杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

松雲大師vs徳川家康の外交術

2013-10-29 13:42:34 | 朝鮮通信使

 10月26日(土)、京都の高麗美術館で開催中の特別展【朝鮮通信使と京都】を観に行き、朝鮮通信使研究の第一人者・仲尾宏先生の講演会「四百年前の日朝国交回復の立役者・松雲大師(四溟堂)惟政と徳川家康」を受講しました。当ブログでも再三ふれてきましたが、16世紀末から17世紀初めの東アジアは実に面白い!関ヶ原をはさんだこの時代、日本人は国内情勢にしか関心がないようですが、アジアを俯瞰で見ると、別の歴史ドラマが見えてきてワクワクします。

 

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 松雲大師(四溟堂)惟政と徳川家康は、秀吉の朝鮮侵攻によって断絶した日朝関係を修復した立役者ですが、松雲大師についてはよく知らない人も多いと思います。仲尾先生もこのことに留意され、大師の立場や功績について強調されていました。以下、先生の講義内容といただいたレジメ・資料等を簡単に(といってもかなりの長文ですが)まとめておきます。私なりのまとめ方ですのでご了承ください。

 

 

 

 

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 松雲大師(ソンウン・デサ)。韓国では秀吉軍に抵抗した朝鮮義僧兵・四溟堂(サミョンダン)として知られます。本名は惟政(ユジュン)。1544年、慶尚南道の密陽近くで生まれ、儒学を学んでいましたが、13歳の頃、人間の深い煩悩は儒教では解決しないと悟り、仏教徒になります。朝鮮王朝では儒教を重んじていたため、活動は辺鄙な山奥に限られましたが、31歳のとき西山大師休静という高僧の弟子となり、苦行を重ね、正法を大悟します。

 

 左画像は、昨年、韓国密陽市の表忠寺護国博物館で開催された【四溟堂 松雲大師展】の図録からコピーさせていただきました。図録は高麗美術館を通して表忠寺護国博物館学芸員の金鍾珉氏が送ってくださいました。ありがとうございました。

 

 

 

 

 惟政の運命を一変させたのは、1592年、彼が49歳のときに起こった壬辰倭乱(文禄の役)です。当時、朝鮮王朝は日本が攻めてくるなんて予想もしていなかったので混乱し、わずか2週間で釜山からソウルまで日本軍の侵攻を許してしまいました。小西行長軍はピョンヤンまで到達し、加藤清正軍は東海岸を上ってロシア沿海州まで達したのです。

 

 朝鮮国王は義兵の決起を求め、惟政(ユジュン)の師匠・西山大師にも義僧兵を指揮するよう命じました。高齢の師匠に代わって義僧将となったのが彼でした。

 1592年6月、楡帖寺に侵入した日本軍を撃退し、固城邑の敵陣地に赴いて敵将を説諭し、江原道の嶺東九郡を救いました。7月には西へ向かい、都総摂義僧職に就任。10月には僧兵1000人余を率いてピョンヤン付近まで転戦し、戦果を上げたそうです。

 

 ちなみに、水軍を率いて日本船を撃破した将軍・李舜臣は歴史教科書にもしばしば登場します。のちに東郷平八郎が「世界最強の海軍将」と称えられたとき、「アジアには李舜臣がいる」と答えたという逸話も残る逸材。そんな李舜臣に比べ、松雲大師(四溟堂)惟政の名は、韓国内でもあまり知られていませんでしたが、近年、朝鮮通信使研究が進むにつれ、海の李舜臣、陸の四溟堂、という評価が確立されたそうです。

 

 

 松雲大師(四溟堂)惟政の存在感を感じるのは、実戦の指揮官のみならず、日本側との講和交渉役として非常に大きな役割をはたしたからです。

 

 

 日本側の代表者のうち、小西行長はピョンヤンまで進軍したものの、朝鮮国を“子分”とみなす中国・明軍の加勢によって押し返され、開戦後1年で15万の兵を(戦死・逃亡・寝返り等で)半減させてしまいました。

 もともと大義名分のない不毛な戦。彼は独自に明の将軍と講和交渉を始めます。これが、明の皇帝には「秀吉が降伏した」という偽書を送り、秀吉には明や朝鮮国の要求を捏造して伝える、かなりヤバイ手法で、行長が明と交渉していると知った秀吉は「明の皇女を日本の後陽成天皇の側室にしろ」「朝鮮の南半分(今の韓国)を日本によこせ」「朝鮮の王子を人質によこせ」と言いたい放題並べ立てました。そんな条件はストレートに伝えられないと、また、あれこれ画策する。

 

 行長と明側の交渉は、朝鮮国や、日本側のもう一人の代表者・加藤清正にも知られないところで秘密裏に行われていたため、朝鮮側は日本の真意を探るため、秀吉の側近中の側近である加藤清正の本営に使節を送ることに。白羽の矢が立ったのが、松雲大師(四溟堂)惟政でした。

 

 

 彼はわずかな手勢を連れて、命がけで清正の陣に乗り込みました。そして行長と明とのデタラメな交渉について伝え、「朝鮮国側は絶対に妥協しない」と強い意思を伝えます。主戦論者で、行長主導の講和交渉に不満を持っていた清正は、これを歓迎する。惟政も、清正陣営から秀吉の真意を聞き出すことに成功します。

 

 その後、さまざまな駆け引きがあったものの、結局、秀吉が最後までこだわった「朝鮮の南半分の割譲」がかなわず、1597年、丁酉倭乱(慶長の役)が始まります。ソウルまで攻め上ることは難しいと解っていましたから、割譲目的としていた南四道の占領をまずは果たせと命じた秀吉ですが、南海岸の一帯に倭城を築き、清正がウルサンの砦を死守していたところで秀吉が亡くなり、戦争は終結しました。

 

 日本国内では秀吉亡き後の天下分け目の覇権戦争が始まります。ワリを食ったのが、長年、朝鮮王朝との交易で身を立て、文禄慶長の役では心ならずも前線軍に追いやられ、島民を犠牲にしてきた対馬の宗氏。働き盛りの農民漁民を戦争にとられ、日本から朝鮮に渡る日本の大軍の前線基地にされて島の暮らしはズタズタ。戦争が終わっても、働き手はいないし、ご褒美にもらえるはずだった領地もナシ。島主の宗義智は、一刻も早く朝鮮貿易を復活させようと使者を送りますが、生還できた者はナシ。宗氏の言い分が日本国を代表しているのかどうか、朝鮮側は疑心暗鬼になっていたんですね。

 

 

 1600年4月、関が原の合戦(9月)前のこと。宗義智は朝鮮側に何とか誠意を伝えようと、対馬領内にいた朝鮮人被虜300人余を釜山に送還します。日本に拉致された被虜は数万人規模に及んでいましたから、朝鮮側は彼に、速やかに被虜問題を解決せよと伝えました。

 

 といっても、朝鮮側では、日本の次の覇者が誰なのか、家康が有力らしいといわれているが、彼も秀吉と同じように戦争を仕掛ける人物かとどうか、はっきりつかめません。

 

 そんな中、1600年6月、朝鮮から拉致された高名な儒学者・姜沆(カンハン)が無事帰国し、「家康は戦争を仕掛ける気はないだろう」と報告します。 

 翌1601年6月には被虜走回人(自力で帰国した人)が、「関ヶ原の合戦で家康が勝利し、実質的に政権を掌握した」と報告。1603年末には幼学(科挙に合格したが官職に就いていない人)の金光という人が薩摩から帰国し、「宗氏は関ヶ原で西軍についていたため、朝鮮との交渉が長引くと宗氏の責任が問題視される」と報告します。

 

 

 

 どうやら“日本代表”は家康に決まったようだが、その真意を確かめようにも、戦禍を被ったこちらから先に使節を送るというのはおかしい。とりあえず、再三、交易の再開を願い出てくる宗氏に、日朝関係が修復したら以前のように釜山に倭館(対馬の商館)を置いてもよいと伝える非公式の使節を送ることにし、ついでに日本国内の情勢を探り、家康の真意を確かめて来させることに。白羽の矢が立ったのが、またもや松雲大師(四溟堂)惟政でした。

 

 

 

 

 松雲大師惟政は、朝鮮側が用意した「対馬開諭書」という書簡を持って対馬に向かいました。

 

 書簡の内容は、①被虜人送還に対する謝意②明は日朝間に不介入③対馬の朝鮮国に対する“革心向国(心を改め、間違ったことをしない)”を評価する―というもの。宗義智は大いに喜び、この機に松雲大師を家康に引き合わせようと、家老の柳川調信を家康のもとへ送ります。家康は「来年(1605年)3月に京都へ行くから、大師を連れてきなさい」と返答。松雲大師は1604年12月27日、宗氏に連れられて京都入りしました。

 

 

 

 

 京都に着いた松雲大師は、堀川寺之内の本法寺に滞在しながら、京都の高僧たちと交流を図ります。ちょうど今現在、裏千家の茶道資料館の北隣にある寺です。

 

 

 松雲大師は相国寺塔頭の豊光寺を舞台に、豊光寺住職で秀吉―家康の政策ブレーンとして暗躍した西笑承兌、博多聖福寺の住職で対馬の外交アドバイザーだった景轍玄蘇らと筆談で交流しました。西笑承兌は松雲大師のことを「博覧強記の淵材(博識の大人物)」「筆跡亦麗(書も美しい)」と褒め称えます。彼が、日本軍と勇猛果敢に戦った義僧兵の長である一方で、単なる僧兵ではなく、当代きっての学識文化人であったということが、大いにプラスに働いたのではないでしょうか。政治的影響力を持つ京都の高僧たちに、人物としての信頼を得たことが、家康との交渉をスムーズにしたと思われます。

 

 

 

 家康もまた戦国武将の中では屈指の教養人で、京都五山の高僧をブレーンに従えるだけの知性と良識を持っていました。そういう両者の出会いは、日朝外交史の奇跡ではないか、と思います。

 

 

 

 

 1605年3月4日、景轍玄蘇らに伴われて家康に接見した松雲大師は、家康から「自分は江戸にいて戦争に加わっていない。朝鮮に恨みはない。通(よしみ)と和を請う」という文言を引き出しました。

 

 

 松雲大師はこのとき、被虜人の送還を申し出て、家康も口頭で承知したと答えましたが、被虜人は各大名が地元に連れ帰ってしまい、素直に送還に応じる大名は少なかったようです。それでも松雲大師は4月の帰国前後に1,340人の被虜人送還を実現させ、「通(よしみ)と和を請う」という家康の真意を朝鮮側に伝えます。

 

 1605年7月、朝鮮側は日本に対し、「謝罪の意味を込めた国書をよこすこと」「戦争中に朝鮮歴代国王の王陵を荒らした犯人を捕らえて差し出すこと」という2つの講和条件を出しました。

 

 日本側はすぐさまこれに応じました。・・・といっても、家康が謝罪を込めた国書を本当に書いたかどうかは疑わしく、王陵を荒らした犯人として差し出された日本人は、戦後10年経つというのに、どうみても若すぎる20代の若者でした。1605年11~12月、朝鮮国では、日本から送られてきたのが偽犯人と偽国書だと見破りますが、問題にはしませんでした。

 

 

 

 

 このときの国書偽書論争というのが歴史学界にはあるようで、従来の説では「家康の答書は存在せず、対馬の宗氏が完全偽造した」というものでした。私が2007年に執筆した映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』のシナリオでも、この説を採用しています。

 

 最近になって新説として、「家康の答書は、実は存在し、対馬まで送られており、対馬に来ていた朝鮮国の外交官・全継信がチェックをして書き直しを要求し、駿府大御所政権の中枢である本多正純が家康を説得した。江戸でも“先に謝罪の国書を送る”ということに異論が出なかった」という学説が出てきたそうです。

 

 

 

 

 仲尾宏先生は、「家康の答書の存在は確認できないが、対馬で全継信が“内府書謄”を見せられたと言っているので、家康からの何らかの指示書は対馬に届いていたのではないか。ただし、7月に朝鮮側から2条件が示され、11月に朝鮮側に国書と犯人が届けられたとなると、駿府の本多正純が介入するのは時間的に無理。ましてや外交問題は、本多正純ではなく、西笑承兌の担当だ」と解説されます。

 

 結論として、国書は対馬が改ざんしたものですが、

●家康側としては、先に謝罪するというのはNGだが、外交再開は新政権の国際的認知と、国内に幕府の威光を高めるため、どうしても必要。対馬の改ざんを見て見ぬふりをした。

●対馬は、とにかく貿易復活が急務で、自分たちが徳川政権の意向で交渉していることを示す必要があった。

●朝鮮側は偽犯人・偽国書をあえて受け取り、対馬の顔を立て、手なづける政策を取った。

 というところに落ち着き、朝鮮側は、家康の(偽)国書への返答と、日本に残された被虜人の刷還(連れ戻す)を目的とした『回答兼刷還使』を、1607年に日本に送ることになりました。これが、第1回朝鮮通信使として数えられるわけです。

 

 

 

 対馬では、宗義智の後を継いだ宗義成と対立した家老の柳川調興が、国書偽造を幕府に“内部告発”し、徳川頼宣、伊達政宗、井伊直孝、松平信綱ら有力大名は宗氏支持。土井利勝、酒井忠勝、安倍忠秋、松平信綱、柳生宗矩ら幕閣は柳川支持と、幕府を2分する大政争に発展。最後は将軍家光が、「宗氏にはおかまいなし、柳川家は財産没収の上、津軽へ追放」という裁断を下しました。

 

 その一方、先代・義智のもとで直接改ざんに関与した老臣・島川内匠と、調興の腹心・松尾七右衛門は死罪となり、義成の叔父宗智順は流罪。義成と調興それぞれ配下の外交僧も流罪に。宗氏は存続が許されたものの、実務担当者は全員処罰されたわけです。

 

 幕府はこの事件を機に、「対馬に外交をまかせきりにしておいてはマズイ」ということで、京都五山の僧3人を実務担当者として交替で対馬に派遣することに決めました。

 

 

 

 

 

 話は逸れましたが、松雲大師、徳川家康、その仲介になった対馬の宗氏や京都五山の僧侶、それぞれの立場の、その時点で最善とされる現実的な外交判断によって日朝国交は回復し、朝鮮通信使は1607年の第1回以来、1811年の第12回まで、徳川将軍交替時に祝賀使節団として来日。200年以上に亘って平和が保たれたわけです。

 

 彼らの動向を見るにつけ、外交を担う者には教養人・文化人としての資質と、信頼できる優秀なブレーンが不可欠で、交渉相手とは互いに尊敬し合えなければ、対等な話し合いはできないんだと改めて実感します。秀吉―清正―行長時代の外交に比べると、大人だなあ~と思っちゃいますね。

 

 

 相手の本音を探りながら、建前で押し切って、陰で修正や改ざんを行う・・・通信手段が発達し、いともかんたんにネットに裏情報が暴露されてしまう今の時代では、建前で押し切ることが難しいのかもしれませんが、こと外交に関しては、講和を実現させるという目的がしっかり定まれば、「あえて誤魔化す」「あえて見過ごす」という非合理的な手段を取ることも有効で、何でもかんでもディスクローズすればよいというものでもないんだなあと、この一連の歴史を振り返って思います。

 そうはいっても、今、問題になっている秘密保護法案の行方も気になるし、歴史を検証したら、今の時代の指針にしなければなりません。

 

 今の東アジアの外交担当者は、松雲大師のことをどれだけ知っているのかなあ?


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家事の大事

2013-10-22 09:42:50 | 日記・エッセイ・コラム

 今日(22日)は今月に入ってやっと取れた休息日。夏物衣料や扇風機の片付けやら掃除やらで一日つぶれそうです。

 

 お恥ずかしい話ですが、最近、この年齢になって、ようやく「家事」って立派な仕事だなあと実感できるようになりました。

 

 

 たとえば洗濯。まず“道具”選びからして取捨選択の眼が必要です。最近はやたら洗剤が多機能&パッケージが派手になっていて、ドラッグストアの洗剤コーナーでは、まず商品選びからして迷います。事前に、自宅の洗濯機の性能、使用頻度、乾燥方法など等をインプットしておかなければなりません。自分の場合、仕事柄(酒蔵や食品関係の取材等で)、香りの強い洗剤や柔軟仕上げ剤はNG。シャンプーや化粧品類も香料の少ないものを選びます。敏感肌なので極力、化学合成物質を含まないオーガニック製品が望ましいのですが、洗浄力の点で劣るし、価格も割高。どっちのリスクをとるか悩ましいところです。

 

 

 晴天の朝の洗濯干しは大好きな気分転換作業の一つ。我が家には乾燥機がないので、狭いベランダで、いかに効率的に乾かすかつねにチャレンジングです。衣料の素材、サイズや形状、色柄を考慮し、どれとどれを隣り合わせで干すか、数限りある洗濯ばさみをいかに有効利用するか、短時間ながらものすごく頭を使う作業ですね。私はしょせん独り分ですから、小一時間程度で終わりますが、大家族の洗濯ともなると、半日はかかる大仕事でしょう。頭脳と体力を駆使するハードワークです。

 

 

 

 掃除はあまり好きではなく、家では、汚れが気になってきたらやる、という感じですが、お寺のバイトでは、「つねにきれいな状態にしておく」ことが業務。一日さぼれば一日分の埃がしっかり溜まり、目立ちます。毎日の地道な作業の積み重ねが大事だということを、実にわかりやすく、的確に教えてくれるのが掃除であり、だからこそ、禅寺の修行メニューにもなっているのだと理解できます。

 

 ・・・といっても、掃除しながら他のことを考えていたり、終了時間を気にするなど、まだまだ無心で作業できる境地には到達していませんが、洗濯と同様、洗剤選びから始まり、効率よく汚れを落とす手順や方法を考えながらの作業は、仕事や日常生活のあらゆる作業能力の効率アップを図る訓練に、確実になっていると思います。

 

 

 

 最近、「仏教に興味がある」「坐禅に連れて行って」という男性が私の周りにちらほらいて、さまざまな情報を提供しています。歴史講座を受けたり、寺の坐禅会に参加するという、いかにも非日常のカタチから入る人が多いし、自分もそうでしたが、家事という最も日常的なフィールドでも、修行といえる体験が出来るのではないかと、少しずつ実感できるようになりました。

 

 もっとも、家事に、作業効率化の訓練という“目的意識”を持ってしまったら、純粋な意味での“修行”にはならないと思いますが、これまで家事を、仕事よりもずっと下に見ていた自分にとっては大きな前進です。

 

 

 

 なんだか取りとめの無い話ですみません。さあ今日はとりあえず、気合を入れて部屋の掃除をしますね。

 

 


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静岡グルメ王国フェスト2013に福島いわきブース出展!

2013-10-14 21:17:30 | 東日本大震災

 3連休は天候に恵まれ、各地で運動会やら秋祭りやらで盛り上がったことと思います(私は地味にお仕事してました・・・)。

 

 

 今日は、今週末10月19~20日のイベントのご案内です。

 静岡市街中心の青葉シンボルロードで『第3回静岡グルメ王国フェスト2013』が開かれます。静岡市に拠点を置く各種地域団体(静岡商工会議所、静岡観光コンベンション境界、静岡市まちづくり公社、ホテル旅館協同組合、社交業生活衛生同業組合、飲食業生活衛生同業組合)が主催する地産地消グルメイベントで、静岡市内に7蔵ある酒蔵もブース出展します。

 

 

(主な出展者)

●Razza Rossa(イタリア路上Bar)、●茶房山幸(静岡産自然薯のとろろそば)、●しあわせ空間話食の森、●サラデーン(タイ料理)、●鳥幸さつき町店、●たがた(在来作物料理)、●あさひ(居酒屋)、●福助(居酒屋)、わした静岡店(沖縄料理)、●マハラジャ(インドカレー)、●ナマステ(ネパール料理)、●三九(地産地消料理)、●串焼さの竹、●蒲原やましち(桜海老やきそば)、●くいもんや華音(中華居酒屋)、●ヤキトリフード大石、●萬福酒家(中華)、●ビールコーナー、●静岡市産野菜直売所ほか

 

 

 

 清水や由比が静岡市と合併したことによって、静岡市内には英君、臥龍梅、喜平、君盃、正雪、駿河酒造場、萩錦と、7つも蔵元がカウントされるようになったんですね。この7蔵のブースが上記食ブースの間に入っています。

 今回は食が主役で、酒はどっちかというと引き立て役みたいですが、いつかは、志太平野美酒物語のような地域限定型地酒イベントが開かれるようになればいいなあと思います。

 

 

 

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 それはさておき、今回のイベントには、当ブログでも再三ご紹介している、福島県いわき市の道の駅よつくら港ブースが登場します。東北復興支援の一環で、主催者が無料でブースを提供してくれて、道の駅よつくら港の人気商品を販売することになったのです。売り上げの一部は義援金に充てます。

 

 

 震災から2年以上経ちますが、福島の食品生産者の中には、未だに風評被害に苦しんでいる人もいます。でも顔が見える相手からだったら、財布の紐をゆるめてくれるでしょう。今回は、私が8月に道の駅よつくら港へ行ったときに味見したいろんな食材を送ってもらうようお願いしました。旬のナシもたっぷり紹介します。

 

 

 

 こういう小さな取り組みでも、つなげて続けることが大事だと思います。19~20日、青葉シンボルロードのステージ向かって右横に「いわき市の皆さんを励ます会」というブース名でお待ちしていますので、ぜひ来てくださいね!

 

 

 あ、私は時々、酒蔵ブースをウロツクかもしれません(笑)ので、7ヶ所あるブースも漏れなくお回りください!

 

 

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四国ぶらりバス旅(その4)~高松・栗林公園

2013-10-11 10:54:41 | 旅行記

 今日10月11日は、無事、○回目の誕生日。独りフリーランスで生きていくのは楽ではないけど、こうして時々旅をしたりして暮らしていけるのも、これまでの友縁・酒縁・筆縁の賜物です。心からの感謝をお届けします!

 

 四国バス旅の続きです。

 10月5日(土)、高松の栗林公園前で讃岐うどんを味わった後、14時22分発神戸行きのバスへ乗り換える前、栗林公園を2時間ほどゆったりお散歩しました。

 

 

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 季節的に見ごろの花がなく、しかもあいにくの雨模様。園内はひと気も少なく、とても静かでした。事前にほとんどリサーチしていなくて、静岡の駿府城公園レベルかと思っていたら、とんでもない!

 

 同じ徳川ゆかりの場所でも、初代高松藩主・松平頼重公(水戸光圀公のお兄様)以来、歴代松平家がバッチリ作庭・修築をし、明治以降は県立公園として一般開放され、昭和28年には国特別名勝となった回遊式大名庭園です。城下町といっても城主の居ない駿府と違い、将軍家外戚の財力をもった大名が支配した町だけあって、“抜かりがない”って印象でした。

 

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 この庭園に風格を与えているのは、なんといっても松の美しさ。園内には約1,400本の松があり、そのうち1,000本は完璧な手入れをしているそうです。

 

 こちらは大正時代に皇族の方々がお手植えされたもので、中央は英国王エドワード8世が皇太子時代に訪れて手植えされたものだそうです。英国王のスピーチで有名なジョージ6世のお兄さんで、離婚歴のあるアメリカ人女性との恋のため、王位を捨てた方ですね。

 

 

 

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 こちらは箱松とか屏風松といわれる複雑な樹形。こんな松、今まで見たことありませんでした。この園独特のもので300年以上にわたる手入れの積み重ねだそうです。

 

 

 

 

 

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旧日暮亭(きゅう・ひぐらしてい)は江戸初期の大名茶室を今に伝える貴重な建物。土間のある茶室は珍しいそうです。

 

 

 

 

 

 

 

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 小川の中に手水鉢があるというのも珍しい! 最近、茶道の歴史をかじるようになって、こういうところに眼が行くようになりました。

 

 

 

 

 

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 ここは富士山を見立てた「飛来峰」という築山。遠く離れた四国の大名庭園にもしっかり富士山が根づいているんだなあ~。

 

 

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 で、飛来峰側から見た風景がこちら。偃月橋(えんげつきょう)と鯉のコントラスト、これぞ大名庭園!って感じですね。

 

 園は北湖・南湖・西湖・芙蓉沼(ハス池)・群鴨池(ぐんおうち=鴨猟用の池)と、豊かな水辺に囲まれ、お天気がよければ舟遊びも出来るそうです。

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 ちょっと斜めに写っちゃっているけど、北湖に浮かぶ杜鵑嶼にはハート型のつつじが。カップルには「恋つづじ」と親しまれているそうです。つつじの開花時期にピンク色に染まると可愛いでしょうねえ!

 

 駿府城公園もつつじも名所のはずだけど、こういう遊び心が欲しいなあ~。

 

 なんだか地方大名の実力を見せ付けられたようで、江戸徳川生みの親であるはずの家康公お膝元の駿府城公園、もっとちゃんとしようよ!と活を入れたくなりました。

 

 5日夜、神戸に嫁いだ高校時代の同級生と久しぶりに会って食事をし、三ノ宮発21時25分の夜行バスで静岡へ戻りました。

 

 

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 静岡へ戻ったその足で、藤枝で開催された『藤枝地酒フェス秋』へ。さすがに眠かったけど、故郷の地酒の味にホッとしました。

 

 旅をすることで、人は自分の立ち居地を確認できる・・・あらためてそう感じます。

 

 


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四国ぶらりバス旅(その3)~道後温泉と讃岐うどん

2013-10-09 10:21:09 | 旅行記

 10月4日(金)、高知の市内視察を終えた後、静岡へ帰るニュービジネス会員さんたちと別れ、高速バスで松山へ。初めて四国へ来たならば、やはり神話時代から続く日本最古の温泉に浸からねばと道後温泉に向かいました。

 

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 大街道というメインストリートのど真ん中駅でバスを降り、路面電車に乗り換えて終点の道後温泉に到着。駅舎、何ともレトロです。駅前には可愛いアーケード街が続き、T字路を右折すると、国重要文化財にも指定された有名な道後温泉本館がありました。

 

 

 

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 とりあえず先に宿にチェックインして荷物を降ろし、宿で割引入浴券を買い、浴衣とタオル・シャンプー類を借りて道後温泉本館へ。この建物、重要文化財だから見学のみで、浴場は別にあるのかと思っていたら、この建物内で、昔ながらの温泉気分が味わえるんですね。びっくり感激でした。

 

 館内には「神の湯」と「霊の湯」があり、入浴のみ・休憩付き・個室付きなどいろいろな料金コースが選べます。私は庶民派の入浴のみ400円コース。町中の銭湯と同じで、石鹸・シャンプー類・タオルは持ち込みです。

 

 

 なにせ3千年前の神話時代、足に傷を負った一羽の白鷺が岩の間から湧き出た温泉を見つけて傷を癒したことから始まり、大国主命(おおくにぬしのみこと)が、重病の少彦名命(すくなひこなのみこと)の治療に入浴させ、6世紀末には聖徳太子が、7世紀には斎明天皇と額田王が訪れ、万葉歌人山部赤人も長歌を残し、源氏物語にも「伊予の湯桁」として登場。13世紀には一遍上人が湯釜に南無阿弥陀仏の文字を刻み、江戸時代には松山藩主松平定行が入浴施設として整備して庶民が気軽に利用できるようにしたとのこと。明治以降は板垣退助、伊藤博文、夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子など等、多くの著名人に愛されました。

 

 時間が止まったような、レトロな「神の湯」に浸かっていると、温泉の化身ともいえる白鷺が、“火の鳥”みたいに、3千年にわたって日本の歴史をここから眺めていたんだな~と想像しちゃいます。

 

 

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 道後温泉本館横にある道後の地ビール居酒屋で、伊予鶏の柔らか唐揚げを酒肴に地ビールを2杯呑んだ後、駅前アーケード街をブラ歩き。日頃、愛用している砥部焼の器やさんや、今治タオルショップを覗き、もう一軒「椿の湯」をハシゴ入浴。こちらは一般的な銭湯で、地元の利用者も多いみたい。シャワーを浴びてイスに腰掛けようとしたら、隣に居たおばあさんから、「股間をよく洗ってから座る!」と怒られてしまいました(苦笑)。

 

 なんでも、そのおばあさん、ここで下の病気をうつされた経験があるとか。・・・よくよく考えてみれば、公共の入浴施設っていろんな人のいろんな雑菌の温床になっているかもしれないし、町内の人だけが通う銭湯ならまだしも、観光地化して外からいろんな人を受け入れるからには、いろんな対策が必要なんだなあと改めて考えさせられます。

 

 

 

 

 

 

 翌5日は、「本場の讃岐うどんを食べて帰ろう」という安易な発想で、大街道から今度は高松行きの高速バスに乗り、香川の名勝・栗林公園前で下車。時間はちょうど11時30分。栗林公園前にある「上原屋本店」(こちらの記事がわかりやすいかな)という地元人気店へ入ってみました。

 

 地元では、自分で麺を茹でて出し汁をかけ、トッピングを選ぶというオールセルフらしいと聞き、うちの近所の丸亀製麺で訓練?はしたけれど、ちゃんと出来るかドキドキ(笑)。サイドメニューでは珍しい「高野豆腐の天ぷら」「こんにゃくの天ぷら」を選び、メインに、丼に素うどんだけ入った「かけうどん」を選び、油揚げを乗せてレジへ行ったら、おばちゃんから「麺は温めるでしょう?」と言われてしまいました。おばちゃんは丁寧に油揚げを別の皿に移してくれて、レジの反対側にある湯釜で、麺を好みの硬さに温めるよう教えてくれました。

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 出し汁は、冷水機のようにレバーで押すとジャーっと出てきます。一見、味気なさそうに思えましたが、この出し汁、風味バツグンで私好みの薄味。油揚げや天ぷらの衣に、ジワ~っと染み込ませると抜群で、ほどよい太さ&コシのある麺と一緒に味わうと、これぞ王道うどん!って感じです。

 

 

 入口に並んだ行列と、長テーブルに座って黙々と麺をすすり、食べ終わったらそそくさと返却口へお盆を返すお客さんたちを見ていると、昔、大学の学食の定番だった一杯100円の素うどんを思い出しました。味はもちろん比較にならないけれど、一杯のうどんに支えられていた貧乏学生の頃が懐かしく、うどんってこういう体験が重なるから味わい深いんだなあとしみじみ・・・。この日は一杯550円也でした。(つづく)


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