杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

正倉院展の有難さ

2008-10-31 11:51:27 | アート・文化

 27日(月)夕は奈良国立博物館へ、第60回正倉院展を観に行きました。正倉院展にはこのところ毎年行っていますが、毎回人の多さにびっくり&ウンザリ。で、今回は閉館1時間30分前以降に入ると入場料が安くなり、夕方ならば並ばずにすんなり入れるだろうと16時40分ころ入場。チケット売り場は空いていたものの、中は、どの展示物の前も四方人だかり! やっぱり並みの展覧会とは違います…。

 

 

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 正倉院展の展示物は、基本的に聖武天皇ゆかりの宝物や薬物が中心で、毎回、注目すべきお宝や目録などが出展され、話題を集めますが、『朝鮮通信使』の制作以来、古文書に興味を持つようになった私には、楽しみにしているコーナーがありました。会場の最後のフロアに置かれた古文書で、現存する日本最古の戸籍や諸国の財政報告書など、毎回、天平時代の社会や庶民の暮らしぶりを伝えるものを展示するのです。

 中には重税に苦しむ庶民の訴えや免税を嘆願する書類など、人々の生々しい声が伝わるようなものもあり、値段が付けられないような天皇の“御物”と、こういう古文書が一緒に保管され、展示されるということに興味をそそられるのです。

 

 

 

 今年は、皇后宮職というお役所で写経事業に従事するため、他の役所から出向してきた者の勤務日数を記したもの、早朝から長時間、写経させられ、2~3ヶ月に1度、3日間ぐらいしか家に帰れないという激務に耐えかねて、さまざまな理由をつけて出した休暇願届、写経をサボったことへのわび状や同情した同僚が連名で「許してやってほしい」と書いたものなど、現代のサラリーマン社会を彷彿とさせ、ちょっと笑えるものが展示されていました。

 

 正倉院展には、まるで活字印刷されたような見事な筆跡による経文が毎回たくさん展示され、聖武天皇や光明皇后の信仰心の強さに感心させられますが、一方でこういう古文書に出会うと、何千、何万という経典の書写に多くの人が駆り出され、そこでは我々と同じ血の通った人間が一喜一憂していたことが、実感を持って伝わってきます。事実、美しい経文の展示コーナーより、こちらのコーナーのほうにより人が集まり、熱心に注釈を読んでいました。

 

 

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  今回の展示物で何が見ものか、とくに下調べもせずに行った私が、その前で釘付けになった、というのが、カットガラスの白瑠璃碗。メソポタミアからイラン北西部にかけての地域で、5~6世紀ころ造られ、ササン朝ペルシャの王侯の手から、シルクロードを渡って伝えられてきたものです。似たようなものは世界各地のコレクションにあるそうですが、土の中から発掘されたものが多く、当時の輝きや透明度を保っているのは、これが世界唯一だそうです。1500年の時を経て、奈良のこの地で観られるというのも驚きだし、正倉院で保管されていたからこそ、当時の美しさそのままに観られる…なんてロマンチックでしょう!

 図録を買い求めたら、この白瑠璃碗が今回の展示物の最大の目玉だったことを知り、素人の私が釘付けになるのも無理ないとナットク。同行した平野さんが釘付けになったのは、紫檀木画双六局(モザイク柄のすごろく盤)。すごろくは当時、世界中で流行したゲームらしくて、起源は古代エジプトとか。日本書紀にはすごろく禁止令も書かれているそうです。ギャンブルの魔力は古今東西共通なんですね。

 

 

 

 『あかい奈良』35号によると、正倉院の宝物が初めて一般公開されたのは、明治8年の第1回奈良博覧会で、場所は東大寺の大仏殿と東西両回廊。222点もの宝物が陳列されたそうです(ちなみに今年は69点)。この博覧会では、法隆寺、春日大社、西大寺、石神神宮、談山神社など奈良の有名寺社や個人所有の宝物が合わせて1600点も展示され、奈良の名産品なども売買されました。

 日本での本格的な博覧会は明治5年、東京湯島で政府主催で行われ、豊臣秀吉や大石内蔵助の書、名古屋城金のシャチホコを目玉に、全国から古器旧物や地方の名産品が集められたそうです。京都では都の意地?もあってその前年の明治4年に京都博覧会を開催。奈良でも、社寺や古器旧物の豊富な土地柄という特性を、商工業に反映させ、経済的高揚を促したいという地元の意向もあって開かれました。

 当時の急激な西洋化・近代化の流れにあって、古い日本のものが軽んじられることへの危機感が働き、天保4年(1833)以来解かれることがなかった正倉院の勅封も解かれ、調査を行い、奈良博覧会での一般公開に至ったわけです。

 ちなみに、これら博覧会の開催によって、東京、京都、奈良に国立博物館が設置されることになりました。

 

 

 

 

 奈良博覧会は明治8年の第1回から、明治23年の第15回まで、明治10年を除いて毎年行われましたが、正倉院の宝物の展示は第6回まで。大正14年に奈良国立博物館(当時は奈良帝室博物館)で正倉院古裂が初めて展示され、昭和15年に東京国立博物館で正倉院御物特別展が初開催。戦後間もない昭和21年に奈良国立博物館で第1回正倉院展が行われ、現在に至っています。第1回の開催期間中に日本国憲法が公布され、皇室の財産だった“御物”は国有財産になりましたが、第2回も「正倉院御物特別展」と称され、“御物”意識が続いている、と西山厚先生(奈良国立博物館学芸部長)も図録で述べておられます。

 

 “御物”だから有難いとか神々しいと手を合わせるような意識はありませんが、正倉院展を初めて観た平野さんが、「度肝を抜かれた」と興奮しているのを見て、御物ゆえに最高の条件で庇護・保管され続けたことに、歴史ファン・美術ファンとして純粋に感謝したいと思います。

 

 正倉院展は11月10日まで(期間中無休)。一般料金は当日1000円、オータムレイト(閉館1時間30分前以降に販売するチケット)は700円。開館時間は9時から18時まで。金・土・日・祝日は19時までです。お時間のある人はぜひ。奈良まで足代使っても観る価値大!です。

 


高麗美術館20周年記念展

2008-10-30 09:25:47 | アート・文化

2008103008280000_2  26日、興聖寺の達磨忌法要とチェンバロコンサートが終わった後、高麗美術館の開館20周年記念展『鄭詔文(チョン・ジョムン)のまなざし』を観に行きました。

 鄭詔文氏は高麗美術館の創立者で、在日一世として数多くの苦難を経験したのち、1950年代から日本に散在する朝鮮の陶磁器、絵画、彫刻、民具などを蒐集し、88年に高麗美術館を設立。翌89年に70歳で亡くなります。記念展の図録に、鄭氏が美術館を建てるまでのいきさつが紹介されていました。

 

 

 

 1955年、詔文37歳のとき、その後の人生が決定づけられる衝撃的な出逢いがあった。京都のある骨董屋で見た白い丸い壺。真っ白なのに温もりを感じさせるこの壺が、故郷で作られたものであることを知る。「李朝、朝鮮というものがはっきりしている」ことの驚きと喜び。詔文は一年間の月賦で、この壺を購入した。

 

(中略)尋常小学校4年に編入し、生涯唯一の学業となった3年間、国史の時間、「神功皇后の三韓征伐」「秀吉の朝鮮征伐」「朝鮮併合」などという言葉が飛び交い、帰り道には竹の棒を持った悪童に「這いつくばれ、朝鮮征伐だ」といじめられた。

  自分の生まれた国はなぜいつも弱いのか、朝鮮人なのに「朝鮮人」といわれることへの怒り、その矛盾は、幼い詔文の心をかきむしった。白磁壺は、貼りついた卑屈な心を吹き飛ばした。こんな素晴らしいものを作る感性と技が、故郷に、われわれ朝鮮人のなかに存在したとは―。歴史を、文化をしることがいかに大切か。さらに人知れず苦悩する同胞たちにとって。故郷の誇り高き遺産は特別な力となることを知ってほしい。そんな想いが、このときの出逢いによって形作られていった。

 (中略) 詔文の蒐集した古美術品は約1700点になろうとしていた。

「私の師匠は日本の骨董屋」というほど、コレクションのほとんどは日本の古美術商からの購入だった」。

 「これらの物は、日本に来るまでに、さまざまな悲しい出来事があったに違いないのです。流転の果て、ようやく母国人たる私のところへやってきたのです。でも、まだまだ安住の地ではありません。新の安息の場は、祖国。それは北でもなく南でもない、統一祖国。その統一祖国へ私は帰る。その時のおみやげが、これらの美術品なのです」。

 

 

 

 

 

 

 

 鄭氏は、祖国が統一されなければ帰らないという強い意志を持ち続け、古美術収集の傍ら単独の文化活動は反組織と見なす朝鮮総連の体制に一線を画し、自宅で兄と「朝鮮文化社」を設立して、司馬遼太郎、上田正昭、金達寿の各氏から協力を得て季刊『日本のなかの朝鮮文化』を発行。林屋辰三郎、森浩一、岡部伊都子、直木孝次郎、李進熙、湯川秀樹、末川博の各氏をはじめ、多くの学者・研究者が古代日韓関係史のなぞ解き作業に臨みました。関西の知識人文化人の多くが諸手を挙げて支援した事実から見ても、鄭兄弟の真摯な人柄がしのばれます。

 

 

 河原町今出川にある李朝喫茶『李青』には、今は廃刊となった『日本のなかの朝鮮文化』のバックナンバーがそろっています。ちなみにこの店のオーナーは鄭氏の娘さん。李朝古民具がセンスよくディスプレイされた店内で、韓国伝統茶をいただきながら過ごすひとときは、京都の老舗喫茶店めぐりが好きな私にとって、至福の時間です。

 

 

 

 

 

 

 記念展の会場には、鄭氏の生涯を変える出逢いとなった白磁壺のほか、白を好んだ朝鮮人の美意識が創り上げた李朝磁器の名品がそろっています。とくに耳のような取っ手の付いた白磁耳杯は、「死ぬ前に一杯だけ呑めるとしたら、これで静岡吟醸を呑みたい…!」と思わせるほどでした。一方で、底抜けに明るく無邪気な朝鮮民画、色をあまり使わない美術工芸品が多い中で珍しく色彩鮮やかでユニークな文様が特徴の木工芸品などもあって、まったく見飽きません。

 

 

 

 

 

 鄭氏が、運命の白磁壺と出会ったときのことをつづった図録のプロローグが心に響きます。

 

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骨董屋さんのご主人に「この壺、なんぼですねん」いうたら、「これは李朝もええとこですしね、李朝の丸壺でこれだけのものはありませんよ」と。李朝というのも聞き初めで、ええ壺ということも、まぁ初めてですから、無知だった。聞いたらビックリするような値段で、でも李朝というと朝鮮というのがはっきりわかりまして、それを主人と長い間交渉して月賦で分けてもらうことになりました。その主人も我が家へ来て、間違いがなさそうだということで、一年間かけてその月賦を払ったわけです。 そういう思いが私の「高麗美術」への導入口だったんです。その感触がえも言われなかった。また、焼きもの好きな日本の識者たちもよく見にきます。あの壺を、そして、いっぺんは必ず擦ってみます。ですから、李朝白磁と日本人の美意識感覚は確かに優れておると、私はいまさらながら考えます。

 

 

 

 

 そしてエピローグで高麗美術館常務理事の鄭喜斗氏がつづった一文も重く響きます。

 

 

 半島での対立がそのまま在日の世界に影を落とし、対立と結束を加速させながら、日本の中でいち早く共生社会を模索した時代、その時代に鄭詔文が夢を見たのが「本物の美術品を見せながら、朝鮮民族の素晴らしさを伝えたい。そんな身近な美術館を作りたい」「元々は一つの民族なのだから」という考えの具現化であった。

 それから20年。日本では海外旅行で見聞を広めることが国際化であり、国際人としての自覚を持つ唯一の道と感じる人が多い。しかし本当に海外旅行だけが国際感覚を磨く場であろうか。まず国内にいる隣人に目を向けること、そして彼らの文化と歴史に学ぶことから始めてはどうか。本当に自分たちの周りに多民族の人々がいないだろうかと。

私は北京オリンピックの応援で「なでしこジャパン」という表現を聞くたびに、胸の痛みを感じた。

今から5年ほど前、京都の公立学校の代表が海外遠征に行く時に、市のある役人が応援の挨拶で「やまとなでしこの代表として…」という表現をしたからだ。市の役人は、代表選手の中に在日の女子が含まれていることを知らなかったからだ。彼女の担任が後日美術館に訪ねて来て、その時に受けた少女の傷の深さを語っていた。これが国際化を目指した現状であり限界かもしれない。このように国際化とは実は身近な問題なのだ。自分の発する表現一つは実は身近な国際化を阻んでいる要因であることを知ってほしい。

しかしいつの間にか世界は民族問題を飛び越えて地球環境へと向かっている。自然との共存、地球上のあらゆる動植物との共生。21世紀の人類の大きなテーマであることは確かだ。しかし共生のテーマとは本来、人類の共存を大前提にした言葉ではなかったか。多民族を尊重し、地球上のあらゆる少数民族を認めることこそ、環境に先立つ大きなテーマだと思う。

ますます複雑化する国際社会は政治的視野だけでは解決できないことが多い。こんな時こそ、民際という民族的視野で解決を図らねばならない。排他的になりがちな民族的視野で解決できないときは、民衆の交わりを中心とした民際で解いてはどうか。(高麗美術館開館20周年図録より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、平野斗紀子さんおススメの祇園のおでんや『蛸八』で燗酒を味わい、木屋町二条のバー『K6』にはしごして、平野さんはブラジルの伝統カクテル「カイピリーニャ」を、私はアイリッシュウイスキー「グリーンスポット」を味わいながら、平野さんが2年前に一人旅をしたサンパウロで、地元の人々や日系人から親切にされたこと、私が3年前のアラスカ家族旅行で、妹の夫ショーン(アイルランド系アメリカ人)に世話になり、それ以来、外国ビールではギネス、ウイスキーはアイリッシュにこだわるようになったことなどを、とりとめもなく語り合いました。

 京都というまちは、日本の伝統ばかりでなく、ありとあらゆるところで、民族とは何かを考える場所やモノや人に出遭える日本随一のまちなんですね。

 

 

 

 

 私の中の民族共存といえば、とりあえずはこうして民族の酒を味わうことぐらいですが、酒や食べ物や、それらにつながる器や道具といった身近なものから、民族のなりたち・気風といったものを理解する自分なりの“民際”的視野を、これからも大切にしていきたいと思います。


禅寺に響くチェンバロの調律

2008-10-29 11:51:40 | 仏教

 26日(日)は京都堀川寺之内の興聖寺で執り行われた達磨忌法要に参列しました。興聖寺では毎年10月第4日曜に法要を行い、参列者には寺特製のそばと抹茶がふるまわれます。昨年から本堂でミニコンサートも開き、いつもは参禅する者以外は拝観拒絶の禅寺らしい閑静な境内が、この日ばかりは大勢の人々で賑わいます。

 

 映画『朝鮮通信使』のロケ交渉や撮影時には、ご住職の厳しいお人柄に“苦闘”した私も、観光事業でひと稼ぎする京都の多くの寺社とは一線を画す、筋の通った姿勢に惹かれ、何度か通う中、昨年初めて参列した達磨忌は、それまで垣間見ることのなかったご住職やお弟子さんたちの地域に開かれた人懐っこい表情に驚き、感動もしたわけです。

 

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 今年は、春にも京都旅行をご一緒した静岡新聞社の平野斗紀子さんをお誘いしました。法要では、すっかり体になじんだ『大悲呪』と、長い『観音経』を200人近い参列者と一緒に声明し、お経を声に出して読むという行為の精神的効能、みたいなものを、改めて実感しました。

 

 

 昨年のミニコンサートは中国古楽器の演奏会で、中国から渡って禅宗を開いた達磨忌の法要にふさわしい催事でした。

 今年はなんとチェンバロのコンサート。浜松楽器博物館で展示物を観たことはありますが、実際の演奏は聴くのも見るのも初めて。東京からやってきた奏者の上尾直毅さんは日本でも数少ない西洋古楽器を得意とする鍵盤奏者で、おなじみバッハの前奏曲やイタリア風協奏曲ヘ長調をはじめ、バッハと同時期に活躍したクープラン、ラモー、スカルラッティの小作品を披露してくれました。

 

 チェンバロは、ピアノと違って音の強弱やエコーを利かすことができません。たとえばクープランの『バッカナル』という曲は、酒を飲んで陽気になった神様バッカス&飲み過ぎてふぬけになったバッカス&しまいに怒りだすバッカス―という3部作。3様の違いは基本的にメロディやリズムだけで表現します。鍵盤の音だけのシンプルな表現ゆえに、奏者の力量が試され、聴く者の想像力も求められるというわけです。

 しかも、チェンバロで演奏される作品は、ピアノ曲のようなドラマチックな展開があまりなく、似たような単調の曲が多く、まるでお経を聞くよう。演奏者のすぐ前に陣取った私は、珍しい二段式の鍵盤を器用に操る奏者の手元を凝視しながら、眠気をこらえました。

 

 単調な曲が多いように感じた中でも、彼らが活躍した17~18世紀は、その後のモーツァルトやベートーベンの時代よりもローカル色が強く、スペイン王女にチェンバロの指導をしたというスカルラッティの作品には、スペインの酒場で聴くようなギターやダンスステップの音を彷彿とさせるものがあったりします。宮廷お抱えの音楽家も、夜な夜な酒場に通って庶民のエネルギッシュな音曲に刺激を求めていたんでしょうか。

 イタリア風協奏曲を作曲した頃のバッハは、周囲から「時代遅れ」と酷評されていたそうですが、この作品に限ってはソロパートとバックのパートを1台のチェンバロで弾いてしまう革命的な作品として、アンチバッハ派からも絶賛されたそうです。バッハといえども人知れず苦労を重ねてさまざまな試みに挑戦していたんですね。

 

 上尾さんのそんな解説を聞いていると、<学校の音楽室の壁に飾られたカツラの肖像画のおじさん>だった作曲家たちが、すぐ目の前で鍵盤や譜面と格闘し、カツラがなければ人前に出られないくらい苦悩した人間らしい姿に見えてきて、単調なチェンバロ曲も、人が汗して奏で、伝え残してきたと思うと愛おしくなってきます。

 

 いつもは読経の声と太鼓や鈴の音しか鳴らない静謐な禅宗の本堂に、17~18世紀のヨーロッパ音楽が不思議な調音を響かせる、めったにお目にかかれない光景です。こういうコンサートを企画したご住職は、さすがレベルの高い文化人・教養人なんだ!と感心し、1時間余りのコンサートを満喫した後、突然、ご住職がCDプレーヤーを引っ張り出して、「これから興聖寺の歌を歌いましょう」。なんでも昔の修行仲間で、一時期、東京で音楽プロデューサーをしていて、今は実家の寺を継いだという人が、興聖寺讃歌『さとり歌』を作ったというのです。

 

 

 流れてきた歌は、チェンバロの響きとは似ても似つかぬ演歌調。上尾さんにチェンバロで演奏してくれと頼んだら丁重に断られたそうですが、それもそうだろ~とツッコミたくなるド演歌です。ご住職はKYな雰囲気もなんのそので、寺のオリジナルソングに喜色満面です。隣の平野さんは「このギャップ、笑える」とお腹をかかえていました(笑)。

 

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 興聖寺さとり歌はご愛敬、でしたが、禅寺の本堂に響くチェンバロの音色は、伝統あるものが洋の東西を問わず、調律し合うことを如実に語ってくれました。演奏開始前、梅岡俊彦さんという調律師がチェンバロの調律を行う姿は、毎朝の勤行でご住職を迎える前に本堂をしつらえる弟子たちの規律正しい姿に重なってみえます。

 

 

 音楽の演奏は、祈りと同じように、崇敬すべきものに精神を尽くす行為に違いありません。

 

 


トークセッション開催御礼

2008-10-26 06:04:09 | しずおか地酒研究会

 昨日(25日)、無事、しずおか地酒サロン特別トークセッション「国境を越えた匠たち」が開催できました。秋の週末、多くのイベント等の予定もあった中、この会を選んで足を運んでくださった80名の参加者・スタッフのみなさま、本当にありがとうございました。Dsc_0002

 参加申し込みをされながら、急な事情でお越しいただけなかった方々のためにも、トークの内容は後日改めてきちんとご報告いたします。

 

 今、26日朝5時30分。ボーっとしながらも、座禅に通う京都・興聖寺の達磨忌法要参加等のため、朝一番の新幹線で京都へ行ってまいります。あわただしかった日々を反省し、古都でいっとき、己を精進してまいります。

 とりいそぎ、トークセッション無事終了のご報告と参加御礼まで。


藤枝の奇人たち

2008-10-24 12:52:18 | 吟醸王国しずおか

 昨日(23日)は藤枝で奇人?たちに会いました。

 一人目は堀部成司さん。平成エンジニアリングという精密機器メーカーの社長さんで、県内の中小企業ではトヨタ生産方式を導入した第1号企業で、今は改善事業や環境事業のコンサルタントとしても活躍中。料理の達人としても知られ、10年前には静岡新聞社から『おしゃべり魚々庵シェフのたまごクッキング』という本を上梓されました。

 

 もともと技術開発系でひとつの物事にトコトン興味を持って追究する方なんですね。この本も、養鶏場の移転事業をコンサルしたとき、養鶏業の実情を目の当たりにし、生産者が生き残るために少しでも貢献できればと考え、いろいろ研究していくうちに、鶏の種類、卵の栄養価、卵料理の歴史、鶏卵価格の変遷等など、たまごに関するありとあらゆる雑学を身に着け、イラストレーターをされている娘さんと一緒に本にしちゃったというわけ。

 

 今は茶業に目を向け、茶農家が生計を立てられる=茶畑の環境が継続的に守られることを目指し、二番茶以降の価格が落ちる茶葉を、粉末にしたり濃縮液状にして、機能性を付加して入浴剤や高機能茶にし、駿河湾海洋深層水や海藻エキスを加味し、静岡の新しい地域資源活用事業として開発しようと頑張っています。

 

 茶業は、静岡県農業の基幹産業ですが、業界の力が大きいと、業界内の常識や慣習にとらわれ、イノベーションが育たず活かされず、かえって衰退を招くという事例は歴史的にもよくあります。

 一方、酒造業。東北や北陸や近畿など、大きな酒造メーカーが地域を引っ張っているようなところよりも、静岡県のような、業界としては規模が小さく、経済環境の変化にさらされ、従来の慣行を踏襲するだけでは生き残れない切羽詰まった地域にこそ、創意工夫やイノベーションが育つ…。静岡県が吟醸王国になったのも、静岡県が酒どころじゃなかったから、という逆説的な解釈もできるわけです。

 

 農業や環境といったジャンルは、ライフスタイルや価値観もさることながら、これからの時代は理想を具現化する理系の発想や異分野の技術転用が必要不可欠だとつくづく実感します。静岡の茶業界が衰退しているとは思いませんが、堀部さんのような異分野の奇人?をうまく活用し、イノベーションの刺激で大いに活性化し、日本一の茶どころを自認する以上は、日本一、茶農家が元気な地域になってほしい、と思います。

 

  

 

 堀部さんの開発商品のネーミングやキャッチコピーを頼まれ、頭を悩ませながらも、その奇人的発想に大いに活力をもらった私は、その足で、藤枝の2大奇人?である松下明弘さんと青島孝さんに会い、25日のトークセッションの打ち合わせをしました。

 

 「一応、どんなテーマで話すか決めておいたほうがよくね?」(松)

 「決めたところで、あなたがた、話し出したら止まらなくなるじゃん」(鈴)

 「俺は自制がきくけど松下さんは絶対止まらなくなる(笑)。金先生はどんな変化球を投げてくるかわからないから怖いな」(青)

 「コメや酒の素人だからってズケズケ直球で聞いてくるかも。答えられなかったら恥ずかしいなぁ」(松)

 「やっぱちゃんとネクタイしてかないとダメ?」(青)

 「おれもスーツとか着ないとまずい?」(松)

 「…らしくない恰好はやめてよ。いつものまんまでいいよ(笑)」(鈴)

 などなど喧々諤々話しあいましたが、結局は「なるようにならぁ」。

 ふだん、言うことを聞かない稲や微生物を相手にする彼らだけに、どんなクセモノもどーんと構えて受け止める、そんな気持ちのゆとりがあるようです。

 

 一方、クセモノ金先生は、「なんで先生がコメと酒?」と周囲からさんざんつつかれているそうですが、「奇人変人、いずれは開拓者だって話をするんだよ」と答えているとか。

 幸い、これまで参加申し込みをした人から「どんな話をするんですか」と訊かれたことはなく、「この3人でどんな話が飛び出すか楽しみ」という声が寄せられています。

 

 広いホールでお席は十分ありますが、配布資料の準備等もあり、できたら今日中にお申し込みをいただければと思います。もちろん当日いきなり参加!でも構いません。

 どんなトークバトルになるのか私も予想がつかずワクワクしています。ぜひ多くの皆様にお越しいただきたいと思います!

 

第31回しずおか地酒サロン特別トークセッション「国境を越えた匠たち」

◆出演  松下明弘(稲作農家)、青島孝(青島酒造蔵元杜氏)、金両基(評論家、哲学博士)

  *現在制作中の地酒ドキュメンタリー『吟醸王国しずおか』パイロット版(最後の公式上映)をご覧いただいた後、3名のトークセッションをお楽しみください。

◆日時 10月25日(土) 19時~21時 (受付18時30分)

◆会場 静岡市葵生涯学習センターアイセル21 1階ホール(静岡市葵区東草深)

  *駐車場が少ないのでバス(県立総合病院線「アイセル21」前下車)をご利用ください。

◆会費 1000円 (高校生以下無料)

◆申込 しずおか地酒研究会(鈴木真弓)  msj@quartz.ocn.ne.jp