杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

近江八幡~ヴォーリズの偉功を訪ねて

2019-06-24 10:55:18 | ニュービジネス協議会

 先月、静岡県ニュービジネス協議会東部部会のタウンウォッチングで、滋賀の近江八幡に行ってきました。近代日本に洋風建築をもたらしたウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)の功績と起業家精神を学ぶというテーマ。静岡市葵区の静岡英和女学院旧宣教師館ミス・ハニンカムに実際に居住しながら、建物の維持管理や地域での利用促進に努める榎戸基人さん(トラヤテレビサービス㈱)の企画です。偶然ですが、私の英和時代の同級生榎戸真弓さんのご主人で、真弓さんはミス・ハニンカムの女主人として活躍中です!

 榎戸夫妻は「文化財を地域資源として利活用するために必要な知恵や工夫を、利用者目線を活かして考えたい」と全国のヴォーリズ建築管理者と相互交流を続けており、当日は基人さんのお膳立てで、公益財団法人近江兄弟社本部事務局長の藪秀実さんに、アンドリュー記念館(旧八幡YMCA会館)、ウォーターハウス記念館、ダブルハウス、旧八幡郵便局、一柳(ヴォーリズ)記念館、ヴォーリズ学園ハイド記念館&教育会館を案内していただきました。ニュービジネス協議会の機関誌に寄稿したレポートを、加筆リライトして再掲します。

 ヴォーリズ学園ハイド記念館&教育会館(近江八幡市)


「経済なき道徳は寝言」を実践したヴォーリズ

 ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、日露戦争最中の明治38年(1905)、24歳でYMCAの派遣英語教師として近江八幡の公立中学・高校(滋賀県立商業高校、彦根中学、膳所中学等)に赴任しました。放課後に開いたバイブルクラスが、英語習得に熱心な生徒たちの人気となりますが、宗教勧誘禁止の公立学校内でキリスト教の布教をしていると周囲の反発を買い、2年で教員契約を解かれてしまいます。しかしクリスチャンとなった教え子たちの支えもあり、キリスト教の伝道活動のため近江八幡にとどまりました。

 

 もともと建築家志望だった彼は、伝道活動の資金集めのため27歳でヴォーリズ建築事務所を設立します。財務課税上、伝道活動を『近江ミッション(のちの近江兄弟社)』という組織に分け、当時は珍しかったミッショナリーアーキテクトをリーズナブルに請負い、日本国内で活動するYMCAや宣教師から受注。「建物の風格は人間と同じで外見よりもその内容にある」を信条に、全国で約1600にも及ぶ建築設計に携わりました。

 代表的なものでは明治学院大学礼拝堂、大丸心斎橋本店本館、京都・東華菜館、関西学院大学キャンパス、軽井沢会テニスクラブハウス、神戸女学院、旧マッケンジー邸(静岡市)、静岡英和女学院旧宣教師館(静岡市)、日本福音ルーテル栄光協会焼津会堂等が挙げられます。

 話は逸れますが、私が英和在校時、親しみがあったのは、体育館の筋向かいにあった旧エンバーソン邸といわれる宣教師館で、宗教の授業を担当されていた木村先生がお住まいでした。もともと英和の創立者関口隆吉(初代静岡県知事・前々回ブログで紹介した〈広辞苑〉の新村出のお父様!)や徳川慶喜公の屋敷もあった場所で、慶喜公が東京へ戻られた後、キリスト教伝道活動のため静岡へやってきたカナダ人宣教師ロバート・エンバーソンの設計で、1904年に建設されました。ヴォーリズが初来日する前だったんですね。私が卒業した後、老朽化を理由に解体されかけましたが、当時の河合静岡市長が保存を決め、今は日本平に移築復元されています。

 

メンソレータムとメンタームの違いについて

 ヴォーリズは37歳のとき、当時不治の病として畏れられた結核治療専門の近江療養院(現・ヴォーリズ記念病院)を開設。40歳で近江セールス㈱を設立して建築部材・家具・楽器等の輸入販売を手掛けます。このとき始めたのがメンソレータムの輸入で、創業者で篤志家でもあるA.A.ハイドから直接ヴォーリズに極東地域での独占販売権(のちに製造権も)を与えられたそうです。

 今回、近江兄弟社本社で当時のパッケージの復刻版を購入したのですが、商標は「メンターム」です。

 1973年、近江兄弟社は経営不振によって会社更生法を申請し、メンソレータムの製造販売権を手放すことになりました。会社はその後、大鵬薬品工業の支援を受けることになり、メンソレータム製造販売権をアメリカ本社に再申請しましたが不可。1975年にはロート製薬に移ります。主力商品を失い、再建の道が閉ざされかけた近江兄弟社に大鵬薬品工業の小林幸雄社長が1000万円を贈呈し、「薬業史飾る男のロマン」として報道されました。

 同業他社の善意に発奮した近江兄弟社は、このお金を運営には使わず “大鵬基金” とし、以前からメンソレータムの略称として商標登録してあった「メンターム」で自力再建したのです。大鵬基金はその後、近江兄弟社の地域ボランティアや災害復興支援活動等に広く活用されているそうです。

 1988年にはアメリカの本社がロート製薬に買収されてしまったため、メンソレータムは完全にロート製薬のものとなりましたが、近江兄弟社のメンタームは純度の高い白色ワセリンを配合するなど創業当時の伝統製法を継承し、メンソレータムよりもお肌に優しくお値段も手ごろでいい!というファンが多いそうです。かくいう私も、メンソレータムとメンタームの違いをよく分からないまま、なんとなく〈製造元・近江兄弟社〉の表示に惹かれて今までメンターム派でしたが、今後は自信を持ってメンタームを買わせてもらいます!

 

戦後日本の復興に果たした功績

 ヴォーリズの話に戻ります。近江ミッションの活動ではヴォーリズの妻満喜子が教育文化事業に注力し、教会会館併設の幼稚園、農繁期託児所、女学校、近江向上学園(工場で働く従業員のための定時制学校)、そして現在のヴォーリズ学園(近江兄弟社高校・中学校)へと引き継がれています。

 満喜子夫人は子爵一柳末徳の娘でアメリカ留学経験を持つ才女。兄の一柳恵三が邸宅設計をヴォーリズに依頼したときに知り合い、華族と外国人の婚姻には高いハードルがあったものの、恵三の妻の母にあたる廣岡浅子が応援し、ヴォーリズ38歳のときに結婚しました。NHK朝ドラ『あさが来た』のモデルになった大同生命の本社ビルも、もちろんヴォーリズ建築。大正末期の最先端オフィスビルとしてランドマークになったそうです。

 

 日米開戦前、在日アメリカ人宣教師の多くは帰国しましたが、ヴォーリズは迷わず日本への帰化を選択。終戦直後、近衛文麿元首相の側近井川忠雄からマッカーサー近衛会談の橋渡し役を依頼されます。

 井川は、廣岡浅子を師と仰いだクリスチャン。ヴォーリズは井川に「マッカーサー元帥が日本の信頼を回復できる何より価値のある天皇の一言を入れた宣言」案を提示。さらにヴォーリズの旧知の宣教師の子息だったGHQ高官サミュエル・パートレットを介し、マッカーサーにその意が届き、天皇を戦犯ではなく人間天皇として受け入れる道筋の一因になったとされます。ヴォーリズは1958年、近江八幡市の名誉市民第一号となり、1964年に82歳で永眠しました。

 

文化財の活かし方

 近年、ヴォーリズ建築は再評価され、数多くの建物が国有形文化財の指定を受けています。近江八幡市では期間限定での特別公開やヴォーリズ建築ツアーを開催。『阪急電車―片道15分の奇跡』『君の膵臓を食べたい』『センセイ君主』等の近作ヒット映画でもヴォーリズ建築の学校や教会がロケに使われています。とくに昭和12年に設計された滋賀県豊郷町の豊郷小学校は〈白亜の殿堂〉〈東洋一の小学校〉とも呼ばれる名所で、人気アニメ『けいおん!』のモデル校としてアニメファンの聖地に。つい最近、WOWOWで観た『センセイ君主』ではロケに使われた神戸女学院のヴォーリズ建築を堪能できました。

 

 有形文化財となったミス・ハニンカムに住む榎戸夫妻によって知る機会を得たヴォーリズの功績。文化財の建物で実際に暮らし、維持管理していくには、機能性に富んだ現代住宅の快適さとは違う価値の理解や、ヴォーリズの遺志を継承する強い意思が必要でしょう。メンタームと同様、ヴォーリズ建築に対しても、縁のある静岡市民として応援していきたいと思います。

 


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世界遺産熊野へバス巡礼

2018-04-07 13:02:30 | ニュービジネス協議会

 3月25~26日、(一社)静岡県ニュービジネス協議会東部部会のタウンウォッチングで世界遺産の熊野古道へ行ってきました。私にとっては初めての熊野。古道歩きの巡礼ではなく、ほとんどがバス移動だったで、大っぴらに「熊野に行って来たー!」と言えないところもありますが、それでもこの地が霊場と参詣道として長い年月、篤い信仰を集めて来た理由の一端を感じることができたツアーでした。

 

 

 三島を朝5時30分に出発、私は7時過ぎに静岡ICで拾ってもらって一路伊勢路へ。お昼過ぎに到着した最初の訪問地は三重県熊野市、七里御浜沿いにある世界遺産『花の窟神社』です。

 ここは日本書紀に記される日本最古の神社で、神話の大母神イザナミノミコトが火神カグツチノミコトを産み、灼かれて亡くなった後に葬られた御陵。社殿がなく、高さ45mの石巌壁がご神体です。イザナミノミコトの霊にお供えする花を巌の所々に花を手向けたことから、花の窟神社という美しい名前が付けられたそう。この地を訪ねた西行が「三熊野の御浜によする夕浪は 花のいはやのこれ白木綿(しらゆう)」と、これまた絵に描いたように美しい歌を詠みました。岩の壁しかないお社を前に「ふ~ん」という言葉しか出なかった自分にしたら、こういう歌が詠める詩人に心底憧れてしまいます。

 

 次いで伊勢路を南下し、和歌山県新宮市の『熊野速玉大社』と摂社『神倉神社』を訪ねました。

 熊野速玉大社は全国3000余社の熊野神社の総本宮。熊野の神々は、神代の頃、まず神倉山のゴトビキ岩に降臨され、日本書紀には神武天皇が神倉を登拝したことも記されています。その後、現在地に真新しい宮を造営して「新宮」と号し、平安初期に現存する12の神殿・熊野速玉大社が完成したということです。

 最初に神々が降臨した神倉のゴトビキ岩に至るまでは、古道の趣そのものの自然石を積み重ねた500数段の険しい石段を登ります。これが、這いつくらねばならないほどの急勾配で、二足歩行の人類が種として退化させられたような屈辱感?を味わいました。ゴトビキ岩の懐からは弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されたとか。そう、ここは日本人が祈りの時を、大河の源泉のように永く溜め続けた場所なんだなあと思えてきます。

 神倉山には初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心だったそう。日本酒の起源を調べようと、神道や仏教の歴史を少々かじってきた自分にとっては、いっそう胸に迫るものがありました。

 ガイドさんから、さかんにパワーストーンパワーストーンとせっつかれ、順番に岩を撫で撫で。急峻な石段を顧みると、パワーを授かりたいという願望はさておき、日本人のはしくれとして先祖の切なる祈りの声を受け止めなければいけないなと思えてきます。いにしえの巡礼者は、今の自分なんかよりはるかに、生きがいを持って生涯を送ることが困難、いや、その日その日を生き抜くこと自体困難な時代に生を受けた人々に違いありません。健康で平和に暮らせている自分は、まずはここに来れたことだけで感謝しなければいけないですね。

 速玉大社には樹齢一千年のナギの御神木があります。ナギの葉は葉脈が真っ直ぐで折れたり切れたり絡まったりしていないため、”縁が切れない”という言い伝えがあって、ガイドさんから「お財布に入れておくとお金と縁が切れませんよ」と葉っぱをプレゼントされ、喜んでホイホイもらっちゃいました。こういうところがまさに人間の弱さ、なんです(笑)。

 熊野本宮大社に着いたのは夕刻でした。今年平成30年(2018)は、創建2050年という記念の年だそうです。かつては大阪から熊野まで99の王子社を廻りながら長い苦難の巡礼旅の果てに詣でる本宮大社。バスでちゃっちゃと着いてしまった自分には、本当の熊野詣の有難味は理解できないだろうと反省しつつも、檜皮葺の荘厳な社殿の佇まいに素直に感動しました。ブラタモリでも紹介されていましたが、元は熊野川の中州にあって、明治22年の熊野川大洪水を機に現在地に移築。中州だった場所には、平成12年(2000)に鳥居が再建されました。

 境内で目に付いたのは、八咫烏のマーク。サッカー日本代表のエンブレムで有名ですね。八咫烏は神の使者として神武天皇を大和橿原まで導いた3本足のカラス。3本足とは天・地・人を表現しています。蹴鞠名人の平安貴族・藤原成道が熊野詣の際、「後ろ鞠」という妙技(どんな蹴り方なんだろ?)を奉納したそうで、そんなこんなでボールをゴールに導いてほしいという願いから、日本代表のエンブレムに選ばれ、サッカー関係者にとっての必勝祈願の地にもなっています。この黒ポストから手紙を投函すると、八咫烏の郵便印付きで届くそうです。

 

 本宮大社HPの解説によると、熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)では、熊野本宮大社の主祭神・家都美御子神を「阿弥陀如来」、熊野速玉大社の主祭神・熊野速玉男神を「薬師如来」、熊野那智大社の主祭神・熊野牟須美神を「千手観音」としてお祀りしています。そして三山はそれぞれ、本宮は西方極楽浄土、速玉は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土と位置付けられ、平安時代以降には熊野全体が浄土の地として崇められた。まさに神仏混合の聖地です。

 私は4年前、大阪市立美術館で開催された紀伊山地の霊場と参詣道世界遺産登録10周年記念「山の神仏」展で、薬師如来に例えられた熊野速玉男神坐像を実際に拝見し、神仏混合の歴史と意味合いについて興味深い講演を聞きました(こちらを参照)。実際に訪ねた熊野本宮や新宮は、世界遺産登録を機に周辺が整備され、却って霊場としての趣きが失われたんじゃないかとも思えますが、目に見えるものではなく、見えないものを感じる心が試されているのかもしれませんね。

 

 ところでニュービジネス東部部会でこのツアーが決まったのは、ひとえに部会リーダーである三嶋観光バス㈱の室伏強社長の行動力でした。東部部会では2020年東京五輪自転車競技の開催を契機に、静岡県東部や伊豆地区のヘルス・エコツーリズムの可能性を探るべく、先進地への視察を検討していた中、三島を舞台にした映画『惑う』の林弘樹監督から「熊野の玉置神社がスゴイ」と勧められ、同時期に偶然、別の観光業者からも「玉置神社は神に呼ばれた人しかたどりつけないらしい」と聞いて、これは呼ばれているかもしれないと思い立ったのだそう。社長自らバスを運転するという気の入れようでした。

 その玉置神社には、翌26日午前中に訪ねました。本宮大社から続く大峯奥駈道は現役の行場で、看板らしきものは一切なく、徒歩巡礼者にとっては難所中の難所とのこと。もちろん我々は国道168号線をバスで向かいましたが、国道といっても細く険しい難路で、途中でトラックと正面衝突しそうになったり、工事車両に道を阻まれたりと、”ひょっとしたらたどり着けない恐怖”を何度か味わいました。実際にハンドルを握っていた室伏社長、標高1000mにある玉置神社の鳥居が目に入ったときは、さぞホッとされたでしょう。

 鳥居から拝殿までは15分ほどの森林ウォーク。参道には紀伊半島が誕生した頃の枕状溶岩がせり出していていました。海底噴火の爪痕が標高1000mの高さまで堆積したんですね。さらに進むと、樹齢3000年と言われる神代杉、常立杉、大杉などの巨樹林が拝殿を覆うように林立しています。温暖多雨な気候と土壌のもと、永らく聖域として伐採が禁じられていたためです。晴天のこの日は、目に入るものがクリアなビジョンでしたが、霧がかかっていたら水墨画のような世界になるんだろうと想像しました。神代杉は確かに物の怪が宿ったようなお姿。私の好きな映画『ロード・オブ・ザ・リング』に登場するエントの木の髭を彷彿とさせます。

 この神社が創建されたのは10代崇神天皇の代、悪魔祓いが目的とのこと。根っから鈍な私は、神秘体験とはとんと縁がありませんが、正式参拝したとき「光の羽が見えた」と叫んだ参加者がいました。シックスセンスというのかな、そういう感性を持つ人がちょっぴり羨ましくなります。肝心の室伏社長は、参拝記念に玉置神社の名前入りタオルを貰っていたく感激。そうそう、神主さんが若い女性だったというのも意外というか、新鮮でした。

 

 次いで吉野熊野国立公園内の奈良県・三重県・和歌山県にまたがる国特別名勝の大峡谷・瀞峡(どろきょう)を見学。古くは玉置神社の御手洗池だったそうで、巨岩・奇岩・断崖絶壁と深いコバルトブルーの水面が、日本の風景とは思えない強烈なインパクトを与えます。観光用のジェット船が疾走する姿が目に飛び込んできて、ああ、現代の観光地だと我に返りましたが、玉置神社同様、濃霧にでも覆われたらさぞかし原始的な風景を醸し出すのでしょう。休業中で中が見られなかった瀞ホテル、ここも実に絵になります。


 

 旅の終わりは入鹿温泉流荘でランチをした後の鉱山トロッコ電車乗車体験。三重県熊野市紀和町は1200年以上も昔から銅が採掘され、鉱山の町として発展してきました。その鉱山で実際に使われていたトロッコが観光用として復活。入鹿温泉ホテル瀞流荘と湯ノ口温泉の発着場を結ぶ約1kmの元鉱山トンネルを、約10分で走る小さなトロッコ旅が体験できます。瀞流荘の駅は桜が満開で、素晴らしいお花見&トロッコ体験を満喫しました。

 

 2日間ほとんどバス移動で、車中での過ごし方に一考の余地があったものの、熊野の聖地巡りは、自分が日本人でよかったと思えた素晴らしいツアーでした。見晴らしのよい季節ばかりでなく、見通しのよくない季節にも訪ねてみたいと思わせる不思議な魅力。第六感のない自分にも、見えないものに心を寄せて来た日本人の精神性をしみじみ尊く感じることができました。

 キリスト教の神学では神の存在を「存在するから信じるのではなく、信じるから存在する」と説明するそうです。存在するから~は科学的論理、信じるから~は宗教的論理。自然や歴史をテーマにしたツーリズムをビジネスとして考えた場合、どちらの論理も不可欠だろうと思います。今回帯同してくれた現地ガイドさんは、神倉神社を毎朝欠かさずお詣りしているとのこと。そういう人の言葉は心に響くということが、客目線で体感できました。ツーリズム成功のカギは、まずは人材育成というところでしょうか。


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20年後のビッグビジネスを語る

2015-10-07 11:04:50 | ニュービジネス協議会

 ノーベル物理学賞のニュースで、素粒子ニュートリノがふたたび脚光を浴びています。ニュートリノといえばカミオカンデ。カミオカンデといえば浜松ホトニクスの光電子倍増管。ちょうど1年前に浜松ホトニクス中央研究所を訪問して、スーパーカミオカンデに設置された20インチの倍増管(実物)を見せていただいたことを鮮明に思い出しました(こちらの過去記事を)。

 同研究所の訪問は、昨年11月20日に開催された【新事業創出全国フォーラムIN静岡】のパネルディスカッションに、原勉所長をお招きすることになったため。パネルディスカッションの記録を読み返してみると、新しい産業というのは日本の科学の、地道で陽の当たらない基礎研究の積み重ねによって支えられていることが伝わってきます。そして科学者は、その研究が社会にどう活かされるか、その視点が必要なんだろうと実感します。自己探究心を満足させ、名を残すだけを目的にしちゃいかんのだと。これは白隠禅師がよくおっしゃっていた「上求菩提 下化衆生」=つねに衆生(庶民)とともに救済されることを念頭において自己を向上させよ、という教えと同じではないでしょうか。

 大村智教授が受賞された医学生理学賞でも土中の微生物が注目を集めています。微生物とニュートリノ・・・人間の眼には見えない存在ながら、人のいのちや暮らしに大きな存在となっている・・・無と有、まさに禅の世界だなあとしみじみ思います。

 

 それはさておき、私がまとめたパネルディスカッションの記録は、ニュービジネス協議会の会報誌で発表しましたが、多くの方に読んでいただきたいと思い、再掲いたします。

 

パネルディスカッション「ふじのくにから未知への挑戦~20年後のビッグビジネスを語る~」(抜粋)

 第10回新事業創出全国フォーラムIN静岡 2014年11月20日 グランディエールブケトーカイにて開催

<パネリスト>

山口 建氏(静岡県立静岡がんセンター総長)

木苗直秀氏(静岡県立大学学長)

山本芳春氏(㈱本田技研工業取締役専務執行役員 ㈱本田技研研究所代表取締役社長執行役員)

原  勉氏(浜松ホトニクス㈱常務取締役 中央研究所所長)

 

<コーディネーター>

鴇田勝彦氏(一般社団法人静岡県ニュービジネス協議会会長 TOKAIグループ代表)

 

 

(鴇田)2005年からスタートした新事業創出全国フォーラムは今回で10回目を迎えました。今回のテーマは「ふじのくにから未知への挑戦」ということで、日本のみならず世界をも驚かす技術をもっておられる静岡の企業、大学、医療機関の方々をお招きし、ディスカッションをしていただきます。まだ誰も知らない世界、誰もがほしがる世界、そんな未知の世界へ果敢に挑戦されている方々です。ぜひとも20年後のビッグビジネスについて、妄想を語っていただければと思っております。

 

(山口)医療機関とは究極のサービス業だと考え、いのちの質(Quality of Life)、死の質(Quality of Death) というものと向き合っております。

 静岡がんセンターはまったく新しいところから始まった病院です。私は徳川慶喜公の孫にあたる故高松宮妃殿下の主治医を務め、「おもてなしをしっかりするように」と教えていただきました。最近、東京オリンピック決定以降、軽薄なおもてなしが流行っておりますが(笑)、真の、重厚なおもてなしの精神を以って静岡でガン医療を提供しようと努力しております。

 医療城下町構想は患者さんのために産学官金が一丸となって「モノづくり、ヒトづくり、まちづくり、カネづくり」に取り組もうと10年前に提唱したものです。最近になって政府が「まち・ひと・しごとづくり創生本部」というのを立ち上げましたが、我々は10年先取りしてやっております。

 

(木苗)どの大学でもそうですが、大学の使命とは教育、研究、社会貢献(地域貢献、国際貢献)であります。私が6年前に学長になったときに作ったキャッチフレーズが「個を磨き強い絆で知を発信」です。ようするに各学部や教室でそれぞれ個人が自分を磨き、それから強い絆で一致団結して国内外に発信する。集団でやることによって10年20年後、一人では出来ないような大きな仕事ができるということです。

 食品関連では文科省から5年間の研究予算をいただいております。今年採択された事業では「ふじのくに静岡県、体の健康・心の健康・地域の健康」を合言葉に10年20年先にも地域そして世界で貢献できる事業にしていきたいと考えております。

 

(原)浜松ホトニクス中央研究所の原です。今日は全国からお集まりということでご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、浜松というのはテレビ発祥の地であります。高柳健次郎先生が浜松高等工業(現・静岡大学工学部)に赴任され、1926年、テレビジョンの画像にイロハの「イ」の字を映し出すことに成功しました。20年30年先の産業の種を創ったということで、高柳先生の弟子の一人が当社の創業者堀内平八郎でございます。堀内は現会長の晝間輝夫とともに1953年に会社を創立しました。哲学は「真の価値はお金ではない、新しい知識だ」。現在、光情報処理・計測、光材料、光バイオ、健康医療という4つの分野を中心に一生懸命やらせてもらっています。

 

(鴇田)山口さん、最先端医療技術はわが国の社会経済にとって大変インパクトを与えるものと思われますが。

 

(山口)現在、県内産業はトータルで15兆円ほどの規模で、輸送機器や電気機器に次いで6位ぐらいに医療薬品分野の製造出荷額がランクインしています。規模としては1兆円。47都道府県の中では第一位です。もともと強い分野ですね。今後の目標は10年間で1兆円プラス。そうなりますと近い将来、3位ぐらいに上げていきたいと思っており、6000~7000億円ほどの目処が立っております。

 医療は社会経済に非常に密に関係しており、70歳定年時代を前にその備えという意味で考えると、医療を「消費」ととらえたら、確かに大変でしょう。しかし消費ではなく「投資」と考えてみたらどうでしょう。日本国民への「投資」だと考えれば非常に重要なポイントになります。

 私自身、定年というのは我々人類が近年になって編み出した悪しき習慣だと思っています。20万年間の人類史の中でたかだかここ100年ぐらいの概念です。それまでは、身体が動き続ける間は死ぬまで働き続けてきた。それを助けるのが医療です。やはり50歳を過ぎると身体能力は落ちてきますが、幸いなことに人間の心は老いない。知恵は100歳になってもテレビのニュースを見ればそれなりに増やすことができます。喧嘩をすれば知恵は増えますね(笑)。

 今日、一番申し上げたいのは個別化サービスということ。これが21~22世紀の大きなビジネスになろうかと思います。医療はその人の身体の状態や心のケア等、完全に一人ひとり個別のサービスです。胃がんですと一人300万円ぐらいの出費になり、保険制度によって月10万円ぐらいで収まります。私の息子はHONDAのCR-Vに乗っておりますが、いつも胃がんの患者さんの手術と同じぐらいの値段だなあと見ています(笑)。

 

(鴇田)浜松ホトニクスは過去2回にわたってノーベル賞受賞に貢献されましたね。

 

(原)いきなり関係の無い話で恐縮ですが、2年前から京都の龍安寺にある蹲(つくばい)に惹かれています。真ん中の四角いところに水が溜まるのですが、その周りの四文字と中央の四角を組み合わせて読むと「吾唯足知」となります。禅の教えだそうです。地球は環境資源、食糧、人口、エネルギー、健康長寿といろいろな問題を抱えていますが、日本はこれらの分野の先進国でもあります。ちょうど1年前の読売新聞のコラムで、京都のある高僧に「少欲知足」という禅語を英語に訳すとどうなるかと訊いたところ、即座に「sustainable(持続可能)」と応えたとありました。日本の生活の知恵や考え方、東洋的な思想はすばらしいと思いました。

 ライフコミュニケーションやライフサイエンスという言葉はありますが、我々が掲げた「ライフホトニクス」とは、医療やバイオ関連に特定されたものから、生命や生き方などいろいろ広い意味を込めて、我々の技術を活かせる分野を探っていこうというものです。ここで言うライフとは人間ではなく地球のライフを指します。

 まず「光情報処理・計測」は光を使ったさまざまな計測技術ですね。離れた場所で接触しなくても計測可能な光を使った情報処理を進めています。「光材料」分野では量子カスケードレーザという色純度の優れたレーザー機器をすでに販売しております。とりわけ環境計測に威力を発揮し、炭酸ガスの中でもCO13やCO14など細かな割合を計測できます。たとえば静岡で計測したCO2が、この建物から発生したものか中国から飛来してきたものかが判るのです。欧米では使っていただいているのですが、残念ながら国内にはユーザーがおりません。ぜひこの機会によろしくお願いします(笑)。

 「健康医療」ではPET(Positron Emission Tomography)の技術開発に取り組んでいます。もうひとつはX線や放射線を使わず、光を使って体の中を見る光マンモグラフィーのような装置。実際に臨床検査も行なっています。集団検診に使うにはもう少し時間がかかりますが、もともとガンを持っている患者さんがX線マンモでは頻繁に検査できないところ、光ならば無害ですので安心して検査を受けられる。乳がんは簡単に切らず薬や放射線で小さくしてから切るというケースもあるようで、小さくするための投薬や放射線治療も人によって効き方が違うそうです。たとえば1週間後、光マンモで大きさがわかれば薬の量も判断できる。そういうことで浜松医科大学と共同研究を進めています。「光バイオ」では京都大学のiPS細胞のお手伝いをしています。植物の遅延発光の応用は工場排水が生態に及ぼす影響を短時間で検出できます。こんなことをやりながらライフホトニクスに向けて努力をしています。

 1926年に浜松でテレビジョンが誕生してから100年後の2026年ぐらいまでに浜松で何か新しいものを誕生させたいと思っています。

 

(鴇田)木苗学長は静岡県のクラスターの中でもフーズサイエンスヒルズとして地元資源を活用した新しい食の開発、マーケティングによって産学官金の連携を積極的に進めておられます。

 

(木苗)静岡県は富士山や駿河湾があり海の幸山の幸に恵まれ431品目も食材があります。そして静岡県は健康寿命日本一(女性1位、男性2位)。その理由としては食材が豊富でお茶を良く飲むということが考えられます。最近若い人が急須のお茶を飲まなくなったといわれますが、一世帯あたりのお茶の年間支出額は静岡市が全国第1位、浜松市が第2位を占めています。

 我々の研究のきっかけは徳川家康公です。家康公は75歳で亡くなりましたが、当時の平均寿命の2倍。家康公の食事を調べると、ビタミンやカルシウム豊富な麦ご飯、具沢山の味噌汁、丸干しの魚や根菜類、お茶などを摂取しており、薬は自分で調合していた。久能山東照宮にはさまざまな器具が残っています。

 最近の疫学的調査によるとお茶を飲んでいる人の大腸がんや肝がんの発生率が低く、ガンにかかる年齢が後ろになっているというデータもあります。糖尿病や認知症に関してもお茶は有効です。またノビレチンというみかんの皮に多く含まれる成分をアルツハイマーのモデルマウスに投与したところ、脳の組織が徐々に修復した。次いで20人ほど高齢者にお菓子として食べてもらったところ、それなりの効果が得られました。ただし治験人数が少ないのでもう少し検討の余地があります。

 私がセンター長になり、平成21~22年にかけ、研究開発から需要開発まで一貫した地場産品活用の研究開発の促進、それによる地域の活性化、人材育成、食による地域づくりに取り組んでいます。光を遮断して栽培したお茶の中に、アミノ酸が3倍含む白いお茶を開発することもできました。このクラスターは500社で1兆3千億円規模です。

 

(山本)環境、とりわけCO2の問題はさまざまな機関で話し合いが行なわれていますが、我々としては自分たちが出来ることをやりきろうと電気自動車や燃料電池車等さまざまなチャレンジに取り組んでいます。燃料電池車に関してはスマート水素ステーションの設置も進めています。私どもの独自技術を使い、水を電気分解して水素を作るもので、従来のガソリンステーションのように設置に大量のコストと時間をかけるのではなく、1日で設置できるような実証実験を進めています。

 FCVは2015年度中には発売したいと思って開発を進めています。水素を使い、排出は水だけ。走行可能距離は700kmで5人乗り。水素を充填する時間はガソリン車と同等の3分以内。これも我慢することなく利便性と環境を向上させるためです。当然我々が作る車はキビキビ楽しい車でありたい。安全装置もしっかり盛り込んでお届けしたい。

 ワクワクドキドキのモビリティとしては来年からF1に参戦します。二輪の世界では連続して参加し、個人もチームも優勝メダルを取ることができました。このマシンはF1よりも速く、二輪の世界で時速350キロで競い合っています。我々の想像を絶する世界なんです。来年から闘うF1も同様の世界ですが、従来と異なるのはCO2を配慮しているということ。F1のエンジンは1600ccターボですが、ハイブリッド車で、ガソリンエンジンは3割が実際の動力に使われ、6割は排出される。ただし排気ガスのエネルギーを回収して利用する。大変厳しい燃費規制の中で効率のよいレースを行います。音のレベルでいえば、マシンのそばに近寄ると身体がふるえるほどだったのが、今はマシンの近くでもイヤホンなしで会話ができます。

 最後にホンダジェットをご紹介します。これも来年から引渡しが始まります。全長13メートル、幅12メートルほどで、パイロットを含めて6人乗り。時速750kmで高度は1万3千メートル。ふつうのエアラインは1万メートル程度を飛んでいます。航続距離は2200キロメートル弱。静岡空港を拠点にすれば日本全国ほぼカバーできると思います。車と違い、エンジンと機体をそれぞれ開発したのは世界の中でもホンダだけで。世界中ではそれぞれ別のビジネスができるというわけです。両方ともアメリカのノースカロライナ州で生産しており、私も先週現地へ行って試乗してまいりました。もちろんライセンスは持っていないので客席に搭乗したわけですが、従来のビジネスジェットと違い、快適で広々とし静かで最新のエレクトロニクスを登載しており、非常に気持ちのよいフライトでした。燃費も同じクラスの飛行機の3割減。日本でも出来るだけ早くお披露目したいと思っています。鴇田会長、今ご注文いただければ、5億円ほどでお引渡しできますので、ぜひご検討ください(笑)。

 

(鴇田)ありがとうございました。実は最初にホンダジェットはいくらするのかお聞きしたかったのです。察していただきありがとうございます(笑)。私の印象では、今日の4名のお話だけでも大変広範囲なビジネスが育ち始めており、中小や新規企業にもビジネスの種を拾い、命を吹き込むことが出来る。そういうものが目の前に広がっているということがご理解いただけたのでは、と思っています。パネリストの皆さまありがとうございました。(了)

 

 

 なお、来る10月19日(月)、静岡県ニュービジネスフォーラムIN浜松が開催されます。今年のテーマはIT農業と6次産業化。一般の方も参加できますので、ぜひふるってお越しください。詳細はこちらを。

 


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田から生まれるもの~尊徳思想に学ぶ

2015-02-08 19:33:19 | ニュービジネス協議会

 2月7日(土)は(一社)静岡県ニュービジネス協議会西部部会のトップセミナーで、二宮金次郎(尊徳)の人づくりについて、中桐万里子先生(臨床教育博士・関西学院大学講師)の講演を取材しました。NB西部部会での尊徳セミナー開催は2回目(前回の内容はこちらを)。今回講師にお招きした中桐先生は二宮金次郎の7代目子孫にあたる方です。

 

 

 前回記事でも書いたとおり、金次郎といえば薪を担いで本を読むあの少年像。全国の小学校に設置されたことから勤勉の奨励に祀り上げられたわけですが、中桐先生は「大事なのは読書ではなく、背負っている薪と、一歩前に出した足」と指摘されました。〈働くこと〉〈一歩踏み出すこと〉の尊さを表しているという。この見方は新鮮です。実際、本人は「本に真実は書かれていない。本は捨てろ」と言っており、成人した金次郎像は本を持っていません。「(先人が書いた)書物に頼るのではなく、自分で観察し、自分で記録することが大事。自分の眼、感覚、経験で目の前にあるものを認知し理解する」というのが彼のモットーで、日頃手にしていたのは自身の観察日誌でした。

 書物というのは、もちろん、大切な知識の宝庫に相違ありませんが、金次郎が生涯を賭した農業は、人智の及ばない世界です。とりわけ彼が生きた江戸後期は気候変動が激しく、浅間山噴火に端を発した天明の大飢饉(1782~87)、天保の大飢饉(1830年代)は冷夏による日照不足と水温低下、長雨や洪水によって稲作が壊滅状態となり、数万~数十万単位の餓死者を出しました。

 

 天保の大飢饉のとき、小田原藩配下の桜町領の復興にあたっていた金次郎は、ある年、田植えが終わった直後、村人に「植えた苗をすぐに抜け」と命じます。当然、村人は抵抗しますが、彼は「さっき食べたナスが、秋ナスの味だった。これから冬のような寒さがやってくるだろう」と冷夏を予測し、寒さに強い雑穀(蕎麦や稗)に植え替えさせたのです。もちろんナスの味だけで判断したわけではなく、ナスの種の付き方が夏と秋では違うことや周辺に野菊が咲いていたり夏草の葉先が枯れかけていたなど、田畑の様子を日頃からきめ細かく観察し、変化を敏感に察していたからです。結果、桜町領下では一人の餓死者も出さずに飢饉を乗り切ったのでした。

 この有名な秋ナスの奇跡談、企業が経営危機に陥ったときの心構えに例えられますが、中桐先生は「冷夏や冷害は、金次郎にとって危機でもなければ敵視するものでもない」と説きます。米づくりにこだわり続ける限り、冷夏は忌むべき災害。しかし蕎麦や稗が育つと思えば、ピンチをチャンスに変えることができる。稗は文字通り、冷えを取る=冷え性改善の効能があるといわれます。「自然が、冷夏のために稗を与えてくれたと考えればよい」と先生。夏は暑くなくてはいけない、田では米を育てなくてはいけない、という固定観念や既存のモノサシにこだわることなく、その土地に見合った作物を育てようという農業実践者らしい発想が金次郎にはあったわけです。

 

 尊徳思想の言葉として有名な〈積小為大〉。前回記事では「小さなことをコツコツと続けていけば、やがて大きな実りになる」と解説しましたが、中桐先生の解釈は「大きな幸せへと導く宝のタネは、小さな場所に眠っている」。大きな目標を達成するため、というよりも、日々の小さな気づきを大切にすることに重きを置いた解釈です。田植えの直後に食べたナスが秋ナスの味だった・・・それは小さな変化の気づき。日常のいとなみに目を配り、ときには「なんでそうなるんだ?」と関心を持つ。金次郎が西洋の科学者や生物学者だったら、ノーベル賞級の業績を遺したかもしれませんが、彼は19世紀の日本の農業の中で、宝のタネを探し続けました。

 

 講演後に購入した中桐先生の著書【現代に生きる二宮翁夜話】に、こういうエピソードが紹介されていました。

 

 翁曰 聖人も聖人にならむとて、聖人になりたるにはあらず 日々夜々天理に隋ひ人道を尽して行ふを他より称して聖人といひしなり

 (二宮翁は言われた。聖人も聖人になろうとして聖人になったわけではない。日々夜々、天理に従い、人道を尽して行なうのを、他から聖人と呼んだのだ)

 

 

 大飢饉に見舞われたこの時代、耕作放棄地を金次郎は懸命に耕し、荒地を田畑へ、美田へと甦らせます。美田を1枚甦らせたらそれをあっさり売り払い、得た収入で2枚の荒地を購入し、それを美田にして売って、さらに3枚の荒地を買う。こうして無一文の孤児から村のリーダーへとのし上がっていくのですが、中桐先生は「金持ちになるためのすごい仕組み!ではありません。ある意味で彼は、このお話で宣言しているからです。ただただ目の前の荒地と向き合い続けた結果、そうなったにすぎない・・・と。徹底的に日常に向き合い、丁寧に、誠実に、そこに自身の最大限の力を注いで暮らすこと。それこそが尊ばれる歩み方だと・・・。」と締めくくります。

 

 宝物という言葉には、「田から生まれるもの」という意味があるそうです。田から生まれるもの=作物は人間の命をつなぐもの。農業とはまさに、宝物のタネを見つけ、育て、実らせるものといえます。この〈積小為大〉の教えを見事に実践したのが、実はトヨタ創業者の豊田佐吉氏。どんな小さな変化も見逃さない社風を創り上げようと、あえて現場(人や機械の配置)を毎日変化させる=慣れを防ぐというしくみを取り入れ、それがトヨタのカイゼンへと結実したそうです。

 

 農業が製造業に学ぶ時代となった現代、「宝物」の定義も大きく変化しています。それでも普遍的だと思えるのは、〈積小為大〉の敵とは〈慣れ〉であるということ。物事を傍観しているだけ、変化に鈍感な人には「宝物」のタネは見つからないだろうといえる。トヨタのカイゼン方式を日常の暮らしに取り入れるのは無理だとしても、身の周りの人、モノ、出来事に関心を持ち続けることぐらいは出来そうです。

 身の周りのあらゆることに関心を持つ。関心とはプラスの感情です。自分を取り巻くものに興味をもち、時には感謝し、大切に思う感情が育てるものです。今、自分が生かされているのは周りのおかげ。知らず知らずに多くのものに助けられ、今の自分がある。周りから受けた徳に、今度は自分が報いる番・・・「それが、報徳という言葉のほんとうの意味です」と中桐先生。報徳とは、give & take (=見返りを求める) ではなく、take & give (=恩返し)なんだそうです。

 

 禅の講演でもそうですが、ふだんづかいの言葉や思想の本来の意味をあまりにも知らず、曲解していたと気づかされ、大いに反省させられます。先人の書いたものを鵜呑みにするな、自分で観察しろ、というのが金次郎の教えですが、ライターという職業上、先人の思想を正しく学び、伝え継ぐことから始めないと仕事になりません(苦笑)。・・・でもこういうお話を聴くと、自分で何か実践したくなりますね、ホント。

 

 なお二宮金次郎については報徳博物館のサイト(こちら)を参照しました。ぜひ参考にご覧ください。

 


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富士山のライトアップに必要なもの

2014-12-14 14:48:24 | ニュービジネス協議会

 青色発光ダイオードの開発がノーベル賞を受賞したことで、この冬は街のイルミネーションにもより一層の華やかさが加わったようです。先日の新事業創出全国フォーラムでも、ベンチャー日本一を決める第9回ニッポン新事業創出大賞の最優秀賞(経済産業大臣賞)に、静岡県から推薦のパイフォトニクス㈱の池田貴裕さんが選ばれました。池田さんはLED照明装置『ホロライト』を開発し、遠隔照明システムの事業化を成功させた気鋭の起業家。2012年に静岡県ニュービジネス大賞を受賞し、こちらの過去記事で紹介させていただきました。

 

 

 2012年のときは、「富士山をライトアップさせる」という途方もない夢を披露してくれましたが、もはや夢ではなく、実用化寸前のレベルまで来ているとか。全国フォーラムの展示会場で、実際に富士山にヒカリを飛ばす高性能ホロライト(下の写真右)を見せてくれました。

 

 ホロライトの技術は工場での精密機械の検査、舞台演出、展示会場演出等に使われていて、今後、マーケティング、ブランド、知財、製造等の専門経営チームを作れば、異分野横断の技術融合が可能で、しくみと商品をパッケージにすることで世界市場で圧倒的な存在感を持つ事業になるのでは・・・というのが、今回の受賞理由。富士山ライトアップも技術的にはクリアしたので、世界遺産を対象にするための許可取りと、そのための“物語づくり”が必要です。私は、過去記事でも紹介したとおり、彼の、「ヒカリは地球を平和にする技術」というメッセージを具現化するプロジェクトになってほしいなあと思います。

 

 

 ちょうど現在、原稿執筆中の静岡いちごでは、【きらぴ香】という新品種を取材しました。名前から想像できるように、いちごの表面がピカピカと光沢に満ちているのが特徴。酸味が低く、香りがフルーティーです。・・・ってまるで(清酒の)静岡酵母みたいですねって県農林技術研究所の開発スタッフに話したら、その発想はなかったなあと笑われましたが(笑)。生でそのまま食べるもので、表面がこんなにツヤツヤしてるって考えてみると珍しいのでは・・・?

 

 

 その静岡いちごの取材の一環で12日(金)に上京し、夕方、取材が終わってから、国立科学博物館で開催中の【ヒカリ展】(こちらを参照)を観に行きました。毎週金曜日だけは20時まで開館しているんですね。都内には人気のイルミネーションスポットがたくさんあるし、金曜夜に博物館に来るのは独身オタクだけかな(笑)と思ったら、意外にもカップルや親子連れが多くて、ちょうど18時から始まったギャラリートークでは「光るカイコ」について農業生物資源研究所のスタッフが興味深いお話をしてくれて、大勢のギャラリーでにぎわいました。

 

 

 

 こちらは蛍光タンパク質を持つサンゴ。クサビライシやアザミサンゴの出す蛍光を見せてもらいました。クリスマスツリーはLEDではなく、光る繭。蛍光タンパク質の応用を池田さんのホロライトと組み合わせたら、どんなものが出来るんだろうと不思議な気持ちになりました。

 

 

 

 展示物でとりわけ惹かれたのは、金沢工業大学ライブラリーセンターが所蔵しているガリレオ、ニュートン、レントゲン、アインシュタイン等の有名科学者が書いた論文の初版本。光学の父といわれるアル=ハゼン(イブン・アル=ハイサム)の1572年版の「光学の書」、デカルトの1637年初版「方法序説」、トーマスヤングの1802年初版「色と光の理論について」、ジェイムズ・クラーク・マクスウェルの1865年初版「電磁場の力学的理論」、マックス・プランクの1900年 初版「正規スペクトルのエネルギー分散則の理論」など等、このところ、ちょこっとかじった量子力学の本に出てきた名前がズラズラとあって、もちろん中身はチンプンカンプンなんですが、こういうものを目にするだけで胸が一杯になります。

 

 アル=ハゼンが生きていたのは965~1021年。バスラで生まれてバグダッドで科学を学び、エジプトファティマ王朝の第6代カリフに招かれ、カイロでナイル川の洪水を治める研究をしていたそうです。現地調査をして洪水阻止は不可能と結論付けたが、王に本当のことを言えば殺されるため、狂人のふりをし、死ぬまで外出禁止の刑を受けたとか。でもその期間、重要な数学論文をいくつも書いて、のちに外出を許され、『Kitab al-Manazir』(光学の書/1015~21年)を残したということです。今からちょうど1千年前のことなんですね。・・・ちなみに同時代、日本では紫式部が源氏物語を書いていました。こっちのヒカリは光源氏か、黄金に象られた阿弥陀如来の神々しいお姿なのかな。

 イスラムで『光学の書』が書かれていたとき、光源氏の物語を生み出していた日本が、一千年後の今、光学技術で世界の先端を走っている・・・今年ノーベル賞を受賞した教授たちは、一千年後の世をどんなふうに想像しているんでしょうか。

 

 話は逸れますが、10月に茶道仲間と京都研修したレポートを、参加者の某氏に書いてもらいました。彼が茶道を学ぼうと思ったきっかけについて書いた一節を紹介します。

 

 『急速に発展したコンピュータや情報通信技術、そしてインターネットの登場以降、理系人材のニーズは高まり、デジタル思考の重要性が語られる場面が増えた。2000年代に入ると、大学には「教養」科目は不要、という声さえ聞かれるようになった。実際、大学で江戸の文学を教えている友人からも「人文系は、なかでもおれの教えている歴史は、就職に弱いから人気がないんだ」というぼやきを幾度となく聞いたものである。そんなデジタル全盛の社会の中で企業人として生きていく上で、「教養」は本当に役に立たないのだろうか。

  そんなすっきりしない気持ちでいた頃に「教養」の役割と重要性を気づかせてくれたのが、TRONプロジェクトのリーダーで東京大学教授・坂村健氏である。ある講演会での坂村健先生のお話で、いまでも印象に残っているのが「技術はこれからも進歩するが、そこで得た技術でどんな社会を作ろうとするのか。それを判断する時に重要なのが教養である。3年先、5年先のことを決める時に、教養など役に立たないと思うかもしれないが、30年先、50年先のことを決めるとき、そして、新しい技術が社会にどんな影響を与えるのか予測できないことを判断しなければならないときに、教養は不可欠である」(うろ覚えだが、こんな主旨だったと思う)というお話だった』

 

 池田さんのホロライトが富士山をライトアップするのに必要な「物語」にも、たぶん、多くの分野の優れた「教養」が必要でしょう。アル=ハゼンも、ノーベル賞受賞者たちも、自ら創造したヒカリの到達点は平和な地球だろうと思いたい。その平和は、進んだ技術をどんな社会づくりに活かすかにかかっています。私個人で貢献できることは皆無だろうけど、時間が許す限り、より多くの理系の人と文化や歴史を語りたいし、文系の人とは共に科学を学び合いたいと願っています。

 ・・・とりもなおさず酒を呑むとき話題が広がる。これに尽きるかな(笑)。

 

 なお、ヒカリ展の内容を紹介した番組がBSジャパンで12月27日(土)21時から放送されるようですので、興味のある方はぜひご覧ください(こちらを参照)。


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