杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

『葬と供養』を読んで

2014-08-28 09:07:53 | 仏教

 今年も自然災害で多くの人命が失われました。現場で捜索活動を見守るご家族の姿をテレビで拝見するたびに、自分があの立場だったらと想像し、涙ぐんでしまいます。

 

 バイト先のお寺では、この夏も、お盆の時期に多くのお墓参りの方々をお迎えしました。時々、お墓やお位牌や仏壇の作法について聞かれるのですが、とんと答えられず、和尚さんから「こうするものだ」と言われても、どういう意味があるのか理解できず、意味がわからないことを日本人は「そういうものだ」と刷り込んで、ずーっと続けてきたんだ・・・と不思議な気持ちになったりします。

 

 その、わけのわからないことにお金を遣うことに違和感を感じ始め、「自分の葬式は自分でナットクの行くよう、事前に決めておきたい」と、“終活”に励む人が増えてきたり、いっそのこと、「葬式なんていらない」「お墓もいらない」という声があるのも事実。

 

 いずれにせよ、お盆があって終戦記念日があって、今年のように自然災害で多くの人命が失われたりするこの季節は、『死』というものを身近に感じます。伴侶も子どももいない私自身は、死んだ後のことは知ったこっちゃないと諦めているクチで、せいぜい生きているうちに好きな仏像やお寺めぐりをしたり、お寺の仕事を手伝うなりして功徳を積んでおいて、死んだ後はどこぞのお寺に無縁仏として拾ってもらえればいい・・・な~んて考えています。これも長~い目でみた“終活”かもしれません(苦笑)。

 

 

 

 

 先日、図書館の新刊コーナーで五来重氏(大谷大学名誉教授)の『葬と供養』という本に出合いました。日本古来の葬墓儀礼(民俗学)と仏教(宗教学)を統括した1000ページを超える大著です。なんとなく読むべき本だと直感し、借りてきたのはいいのですが、返却期限が近いのにまだ400ページちょいしか読めず、最後まで読み通すことは難しそう・・・。とりあえず、今まで読んだ中で、自分の本だったらマーキングしておきたいと思った箇所を書き留めておこうと思います。

 

 

Imgp0626  葬は日本人の民俗であるとともに、宗教であり文化であり、そして歴史である。現在はもっぱら日本民俗学が日本人の葬制資料をあつめているが、民俗学だけで推論が出せるものではない。

(中略)過去の文献や遺物をあつかう歴史学や考古学、そして日本宗教史や日本文化史が関与しなければならない。そして葬を通して日本人の宗教の根源、日本文化の本質、そして究極的には「日本人とは何か」という問いに答えなければならないのである

 

 

 

 

 

 大部分の日本人の葬をあつかう宗教者は日本仏教の僧侶である。その僧侶のなかには、ちかごろは葬式をおこなうのは「仏教」ではないといってこれを嫌うばかりか、みずからを「葬式仏教」といって自嘲する。これは仏教といえばインド仏教か中国仏教だけで、仏典やその論疏、語録と教理書のなかにしかないとかんがえたからであろう。

 しかし日本仏教は日本人の精神生活をささえる日本宗教として、日本人、日本社会のなかに定着したものである。したがって日本人の「死」にともなう宗教感情と、それを表現する宗教儀礼に日本仏教が関与するのは当然のことであった。「死」こそ宗教のもっとも大きな課題であり、それを「成仏」や「往生」のような仏教的理念であつかうのが日本仏教であったが、僧侶が死者を成仏させたり、往生させたりする自信を失ったとき、日本仏教は葬式仏教になったのである

 

 

 

 その自信回復の道は一つにはそれぞれの宗派に固有の宗教的実践を通して「成仏」や「往生」を可能にする宗教的力量を獲得することである。それは民衆の信頼と心服がえられる人格を完成することにほかならない。

 またもう一つの道は、日本人の「葬」の宗教的意味を理解することにある。日本人には日本人固有の死生観や霊魂感があり、その儀礼的表現として「葬」があるのだから、まず根源を理解すれば儀礼の意味がわかる。僧侶が儀礼を執行するのに、意味のわからないことをするほどつらいことはないだろう。 

 神道の大学には儀礼の意味や実習を教える学科があるのに、仏教の大学には葬制の講義も実習もない。お前たち卒業したら適当にやれ、というわけである。若い僧侶が自信を喪失するのは当然のことである<【葬と供養】5~6ページより抜粋>

 

 

 

 

 序文のこの一説に出合ったとき、なるほど、と思いました。以前、親族の法事で、後を継いだばかりの若い住職がいい話をしようと一生懸命になっても、教科書をなぞったような話しかできず、年配の参列者にまるで響いてこなかった・・・なんて場面を思い出したのです。

 

 

 

 

 本書を読むまで意識したことはありませんでしたが、8世紀に仏教が伝来し、火葬が広まる以前、日本では、土葬はもとより、風葬・水葬という自然葬が中心だったんですね。死者を室内または庭に“モガリ”をつくって2~3年安置し、風化させ、それから本当のお墓に埋葬したようです。

 

 モガリの最中には、遊部と呼ばれる人々が魂を鎮めるために祈りや踊りを捧げました。五来氏によると、日本人は、人間の霊魂は肉体を持っているときは現世だけに接続し、死をきっかけに前世と来世をふくめた3つの世代に接続できると考えていました。「葬」は死霊になったときの儀礼、「供養」は祖霊の中に帰入したときの儀礼、祖霊として一定期間を経たら神に昇華する、その儀礼が「祭祀」。

 

 死霊になったばかりの霊魂は、現世に思いを遺し、災いや祟りをおこす“荒ぶる”“すさぶ”存在であるから、遊部の鎮魂が必要だったのです。五来氏は、天岩戸開きの天鈿女命の神楽も、天皇家の始祖がお隠れになったときのモガリの鎮魂歌舞であり、お神楽とは鎮魂を目的としたものとして、葬制と日本芸能史を関連付けて研究すべしと述べておられます。

 

 

 ちなみに遊部の人々はモガリの風習が無くなった後、行基の聖集団に加わったそうです。モガリで使われていた棺台、花籠、天蓋などは今も葬具として残っています。

 

 仏教の中で唯一、禅宗の葬具にはなぜか「鍬」があり、葬儀のクライマックスで導師が一喝して木製の鍬を投げつけるという摩訶不思議な儀式を行なうんですね。

 なんで農耕具の鍬を?と思いますが、五来氏によると、古墳時代は鉤(かぎ)形の小枝を「お鍬様」と呼んで使っていた。古墳の副葬品に鍬のかたちをした腕輪が出土しているので、鍬は鎮魂の葬具だったと想像できる。鍬のかたちをした鉤状の枝は、民俗学的にみると、山の神を手向(=鎮魂)する目的で峠に祀ったそうです。そもそも、峠(たうげ)とは手向け(たむけ)の所、という意味があったそう。祟りをおこしやすい荒々しい霊に対し、鍬形の枝を向けて鎮魂する。この原始的な風習が、禅宗の中に残った、と五来氏は考えます。

 

 

 

 お坊さんが法事の席でこんなふうに一つ一つの葬具の由来を解説するだけでも、参列者は「おおーっ」となるかも・・・と思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 要するに禅宗のおこなう葬送儀礼の鍬投げは、日本民族がもちつづけた霊魂観念に基づいた呪術と呪物を、仏教化して継承したのである。これに大円相の意味づけをして作法することは、民衆の心を尊重しながら、そこに禅の精神を表現するという、現実と理想の両面充足である。

 (中略)私は日本仏教の葬送儀礼には、もっと民族宗教の要素がつよかったとおもうが、明治・大正以降、そしてとくに戦後、宗教にも合理化、近代化の波がおしよせて失われたものが多いことを知っている。それだけ死者の霊魂が軽んじられているわけで、それは逆に宗教が民衆から軽んじられていることに通ずるものとおもう。すべて葬祭業者に委託して霊魂の救済を怠る仏教は、やがて民衆から見限られるだろうとおもう。<【葬と供養】333ページより抜粋>

 

 

 

 

 この本、買えたらいいんですが、2万円ちょいする高額本ゆえ、図書館で貸し出し継続できたら、先を読み進んで、またご報告します。すみません。

 

 

 


酒器をめぐる夏

2014-08-19 11:12:28 | 地酒

 この夏はお酒代よりも酒器代にお金をつかってしまいました。

 

Dsc04472  きっかけは、9月に開かれる蕎麦の会で磯自慢を使いたいという主催者を、磯自慢酒造に案内したとき。おみやげに磯自慢ロゴが入ったグラッパグラスをいただき、自宅であれこれ愉しんでみました。磯自慢のような甘くフルーティーな酒には、なるほどピッタリ。雑然とした我が家のリビングが、一瞬、高級ワインバーになったかのような気分でした。新しい酒器を使うときって、新しいメイクや洋服を身に纏うような高揚感があるみたいです。

 

 

 その後、仕事で上京した足で東京国立博物館の故宮博を観に行き、紀元前3000年ぐらいから酒器が作られていたこと、酒器が皇帝の神事と密接なかかわりが合ったことや歴代皇帝の故宮コレクションの中でも異質な存在感を示していたことに心惹かれました。

 

 さらに数日後、プラザヴェルデ沼津の白隠講演会の折、同会場で開催されていた開館記念陶器市をのぞいて、久しぶりに自分遣いの酒器を何点か購入しました。陶芸品は学生の頃から好きで当時はコーヒーカップ、酒を覚えてからは酒器をコレクションしていたのですが、2009年8月11日の駿河湾沖地震で、耐震補強していなかった食器棚は無残に倒れ、コレクションの大半を失ってしまったことから(こちらを参照)、しばらく陶器集めから遠ざかっていたのです。

 

 

 折りしも茶道の勉強で古田織部に親しんでいたこともあり、瀬戸・赤津焼窯元の【喜多窯・霞仙】の織部のぐい飲みに一目惚れ。事前にPRしていなかったのか、開館記念イベントだというのに陶器市会場はあまりにも閑散としていて、全国から集まった出展者の方々に「静岡に悪印象を持ってもらったら哀しい」と思い、ついつい皿、マグカップ、急須、会津塗やらを買いだめしてしまいました。地震で壊れたら実も蓋もないと、100円ショップ食器しか使わなくなった自分からしたら、ビックリするような大人買いです。

 

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 帰宅後、クレジットの明細を見て少々後悔しつつも、当日拝聴した芳澤勝弘先生の白隠のお話を思い浮かべながら織部で白隠正宗を一献、磯自慢をなめらかな質感の会津塗でグイッとやったら、なんとも至福な気分になりました。いい器は、やっぱり味わう気分を盛ってくれますね。それに、なんか、やっぱり、日本酒には手のひらサイズのぐい飲みのほうがしっくりくる・・・。酒器って大事だなあと改めて感じました。

 

 

 

 Imgp0571 ちょうど、京都今宵堂さんが8月あたま、静岡で展覧会を開催されるということで、月一回、日刊いーしずで連載している地酒コラム【杯は眠らない】では酒器について書こうと思い立ち、酒器の話を聞くならまずはこのご夫妻!ということで、伊豆の国市の安陪均さん絹子さんを訪ね、その2日後には今宵堂さんの個展を拝見し、富士山酒器で愉しませていただきました。

 

 

 安陪夫妻はアンティークコレクターでもあり、江戸時代のモダンな蕎麦猪口で冷えた吟醸を夏らしくさっぱりいただきました。

 

 

 

 今宵堂の上原夫妻の酒器は遊びこころ一杯。Imgp0605 私は青の酒杯&ぐい飲みを購入しました。金明、高砂、富士錦、富士正・・・富士山周辺の銘柄を楽しむにはもってこいです。

 

 

 

 

 

 

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 しずおか地酒研究会では、1999年9月、「月夜に 乾杯!酒器あわせ」という地酒サロンを開催しました。日本三大地蔵「延命地蔵菩薩」のある宣光寺(磐田市見付)で陶芸家吉筋恵治氏(森町)の陶芸談義を楽しみ、42名の参加者がMY酒器を持参し、参加してくださった蔵元7社の秋上がりの美酒を楽しみました。

 今でも忘れられないのが、地元・千寿酒造の山下社長(当時)が、門外不出という山下家秘蔵の古伊万里をお持ちくださったこと。お酒の味よりも(ゴメンナサイ)、古伊万里独特の鮮やかなデザインが今でも目に浮かびます。

 

 

 Imgp0583 日本の酒器は、形状、品質、絵柄の違いに加え、時代や地域性の違いも楽しめます。地酒同様、造り手が身近にいて、ともに語り合える。お気に入りの陶芸家・酒器との出会いは、本当に貴重です。そんな酒器の力を借りることで、美酒の記憶がさらに鉄板なものになるでしょう。こういう経験はワイングラスでは得られないと思うし、日本酒を海外に持っていくなら日本酒はこういう酒器で愉しむんだ!という文化も紹介すべきではないかと思うんですが、どうも今のトレンドから外れているような・・・。

 

 とりあえず、酒器についての雑感をまとめた【杯は眠らない】、ご覧くださいませ。

 


瓢箪と道化師

2014-08-08 11:13:58 | 本と雑誌

 先月の記事で紹介した【富士と白隠】講演会の講師芳澤勝弘先生から、思いがけずコメントをいただき、お礼に地酒「白隠正宗」をお贈りしたところ、お返しに先生より著書をいただく幸運に恵まれました。自分の知の糧になってくれる静岡酒の蔵元さんに感謝の気持ちで一杯です。

 

 芳澤先生からサイン入りでいただいたのは

【瓢鮎図の謎~国宝再読ひょうたんなまずをめぐって】

 

【THE RELIGIOUS ART OF Zen Master Hakuin 】

の2冊。

 

 

 Img112 後者は英語本だったので後回し(苦笑)にして、前者は日本の水墨画の源流といわれる京都妙心寺退蔵院の国宝『瓢鮎図(ひょうねんず)』が表現した禅の世界観について書かれたもの。この世界観を継承した白隠禅師の瓢箪画にも触れています。

 Photo 白隠さんの瓢箪画、地酒ファン&歴史ファンにとっては、白隠正宗純米大吟醸のこのラベルでお馴染みですね。(写真は以前撮った大吟醸のものですが、現在は純米大吟醸に使用しています)。

 これは白隠さんが朝鮮通信使の曲馬団を描いた、“瓢箪から駒”そのものズバリ、なんですが、芳澤先生は「瓢箪を手にしているのは布袋和尚。布袋が瓢箪から馬を吹き出しているところがミソ」と指摘されます。

 

 

 

 

 

『禅では「意馬心猿」という言葉があります。馬や猿のように制御しにくい心のことです。妄想情識がつぎからつぎへと起こってコントロールしにくい「識馬(こころ)」を、布袋和尚がその道力によって、自在に操っているところです。これもまた、われわれ人間の「心模様」を描いたものであり、「瓢鮎図」のテーマとつながるものがあります』(瓢鮎図の謎 P228~229より抜粋)

 

 

 

 瓢箪は、心の象徴。心は禅の根源的テーマ。芳澤先生が禅祖・達磨と弟子の慧可(神光)の問答をわかりやすく解説してくださっています。

 

『神光「私は心が安らかではありません。どうか安らかにしてください」

達磨「その安らかではないという心を持ってきなさい。そうしたら安らかにしてあげよう」

神光「その心というのは何かと求めていましたが、結局得ることはできませんでした」

達磨「(それでよい)それで安心が得られたのだ」

 

 (中略)この答えと達磨の問いとの間にどれくらいの時間があるのか。即座に答えたのでも、翌日になって答えたのでもなく、ずいぶん長い間、呻吟苦悩したことが想像されます。そして、とうとう究まり極まったところで、神光は「心を得ることはできませんでした」と答えたのにちがいありません。

 

 そして、この問答によって、神光は達磨から認められ付法され、名前を慧可とあらためて、禅宗の第二祖となったのです。神光は、どれくらいかわかりませんが、ずいぶんと悩んで「心とは何か」を考えたにちがいありません。そして、とうとう「心を覓(もと)むるに得可らず」という結論に達し、達磨から「それでよい」と認められたのです。雪舟の「慧可断臂図」(神光が達磨に教えを乞うため自分の腕を斬って志を示した絵)は、このような禅宗が始まる発端の物語を描いたものです』(瓢鮎図の謎 P36~39より抜粋)

 

 

 『瓢鮎図』は雪舟の師周文のそのまた師匠の如拙という人が、室町4代将軍足利義持の命で描き、その絵の上に、京都五山の禅僧31人が義持の命で詩文を書いている。31人は瓢箪で鮎(なまず)を捕まえられるかどうか理屈を捏ね回し、主張し合っているのです。

 31人中、24人が「捕まえられない」とし、4人は「どっちつかず」、3人は「捕まえられる」と言っています。評論家の小林秀雄は「瓢箪の酒を鮎に飲ませようとしているようにも見える」と評したとか。これ、ディベートの授業の題材にしたら面白いなあと思いました。

 

 

 

 芳澤先生からいただいた【瓢鮎図の謎】と格闘している最中、茶道研究会の望月静雄先生から、道化師(クラウン)望月美由紀さんがお書きになった【泣き虫ピエロの結婚式】という本をいただきました。

 

Img111  美由紀さんは望月先生のご長女。大道芸ワールドカップの市民クラウンとして活躍し、プロの道化師を志して上京。無理がたたってうつ病を発症するも、クラウン修業で学んだ笑顔の効能を糧にうつと向き合い、2011年に結婚。ところが夫は原因不明の難病に倒れ、結婚式からわずか10日後に緊急入院、40日後に亡くなるという悲劇に見舞われます。

 この尋常ならざる経験を経て、“クラウン精神”の価値を伝えようと、第4回日本感動大賞(ニッポン放送等主催)に応募したところ、見事大賞を受賞し、この6月に本として出版されたということです。

 

 

 一般人が書く伝記や解説本の場合、プロのライターが聞き書きしたり構成したりして、それなりの体裁に仕上げることもあるのですが、この本は美由紀さんが一文字一句、身を削るように書き込んだんだ、と伝わってきます。

 第三者が美由紀さんの辛さを理解するのは不可能でも、道化師という仕事に惹かれた理由、うつを抱えていたときの周囲との距離の置き方、愛する人との出会い・別れ・再会・結婚・死別、そして辛い立場の人に寄り添うクラウンという仕事の真価を実感するまで、美由紀さんの心がさまざまな揺らぎを経たこと自体は理解できる。経験の大きさや重さに違いがあれど、自分もつねに心の揺らぎを経験しているから、かもしれません。

 

 瓢箪や鮎のように、しょせん、心とはとらえきれない存在。それでも、読者が「美由紀さん、伝わったよ」と感じたのならば、達磨さんが神光に「それでよし」とおっしゃったのと同じではないでしょうか・・・。

 クラウンとは、揺らぐ心を整えてくれる現世の布袋さん、なのかもしれませんね。

 

 【泣き虫ピエロの結婚式】は全国書店で好評発売中です。大道芸ワールドカップという世界に誇る静岡自慢の価値も伝えてくれます。ぜひお手にとってみてください!


土中出現した国宝級の河津平安仏像群

2014-08-02 23:15:00 | 旅行記

 7月31日~8月1日と久しぶりに伊豆を縦走。河津では以前から関心のあった【伊豆ならんだの里・河津平安の仏像展示館】を訪ねました。Img110_2

 

 

 開館は2013年2月。場所は河津川の左岸から伊豆急行の線路に沿うように下田方面に進んだ山間の里・谷津(やつ)の南禅寺境内にあります。南禅寺と書いて『なぜんじ』と読むそうです。

 

 寺は山の中腹にあり、駐車場からはかなり急な登り坂を250メートルほど登ります。

 

 Imgp0596_2 この時期の日中炎天下、素足にサンダル履きだった私は、1分も経たないうちに足の裏が痛くなり、ヒイヒイゼイゼイ・・・。途中の案内板の「平安時代の仏像が待っている」のひと言に励まされながら汗だくでたどりついたお寺は、(当然ながら)京都の南禅寺とは違って素朴な村の御堂といった趣き。寺の由来が書かれた看板によると、もともと谷津の地には奈良時代に建てられた『那蘭陀寺(ならんだじ)』という七堂伽藍の大寺院があったそうです。

 

 

 

 

 

 『掛川誌稿』(天保年間1833~44)によれば、「……中古南禅寺と云は誤也といへり、今は薬師堂一宇、奥谷にあり、村人は専ら南禅寺と呼、……南禅寺は自ら別にて、那蘭陀寺と共に荒廃せしに因て、再興の時二寺を併せて、那蘭陀寺の旧号を冠せしにや、総て詳なることを得ず、…」とあり、2つのお寺がひとつになったようですが、これ以上のことは不明。谷津の周辺には「弥勒」「大門」「仏ヶ谷」という地名があることから、かなりの規模だったことがうかがえます。

 

 室町時代の永享4年(1432)、大規模な山津波に襲われ、那蘭陀寺の御堂や26体あったという仏像は土の中に。ところが埋もれていたのが赤土(粘土質)だったようで、幸運にも土がクッション役になり、24体が掘り起こされました。このうち本尊薬師如来像はじめ何体かは土の上にお顔が出ていたのですぐに発見され、ほぼ無傷で掘り出されたそうです。スンごい仏像パワーですね!

 

 

 山津波で廃寺になってから100年余経った天文10年(1541)の秋、温泉治療にきた鎌倉正光院の南禅和尚がここに坊を営み、和尚を慕った里人たちが「南禅坊」と呼んだことから南禅寺の寺号で復興。江戸時代には天台宗聖護院系の山岳修験の寺となり、明治5年の修験道廃止まで続いたそうです。詳しい系図は史料が火災で紛失してしまって不明だとか。

 

 

 Imgp0593_2

 現在の南禅寺本堂は、里人の浄財で文化11年(1814)に再建した簡素な御堂です。それからちょうど200年。平成の世に新設された展示館は一見、ごく普通の資料館といった雰囲気ですが、中に入ったら、仏堂さながらのレイアウトで、造られて1200年は経つ平安木像24体が、ガラスケースに囲われることもなく、すくっと安置されていました。一瞬、「ここは京都か奈良か?」と疑ってしまうほど。いや、京都奈良でも平安木像をこのように空間展示しているところは少ないでしょう。

 

 

 

 まず真正面中央にドーンと安置された本尊薬師如来像。カヤの木の一木彫りで平安時代前期~中期頃の作とされています。

 

 この薬師如来像、1200年前の木像とは思えない状態の良さです。薬師如来は手の指の第二関節あたりから水かきのようなものが付いていて、病む人々を余さず救い出すと如来パワーを示すのですが、調査した専門家によると、この像は水かきが指の第一関節から付いており、まさに古い時代の証拠だとか。もちろん静岡県内では最古の仏像で、全国でも指折りの国宝級の平安木像です。

 実際、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)で調査のために一定期間保管され、南禅寺に昭和31年に戻されたとき、国宝指定されるべきところ、国宝を保存管理する諸条件が金銭的に困難だったため、条件の緩やかな県指定になったそうです。・・・過去、日本酒の世界で、酒質は特級クラスでも高い酒税を上乗せして売ることのできない地方の地酒は、あえて二級酒で売っていたことを思い出しちゃいました(苦笑)。

 

 

 

 Imgp0588_2 館内の写真撮影は本来NGですが、案内してくださった管理人さんにこちらの職業を伝え、「展示館PRの一助になりたい」とお話したところ、仏像写真を無断転用されるような撮り方でなければ、との条件でお許しをいただき、出入り口から遠目に撮らせていただきました。ご尊顔は展示館HP(こちら)を参照してください。

 

 展示館完成前、南禅寺本堂内に安置されていた頃は、ガラス越しながら写真撮影自由だったみたいで、数々のブログに写真がアップされています。「ガラスもない頃は、我々ごくごく普通にほとけさんを触って拝んでましたよ」と管理人さん。南禅寺は特定の宗派に属さず、住職もいない無人寺で、地区の住民たちの浄財で護られてきた“里の寺”。ガラスケースで覆ったり撮影不可にするのは、住民の方々の本意ではないような気がします。

 

 

 24体のうち、僧形坐像(おびんづる様)一体だけ、お触りOKになっています。専門家や研究者からは「平安木像を自由に触るなんてあり得ない!」と猛反対されたそうですが、「おびんづる様は触って拝むほとけさまとして長く護られてきたのだから」というのが地区の人々の総意。

 

 

 

 ほか、東海地方最古の地蔵像となる『地蔵菩薩立像』、本堂にあった頃は「拝めばいつまでも若々しく美しくいられる」と女性に信仰されていたという『十一面観音像』、甲冑をまといヨーロッパ巡回展では古代ローマの勇士のようだと絶賛された『天部立像』など国宝級の木像がズラリ。埋まっていたのが赤土(粘土質)ではなく黒土だったため、一部が朽ちてしまった像もありますが、管理人さん曰く「直径1・4センチの螺髪が8つ発見されたが像本体が見つかっていない。まだまだ土の中に埋もれたほとけさまがいらっしゃる」とのこと。仏像ファンとしてはワクワクさせられますね!

 

 

 それにしても、なぜ中央の都から遠く離れた伊豆・河津の地に国宝級の仏像が続々と出土したのでしょう。

 

 この地は「河津」の「谷津」。「津」のつく地は港を意味します。我々はつい、東海道を中心とした陸路を頭に置いて、街道沿いは発達し、街道から遠く離れた半島の先端のような土地は文明後進地と決め付けてしまいますが、陸上用の大型輸送車輌が登場するまで、物流の中心は船。船が立ち寄る沿岸沿いの地は、ヒト・モノ・情報の交流拠点だったわけです。

 

 この地にも、仏教が伝来して間もない奈良時代に早くも伝道師が足を踏み入れ、布教活動を行い、信仰の拠点を築いた。・・・日本が島国で、主な交通手段は船だという至極当然のモノサシで見れば、何の不思議もありません。またひとつ、歴史のとらえ方を教えられた気がしました。

 

 Imgp0591_2 展示館は10時から16時まで。水曜休館。入館料は大人300円です。キツイ登り坂NGの人には、事前に電話(0558-34-0115)すれば地区の人々が送迎してくれるそうです。

 そこまで地元がリスクを背負うくらいなら、もっと便のよい平地に建てればよかったのに・・・とも思いますが、「1200年もの間、みほとけたちが守られてきたのは、南禅寺が建つこの地の土質、湿度、風力等の自然条件があってこそ。環境を変えるべきではない」との判断があったとか。

 

 このみほとけたちが、立派な宗教法人や財団法人が運営する寺院、博物館の所蔵であれば、すんなり国宝指定を受け、ニュースバリューも高まって、一大観光地になったかもしれません。しかし1200年生きながらえるパワーを持つみほとけたちは、地域で浄財を負担し、必死に守り続ける里の人々のもとに還ってきました。このお話のほうがよっぽどニュースバリューがあるのではないでしょうか。

 そして一過性のニュースで終わらせることなく、語り継がれる価値ある物語として効果的に発信していかなければなりません。

 

 

 物語のチカラを活かしたい、活かすべきだと強く思う一方、こうして個人ブログでしか発信の場をもてない自分の非力が情けなくなります。いずれにせよ、もう少しこの地の仏教伝来の歴史について調べなければ、と考えています。情報をお持ちの方はぜひご教授ください。