10月26日(土)、京都の高麗美術館で開催中の特別展【朝鮮通信使と京都】を観に行き、朝鮮通信使研究の第一人者・仲尾宏先生の講演会「四百年前の日朝国交回復の立役者・松雲大師(四溟堂)惟政と徳川家康」を受講しました。当ブログでも再三ふれてきましたが、16世紀末から17世紀初めの東アジアは実に面白い!関ヶ原をはさんだこの時代、日本人は国内情勢にしか関心がないようですが、アジアを俯瞰で見ると、別の歴史ドラマが見えてきてワクワクします。
松雲大師(四溟堂)惟政と徳川家康は、秀吉の朝鮮侵攻によって断絶した日朝関係を修復した立役者ですが、松雲大師についてはよく知らない人も多いと思います。仲尾先生もこのことに留意され、大師の立場や功績について強調されていました。以下、先生の講義内容といただいたレジメ・資料等を簡単に(といってもかなりの長文ですが)まとめておきます。私なりのまとめ方ですのでご了承ください。
松雲大師(ソンウン・デサ)。韓国では秀吉軍に抵抗した朝鮮義僧兵・四溟堂(サミョンダン)として知られます。本名は惟政(ユジュン)。1544年、慶尚南道の密陽近くで生まれ、儒学を学んでいましたが、13歳の頃、人間の深い煩悩は儒教では解決しないと悟り、仏教徒になります。朝鮮王朝では儒教を重んじていたため、活動は辺鄙な山奥に限られましたが、31歳のとき西山大師休静という高僧の弟子となり、苦行を重ね、正法を大悟します。
左画像は、昨年、韓国密陽市の表忠寺護国博物館で開催された【四溟堂 松雲大師展】の図録からコピーさせていただきました。図録は高麗美術館を通して表忠寺護国博物館学芸員の金鍾珉氏が送ってくださいました。ありがとうございました。
惟政の運命を一変させたのは、1592年、彼が49歳のときに起こった壬辰倭乱(文禄の役)です。当時、朝鮮王朝は日本が攻めてくるなんて予想もしていなかったので混乱し、わずか2週間で釜山からソウルまで日本軍の侵攻を許してしまいました。小西行長軍はピョンヤンまで到達し、加藤清正軍は東海岸を上ってロシア沿海州まで達したのです。
朝鮮国王は義兵の決起を求め、惟政(ユジュン)の師匠・西山大師にも義僧兵を指揮するよう命じました。高齢の師匠に代わって義僧将となったのが彼でした。
1592年6月、楡帖寺に侵入した日本軍を撃退し、固城邑の敵陣地に赴いて敵将を説諭し、江原道の嶺東九郡を救いました。7月には西へ向かい、都総摂義僧職に就任。10月には僧兵1000人余を率いてピョンヤン付近まで転戦し、戦果を上げたそうです。
ちなみに、水軍を率いて日本船を撃破した将軍・李舜臣は歴史教科書にもしばしば登場します。のちに東郷平八郎が「世界最強の海軍将」と称えられたとき、「アジアには李舜臣がいる」と答えたという逸話も残る逸材。そんな李舜臣に比べ、松雲大師(四溟堂)惟政の名は、韓国内でもあまり知られていませんでしたが、近年、朝鮮通信使研究が進むにつれ、海の李舜臣、陸の四溟堂、という評価が確立されたそうです。
松雲大師(四溟堂)惟政の存在感を感じるのは、実戦の指揮官のみならず、日本側との講和交渉役として非常に大きな役割をはたしたからです。
日本側の代表者のうち、小西行長はピョンヤンまで進軍したものの、朝鮮国を“子分”とみなす中国・明軍の加勢によって押し返され、開戦後1年で15万の兵を(戦死・逃亡・寝返り等で)半減させてしまいました。
もともと大義名分のない不毛な戦。彼は独自に明の将軍と講和交渉を始めます。これが、明の皇帝には「秀吉が降伏した」という偽書を送り、秀吉には明や朝鮮国の要求を捏造して伝える、かなりヤバイ手法で、行長が明と交渉していると知った秀吉は「明の皇女を日本の後陽成天皇の側室にしろ」「朝鮮の南半分(今の韓国)を日本によこせ」「朝鮮の王子を人質によこせ」と言いたい放題並べ立てました。そんな条件はストレートに伝えられないと、また、あれこれ画策する。
行長と明側の交渉は、朝鮮国や、日本側のもう一人の代表者・加藤清正にも知られないところで秘密裏に行われていたため、朝鮮側は日本の真意を探るため、秀吉の側近中の側近である加藤清正の本営に使節を送ることに。白羽の矢が立ったのが、松雲大師(四溟堂)惟政でした。
彼はわずかな手勢を連れて、命がけで清正の陣に乗り込みました。そして行長と明とのデタラメな交渉について伝え、「朝鮮国側は絶対に妥協しない」と強い意思を伝えます。主戦論者で、行長主導の講和交渉に不満を持っていた清正は、これを歓迎する。惟政も、清正陣営から秀吉の真意を聞き出すことに成功します。
その後、さまざまな駆け引きがあったものの、結局、秀吉が最後までこだわった「朝鮮の南半分の割譲」がかなわず、1597年、丁酉倭乱(慶長の役)が始まります。ソウルまで攻め上ることは難しいと解っていましたから、割譲目的としていた南四道の占領をまずは果たせと命じた秀吉ですが、南海岸の一帯に倭城を築き、清正がウルサンの砦を死守していたところで秀吉が亡くなり、戦争は終結しました。
日本国内では秀吉亡き後の天下分け目の覇権戦争が始まります。ワリを食ったのが、長年、朝鮮王朝との交易で身を立て、文禄慶長の役では心ならずも前線軍に追いやられ、島民を犠牲にしてきた対馬の宗氏。働き盛りの農民漁民を戦争にとられ、日本から朝鮮に渡る日本の大軍の前線基地にされて島の暮らしはズタズタ。戦争が終わっても、働き手はいないし、ご褒美にもらえるはずだった領地もナシ。島主の宗義智は、一刻も早く朝鮮貿易を復活させようと使者を送りますが、生還できた者はナシ。宗氏の言い分が日本国を代表しているのかどうか、朝鮮側は疑心暗鬼になっていたんですね。
1600年4月、関が原の合戦(9月)前のこと。宗義智は朝鮮側に何とか誠意を伝えようと、対馬領内にいた朝鮮人被虜300人余を釜山に送還します。日本に拉致された被虜は数万人規模に及んでいましたから、朝鮮側は彼に、速やかに被虜問題を解決せよと伝えました。
といっても、朝鮮側では、日本の次の覇者が誰なのか、家康が有力らしいといわれているが、彼も秀吉と同じように戦争を仕掛ける人物かとどうか、はっきりつかめません。
そんな中、1600年6月、朝鮮から拉致された高名な儒学者・姜沆(カンハン)が無事帰国し、「家康は戦争を仕掛ける気はないだろう」と報告します。
翌1601年6月には被虜走回人(自力で帰国した人)が、「関ヶ原の合戦で家康が勝利し、実質的に政権を掌握した」と報告。1603年末には幼学(科挙に合格したが官職に就いていない人)の金光という人が薩摩から帰国し、「宗氏は関ヶ原で西軍についていたため、朝鮮との交渉が長引くと宗氏の責任が問題視される」と報告します。
どうやら“日本代表”は家康に決まったようだが、その真意を確かめようにも、戦禍を被ったこちらから先に使節を送るというのはおかしい。とりあえず、再三、交易の再開を願い出てくる宗氏に、日朝関係が修復したら以前のように釜山に倭館(対馬の商館)を置いてもよいと伝える非公式の使節を送ることにし、ついでに日本国内の情勢を探り、家康の真意を確かめて来させることに。白羽の矢が立ったのが、またもや松雲大師(四溟堂)惟政でした。
松雲大師惟政は、朝鮮側が用意した「対馬開諭書」という書簡を持って対馬に向かいました。
書簡の内容は、①被虜人送還に対する謝意②明は日朝間に不介入③対馬の朝鮮国に対する“革心向国(心を改め、間違ったことをしない)”を評価する―というもの。宗義智は大いに喜び、この機に松雲大師を家康に引き合わせようと、家老の柳川調信を家康のもとへ送ります。家康は「来年(1605年)3月に京都へ行くから、大師を連れてきなさい」と返答。松雲大師は1604年12月27日、宗氏に連れられて京都入りしました。
京都に着いた松雲大師は、堀川寺之内の本法寺に滞在しながら、京都の高僧たちと交流を図ります。ちょうど今現在、裏千家の茶道資料館の北隣にある寺です。
松雲大師は相国寺塔頭の豊光寺を舞台に、豊光寺住職で秀吉―家康の政策ブレーンとして暗躍した西笑承兌、博多聖福寺の住職で対馬の外交アドバイザーだった景轍玄蘇らと筆談で交流しました。西笑承兌は松雲大師のことを「博覧強記の淵材(博識の大人物)」「筆跡亦麗(書も美しい)」と褒め称えます。彼が、日本軍と勇猛果敢に戦った義僧兵の長である一方で、単なる僧兵ではなく、当代きっての学識文化人であったということが、大いにプラスに働いたのではないでしょうか。政治的影響力を持つ京都の高僧たちに、人物としての信頼を得たことが、家康との交渉をスムーズにしたと思われます。
家康もまた戦国武将の中では屈指の教養人で、京都五山の高僧をブレーンに従えるだけの知性と良識を持っていました。そういう両者の出会いは、日朝外交史の奇跡ではないか、と思います。
1605年3月4日、景轍玄蘇らに伴われて家康に接見した松雲大師は、家康から「自分は江戸にいて戦争に加わっていない。朝鮮に恨みはない。通(よしみ)と和を請う」という文言を引き出しました。
松雲大師はこのとき、被虜人の送還を申し出て、家康も口頭で承知したと答えましたが、被虜人は各大名が地元に連れ帰ってしまい、素直に送還に応じる大名は少なかったようです。それでも松雲大師は4月の帰国前後に1,340人の被虜人送還を実現させ、「通(よしみ)と和を請う」という家康の真意を朝鮮側に伝えます。
1605年7月、朝鮮側は日本に対し、「謝罪の意味を込めた国書をよこすこと」「戦争中に朝鮮歴代国王の王陵を荒らした犯人を捕らえて差し出すこと」という2つの講和条件を出しました。
日本側はすぐさまこれに応じました。・・・といっても、家康が謝罪を込めた国書を本当に書いたかどうかは疑わしく、王陵を荒らした犯人として差し出された日本人は、戦後10年経つというのに、どうみても若すぎる20代の若者でした。1605年11~12月、朝鮮国では、日本から送られてきたのが偽犯人と偽国書だと見破りますが、問題にはしませんでした。
このときの国書偽書論争というのが歴史学界にはあるようで、従来の説では「家康の答書は存在せず、対馬の宗氏が完全偽造した」というものでした。私が2007年に執筆した映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』のシナリオでも、この説を採用しています。
最近になって新説として、「家康の答書は、実は存在し、対馬まで送られており、対馬に来ていた朝鮮国の外交官・全継信がチェックをして書き直しを要求し、駿府大御所政権の中枢である本多正純が家康を説得した。江戸でも“先に謝罪の国書を送る”ということに異論が出なかった」という学説が出てきたそうです。
仲尾宏先生は、「家康の答書の存在は確認できないが、対馬で全継信が“内府書謄”を見せられたと言っているので、家康からの何らかの指示書は対馬に届いていたのではないか。ただし、7月に朝鮮側から2条件が示され、11月に朝鮮側に国書と犯人が届けられたとなると、駿府の本多正純が介入するのは時間的に無理。ましてや外交問題は、本多正純ではなく、西笑承兌の担当だ」と解説されます。
結論として、国書は対馬が改ざんしたものですが、
●家康側としては、先に謝罪するというのはNGだが、外交再開は新政権の国際的認知と、国内に幕府の威光を高めるため、どうしても必要。対馬の改ざんを見て見ぬふりをした。
●対馬は、とにかく貿易復活が急務で、自分たちが徳川政権の意向で交渉していることを示す必要があった。
●朝鮮側は偽犯人・偽国書をあえて受け取り、対馬の顔を立て、手なづける政策を取った。
というところに落ち着き、朝鮮側は、家康の(偽)国書への返答と、日本に残された被虜人の刷還(連れ戻す)を目的とした『回答兼刷還使』を、1607年に日本に送ることになりました。これが、第1回朝鮮通信使として数えられるわけです。
対馬では、宗義智の後を継いだ宗義成と対立した家老の柳川調興が、国書偽造を幕府に“内部告発”し、徳川頼宣、伊達政宗、井伊直孝、松平信綱ら有力大名は宗氏支持。土井利勝、酒井忠勝、安倍忠秋、松平信綱、柳生宗矩ら幕閣は柳川支持と、幕府を2分する大政争に発展。最後は将軍家光が、「宗氏にはおかまいなし、柳川家は財産没収の上、津軽へ追放」という裁断を下しました。
その一方、先代・義智のもとで直接改ざんに関与した老臣・島川内匠と、調興の腹心・松尾七右衛門は死罪となり、義成の叔父宗智順は流罪。義成と調興それぞれ配下の外交僧も流罪に。宗氏は存続が許されたものの、実務担当者は全員処罰されたわけです。
幕府はこの事件を機に、「対馬に外交をまかせきりにしておいてはマズイ」ということで、京都五山の僧3人を実務担当者として交替で対馬に派遣することに決めました。
話は逸れましたが、松雲大師、徳川家康、その仲介になった対馬の宗氏や京都五山の僧侶、それぞれの立場の、その時点で最善とされる現実的な外交判断によって日朝国交は回復し、朝鮮通信使は1607年の第1回以来、1811年の第12回まで、徳川将軍交替時に祝賀使節団として来日。200年以上に亘って平和が保たれたわけです。
彼らの動向を見るにつけ、外交を担う者には教養人・文化人としての資質と、信頼できる優秀なブレーンが不可欠で、交渉相手とは互いに尊敬し合えなければ、対等な話し合いはできないんだと改めて実感します。秀吉―清正―行長時代の外交に比べると、大人だなあ~と思っちゃいますね。
相手の本音を探りながら、建前で押し切って、陰で修正や改ざんを行う・・・通信手段が発達し、いともかんたんにネットに裏情報が暴露されてしまう今の時代では、建前で押し切ることが難しいのかもしれませんが、こと外交に関しては、講和を実現させるという目的がしっかり定まれば、「あえて誤魔化す」「あえて見過ごす」という非合理的な手段を取ることも有効で、何でもかんでもディスクローズすればよいというものでもないんだなあと、この一連の歴史を振り返って思います。
そうはいっても、今、問題になっている秘密保護法案の行方も気になるし、歴史を検証したら、今の時代の指針にしなければなりません。
今の東アジアの外交担当者は、松雲大師のことをどれだけ知っているのかなあ?