杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

Tabi tabi 4号 ~白隠が白隠になったまち

2018-09-21 13:57:03 | 白隠禅師

 静岡新聞社から春と秋に発行される旅の文化情報誌『Tabi tabi』第4号~しずおか温泉三昧が本日(9月21日)発売となりました。

 私は毎号、しずおか今昔物語というコーナーで静岡の歴史について書かせていただいており、今回は、当ブログの前記事でも触れた白隠禅師を取り上げ、白隠さんが生涯を過ごした沼津・原というまちについて紹介しました。

 

 執筆にあたっては、過去参加した白隠さん関連の講座・セミナーでの知識、その備忘録としてまとめてきた当ブログ記事が役に立ったのはもちろんのこと、駿河白隠塾でご一緒させていただく原の郷土史家・望月宏充先生、ご存知『白隠正宗』蔵元杜氏の高嶋一孝さんに、原というまちとの関係性について貴重な助言をいただきました。私レベルの書き手の原稿に、白隠禅画の画像使用は(予算的に)無理だったため、望月先生には大正時代の松蔭寺写真絵葉書を、高嶋さんには白隠画を使用したお酒のラベルをお借りするなど、お2人がいなければ誌面が成り立ちませんでした。好きで始めた白隠学習と地酒取材での人脈がこういう形で役に立つとは、ほんとうに、人生に無駄な道はないなあとしみじみ思います。

 ネタ元となったのがこちらのブログ記事です。興味がありましたらぜひご覧ください。

 〇「健康」の二文字を初めて使った白隠禅師(こちら

 〇白隠さんの折床會と朝鮮通信使扁額(こちら

 〇普賢象と白幽子(こちら

 

 

 なお、9月27日(水)から10月13日(土)まで白隠展2018inぬまづ(沼津市主催)が沼津市立図書館4階展示ホールで開催されます。松蔭寺所蔵の白隠禅画を沼津市内の施設では初めて展示するそうですので、お見逃しなく! 私は10月2日(火)、10月10日(水)13時から18時30分まで受付ボランティアをやります。平日ですが、お時間の許せる方はぜひ遊びにいらしてくださいね。

 

 さらに9月29日(土)10時30分から沼津市立図書館4階視聴覚ホールで、芳澤勝弘先生の講演会『駿河白隠塾フォーラム/白隠下の師承について』(一般2000円)が開催されます。おなじく12時45分から15時まで特別講演会『松蔭寺の歴史と文化財』『西洋における白隠禅師の理解』(参加無料)も開催されますので、興味のある方はぜひ。詳しくは駿河白隠塾フェイスブックページ(こちら)を。

 

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沼津と飯山の白隠熱

2017-09-16 17:34:38 | 白隠禅師

 今年は白隠禅師がお亡くなりになって250年の遠忌にあたるということで、全国各地で白隠さんの顕彰事業が開催されています。地元の沼津市立図書館では『白隠展2017inぬまづ』が9月21日(木)まで開催中。私も昨日(15日)、受付のお手伝いに行ってきました。

 図書館のパブリックスペースで誰でも無料で鑑賞できるとあって、図書館利用者や買い物帰りの市民の方がフラッと立ち寄ってこられました。「沼津市民として白隠さんのことを知らなきゃ恥ずかしいと思って」という方も多く、高齢の男性から「意味がわからんから解説してくりょ」と言われて四苦八苦しながら、芳澤先生の本や講座で聞きかじった乏しい知識をフル稼働。賛は読めてもどういう意図で描かれたのか素人には皆目わからず(すらすらわかったらお坊さんか学者先生になれますよね)、そのおじいちゃんと一緒に「どんな深い意味があるんでしょうねえ…」と頭をウニウニさせちゃいました(笑)。

 事情通と思われる白隠ファンの男性からは、展示品が誰の所蔵かと鋭く突っ込まれ、「個人が所蔵している白隠画はごまんとある。自分の家にも5枚ある。でもそれを(相続の関係で)公にしにくい事情がある。地元沼津で、個人蔵の白隠画が気軽に展示できる場所や機会がないものか」と真摯な意見をいただきました。

「自分もそうだが、沼津では寺も市民も“わたしの白隠さん”という思いが強い。思いが強すぎて軋轢を生むこともある」と男性。研究者がロジカルに解析・分析する世界とは違う、白隠さんを身近に感じて暮らしてきた地域の人々のマインド(こころ)の世界の話、ですね。現代人にもそれほどまでに影響力を残す白隠さんってやっぱりすごい存在感です。

 私のように外から入り、まずロジカルに理解しようとしている人間も、“わたしの白隠さん”に誇りを持つ地元の人々と、同化はできなくてもマインドを尊重し、誠実に寄り添わねば、当然、軋轢は生まれるでしょう。白隠さんに限らず、私が関わる酒の世界でも、愛好者同士で「マインド」と「ロジカル」がぶつかることは多々あり、知識があってもひけらかさず、どんな相手とも心地よく酔っぱらうことができるバランス感覚って大事だなあとつくづく思います。

 沼津には白隠さんと直接接点を持たない市民、ロジカルな理解を必要とする市民も大勢います。「マインド」と「ロジカル」それぞれ得意な人たちが相互に補完し合えるようになれば理想的でしょう。取材を生業にしている自分に出来ることといえば、地元の人々が知らない国内外の白隠さんの偉大な足跡を丁寧に紹介することくらいかな。その上で沼津の人々と「だから白隠さんって素晴らしいんですね」と共に顕彰しあえる環境を作れたら、と願います。

 

 そんなこんなで、沼津展が始まる直前の9月10日、長野県飯山市の飯山市美術館で開催された『この人なくして白隠なしー正受老人と白隠禅師』の最終日にギリギリ間に合い、念願の正受庵を訪問しました。

 

 

  正受老人(1642~1721)は、白隠さんが24歳のときに師事した信州の高僧です。父は、真田幸村の兄にして松代初代藩主真田信之。大河ドラマ『真田丸』では大泉洋さんが演じ、正妻稲姫(吉田羊さん)に頭の上がらない恐妻家として描かれましたね。稲姫が亡くなった後、側室を迎えてもうけた子で、飯山城内で生まれ、城中で真田家の血を引く武士として厳しく育てられましたが、13歳のときに出合った禅僧に「貴方の身体には観世音菩薩がいる」と言われ、仏門を志すことに。藩主の参勤交代に同行して江戸入りし、江戸の至道庵で出家して25歳のときに飯山へ戻りました。

 かの徳川光圀公から「水戸へ来てくれ」とスカウトされたこともあったそうですが、初代飯山藩主松平忠俱が正受庵を建てて実母・李雪と暮らせるようにし、80歳で亡くなるまでこの地でひたすら禅道に生きました。ちなみに松平忠俱は遠州掛川藩主から飯山藩主に移封された人物です。

 正受庵(長野県史跡)は、江戸の至道庵、犬山の輝東庵とともに“日本三大庵”に数えられる素朴で美しい草庵。映画「阿弥陀堂だより」のロケにも使われたそうです。真田家の六文銭マークがさい銭箱にしっかり刻印されていました。

 

 白隠さんは24歳のとき、正受庵を訪ねます。訪問前、越後高田の英厳寺で早朝、坐禅中に遠くの寺の鐘の音を聞いて突然大悟を得て、「雲霧を開いて旭日を見るがごとし」の心境となり、正受庵を訪ねるときには「300年来、俺ほど痛快に悟った者はいないだろう」と自信満々だったそう。その天狗面に“大喝”を食らわせたのが正受老人で、「ど盲坊主め」とか「あぶないあぶない、子どもが井戸をのぞいているようだ」とかコテンコテンに罵倒します。

 ある時、真剣問答に挑もうと近づいた白隠さんの気配を察した正受老人は、白隠さんがひと言発する前に三十棒を打ち食らわせ、石段から突き落としたそうな。泥まみれで起き上がることもできない白隠さんの天狗の鼻っ柱は見事にくじかれ、8か月間、正受庵でみっちり修行しました。正受老人のスパルタ教育によって性根を入れ替えた白隠さんは坐禅にますます没頭し、とうとう禅病(うつ病)を患い、京都の仙人白幽子に内観の秘法(道教の教えをベースにした瞑想・イメージトレーニング)を授かって気力を取り戻し、真の悟りを得た。白隠さんにとってまさに「この人なくして・・・」という存在だったのですね。

 

 飯山市美術館の展覧会は、出品点数40点あまりと、さほど多くはありませんが、長野県内の寺院が所蔵する白隠書画の傑作がズラリ並びました。持ち帰り自由の正受老人の解説資料も充実。売店コーナーでは正受庵所蔵の白隠さんの『おふじさんの初夢』が紙本となって売られていました。1部1000円。額に入れて飾れば、立派な“わたしの白隠さん”です。

 

 正受老人は山奥の草庵で、実母と二人、ひっそりと仏法に生きた人。白隠さんのように鼻っ柱の強い修行僧や剣豪がたびたび訪れては挑戦しかけるも、あるときは団扇1本で竹刀をはらうなどさすが真田家の血を引いた御仁、ただならぬ雰囲気をお持ちだったのでしょう。一方、白隠さんは東海道の宿場町の問屋で生まれ、ガヤガヤと人が行き交う街道の寺にあって多くの衆生に伝道し続けた。膨大な書画や書物が残っているのも、「動中工夫勝静中」をまさに地で生きたからですね。

 お二人を比べると、生まれ育った環境というものが禅僧としての生き方に少なからず影響を与えていることが、なんとなくわかります。

 白隠さんの顕彰の仕方も、沼津と飯山ではやはり違う。当然だろうと思います。私がこれまで訪ねた京都、宮城、広島福山、美濃とも違う。自分のこれからの視座は、白隠さんを通してそれぞれの地域がどういう地域社会だったのか、白隠さんが生きた時代の日本がどうだったのか、そこから現代の我々が読み取れるものがあれば探っていきたい・・・そんなふうに思います。

 

 間際のご案内で恐縮ですが、白隠展2017 in ぬまづ開催中の9月18日(月・祝)には、13時30分から芳澤勝弘先生の記念セミナーがあります。沼津市立図書館4階視聴覚ホールにて。事前申し込み不要・入場無料です。

 10月1日には、駿河茶禅の会を通して親しくさせていただいているSPAC(静岡県舞台芸術センター)俳優の奥野晃士さんが、清水の但沼・東壽院で「白隠演談とトークの夕べ」を開催されます。郷土の歴史を題材にした動読(演技や音楽を付けた朗読)パフォーマンスで活躍中の奥野さんから、いよいよ白隠さんを取り上げるとうかがい、出来る限りのアドバイスもさせていただきました。白隠さんのことをよく知らない人にとってはこの上ない学びの機会になりますし、奥野さんは今後も白隠さんとご縁のある寺院で動読活動を広げていきたいとおっしゃっていますので、ぜひ協力していただければと思います。

 10月1日白隠演談はこちらへメールでお問い合わせを。街援隊アートムーブ gaientai.am@gmail.com

 奥野さんの活動はブログ(こちら)をご参照ください。

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直虎の国に橋を架けた白隠さん

2017-08-29 19:29:47 | 白隠禅師

 今年のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』は、過去のドラマや映画ではあまり取り上げられなかった桶狭間以降の今川家を取り上げ、ヒール役ながら寿桂尼や今川氏真が存在感をもって描かれています。8月10日には静岡音楽館AOIで、氏真を演じる尾上松也さんが司馬遼の「龍馬がゆく」を朗読された舞台を観に行きました(松也さんの本名は龍一さんで、ご両親が龍馬の舞台に出演されていたご縁で命名されたとか)。ドラマでは今川館が焼かれてしまって氏真も散々な目に遭っていますが、「撮影はまだ残っているので楽しみにしてください」とおっしゃっていました。

 

 今川家初代範国が駿河の守護職に就いたのは建武4年(1337)。もともと清和源氏の流れを汲む足利義兼の孫・吉良長氏の二男国氏が三河国幡豆郡今川庄(現・愛知県西尾市今川町)に住みついて今川姓を名乗ったのが始まりで、国氏の孫・範国が南北朝の混乱に乗じて三河から駿河へと勢力を伸ばし、遠江守護と駿河守護を兼任するようになりました。

 西尾市は現在、抹茶生産量日本一。〈宇治抹茶〉が冠につく菓子商品の大半は、実は西尾の抹茶を使っているそうです。この地には13世紀に実相寺(吉良家の菩提寺)に茶種が持ち込まれ、江戸時代に紅樹院住職の足立順道が本格的に抹茶栽培を始め、矢作川沿岸の台地に茶園を開拓し、茶の文化も醸成されたようです。茶どころ&今川つながりで静岡市と交流があってもいいような気がしますが、あまり聞いたことないな・・・。

 

 井伊家の初代共保は平安時代の西暦1010年、井伊谷にある龍潭寺門前の井戸から誕生したといわれる伝説的な人物で、大河ドラマでも初代を弁天小僧と親しく呼び掛ける井戸のシーンがたびたび登場しましたね。

 井伊家は遠江の国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を庇護するなど一大勢力を誇りましたが、徐々に今川氏の圧力を受け、支配下に。22代当主直盛が桶狭間で戦死し、23代直親も今川氏に討たれた後は、ドラマのとおり出家していた直盛の一人娘が次郎法師直虎を名乗って井伊家を切り盛りします。今川氏との徳政令を巡る攻防や家老小野政次の(ドラマでは直虎愛に殉じた)謀反で再三お家断絶の危機に遭うも、直親の遺児・虎松を三河鳳来寺にかくまい、元服後は徳川家に仕えさせ、虎松は直政となって井伊家を再興しました。

 井伊谷は“井の国の大王”が聖水祭祀をつとめた「井の国」の中心に位置し、井伊谷川、神宮寺川の清流が浜名湖に注がれ、周辺には縄文・弥生の古墳遺跡や水にまつわる伝承も数多く残されています。7月末に龍潭寺を訪ねたとき、森の木立の中にひっそりたたずんでいるとばかり思っていた弁天小僧・共保の伝説の井戸が、寺にほど近い田んぼの真ん中に堂々と整備されていたのに驚きました。

 

 

 ところでこの夏、一番頭を悩ませたのは、地下水利用団体の機関誌に3年前から年に1本ずつ依頼されている「水」についての原稿執筆でした。1本目は静岡県の酒造りについて、2本目は静岡県のわさび栽培について書かせてもらいましたが、得意分野を書き尽くしてしまって3回目はどうしようかと水に関する書籍を乱読したものの、今一つ“降りてこない”。大河ドラマで、一族の始祖が井戸から生まれたという伝説を知ってピンと来たものの、井伊家の話を延々と書いても仕方ないし、何か違う角度から考察できないかとネットサーフィンしていたら、ミツカン水の文化センターが発行している文化情報誌『水と文化』に出合いました。

 

 取り寄せたバックナンバー水の文化11号「洗うを洗う」の、宗教学者山折哲雄氏のインタビュー記事〈涙はなぜ美しいのか~風土、宗教、文明から見る水の浄化力と浄めの文化〉が目に留まりました。

 氏がイスラエルのキリスト巡礼地を訪ねたところ、イエスが洗礼を受けたヨルダン川は水がちょろちょろと流れる小川で、伝道活動も水が極端に乏しい砂漠地域。エルサレムはまるで砂漠の廃墟の上に建つ楼閣に見えたそうです。

「水が欠乏している風土、つまり砂漠に生きる人々にとって、唯一価値のある源泉は地上にはない。地上には何もない砂漠だからこそ、天上の彼方に唯一の絶対価値を求めるようになる。一神教の風土的背景はまさにここにあると思う。これは理屈ではない。行ってみたら実感として分かる」

「水の有無というのは、そこに住んでいる人間の信仰から死生観、自然観から美意識まで、何から何まで方向づけている決定的なもの。水は人類の文化や文明のもっとも根底に横たわっているものではないか」

 

 仏陀もインドとネパールの半砂漠地帯で伝道し、マホメットも砂漠地帯で預言者になりました。「今から2千年~2千5百年前は地球が急速に砂漠化した時代。人類を救済する優れた宗教はそのような厳しい風土の中から生まれた」と山折氏。それに引き換え、山川草木に恵まれ、砂漠化することもなかった日本では、天上の彼方を仰ぎみなくとも地上の至る処に命が宿り、神や仏の声を感じることができたでしょう。仏陀やイエスが生まれる前のはるか縄文時代から、一木一草に神が宿るという原始神道が存在した。それら万物の命の源が「水」なんだな、と改めて深く感じ入りました。

 

 井伊家の伝説を口切に〈人類の文化や文明の根底に横たわる水〉という途方もないテーマに突っ込んでしまいましたが、できるだけ自分自身が見聞した具体例で考察したいと思い、実際に訪ね歩いた京都の名水スポットや、駿河茶禅の会で拝見した名水点前をピックアップ。草稿を仕上げたところで、8月27日に引佐奥山方広寺の夏期講座に参加し、安永祖堂大師による白隠禅師坐禅和讃の解説で、またまたピンと来ました。

 

 

 禅宗の法事では必ず唱和する有名な『白隠禅師坐禅和讃』は、こういう一節から始まります。

 

 衆生本来仏なり 水と氷の如くして 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

 

 衆生本来仏なり(生きとし生けるものすべて、本来、己の中に仏を備えている)とは、一木一草に神が宿るという原始神道にも通じる意味だと思います。

 水は形のないもの=仏(悟り)、氷は水が器(決まった環境や条件)に入って固形化したもの=人間(煩悩)を指します。つまり人間はもともと素晴らしいのに、自分自身で囲いを作って固めてしまい、がんじがらめになる。それでも水と氷は本来同じものだから、氷(煩悩)が大きければ大きいほど融けたときには大量の水(大いなる悟り)となるんだよ、という白隠さんの深い呼びかけなんですね。

 「ほとけ」という言葉は、とける(ほどける)が語源ともいわれるそうです。氷が融けて水(ほとけ)になるんだ・・・何やら心にスーッと入ってきました。

 

 

 続く芳澤勝弘先生の白隠禅画解説で、先生が方広寺のしおりを忘れずに読んでくださいとおっしゃるので、休憩時間にしおりをもらったら、「井伊谷に新橋二つを架けた白隠禅師」という巨島泰雄氏(方広寺派宗務総長)の記事を見つけました。

 れによると、白隠禅師は寛保2年(1742)、井伊家初代共保の650年遠忌法要のため、井伊谷を訪ねています。龍潭寺そばの川は再三の大雨で橋が流され、白隠の輿は修行僧たちが肩まで水につかりながら必死に担いだ。法要の後、白隠は寺が用意した施入銭(謝金)40両全額を募金に回し、「みなが力を合わせ、日をかけて浄財を募れば必ず橋はできる」と発願。2年のうちに新橋が2本完成し、人々は昭和の太平洋戦争の頃まで「白隠橋」と呼んでいたそうです。

 

 芳澤先生訳注の『白隠禅師年譜』で確認したら、こう書かれていました。

「寛保二年の秋、遠州井伊谷、万松山龍潭寺の招きに応じて出かけた。矢畠川というのが東南に流れていた。七八人の人夫が左右に分かれて籠を護りながら、この川を渡る。迎えに来た僧俗も、みな裾をからげてこれに随う。水は股半ばに達している。みな緊張して、恐る恐る渡ったのだが、『この川にはどうして板橋もないのであろうか』と思ったのである。三四日後、東隣の実相寺に行くことがあって、またこの川を越えた。駕籠かきの話では、この川はひと月に二度も三度も溢れることがあり、溺れる者がしばしあり、時には死者も出るという。そこで、重ねて思ったのである。『道路を直したり橋をかけることは、善縁徳行の最たるもの。皆で力をあわせれば、難しいことではない。少しずつであっても、歳月を累ねるならば、必ず大きな力になり落成しよう。新橋を発起するのも利済の方便となるであろう』と。そこで化縁簿を作り、今回いただいたお布施四貫文をつけ、偈を作って、大通、自耕、元海、円通の四庵主に渡した。ささやかながら、これが端緒となれば幸いである」

 

 恵みの水が時には人の命を奪うこともある・・・そんな井の国の川に、命の橋を架けた白隠さん。浄土では共保や直虎にさぞかし感謝されたことでしょう。今回の「水」の原稿執筆では、白隠さんは想定外でしたが、知ってしまった以上、書かずにはいられません。融けた氷の水の量が思いのほか多かった・・・そんな感じでしょうか。

 

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駿河白隠塾まち歩きツアー~かぐや姫のまちで白隠を学ぶ

2017-06-26 09:44:00 | 白隠禅師

 6月4日、駿河白隠塾開催のまち歩きツアーに参加しました。舞台は富士。「かぐや姫のまちで白隠を学ぶ」というのがツアータイトルです。かぐや姫と白隠さんってどんなつながりがあるんでしょう。

 最初に向かったのは富士山かぐや姫ミュージアム。今回のツアーのコーディネート役である木ノ内義昭館長が、館内を直接ご案内くださいました。1年前に富士市立博物館からリニューアルしてから初めての見学。イマドキの展示スタイルというんでしょうか、前回記事で紹介した岩手のもりおか歴史文化館もそうでしたが、テーマや時代ごとに“編集”され、ビジュアル効果も意識したスタイリッシュな見せ方に魅了されました。むかしの素朴な博物館に馴染んでいた身としては複雑な思いもありますが(苦笑)。

 

 富士山かぐや姫ミュージアムは富士山麓の暮らしの歴史や文化をさまざまなテーマで紹介しています。なかでも富士山南麓に残るかぐや姫伝承をクローズアップし、竹取物語が描かれ伝承されてきた経緯を丁寧に解説しています。

 ちょうどリニューアル1周年記念展『富士登山列伝~頂に挑むということ』が開催中(8月27日まで)で、馬に乗って富士山頂に舞い降りたという聖徳太子から、修験道の開祖・役行者、山頂に大日如来を祀った末代(富士上人)、富士講の先駆け長谷川角行、富士山に初めて登ったお殿様・本庄宗秀(宮津藩6代藩主)、初めて登った外国人ラザフォード・オールコック(初代駐日英国大使)、明治時代に夫婦で富士山頂での越冬気象観測に挑戦した野中至・千代子夫妻など、富士登山史に登場する開拓者たちのユニークな軌跡が展示されていました。富士山の世界遺産登録前、必死に取材調査して様々な媒体に執筆した内容がわかりやすく紹介されていて、最初からこういうのを見せてもらえたら楽な取材だったのに…と臍を噛む思いでしたが(笑)、夏休みに子どもたちと一緒に見るといいんじゃないかな。

 

 ツアー参加者の関心はやはり白隠さん関連の展示物。1階の展示室1「富士に生きる」の一角に、白隠禅師の墨蹟と、白隠画の最高傑作とされる富士大名行列図が実物の5倍尺でパネル展示されていました。駿河白隠塾長の芳澤勝弘先生も、この大きさで見るのは初めてだそうで、行列に描かれた人々の視線等をこと細かく解説してくださいました。白隠さんはこの5分の1サイズの紙に描いたのに、5倍に拡大しても遜色がない…というか、その意図がますます顕在化するという意味で、すごい画力の持ち主なんだと再認識させられました。

 

 パネルの向かい側には、白隠さんが生きた当時の吉原宿や間宿の本市場のにぎわいが再現されていました。私が以前、調べた富士の白酒もしっかり(こちらを参照)。・・・こうなると展示だけじゃなくて試飲もしたくなりますね!

 

 富士山かぐや姫ミュージアムは西富士バイパス広見インターから降りてすぐの広見公園の一角にあります。公園内は多目的広場、バラ園、芝生広場のほか、ふるさと村歴史ゾーンに「大淵の大家」と呼ばれた旧稲垣家住宅、明治の洋館・眺峰館など地元に残る歴史的建造物を移築保存しています。稲垣家住宅では以前、富士に残る天下一製法茶の実演を取材しに来たことがあり(こちらを参照)、文化財が市民に開放され、活用されている姿が羨ましく、こういう場所で地酒の会がやれたらいいなあと妄想しましたが、今回は白酒を飲みながら白隠禅画を語り合えたらいいなと妄想しました。

 

 お昼は田子ノ浦漁協食堂で生しらす丼を味わい、すぐ近くに新たに整備されたふじのくに田子ノ浦みなと公園を散策しました。山部赤人の句碑、富士山を模した展望台に加え、4月にオープンしたばかりのロシア軍艦ディアナ号が3分の1のスケールで復元され、内部が歴史学習館になっていました。

  ご存知ディアナ号は1854年に日露和親条約締結のため下田に停泊中、安政の大地震による津波で大破し、修理のために戸田村に向かっていた途中で強い西風に襲われ、宮島村(現富士市)沖で沈没。2つあった錨のうち、一つは昭和29年に引き上げられて沼津市造船郷土資料博物館に、もう一つは昭和51年に引き上げられ、田子の浦の三四軒屋緑道公園でプチャーチン像とともに展示されていました。これを新たに整備したもの。この日の富士山は雲に隠れていましたが、万葉から幕末までの人々の営みを、大いなる富士が包み込んで見守る、そんなスケール感を感じる清々しい公園でした。

 

 午後いちで訪れたのは滝川神社。周辺一帯は竹採塚をはじめとするかぐや姫伝説が色濃く残る地です。主祭神はコノハナサクヤヒメですが、かつてはかぐや姫の養父・竹取翁が「愛鷹権現」として祀られていたそうです。鷹を可愛がっていた人だったとか。

 ミュージアムでの解説によると、竹採塚一帯に残るかぐや姫伝説では、かぐや姫は富士山信仰と深いつながりがあり、天子様の求婚を振り切って月に帰ったのではなく、天子様とめでたく結ばれて富士山に登り、富士山の洞穴から続く神仙世界に入って浅間大菩薩になったとのこと。つまり富士山の女神はコノハナサクヤヒメではなく、かぐや姫なんだとか。・・・なんかそのほうがロマンチックですね!

 

 滝川神社に次いで訪れたのは、「滝川の観音堂」として知られる臨済宗藤沢山妙善寺。臨済宗になったのは江戸時代になってからで、もともとは富士宮の村山浅間神社の山伏・頼尊が建てた修験道の修行道場だったとか。室町時代には浄瑠璃や歌舞伎のモデルにもなっている小栗判官が愛馬鬼鹿毛と妻照手姫とともに隠れ住んだという伝説が残ります。

 観音堂には本尊十一面千手観音坐像(室町期作)をはじめ、たくさんの仏像が安置され、年に一度の例祭のときだけ御開帳されます。この中に木造の女神を象った白山妙理利権現があり、照手姫をモデルにしたのではと言われています。製作年代不明&かなり古いようで、白山妙理利権現がそもそも山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神として信仰されていた神様だけに、モデルは照手姫ではなく、かぐや姫ではないかという説も。

 木ノ内館長がご用意くださったレジメには「(妙善寺は)臨済宗に改宗以降は富士山信仰の道場としての色彩が薄れ、江戸時代に入り庶民の文化が隆盛するとともに、妙善寺が整えられていく中で布教活動の一環として、説教節小栗判官を援用し、この地域ならではの照手姫と鬼鹿毛伝承を再構築されたのではないか」とあります。説教節というのは中世末~近世にさかんに行われた“語りもの”。もともとは仏教の唱導師が唱える声明がベースになって成立した民衆芸能です。小栗の説教節では小栗と照手姫は藤沢の遊行寺の助けを受け、照手姫は晩年遊行寺内に草庵を結んで夫を慰霊したそうですから、妙善寺の藤沢山という山号にも何やら関連性がありそうです。

 

 観音堂の入口には、白隠さんが(もちろん江戸時代に)書いた『常念閣』という扁額が掲げられています。

  白隠さんは、かぐや姫生誕地とされる比奈の里にある古刹無量寺を、無量寿禅寺として再興しました。無量寿禅寺は残念なことに明治の廃仏毀釈で廃寺となり、最後の住職のご子孫岡田家が跡地を『竹採公園』として整備。園内で「竹採姫」と刻まれた卵型の石と、白隠禅師のお墓を大切に保存しています。ちなみに白隠さんのお墓はここと、住持を務めた原の松蔭寺、三島に修行道場として開いた龍澤寺の計3か所にあります。

 

 竹採公園のすぐ近くには白隠さんのスポンサーだった医師石井玄徳の墓所があり、白隠さんが書かれた墓碑銘が残っています。碑文には玄徳が無量寿禅寺の造営に尽力したことも記されていました。この日は子孫にあたる石井義昭さんが特設解説版を用意し、石井家に残る白隠書画を丁寧に解説してくださいました。芳澤先生がまとめられた白隠禅師年譜にも、石井玄徳の名前が再三登場し、白隠さんを資金面でバックアップしていたことがわかります。

 

 廃寺となった無量寿禅寺の器物の一部は、富士市神谷にある臨済宗少林山天澤寺に受け継がれました。天澤寺本堂前に置かれた六角灯篭型六地蔵は白隠さん自ら彫られたもので、本堂で今も使われる磬子(けいす)は無量寿禅寺のものだそうです。

 

「達磨を描いてほしい」とリクエストされ、富士大名行列図を描いた白隠さん。芳澤先生によると「“達磨”は、禅の祖・達磨大師を指すと同時に、Dharma(仏法)そのものを指し、白隠さんは聖なる仏法の世界の象徴として富士山を描き、俗世の象徴として大名行列を描いた」のですから、富士山の女神とされるかぐや姫のパワースポットに惹かれ、この地に足跡を残したのも無理ありません。

 木ノ内館長のレジメには「『真名本曽我物語』では浅間大菩薩の本地は大日如来ではなく、千手観音菩薩。千手観音菩薩は正式には千寿千眼観世音菩薩といい、千眼大菩薩=浅間大菩薩となった」とありました。かぐや姫そのものを描いた白隠禅画を、私は観たことがありませんが、白隠さんはたくさんの観音さま描いておられますから、比奈の人々はかぐや姫の写しとして信仰していたのかもしれませんね。

 

 天澤寺境内には白隠さん手彫りと伝わる版木の写しも設置してありました。この観音さまをかぐや姫と重ねて拝むのは・・・ちょっと無理があるかな(苦笑)。

 比奈という地名は、平安時代「姫名郷(ひめなのさと)」と呼ばれていたと和名類聚抄に書かれているそうです。・・・伝説が生まれた背景には、必然のリアルがあるはず。そう考えると興味は尽きません。

 

 

 

 

 

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「健康」の二文字を初めて使った白隠禅師

2016-11-28 14:44:06 | 白隠禅師

 11月20日に広島県福山市の神勝寺で開催された『白隠フォーラム in 神勝寺』に行ってきました。芳澤勝弘先生の❝白隠講談❞を拝聴するのは久しぶり。今回の会場となった神勝寺(臨済宗建仁寺派)は地元の常石造船㈱オーナー神原秀夫氏が建仁寺の益州宗進禅師を勧請開山に、1965年に建立したという比較的新しいお寺ながら、白隠禅画を200点余を収集し、常設展示館もあり。西日本における白隠禅画の一大拠点として注目されるお寺だそうです。

 実はこのお寺、今年の夏にしずおか地酒研究会で催行した京都奈良酒造聖地巡礼の参加者で、福山のリゾートホテルで日本酒伝道に尽力されていたK氏から「福山の新しい観光資源」として聞いていたのです。福山といえば10年前に映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作で何度も通った思い出の地であり、完成したDVDを贈呈したとき、真っ先に称賛のメッセージをくださったのが福山の歴史博物館関係者でした。そんな何やら懐かしい思いと不思議な酒縁に導かれるように足が向いたのでした。

 

 広い境内は❝禅と庭のミュージアム❞と銘打たれ、豊かな自然の中に伽藍、表千家不審庵を忠実に再現した茶室&書院、国際修行道場、アートパビリオンなどが点在し、一日では回り切れない広さ。今回は紅葉色に染まった参道をフォーラム会場の本堂まで軽くお散歩しただけでしたが、日を改めて、茶禅の仲間とじっくり訪れたいと思いました。詳しくはお寺のHP(こちら)を参照してください。

 

 さて今回の白隠フォーラムは、健康科学大学の平尾真智子先生が大変ユニークな新説を発表されました。「健康」という二文字を、日本の文献上で初めて使ったのが白隠さんだった、というのです。我々が当たり前のように使うこの言葉が白隠さん発だったとは、ビックリ!と同時に、やっぱり!という思いがこみ上げてきました。

 そもそも「健康」という言葉、中国では19世紀まで「康健」と表記され、「健康」は和製熟語だったそう。しかし平尾先生が日本史の一次史料(原本)のデータベースで検索しても引っかからず、古語辞典にも仏教用語辞典にも出てこない。健康科学大学の先生としては「健康」の語源をなんとしてでも突き止めたいと思うのは当然だったことでしょう。そこで、健康に関する記述が多いとされる白隠禅師の仮名法語や著作を丹念に調査されたところ、『於仁安佐美(おにあざみ)』『隻手音声』『辺鄙以知吾(へびいちご)』『三教一致の弁』『夜船閑話』『毒爪牙』『仮名葎』『さし藻草』に登場しており、健康には「ケンカウ」「けんこう」のルビが付けられていたそうです。

 これら白隠さんの仮名法語(漢文ではなく仮名で書かれた平易な教え)には、「内観の秘法」「軟酥の法」など自律神経を整える呼吸法やイメージトレーニングに関する健康法が記されており、代表作『夜船閑話』は現代も読み継がれる一大ベストセラーです。書かれたのは1755年。かの良寛さんはじめ、国学者平田篤胤、剣術家白井亨、『病家須知』を著した町医者平野重誠なども『夜船閑話』を愛読したそうな。この頃から「健康」の二文字が普及し始めたようで、夜船閑話の大ヒットがこれを後押ししたんですね。

 白隠さんがなぜ仏教の教えに健康法を記したかと言えば、白隠さん自身が修行のし過ぎで鬱病を患い、克服した経験があり、禅を説くもの、仁政を担うものには健康長寿が何より大切だと考えていたから。84年の生涯で全国を1万2千㎞歩いたとされ、晩年の74歳から亡くなる84歳まで10年間には92か寺を回って布教に努めたそうです。もっとも芳澤先生曰く「晩年はかなりのメタボ体型でほとんど輿移動だった」そうですが(苦笑)、日本人に健康長寿を尊ぶ概念と実践法を植え付けたのが白隠さんであるならば、超高齢化社会を迎える今、我々が学ぶことは余りあるほど多い・・・!そんな感動が胸にこみ上げてきました。

 

 後半は芳澤先生が神勝寺がコレクションした白隠禅画の解説をしてくださいました。

 今回印象に残ったのは、白隠さんが鍾馗(しょうき)を描いた理由。端午の節句の人形でもおなじみ鍾馗さんは、唐の時代に実在した人物で、科挙試験に落第して絶望の末自殺。その霊魂が玄宗皇帝の夢に現れた悪鬼を退治して皇帝の病を治したことから、鍾馗像が魔除けとして普及したとか。このエピソードをモチーフにした謡曲『鍾馗』では、

 

 ありがたのおん事や、その君道を守らんの、その誓願のおん誓い、いかなるいわれなるらん。

 鍾馗及第のみぎんにて、われと亡ぜし悪心を、ひるがえす一念、発起菩提心なるべし。

 げにまことある誓いとて、国土をしづめ分きて、げに禁裏雲居の楼閣の、ここやかしこに遍満し、

 或いは玉殿廊下の下、みはしのもとまでも、もとまでも、剣をひそめて、忍び忍びに、

 求むれば案のごとく、鬼神は通力うせ、現われいづればたちまちに、づだづだに切り放して、

 天に輝き地にあまねく、治まる国土となること、治まる国土となることも、げにありがたき誓いかな。

 


と謳われた。

 白隠さんは、受験に失敗して世の中を恨んで自殺したであろう鍾馗が、怨念と執心を捨て、菩提心を起こして世の中を守っていこうとした誓願を禅画に込めたのです。鍾馗がどういう人物だったか、画賛の言葉が何を意味するのか、その背景を知らなければ、白隠さんが発したメッセージも正しく受け取れないんですね。禅画にはそのような深読みが必要なだけに、あらためて芳澤先生のような道案内役がほんとうに大事だと実感しました。

  「白隠展‐禅画に込めたメッセージ」2012年図録より『鍾馗』

 神勝寺のような新しい寺院ならば、白隠禅画を現代スケールで保存し展示普及させるアレンジが可能だと思います。白隠さんが生涯を送った沼津で現状それが出来ていないのが地元県民として残念でたまりませんが、今後、こういう拠点が全国各地に生まれ、21世紀にふさわしい禅の教えと健康長寿の情報発信が展開されることを期待します。私自身、白隠さんを見習って全国各地を歩いて白隠ゆかりの地をめぐり、いつかガイド本のようなものが書けたらな、と願っています。

 

 フォーラム終了後は懐かしの鞆の浦に宿を取り、ひとりブラ歩きを楽しみました。

 

 

 10年前に比べ、案内看板が増え、観光地化が進んだような気もしますが、町のスケールは江戸時代と同じ。朝鮮通信使に「日東第一形勝」と絶賛された対潮楼福禅寺で、通信使の扁額に見入っていたら、係の女性に「書道がお好きなんですか?」と訊かれ、「故郷のお寺にも通信使の扁額がたくさんあるので」と応えたら、「どこのお寺ですか?一度訪ねてみたいです」と。「静岡清水の清見寺」というと「静岡はねぇ、いつも素通りするばかりで駅から降りたことがないですわ」と苦笑いされてしまいました。

 家康が通信使を接待した大御所時代、静岡は日本の首都であり、白隠さんが活躍した時代、沼津は全国から禅僧が集結して町がパンクしそうになった・・・それもこれも歴史の彼方のほんの一時代の出来事で終わるんだろうかと、複雑な思いで帰路に着きました。

 

 白隠さんは平尾先生曰く「その著作は多方面にわたり、自筆の文書は50種を数える。漢文体の語録、古典の講義や著語からなる提唱録、漢文体の自叙伝、和文体の「仮名法語」、俗謡風の説教などがあり、他に書簡、墨蹟、禅画などもあり、超人的ともいえる著作活動を行っている」人。きっと、白隠さんの時代にブログがあったら、日々むちゃくちゃ更新してたんでしょう。

 とにもかくにも、書くことで人々の心を救おうとした白隠さんの行動は、自分のような時代違いの末端の物書きにも刺激を与えます。いま一度、言葉を伝える仕事に誠実であろうと感じさせてくれた旅でした。

 

 

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