焼津に帰港したわけですが、もし帰還途中にこの船に何かが起きて帰港できなかったら、被曝の悲劇は闇に葬られたかもしれません。実際、第五福竜丸は米軍の撃墜を怖れてSOSを発せず、他の遠洋漁業船と同じように帰港したとか。乗組員23名は急性放射能症と診断、積荷のマグロからは強い放射線量が検出されました。“汚染マグロ”の風評被害は3・11福島と同様、漁業界に深刻な打撃を与えました。

 

 焼津市議会では1954年年3月17日に「第五福竜丸被害対策特別委員会」を設置し、3月27日に国連に「原子力を兵器として使用することの禁止」を提出。多くの乗組員の出身地・吉永村で署名運動が始まり、8月、「原水爆禁止署名運動全国協議会」が設立されました。9月、無線長の久保山愛吉さんが亡くなると、反核運動が一層強まり、反核=反米につながることを怖れた日米政府は補償金200万ドルで“手打ち”。アメリカ政府は、久保山さんの死因は放射線障害ではなく肝機能障害だとして「賠償金ではなく見舞金」と言い張り、日本政府は戦後復興時期でアメリカからの経済支援や、原子力技術の平和的利用(=原発技術開発)をもくろんでいたため、と言われています。そうだとしたら、この事件は福島の悲劇に確かにつながっている。過去の延長に今があり、今の延長に未来がある〈エターナル・ナウ〉の哲学そのものですね・・・。

 

 乗組員には一人200万円という当時としては破格の見舞金が送られたため、第五福竜丸と同時期に太平洋上でマグロ漁に従事し、“汚染マグロ”の風評被害に苦しむ他の漁業者からやっかみを受けます。他県では、事件を一切報道しない、という港町もあったそうです。

 

 

 一方で、第五福竜丸事件を風化させてはならないという運動も始まりました。映画『ゴジラ』と『第五福竜丸』の製作がその代表格でしょうか。

 『ゴジラ』は今さら説明する必要もないビッグムービーですね。プロデューサーの田中友幸氏は、もともと1954年4月からインドネシアとの合作映画の製作に入る予定だったのが、ピザが下りずに急遽断念。忸怩たる思いで帰りの飛行機に乗っていたとき、第五福竜丸事件をニュースで知って「ビキニ環礁に眠る怪獣が水爆実験で眼を覚まし、日本を襲う」というプロットを着想したそうです。また1959年に製作された『第五福竜丸』は新藤兼人氏がメガホンをとり、久保山愛吉役を宇野重吉さんが演じました。下の写真はイベント会場に展示された歴代ゴジラのフィギュアです。

 

 第五福竜丸は67年廃船処分となって東京の夢の島に捨てられましたが、1969年にテレビや新聞で取り上げるなどメディア報道が奏功し、市民団体の間で保存運動が起き、1976年6月、都立第五福竜丸展示館が完成、保存されています。

 

 秋山博子さんのお話で心を衝かれたのは、焼津市の“変容”でした。事件以来、反核運動を積極的に牽引していた市では、1985年に「核兵器の廃絶を願う焼津宣言」、1995年に「平和都市焼津宣言」を議決。2009年には焼津平和賞を創設し、第1回受賞者に都立第五福竜丸展示館を運営する公益財団第五福竜丸平和協会(こちら)、第2回は第五福竜丸事件の調査を通して平和を考える高知県の幡多高校生ゼミナール(こちら)、第3回は被曝者の追跡調査を行なった聞間元医師を中心とするビキニ水爆被災事件静岡県調査研究会(こちら)を選出しました。

 2010年4月には市に平和都市推進室を設置し、5月、焼津市長がニューヨークで開催されたNPT(核拡散防止条約)の会合に出席。2011年には市長・議長・市民代表がビキニ環礁を有するマーシャル諸島を訪問し、広島長崎に中学生の平和大使を派遣する事業もスタートしました。8月6日・9日、3月11日と並んで、第五福竜丸が被曝した3月1日が、核問題を考える日本にとっての重要なメモリアルデーになる機運が、着実に醸成されたと思いましたが、市長が交代した2013年、平和都市推進室は廃止され、一介の「担当」に格下げに。焼津平和賞の制度もなくなり、今年2015年から新たに「焼津平和文化賞」が創設、対象は焼津市民に限った文化活動(音楽・演劇・絵画等)になるそうです。

 

 なぜ焼津市の取り組みが後退したように見えるのか、市長の施政方針ひとつで変わってしまうものなのか、そういう市長を選んだのが焼津市民の総意なのか、これはかなり幅の広い、根の深い問題がありそうだ・・・ということだけは察せられます。

 3月1日が重要なメモリアルデーであることすら知らなかった静岡市民の私が、勝手な憶測で書いてはいけないのかもしれませんが、福島いわきの取材経験から「被曝者を襲う風評被害の酷さ」を、政治家の広報に関わる経験から「大多数の有権者は、立候補者の表面的な情報でしか判断できない」ことを実感しているだけに、焼津でビキニ事件を真正面から大々的に語ることの難しさも、それとなく理解できるのです。3・11以降、東北から取り寄せた魚類燻製用木材から基準値以上の放射線が検出され、“汚染マグロ”の痛みを知っている関係者から「これ以上、核の問題には触れないでほしい」という声があったそう。その立場は十分に理解できるし、市民有志の「ビキニデーを風化させてはならない」という思いも尊い。それだけに、同じコピーライター出身ながら、口ばっかりの自分と違い、実際に行動に移し、矢面に立ちながらも真摯に活動する秋山博子さんの行動力には心から拍手を贈りたいと思います。

 

 何も出来ない自分だけれど、間違いなく断言できるのは、被曝者が差別を受けるような社会であっては絶対にならない、ということです。この原則にのっとって、潔い言動のとれるリーダーを育て、選び、支援していくのが市民の務めではないかと思います。行政組織のみならず、経済団体、市民団体、教育団体等、地域を構成するあらゆる団体組織が、差別という負の意識を孕む歴史に真摯に向き合っていく。大変難しいことですが、それこそ被曝の歴史を共有する広島、長崎、福島の人々と学び合って得るものがあるような気もします。たぶんチェルノブイリの人々とも共有できるだろうし、地球上にはニュースとして取り上げられない核実験や原発事故の犠牲者がまだまだいるかもしれない。心あるリーダーが本腰を入れれば、必ず同志は見つかるはずです。ビキニ事件は、それほどまでに、焼津の未来を変える力があるのでは、と感じました。

 

 私がこのイベントに参加した最大の目的、映画『ホピの予言』については、改めてじっくり報告します。なおイベントは3月15日まで開催中。こちらを参照してください。 


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