杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

信念の恋人

2014-12-28 17:14:56 | 地酒

 27日のNHK朝ドラ【マッサン】では、職人と経営者のガチンコ対決が描かれました。本場スコッチの長期熟成やスモーキーフレーバーにこだわって「わかる人だけに飲んでもらえればいい」と言い切ったマッサンと、「それでは売れない、大衆向けの味にしろ」と跳ね返し、マッサンに製造から営業への異動を命じた大将。信念と信念とがぶつかりあうモノづくり、しかも日本初の商品を生み出す苦労は、酒造業に限ったことではないと思いますが、「美味しい酒とはなんぞや? 酒の美味しさを伝えるとはどういうことか?」を考え続けてきた自分にとっては心揺さぶられる回でした。

 

 私が酒蔵取材を始めたのは、昭和から平成に代わったばかりの平成元年2月でした。以来26年。52年の人生の半分、酒蔵と縁をいただいてきましたが、白隠禅の勉強を始めて「知ったかぶりの罪」について考え、酒の取材者としての己の眼力には、かなりの垢や錆がこびり付いているのではないか…との反省から、今冬は県内酒蔵の仕込みを新鮮な気持ちで見つめ直しています。

 26年の取材歴で誇れるものがあるとしたら、静岡の酒質を飛躍的に向上させた職人=杜氏さんたちとのご縁。それこそマッサンみたいなこだわり職人さんばかりで、当然ながら最初のころはどこの素人の小娘か・・・という眼でみられ、距離感を縮めるのにずいぶん時間がかかりました。それでもこの冬は、杜氏さんのほうから「ここだけの話・・・」と耳打ちをしてくれるまでになった。取材者、いや、ひとりの人間として、縁ある人の職業人としての誇りある人生を、“知ったかぶり”で通り過ぎずに済むかも…という安堵感を覚えました。

 耳打ちしてくれたのは表立っては書けない苦労話ですから、表立って書く文章からは伝わらないだろうけど、「わかる人だけに伝わる」―そんな二重構造のような文章表現ができたら・・・なんて密かに願っています。

 

 

 思えばこのブログも、直接いただくのは「ダラダラ長すぎる」「難解」「勝手に実名を上げるな」と批判やクレームばかりで、中にはご丁寧に「こういうブログを参考にしなさい」と著名ブロガーさんを紹介してくれる人までいました。gooブログに引っ越してからは訪問者数がグッと減り、「個人ブログとはいえ公に発信する以上、読んでもらえなければただの独り善がりだな」と落ち込みましたが、しばらくして閲覧ページ数が逆に増えていることがわかり、「少数でもちゃんと読んでくれる人がいるんだ…」と凹まずにきています。

 

 26日、『正雪』の純米大吟醸の袋吊るし搾りを取材に行き、搾りたてを試飲させてもらったところ、初めて静岡吟醸に感動したころの香味が脳裏に甦り、「自分には懐かしく感じる味です」と杜氏の山影純悦さんに話したら、「実はこういう酒が、今、東京のお客さんから求められているんだよ」とのことでした。

 昨年、現代の名工に選出され、今年は黄綬褒章を受けた御年83歳の山影さん。名誉職で悠々自適に過ごしていると思ったら、現場で率先して動いておられ、「静岡吟醸らしさへのこだわりが再評価されている」と噛み締めるようにおっしゃる。静岡県の杜氏を代表する立場としてさまざまな試行錯誤を重ねてこられ、静岡らしさを醸し出すという信念をこの年齢で貫き通そうとする山影さんの言葉だけに、大変重いものを感じました。

 

 

 その足で『萩錦』にいる南部杜氏の小田島健次さんを訪ね、搾り終わった誉富士純米酒を3種試飲させてもらいました。2品は香りがふんわり、味ものっていて、誰にもその美味しさが伝わるであろう素晴らしい出来栄え。残り1品は香味ひかえめでおだやかな味わい。先の2品に比べたら地味でしたが、「私個人はこれが一番好き」と言ったら、「ははぁマユミさんらしいなあ」と杜氏さん。味ののった2品は静岡酵母NEW-5で、私が選んだ1品はHD-1で仕込んだものだそう。杜氏さん曰く「この酒は秋口になってグッとよくなると思うよ」。そういう酒を選んだことを、「マユミさんらしい」とおっしゃってくれた。私が単にHD-1の酒が好きだと知ってのことか、ひかえめな酒が好きなのが私らしいと思ってのことかは分かりませんが、杜氏さんとの距離感が限りなくゼロになったような気がして無性に嬉しくなりました。

 

 

 リアルマッサンこと竹鶴政孝さんは「ウイスキーの仕事は私にとって恋人のようなものである。 恋している相手のためなら、どんな苦労でも苦労とは感じない」と言っていたそうです。 遠く岩手の花巻から仕込みにやってきて正月返上で酒造りに勤しむ83歳の山影さん。同じく正月休みなく、『富士錦』『萩錦』の2蔵をかけもちする宮城の石巻出身63歳の小田島さん。「静岡で酒造り人生を全うするだろう」と語るこの2人も、静岡の酒にトコトン恋しているのだと思いました。

 

 私も、書くという仕事に恋をし、この仕事で出合った人々に恋をし、恋した人たちの生き様を記録することが自分の使命だと思って無我夢中で書き続けています。一流作家や学者先生のように執筆の場に恵まれているわけではなく、ローカルでささやかながら必死になって表現の場を探す中、2007年12月末、このブログをスタートさせました。放任主義で育てた粗雑でやんちゃな子どもみたいな存在ですが、この子の成長を見守ってくれている人が一人でもいるのなら、信念を曲げず、来年も引き続き、大切に育てていこうと思います。

 

 『杯が乾くまで』、8年目の来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 


 

 


平洲と芳洲

2014-12-23 15:08:51 | 白隠禅師

 前回記事で駿河白隠塾立ち上げに触れたところ、理事のお一人から感謝のメールと、郷土の偉人をまちづくりに活用した事例を紹介していただきました。愛知県東海市の細井平洲です。

 パッと見、どこかで目にしたような名前だけど何した人だっけ・・・と思いあぐね、ネットで調べたら、かの上杉鷹山の師匠だった儒学者。あわてて本棚から埃をかぶった内村鑑三の『代表的日本人』を久しぶりに紐解いて、その名を確かめました。そしてすぐにAmazon kindle で門冬二『上杉鷹山の師 細井平洲』を購入し、両国橋で辻芸人と一緒に街頭講義をしていた平洲を藁科松伯が米沢藩にスカウトし、上杉直丸(のちの鷹山)に初講義をするあたりまで一気に読んで、「白隠さんに似ているなあ~」と唸ってしまいました。

 平洲は、藩主の教育係になっても街頭講義はやめないと宣言し、お屋敷の中で突然、庶民相手の講談口調で話し始めて家臣たちをビックリさせた。平洲は「たとえどんなよい内容であっても、表現が難しければ一般には理解できない。相手側の身に立って、どういう話し方をすれば理解できるかを工夫することが大切だ。それが人間に対する愛情なのだ」と諭し、両国橋で庶民に語り掛ける話法で若殿と家臣を教育したそうです。

 

 白隠さんが残した膨大な書画も、相手のレベルに合わせ、白隠さんがさまざまな“メディア”を駆使して表現した禅の教えです。その教えの真意を正しく“解凍”し、現代へつなげようと、まずニューヨークやヨーロッパで白隠禅画を説き、東京国立博物館ではなく渋谷のBunkamura で白隠展を開いて若者や外国人の関心を集め、保守的な宗門や歴史家たちに刺激を与えているのが芳澤勝弘先生。平洲の「相手側の身に立って工夫するのが愛情」という一節が、そのまま重なるようです。

 

 平洲と芳澤先生。並べてみてふと思い出したのが「芳洲」でした(すごーい単純な発想でスミマセン)。朝鮮通信使の接待役として活躍した対馬藩お抱えの儒学者雨森芳洲で、当ブログでも過去何度か触れてきました。こちらの記事が一番分かりやすいかな。

 

 ここで2007年制作の【朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録】のシナリオから林隆三さんに朗読していただいた一節を紹介します。

【雨森芳洲(1668~1755)】

「滋賀県高月町雨森村に実家のある雨森芳洲は、17歳のころ、江戸で儒学者木下順庵の門下生となり、22歳で対馬藩に仕えます。そして長崎で中国語を、釜山で朝鮮語を学び、対馬藩の朝鮮担当役として活躍します。1711年と1719年には朝鮮通信使に江戸まで随行しました。」

「晩年、芳洲が著した『交隣提醒(こうりんていせい)』。この中に、文化の違う国とつきあう上で、芳洲が大切にしていたことが数多く記されています。」

 

(交隣提醒の朗読)

朝鮮との交際は、第一に人情・社会のありようを知ることが大切です。日本と朝鮮とは、何事によらず風習が異なり、好みも異なりますから、そういうことに理解なく日本の風習で朝鮮人と交わろうとすると食い違いが多く起こるのです。

 朝鮮人は、日本人と言葉の上であっても争わないように心がけていますから、いつも自分の国のことは謙遜して言います。ところが日本人は、酒ひとつとってみても、“日本の酒は三国一でござるから、皆もそう承知しなさい”と威張り、朝鮮人がなるほどと答えれば同意したと思い込みます。もし彼らが日本の酒が三国一であると思っているなら、皆で集まる宴会の際、とくに日本酒を工面して用意するでしょうに、そうしないのは、日本人の口には日本酒がよく、朝鮮人の口には朝鮮の酒がよく、中国人の口には中国の酒がよく、オランダ人の口には焼酎に香草を浸した酒がよい、というのが自然の道理だからです。

 誠信の交わりとは、多くの人が言うことですが、意味をはっきり理解していません。まことの心ということで、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることをいうのです。

 

 

 朝鮮通信使のシナリオハンティングで最も印象深かったのが滋賀県高月町でした(脚本執筆時の苦労話についてはこちらもぜひご覧ください)。芳洲を郷土の偉人として町全体で称え、芳洲ゆかりの地は国際交流の場として活用されています。言葉や文化の異なる相手の立場を思いやる・・・そんな芳洲の教えが今の教育に生かされている。郷土の偉人をこんなふうにまちづくりに活かすって理想的だな、と思いました。

 

 駿河白隠塾がどんなベクトルで進むのか、私には想像できませんが、平洲を活かした東海市(こちらを参照)、芳洲を活かした高月町のように、一般にメジャーでなくても出身地の人々が学校で当たり前のように学び、その教えを自然に身に着け、地域社会を豊かにしていく、人づくりによる地域創生につなげてほしいですね。そのために白隠塾でも各地の偉人活用事例を積極的にリサーチし、地域間同士で情報交換や学びあいの機会を作ったらどうかと思います。白隠さんと雨森芳洲は同世代に生きた人ですから、どこかですれ違っていたかもしれないし・・・!

 そうそう、静岡県では平成21年に国文祭があったとき、【輝く静岡の先人】という偉人カタログ(白隠さんも載ってます)を作ったんですが、こういうのも作りっぱなしじゃダメですよね・・・。


沼津白隠学の未来

2014-12-20 14:45:26 | 白隠禅師

 今年は沼津で2回、7月と11月に開かれた白隠フォーラムに参加したことで、白隠さんと、白隠さんが終生暮らした沼津というまちをグッと身近に感じています。これまで沼津といえば、食や酒や観光の取材がほとんど。白隠さんを通してみた沼津には新鮮な驚きや発見がありました。今後、自分がこのまちとどう関わっていくのか、不思議な転換期になった感があります。

 

 11月の白隠フォーラムでは、沼津で新たに【駿河白隠塾】という組織が立ち上がることが発表されました。白隠さんの生家・長澤家の現在の当主長澤一成さんが代表に、芳澤勝弘先生が塾長となって、フォーラムや縁地ツアー等を定期的に開催し、地元で白隠さんをきちんと学ぶ場にしていこうというもの。11月に参加した友人たちは、わりと軽く、「沼津市が白隠さんを担ぎ出して町おこしするんだ~」というとらえ方をしていましたが、私は自治体のシティプロモーションという枠ではとらえきれない深いものを感じていました。静岡市が2007年にシティプロモーション予算で映画【朝鮮通信使】を製作したときの“裏側”を経験し、誰もが知っている有名人や人気キャラクターではなく、一般に馴染みのない人物や片寄った見方をされがちなテーマでシティプロモーションするという作業はハンパな覚悟では出来ないと思っています。

 長澤さんは現在、耕文社という印刷メディア企業を経営されており、芳澤先生は白隠学の世界的権威ですから、このお2人がヘッドとなれば、かなりのことは出来ると期待されますが、川上のほうで盛り上がるだけでは長続きしない、川下のほうからジワジワ熱を上げる導火線というか発火源みたいなものも必要ではないでしょうか。

 

 そんなこんなで駿河白隠塾の船出を川下のほうから見守るつもりでいたところ、思いがけず運営委員に、というお声かけをいただき、18日に開かれた顔合わせの会合に参加しました。代表と塾長のほか、理事5名、運営委員16名、事務局5名というしっかりした組織で、県や市や経営団体代表者や文化事業者など等、立派な肩書きの方々ばかり。静岡市民でフリーランスのライターで地酒研究会・・・なんて自分は場違い感アリアリで、挨拶では地酒「白隠正宗」の話と朝鮮通信使制作時の裏話ぐらいしか出来ず(苦笑)。もうちょっと沼津に貢献できそうな、マシな自己アピールができなかったかなーと帰宅後に反省し、過去、沼津について書いた原稿を精査してみたら、ありました!

 

 以下は、スルガ銀行のシンクタンクから受注していた仕事で、沼津市の教育関係者の座談会(2009年11月開催)を記録したものです。その名も「夢ある人づくり塾」。改めて読み返してみたら、沼津には素晴らしい教育哲学があるんだと深く感じ入りました。○○塾というネーミングも、この頃から定番だったのかな。白隠さんの名前が出てくる部分を書き出してみます。

 

 

「白隠さんは世界のインテリの王道のように扱われていますが、白隠さんは地獄が怖くて仕方なくて、地獄から遠ざかるにはどうすればいいかが修行のきっかけだったという。そういうことは子どもたちにもあって、いじめに対する恐怖は共通して持っている。いじめられたくないから、いじめ側に入るわけでしょう。子どもたちには、ポジティブな夢ばかりでなく、ネガティブなものだって目標になるんだと教えてもいいのではないでしょうか?何でも夢にならないものはない、地獄ですら目標になるんだと。」

 

「白隠さんに関しては、私どもが中学高校のころはまったく触れられていなかったと思います。たまたま私は本を読んで知っていたのですが、たぶん今、白隠さんを市の教育で取り上げるとなると、宗教や個人崇拝云々の問題になるでしょう。社会全体、日本全体が夢を持っていないというのはそのとおりですが、地球規模の環境問題がクローズアップされている中、これをテーマに日本人が世界を救う、みたいなことをやろうじゃないかと考えています。」

 

「夢があっても挫折する場は多い。私の弟は東大の赤門を見て絶対ここに入ると宣言しながら入れなかった。私も入れませんでしたが、そんな挫折はしょっちゅうあっても何とかやっていくのが人間です。今、自殺が非常に多いのは、夢破れると簡単にあきらめてしまう。夢ある人は子どものことばかりでなく、生涯教育の面でも通じることだと思います。」

 

「教育委員会で小学校や中学校を訪れた時、先生の退職率が高いと聞きました。小学校や中学校が勉強の場ではなく、生活指導の場になってしまっていて、生活指導をしてくれない先生に親がクレームをつけるという。家庭教育が崩壊したため、躾から何からみんな学校に押し付け、先生は「こんなストレスの多い仕事はやってられない」と退職率が増えているというのです。家庭教育の崩壊をいかに食い止め、再生させるかを考えないと、いくら学校改革をやったところで何も解決しないと思います。」

 

「白隠禅師は子どものころ、地獄が怖くて夜も眠れず、大きくなるまで母親が懐にひしと抱きしめて眠らせたという。親というのは、学校の先生にどう文句を言おう、じゃなくて、子どもと正面から向き合い、ひしと抱きしめてほしい。手を上げるにしても、抱きしめた後で叩いたほうがいいんじゃないでしょうか。いきなりぶん殴られて、喧嘩にならないほうがおかしい。夢だって、親が釣りに夢中なところを見せてもいい。どんなつまらない魚だって夢中になって釣りをしている父親を見れば、一緒にやってみようと思うでしょう。そういう親子関係が基本ではないでしょうか。白隠さんのおっかさんのような理想が、故郷にあるじゃないですか。家庭におけるしつけも含めた教育のモデルが、わが故郷に在り、ですよ。」

 

「大事なところは本に親しむ、かかわる、読み書きを大切にするということですね。東北大学の先生が脳の血液の流れを調べたところ、読み書き計算をしているとき、脳の活性化に役立つということがわかりました。とくに小学校中学校の教育では大切ですね。もうひとつ、家族の構成が、家庭教育において非常に大きい。私が子どもの頃は、母親に叱られても祖父がなだめてくれたものです。家庭教育で互いに分担できるのが理想でしょうが・・・。」

 

 「地獄を怖がっていたらひしと抱きしめてあげてくださいよ。地獄なんてテレビゲームでしか見たことないなんて親子は、お寺に行って地獄絵を見てきなさいといいたい。宗教教育は日本で徹底的に禁じられていますから、家庭で教えるしかない。南無妙法蓮華経を唱えようとしたら、次の選挙に影響するからなんて言われる。そんなの関係ないでしょう。日蓮さんが命をかけて伝えた教えです。山岡鉄舟は馬で龍譚寺(白隠が開いた禅道場)まで行って参禅して、また馬で江戸城まで帰って勤務についたという。それぐらい自己研さんに励んだ人です。そういう人を輩出したのが駿河静岡なんです。」

 

「人間の問題は、本質的に人間自身を深めていかないと解決しないように思います。個人と、社会的存在としての人間をどうするかを考えないと、根本は解決しないのでは。教育問題から離れてある種の哲学の問題になるのかもしれませんが、我々学生のころは哲学的なことを一生懸命考えたものですが、日本にそういうものがなくなってしまいましたね。」

 

「親や先生から「お前の夢は何だ」と聞かれること自体にストレスを感じる子どももいるようです。世の中には夢を持って邁進する人もいれば、夢を持った人を支え、協力して叶えようとする人もいます。よくイギリス人は「人間には『キャプテン』と『クルー』の2種類いて、全員キャプテンだったら船は動かない。キャプテンが指示する方向に櫂をこぐクルーがいて、初めて船は進む」という。だから子どもたちに夢を聞いた時、友だちにはっきりした夢を持ってリーダーシップを発揮できる子がいたら、自分にこれという夢がなくてもその人についていく―そういうことも大事だよと教えるべきだと思います。」 

 

「日本の戦後教育は、みんなキャプテンになるよう教えたんですね。それは無理なんだよね。悪しき平等です。平等はあくまでも機会の平等です。もうひとつ、家庭は教育を目的じゃなく手段にしてしまっている。ようするに、いい大学に行くためにいい高校に行き、いい高校に行くためにいい中学に行くという。何になりたいのか、そのためにどの学校を選ぶかという発想がない。親が失敗したことを子どもにもしているように見えます。」

 

「地獄大菩薩の絵を見て潰れそうな会社を立て直した社長さんが実際にいたんですよ。地獄でさえ夢になるのです。言葉教育に力を注いでいる沼津なら、別に白隠さんや地獄大菩薩でなくてもいいので、基礎能力の慣用と道徳心を大切にしてほしい。お隣の小田原には二宮尊徳さんもいるでしょう。尊徳さんの素晴らしさは彼が残した文字や言葉から学んでほしい。大人も子供も精神の骨格は同じです。子どもは親の道具じゃないし、教師は学校の職務業績の指標として見てほしくはないのです。」

 

「我々の世代はキルケゴールやニーチェなどをかじり、神は存在するかどうかなんて思案したものですが、我々下の世代、つまり今の親の世代ではそういうことはしないでしょう?哲学は今の日本は非常に貧困です。大学自身がそうですね。今の学生はまず漫画でしょう。我々は文学やらいろんなものを読みましたが。」

 

「死と直面することで人は哲学になれるんですね。戦前の人が哲学的だったのは、いつ徴兵されるかわからない状況で生と死を考えざるを得なかった。そういう状態に戻すというのは平和に逆行するわけですが。結論は出なくてもいいのです。ある種、自分の在り方についてフレキシブルに考えるというのが大切です。」

 

 「子どもは葬式にたくさん連れていくべきでしょうね。人の死をたくさん見せるべき。」

 

 「言葉の教育は非常に大切です。言葉というのは、ようするに情報を伝えるだけでなく、自分自身が言葉を通してしっかり考えている。その意味で言葉の重要性を考えなければなりません。我々学生のころは、酒を飲みながらも議論をしたものですが、今の学生は議論しません。」

 

 「今の臨床心理学や心理療法では、世界共通で「物語」になっていると相互理解が進むといわれています。物語という形になっていると、なぜ人と人が結ばれるかが理解できる。世界中で、言葉を使って物語にすることで、世界を解釈できるのです。これには子どものころから本を読み、物語が好きになることが大切です。」

 

「日本は言霊の国だったのです。日常の中で言葉を大切にしていた。沼津の理想は言葉教育先進シティです。」

 

 

 白隠さんの物語をつむぐ、芳澤先生という素晴らしいキャプテンの指し示す新たな航路。一番下っ端クルーとして一所懸命漕ぎ続けていきたいと思います。なお駿河白隠塾では2015年2月27日(金)18時から、プラザヴェルデで第1回フォーラムを開催予定です。講師は芥川賞作家玄侑宗久さんと芳澤先生。チラシが入手出来次第、詳しくご案内しますのでご期待ください。

 


富士山のライトアップに必要なもの

2014-12-14 14:48:24 | ニュービジネス協議会

 青色発光ダイオードの開発がノーベル賞を受賞したことで、この冬は街のイルミネーションにもより一層の華やかさが加わったようです。先日の新事業創出全国フォーラムでも、ベンチャー日本一を決める第9回ニッポン新事業創出大賞の最優秀賞(経済産業大臣賞)に、静岡県から推薦のパイフォトニクス㈱の池田貴裕さんが選ばれました。池田さんはLED照明装置『ホロライト』を開発し、遠隔照明システムの事業化を成功させた気鋭の起業家。2012年に静岡県ニュービジネス大賞を受賞し、こちらの過去記事で紹介させていただきました。

 

 

 2012年のときは、「富士山をライトアップさせる」という途方もない夢を披露してくれましたが、もはや夢ではなく、実用化寸前のレベルまで来ているとか。全国フォーラムの展示会場で、実際に富士山にヒカリを飛ばす高性能ホロライト(下の写真右)を見せてくれました。

 

 ホロライトの技術は工場での精密機械の検査、舞台演出、展示会場演出等に使われていて、今後、マーケティング、ブランド、知財、製造等の専門経営チームを作れば、異分野横断の技術融合が可能で、しくみと商品をパッケージにすることで世界市場で圧倒的な存在感を持つ事業になるのでは・・・というのが、今回の受賞理由。富士山ライトアップも技術的にはクリアしたので、世界遺産を対象にするための許可取りと、そのための“物語づくり”が必要です。私は、過去記事でも紹介したとおり、彼の、「ヒカリは地球を平和にする技術」というメッセージを具現化するプロジェクトになってほしいなあと思います。

 

 

 ちょうど現在、原稿執筆中の静岡いちごでは、【きらぴ香】という新品種を取材しました。名前から想像できるように、いちごの表面がピカピカと光沢に満ちているのが特徴。酸味が低く、香りがフルーティーです。・・・ってまるで(清酒の)静岡酵母みたいですねって県農林技術研究所の開発スタッフに話したら、その発想はなかったなあと笑われましたが(笑)。生でそのまま食べるもので、表面がこんなにツヤツヤしてるって考えてみると珍しいのでは・・・?

 

 

 その静岡いちごの取材の一環で12日(金)に上京し、夕方、取材が終わってから、国立科学博物館で開催中の【ヒカリ展】(こちらを参照)を観に行きました。毎週金曜日だけは20時まで開館しているんですね。都内には人気のイルミネーションスポットがたくさんあるし、金曜夜に博物館に来るのは独身オタクだけかな(笑)と思ったら、意外にもカップルや親子連れが多くて、ちょうど18時から始まったギャラリートークでは「光るカイコ」について農業生物資源研究所のスタッフが興味深いお話をしてくれて、大勢のギャラリーでにぎわいました。

 

 

 

 こちらは蛍光タンパク質を持つサンゴ。クサビライシやアザミサンゴの出す蛍光を見せてもらいました。クリスマスツリーはLEDではなく、光る繭。蛍光タンパク質の応用を池田さんのホロライトと組み合わせたら、どんなものが出来るんだろうと不思議な気持ちになりました。

 

 

 

 展示物でとりわけ惹かれたのは、金沢工業大学ライブラリーセンターが所蔵しているガリレオ、ニュートン、レントゲン、アインシュタイン等の有名科学者が書いた論文の初版本。光学の父といわれるアル=ハゼン(イブン・アル=ハイサム)の1572年版の「光学の書」、デカルトの1637年初版「方法序説」、トーマスヤングの1802年初版「色と光の理論について」、ジェイムズ・クラーク・マクスウェルの1865年初版「電磁場の力学的理論」、マックス・プランクの1900年 初版「正規スペクトルのエネルギー分散則の理論」など等、このところ、ちょこっとかじった量子力学の本に出てきた名前がズラズラとあって、もちろん中身はチンプンカンプンなんですが、こういうものを目にするだけで胸が一杯になります。

 

 アル=ハゼンが生きていたのは965~1021年。バスラで生まれてバグダッドで科学を学び、エジプトファティマ王朝の第6代カリフに招かれ、カイロでナイル川の洪水を治める研究をしていたそうです。現地調査をして洪水阻止は不可能と結論付けたが、王に本当のことを言えば殺されるため、狂人のふりをし、死ぬまで外出禁止の刑を受けたとか。でもその期間、重要な数学論文をいくつも書いて、のちに外出を許され、『Kitab al-Manazir』(光学の書/1015~21年)を残したということです。今からちょうど1千年前のことなんですね。・・・ちなみに同時代、日本では紫式部が源氏物語を書いていました。こっちのヒカリは光源氏か、黄金に象られた阿弥陀如来の神々しいお姿なのかな。

 イスラムで『光学の書』が書かれていたとき、光源氏の物語を生み出していた日本が、一千年後の今、光学技術で世界の先端を走っている・・・今年ノーベル賞を受賞した教授たちは、一千年後の世をどんなふうに想像しているんでしょうか。

 

 話は逸れますが、10月に茶道仲間と京都研修したレポートを、参加者の某氏に書いてもらいました。彼が茶道を学ぼうと思ったきっかけについて書いた一節を紹介します。

 

 『急速に発展したコンピュータや情報通信技術、そしてインターネットの登場以降、理系人材のニーズは高まり、デジタル思考の重要性が語られる場面が増えた。2000年代に入ると、大学には「教養」科目は不要、という声さえ聞かれるようになった。実際、大学で江戸の文学を教えている友人からも「人文系は、なかでもおれの教えている歴史は、就職に弱いから人気がないんだ」というぼやきを幾度となく聞いたものである。そんなデジタル全盛の社会の中で企業人として生きていく上で、「教養」は本当に役に立たないのだろうか。

  そんなすっきりしない気持ちでいた頃に「教養」の役割と重要性を気づかせてくれたのが、TRONプロジェクトのリーダーで東京大学教授・坂村健氏である。ある講演会での坂村健先生のお話で、いまでも印象に残っているのが「技術はこれからも進歩するが、そこで得た技術でどんな社会を作ろうとするのか。それを判断する時に重要なのが教養である。3年先、5年先のことを決める時に、教養など役に立たないと思うかもしれないが、30年先、50年先のことを決めるとき、そして、新しい技術が社会にどんな影響を与えるのか予測できないことを判断しなければならないときに、教養は不可欠である」(うろ覚えだが、こんな主旨だったと思う)というお話だった』

 

 池田さんのホロライトが富士山をライトアップするのに必要な「物語」にも、たぶん、多くの分野の優れた「教養」が必要でしょう。アル=ハゼンも、ノーベル賞受賞者たちも、自ら創造したヒカリの到達点は平和な地球だろうと思いたい。その平和は、進んだ技術をどんな社会づくりに活かすかにかかっています。私個人で貢献できることは皆無だろうけど、時間が許す限り、より多くの理系の人と文化や歴史を語りたいし、文系の人とは共に科学を学び合いたいと願っています。

 ・・・とりもなおさず酒を呑むとき話題が広がる。これに尽きるかな(笑)。

 

 なお、ヒカリ展の内容を紹介した番組がBSジャパンで12月27日(土)21時から放送されるようですので、興味のある方はぜひご覧ください(こちらを参照)。


いちご畑から思いを込めて

2014-12-10 10:07:22 | 農業

 この年末は静岡県内のいちご生産現場を取材しています。「旬のいちごが試食できていいねえ~」と思われるかもしれませんが、農業生産者や技術者への取材というのは、見た目ほど楽ではありません。現場の皆さんは収穫の時期に向けて、一年がかりでさまざまな準備をされています。取材者は最後の一番オイシイ部分だけを一部分切り取って見るしかない。一般消費者向けの読み物ならば、オイシイ部分をわかりやすく、それこそキャッチーなフレーズやコピーで伝えればよいのかもしれませんが、生産者や技術者が一年間どのような努力を重ねてきたのか、彼らの人生を賭した仕事を軽い言葉でひとくくりにしちゃっていいのか、年齢をとるごとに重く考えてしまうようになっています。

 

 シンプルな言葉の裏側に、ひとつぶのいちごに賭ける思いの深さを感じさせる・・・そんな文章表現ができるライターになりたいと願いつつ、いつまでたっても成長しない自分にイラつきます。優秀ないちご生産者は唯我独尊にならず、技術コンサルの指導に真摯に耳を傾け、生産者仲間の芽揃い会や品評会等で厳しく吟味してもらうと聞きました。自分も、とにかく書いたものを人に読んでもらい、厳しく評価してもらうしかありません。

 以下は、2009年年末、JA静岡経済連技術コンサル渥美忠行さんにヒヤリングをして書いた『紅ほっぺ』の解説記事です。5年前の取材ですからデータや内容は様変わりし、今期の取材では『紅ほっぺ』の後継品種『きらぴ香』が登場します。それでも、生産現場をつぶさに廻り、指導する渥美さんの姿、渥美さんの言葉を真剣に聞く生産者の姿が伝わればとの思いを込めて書いた記事、ぜひ厳しく吟味していただければ、と思います。

 

 

 

「紅ほっぺ」を生んだ静岡県のいちご栽培

解説/JA静岡経済連 みかん園芸部野菜花卉課 技術コンサルタント 渥美忠行さん

 

静岡県は日本有数のいちご産地

 静岡県のいちご生産額は約100億円で全国第5位(平成19年農林水産省統計・表参照)。高設栽培(高い位置にプランターを設置したハウス栽培)の収穫量では全国トップクラスを誇る、日本有数のいちご産地です。

順位

1位

2位

3位

4位

5位

6位

栃木県

福岡県

熊本県

佐賀県

静岡県

愛知県

産出額(億円)

268

175

123

102

100

99

(平成19年農林水産省農業所得統計より)

 

 静岡県内には約1800人のいちご生産者がいて、平野部から中山間地までさまざまな条件のもと、日々、良質のいちご作りに努めています(JA静岡経済連管轄のいちご農家は約1300人)。生産者の高齢化は、農業全般の課題にもなっていますが、最近では新規就農希望者が少しずつ増えています。

 

 平成21年は県のニューファーマー育成支援制度に30人の応募がありました。年代は20~40代が中心です。この制度の利用者は1年間、農業経営士の資格を持つ生産者のもとで研修を受け、独り立ちします。中でもいちご作りを希望するニューファーマーの割合が多く、いちごは農業経営の柱になり得るという認識が広がりつつあります。

 

いちご作りはマラソンと同じ

 いちごの出荷の時期は冬から春先にかけてですが、生産者は夏~秋も大変忙しく、気を緩めることなく栽培に取り組んでいます。いちご作りで最も重要な作業のひとつに夏場の苗作りがあります。いちごの苗は暑さに弱く、育苗の際は25℃以上にならないよう温度管理することが必須。夏バテしてしまった苗は、人間同様、体力を消耗し、老化が早く進んでしまいます。

 春の収穫が済んで、梅雨~真夏になってもビニールハウスをかけっぱなしにすると、ハウス内の土は雨に当たらず、蒸し風呂状態の中で過乾燥になり、苗が土の奥までしっかり根を張れず、いい実が育たなくなります。優秀ないちご農家は、苗作りのスタートから苗の体力を考え、土壌のケアにも余念がありません。結果的に病気の少ない、植え付けの根張りのよい、健康的な苗になるのです。

 いちご農家はマラソンランナーと同じで、<前半で力を温存し、後半で後方グループから挽回する>なんてことは不可能です。最初からきちんと先頭グループで走ってレースコントロールをしなければゴールは切れない、と言えるでしょう。

 

 

「紅ほっぺ」にかける思い

 静岡県では県内全域でいちごを作っています。栽培条件は各地域さまざまで、たとえば富士山麓の御殿場や裾野あたりでは平野部より夏は涼しく、苗が早く育ち、出荷も早いが、真冬は燃料コストが余分にかかる。伊豆や志太地域は平地が多いが水田地帯で水の管理に気を遣う。遠州地域は砂地が多い。石垣いちごで知られる静岡市の久能海岸や伊豆南部は段々畑が多い…等。私たちは各地域の優秀ないちご農家の作り方を検証しながら、他の農家にアドバイスを行っています。

 そんな中、登場した『紅ほっぺ』は、それまで「どんな条件でも作りやすい」と言われた『章姫』に慣れていた生産者にとって、少々手間のかかる品種でした。

 「大粒なので、色がつくのに時間がかかる」「気温が高いと追熟が早まり、色がのり過ぎて見た目が損なう」「なかなか形がそろわず、パック詰めも難しい」など等、当初は戸惑う農家も多かったようですが、JA伊豆の国市やJA遠州夢咲等、いちご栽培先進地の、地域を挙げての努力の甲斐あって、「こんなに味のいいいちごは他にない」「色も形も素晴らしい」と市場から高い評価を得ました。

 現在、『紅ほっぺ』の栽培面積は、全体の82%を占めるに至っています。急速に浸透したのは、生産者の栽培技術の向上はもちろんのこと、『静岡県いちご協議会』『しずおか紅ほっぺブランド推進実行委員会』等、県内の関連組織挙げてのバックアップが奏功したため。それだけ『紅ほっぺ』といういちごは、多くの作り手や売り手を魅了し、ブランド化への思いを熱くしたのでした。

 私たちは、『紅ほっぺ』という品種を得た恩恵を存分に生かし、静岡県のいちご生産のますますの発展と後継者へのバトンタッチに尽くしていきたいと思っています。

 

<2010年1月発行 JA静岡経済連季刊誌【スマイル】42号 静岡いちご特集より>