杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

セレブ・デ・トマト訪問

2011-11-28 08:19:28 | 農業

 25日(金)、JA静岡経済連の情報誌スマイルの取材で、東京の大田市場と、表参道にあるトマト専門店『セレブ・デ・トマト』に行ってきました。○○専門店ってオーナーさんが○○がメチャメチャ好きなのか、はたまた生産者・販売店のアンテナショップ的なものをイメージしていたのですが、ちょっと違っていました。

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 表参道店は、紀伊国屋ビルの裏、セントグレース大聖堂の向かいにあるモダンなショップモール「ポルトフィーノ」のB1階にあります。

 運営するのは㈱ブランドジャパンという会社。2006年設立ですが、お店は2005年にオープンしています。会社が作ったお店じゃなくて、お店のために作った会社のようです。

 

 

 

 お店を作ったのは、農業振興コンサルタントの吉本博隆さんと、栄養士で特産品開発プランナーの妻美代子さん。徹底した現場主義で全国各地を回り、JAや行政に対しても歯に衣着せぬ鋭い助言で知られたご夫婦です。

 

 

 そんな吉本夫妻が、「産地というよりも、個々で努力する生産者とつながっていきたい。彼らに、作った物が評価され、高く売れる喜びを伝えたい」と考え、作ったお店が、セレブ・デ・トマトというわけです。

 

 

 

 トマトに特化したのは、夫妻がとくにトマトに思い入れが強かったわけではなく、トマト、とりわけ高糖度フルーツトマトという品目に農業的付加価値があったから。

 農家というのは、生産努力がなかなか所得に反映されない中で先祖伝来の土地を守っていかなければなりません。所得が上がらなければ子どもに継がせたい、子どもも継ぎたいという気持ちになれないのも当然で、少しでも付加価値のある農業経営に切り替えて行く必要があります。吉本夫妻には、農家に希望を与える品目を具体例に実践していく必要があったのです。

 

 

 

 高糖度フルーツトマトは、ひと口食べれば、その美味しさは誰でもすぐに解ります。市場も着実に伸びています。

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 「トマトは日本の農産物の中でも高付加価値の最たるもの」と判断した吉本夫妻は、開店の3年前ぐらいから全国の産地で生産者の開拓に取り組み、「トマトを使わない料理や商品は一切扱わない」というコンセプトでオープンさせました。

 しばらくはコンサル業務と兼業していたのですが、外食業は片手間では出来ないと判り、会社を作って店舗運営専業に。

 

 

 トマトが苦手な連れと一緒に来ても別のメニューを・・・なんてサービスはなし。価格もジュースやジャムが1000円~、スイーツは600円前後、パスタ料理は2000円前後と高めに設定しました。

 「そんな店が成功するはずがない」と周囲から猛反対されたそうですが、店の運営を手掛ける吉本美代子さんは、「高くても売れることを農家に示すのがうちの役目」と一切妥協せず。そのために、調理師やパティシエ等の人件費を惜しまず、出店地も「日本で最も眼と舌の肥えたお客さんが買い物する町」と青山と表参道に限定。厳しい制約を自らに課し、開店6年、着実に実績を重ねてきました。

 

 

 

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 毎月のようにテレビ・雑誌の取材を受け、店の存在が全国津々浦々に知られるようになって、今では一般客に交じって全国のトマト生産者が“視察”にやってくるセレブ・デ・トマト。

 店舗スタッフは毎日トマトと向き合い、トマトの“目利き”をするプロ中のプロですから、彼らとの対話はホント、貴重だと思います。生産者の間では、「セレブ・デ・トマトと取引できれば一流になれる」と語られるほど。 

 

 静岡県産ではJA遠Imgp5354州夢咲の「夢咲トマト」がショーケースの一角に堂々と置かれていました。

 

 

 

 このレベルのお店は、静岡ではなかなか難しいのかもしれませんが、吉本夫妻の取り組みは、農業関係者にも外食業者にとっても、大きな示唆を与えてくれると思いました。

 

 

 

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 取材後に試食した完熟トマトのサラダ(写真)、フルーツトマトのポモドォーロ、トマトのティラミス・・・いずれも食べ応えがあるのに食後感がサッパリしていて、胃もたれせず、さすが栄養士の吉本さんがプロデュースするだけに、使う調味料も味付けにも配慮が行き届いているって実感しました。

 ヘルシーさを仰々しく謳わないところがまた潔い。吉本さんは「食事に一番大切なのは美味しさ。“栄養士が考える健康食”では夢がない。味が夢を売る店にしたいんです」と明快に語ります。

 

 

 夢のあるお店・・・シンプルだけどこれほど素敵なコンセプトってないかもしれない・・・ですね。

コメント (1)
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茶壺と陰陽五行説

2011-11-27 11:18:40 | 駿河茶禅の会

 9月から月2回のペースで開催中の(社)静岡県ニュービジネス協議会『茶道に学ぶ経営哲学研究会』、今月の2講座の紹介が遅くなってしまいました。参加者が若干減ってきているけど、内容は回を増すごとに濃~くなってます。

 

 11月は茶道の世界の1年の始まり、だそうです。炉開き(畳の一角をはずして炉を炊く)をし、茶壺で保存されていたお茶を「口切り」(封切り)します。そんな決まりごとの意味を、11月の講座では望月静雄先生に詳しく解説していただきました。

 

 

 

 

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 11月2日(水)は、JR静岡駅ビルパルシェの7階会議室での座学でしたが、茶道の哲学の根幹をなす陰陽五行説の基礎知識を伝授していただきました。

 ち~っとヤヤこしいけど、日本の伝統的な暦や時間の見方にも参考になるので、オトナの常識として知っておきたいところですが、一度や二度の講座ではさわりのさわりぐらいしか理解できない、底抜けの奥深さ・・・。でもこういう古い哲学に基づいて茶の湯の世界観が形成されていることが解り、あー、もっと早く勉強し始めればよかったと痛感しました。

 

 

 

 

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 そして11月16日(水)、あざれあ茶室での講座では、陰陽五行が茶室でどのように表現されているかを具体的に解説していただきました。茶壺の封を切る“口切り”にちなみ、望月先生が、茶壺を封する見事な組紐のテクニックも披露してくださいました。

 

 

 

 

 陰陽も五行も、中国の古い哲学で、陰陽は、陰と陽という相反する2つの気によって自然の秩序が保たれているという考え。天を重視した老荘思想家(道家)が主張していました。

 

 五行は、万物が5つの元素ー木・火・土・金・水から組成されているという考え。人を重んじる儒家によって広まりました。道家と儒家の思想であるこの2つの哲学を組み合わせたのが〈陰陽五行〉で、3世紀に中国に入ってきた仏教と習合し、密教の基盤となりました。日本には7世紀ごろ伝来し、日本流の陰陽道が確立されます。

 

 

 

 

 五行の中で大切な考えに〈相生=そうしょう〉と〈相剋=そうこく〉があります。〈相生〉は文字通り、相手を生かすもの。木から火を、火から土を、土から金を、金から水を、水から木が生まれると考えます。つまり、木は燃えて火となり、燃えた後の灰は土になり、土が山となって金属を産み、金属は分解して水を生じる。そして水は木を育てる・・・というわけです。

 

 一方、〈相剋〉は、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋つということ。木は土を押しのけて成長し、土は水をせきとめて吸収し、水をかければ火は消え、火は金属を溶かし、金属は木を切り倒す・・・というわけです。戦国時代の“下剋上”なんて言葉もこの考えから来ているようです。

 

 

 

 

 茶道では、茶室を、陰陽五行が保たれた理想の宇宙空間だと位置づけ、天板は天を、地板は地を、4本の柱は東西南北や春夏秋冬を示しています。床の間を北に、東南に灯りをとって、亭主は北=陰を向いて点前をし、正客は南=陽を向いて座ります。ちなみに裏千家では茶室に入るとき、右足から入り、畳の敷き合わせを踏む時も右から。

 

 

 炉の中にも五行が示されています。木の炉縁、火の炭、土の炉壇、金(鉱物)の釜、そして湯(水)。五行棚といって、板、炭火、土風炉、釜、湯の5つを納める中置き用の棚まであるそうです。

 

 

 

 

 

 

 陰陽五行の考えに基づき、木、火、土、金、水、(もく、か、ど、ごん、すい)の五行にそれぞれ陰陽2つずつをあてはめた十干=甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸が生まれました。音読みするとこう、おつ、へい、てい、となりますが、十干はふつう訓読みします。すなわち順に、きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと。この語尾の「え」が陽、「と」が陰を指すんですね。きのえは木の陽、という意味というわけです。

 「えと」の呼び名はここに由来していて、「えと」は本来、十干の呼称でした。

 

 

 

 

 十二支=子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥にも五行が配されています。その前提として、春が木、夏が火、秋が金、冬は水と定義し、土は、各季節の最後の月を指します。各季節に十二支をあてはめてみると、

  • 春は、2月、3月、4月(五行は木、木、土)
  • 夏は、5月、6月、7月(五行は火、火、土)
  • 秋は、8月、9月、10月(五行は金、金、土)
  • 冬は、11月、12月、1月(五行は水、水、土)

 

 

 

 十二支の陰陽は、子→丑→寅の順に、奇数番目は陽、偶数番目は陰となります。十干・十二支は、陰・陽ではなく、陽同士、陰同士の組み合わせにするので、10×12=120の半分の60通りになります。60年で暦が一巡するというわけです。

 

 ちなみに甲子園球場は甲子(きのえ・ね)の年に造ったもの。十干の一番目・甲(きのえ)と、十二支の一番目・子(ね)が組み合わさった60年周期のスタートの年です。古い暦って、こうして作られたんですね。

 

 

 

 

 

 陰陽五行はさらに易学にもつながっていきました。よく知られるのが、“あたるも八卦、あたらぬも八卦”の八卦(はっけ、はっか)で、8つの基本図像があります。

 以下の図像はウィキペディアからコピペさせていただきました。

  • Ken.png
  • Da .png
  • Ri .png
  • Shin.png
  • Xun.png
  • Kan.png
  • Gon.png
  • Kon.png

 

 

 

 ごらんのとおり、卦は、─(陽)と--(陰)の2つの記号の組み合わせで構成されています。韓国の国旗(大極旗)の四隅には卦のマークが使われていますよね。京劇の衣装にも八卦マークがデザインされていて、相撲の行司の「ハッケヨイ」も“八卦良い”から来ているとか・・・。う~ん、深い・・・!

 

 茶室では、茶釜の湯を温める炉の灰に、水を意味するKan.png)の絵を描くそうです。火を鎮める、との配慮からです。

 

 

 

 八卦の組み合わせやその意味については、さらに複雑でとても理解しきれなかったので、またの機会に。

 

 

 

 

 茶道に学ぶ経営哲学研究会、来月は12月7日(水)18時ぐらいから、駿府公園紅葉山庭園でお点前実践、12月21日(水)夜は茶懐石の店・御所丸(葵区大鋸町)で懐石マナーの実践を予定しています。興味のある方はご一報ください。

 

 

 

 

 最後にコマーシャル。(社)静岡県ニュービジネス協議会が11月15日に開催した『2011静岡県ニュービジネスフォーラムin沼津』の報告記事が、11月28日(月)付けの静岡新聞にて掲載されます。紙面の都合上、概略の報告になってしまいましたが、当ブログでも紹介したニュービジネス大賞やEQコミュニケーションについて書いてますので、ぜひご一読ください!

 

 

 

 

 


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和歌山海南・中野BCと鈴木姓発祥の地訪問

2011-11-22 11:34:27 | ニュービジネス協議会

 今日も少し遅めの報告です。11月10~11日と日本ニュービジネス協議会連合会の全国フォーラムで大阪に出張しました。11日はアテンドしてくれた関西ニュービジネス協議会のオプショナルツアーで、和歌山県海南市の中野BC株式会社を訪問しました。

 

 

 

 ツアー企画は、他に、大阪(オペラパーク&海遊館見学)、京都(薫香会社で匂い袋づくり体験)、兵庫(最先端テクノパーク見学)、滋賀(琵琶湖周辺のベンチャー企業訪問)、奈良(三輪そうめん作り&大神神社見学)があり、どれも魅力的で迷ったんですが、和歌山をチョイスしたのは、中野BCが日本酒『紀伊国屋文左衛門』『長久』の蔵元で、かつ特産の梅を活用した機能性食品&ドリンク&化粧品等の開発で、伝統の醸造業から、新進気鋭のBC(Biochemical Creation)企業に見事に転換したから。

 

 さらに、海南市は『鈴木』姓の発祥の地で、熊野古道のスポットの一つ・藤白神社の近くにある元祖鈴木邸を一度は観ておきたかったため。当日はあいにくのお天気で、ツアー参加者は私と、大阪のウェブコンサルタント会社の社長さんの2人だけでしたが、かえって懇切丁寧に案内していただき、大変充実した視察でした。

 

 

 

 

 

 

 海南市って聞いても、静岡人の私にはパッと位置がわからなかったけど、大阪駅からJRきのくに線(紀州本線)の快速で約2時間、和歌山市よりもさらに南で、ローカル線にちんたら乗るのが好きな私にとっては飽きない2時間でした。

 

 

 海南駅に中野BCの部長さんが迎えに来てくれて、車で数分の中野BCに到着。さっそく社長の中野幸生さん(左)にお話をうかがいました。中野BCって酒造会社っぽくない社名だなあとImgp5200思ってましたが、中野幸生社長にいろいろうかがって、“BC(Biochemical Creation)”という言葉へのこだわりがよく解りました。

 

 

 

 

 

 

 同社はもともと昭和7年、中野社長のお父様・中野利生氏が20歳で独立し、醤油造りからスタート。利生氏はもともと独学で醤油製法を身につけ、大豆蒸熟法という独自の醸造技術を開発したアイディアマンだったんですね。紀州はご存知の通り、湯浅とか御坊が醤油造りのメッカで、海南にも62軒ぐらい造り醤油屋があったそうです。

 

 

 戦中戦後、原料の大豆が入手困難になり、昭和24年、利生氏は焼酎造りに転換します。藤白神社にちなんだ焼酎『富士白』は、醸造の匠・利生氏の手腕によって品質のよさが評判を呼び、発売開始3年目で県下最大規模の生産量に。昭和29年には果実酒免許を取得、昭和33年には市内酒造会社から醸造免許を譲渡してもらい、日本酒造りも本格スタートします。主力銘柄は『長久』『紀伊国屋文左衛門』です。

 

 

 日本酒造りでは半年間、工場が空いてしまうので、地元JAからみかんジュースの加工・充填作業を請け負い、さまざまな飲料を手掛けるように。

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 みりん、梅酒、ワイン、機能性食品、ヘルスケア製品とさまざまな分野に進出し、現在は主力商品の梅エキスはテレビショッピング等の通販市場で5・5億円を売り上げるなど、醸造会社の範疇を超えた躍進ぶりです。

 

 

 

 敷地内にある迎賓館みたいなお座敷には、血流チェックするコーナーがあったり、ビックリするようなスゴイ日本庭園が。『長久邸庭園』として観光パンフレットにも載っています。

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 ここで梅エキスの効能を解説するセミナーや試飲会なんかも開かれるんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「社長も理系ですか?」とうかがったら、「自分は文系。だからこそ、この手の製品の良さをアピールするには、エビデンス(科学的実証)が何より大事だということを実感している」と明快なお答え。大豆、米、地元の特産である梅やみかん・・・「日本人が長く食べてきたからには、何か理由があるはず」と早くから着目し、大学や外部研究機関と連携して基礎研究にしっかり取り組み、農産物の“高度利用”に取り組んできました。

 

 

 

 中野社長は、会社の屋台骨を支えるのが1本だけでは、これからの企業はやっていけないと考え、事業の多角化を取り組み、一方で家業を継いだ時、社員には、“思想で経営させてくれ”とおっしゃったそうです。

 

 “思想”を持って経営するということは、誰にも共通できることですね。いただいた名刺には『手の届きそうな夢をもち、技術・研究・開発で、世界に通ずるニッチトップのモノづくりを目指す』という目標・思想がしっかり書いてありました。企業活動は、単に儲けじゃないってことですね。

 

 

 

 

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 社長と懇談した後、「スズキさんのような方ならぜひ」と仕込み中の酒蔵を、若き杜氏・河嶋雅基さんに案内していただきました。ほとんど自動化しているようなビッグファクトリーを想像していたら、洗米場には静岡の蔵でも見慣れた小型の機械が数台、蒸機や麹室の大きさもそこそこで、手作業の部分を大切にされていることが解りました。大きな酒蔵であればあるほど、「職人仕事を大切にしたい」という杜氏の思いは強いんだろうなと思いました・・・。

 

 

 

 

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 驚いたのは、見学をご一緒した大阪のウェブコンサル会社・㈱パワー・インタラクティブ岡本充智社長が、「僕は日本酒の中では静岡がイチバン好きなんですよ」とおっしゃったこと。リップサービスかなと思ったら、「日本酒はいつも(静岡・蒲原の)市川酒店から買っている。喜久醉が一番のお気に入り」というからビックリです。

 

 

 私、中野さんのお話を聴きながら、ぼんやりと、青島酒造さんとの違いをいろいろ考えていたんですね。醤油、焼酎、日本酒・・・いずれも農産物が原料ですから、経営拡大を目指すうえでは、どれか1本で、というのはリスクが大きいでしょう。そこで、いろんな分野に進出し、酒造業の看板も、あえて隠した。

 一方、青島さんは日本酒1本で、しかも商品アイテムを絞って品質向上に努めています。同じ文系出身の経営者でも、経営資源や経営環境によって180度変わるんだな・・・と。

 

 

 そんなふうに感じていた時、初めてお会いして、酒蔵見学をご一緒した大阪の社長さんから、「喜久醉が一番好き」と言われ、不思議な気分でした。

 

 

 

 

 

 

 

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 中野BC見学の後、熊野三山の遥拝所として知られ、悲劇のプリンス・有間皇子の墓のある藤白神社を訪ねました。熊野聖域への入口(熊野古道「紀伊路」の始点)なんですね、・・・時間があったら歩いてみたいところでしたが、神社をちょこっとお参りして、すぐそばの料理屋さんでお昼をいただき、隣接する「鈴木」姓のルーツ・鈴木屋敷を外から眺めました(中には入れないようです)。

 

 

 

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 観光資料によると、鈴木氏は熊野旧三家のひとつで、勝浦湾を拠点とした豪族。始祖は神武天皇東征軍が熊野に立ち寄った時、天皇から稲を献じて飼料に供したので、天皇から穂積姓を賜りました。穂積(稲わら)のことを紀州ではススキというので、鈴木氏を名乗るようになったとか。平安時代に藤白に移り住み、この地を拠点に全国に3300もの熊野神社を作って熊野信仰を広めたため、それに伴って鈴木という名字も全国区になったそうです。

 

 

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 ・・・鈴木という姓が、和歌山ゆかりで熊野神社に関係あるらしいことはなんとなく知っていましたが、改めてその“始点”に立つと感慨深いものがありますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 午後は一人で、漆器作りが有名だという黒江の町をブラブラ歩き。真っ先に『黒牛』醸造元の名手酒造店を訪ねたら、「女性にお勧めです」と梅酒や果実酒ばかり試飲させられました(苦笑)。この試飲コーナーはどちらかというと味応えじゃなくて、見応えがありますね!!

 

 

 

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 平日、しかも小雨まじりで、ブラブラ歩きをしているのはほとんど私一人・・・。ちょっと寂しかったけど、“のこぎりの歯”のようにギザギザ並んだ紀州連子格子の町並みは、本当に風情がありました。

 醸造文化が残る町は、それにともなった道具や器の伝統も残っていて、酒造りが一つの文化圏の核なんだと実感しました。

 

 

 静岡の蔵は、質の高い酒は造るけど、文化発信力がイマイチですね・・・。資料展示や文化活動ができる余裕のある大店が少ないからっていうのもあると思うけど、小さな蔵こそ、これからは情報発信力が大切になってくるでしょう。

 

 

 

 

 

 本当に、いろんな示唆を与えてもらった、有意義な和歌山視察でした。中野BCのみなさま、岡本さん、本当にありがとうございました。

 

 

 


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朝鮮通信使トリピア~駿府城大奥の朝鮮宦官

2011-11-20 11:43:17 | 朝鮮通信使

 だいぶ報告が遅くなりましたが、10月31日(月)の静岡県朝鮮通信使研究会では、北村欽哉先生が、駿府城に朝鮮国の宦官が被虜人として連れて来られ、大御所家康の奥方衆に可愛がられていたという、すごい興味深い歴史トリビアを紹介してくれました。

 

 

 宦官というのはご承知のとおり、去勢され、宮廷の奥向きに仕える人。少女マンガ風にイメージすれば、中性的でビジュアル系の美少年って感じ?韓流ファンなら人気絶頂の某美形俳優を想像するかも?? ま、美形だったかどうかは別にして、朝鮮王朝の宦官が被虜になって大御所時代の駿府城に居たなんて、静岡の郷土史に詳しい人でも知らなかったのでは???

 

 

 

 

 

 

 秀吉が朝鮮半島に攻め入った壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)では、ハッキリ勝敗がつかなかったため、秀吉軍の武将たちは戦功の証しとして多くの朝鮮人を被虜として連れ帰りました(*相手軍の兵士は捕虜、一般人は被虜と書き分けます)。被虜として知られるのが陶工ですね。有田や伊万里や唐津等の名窯は彼らの技術によるものです。

 

 

 と同時に、朝鮮侵攻時には、日本から「ひとあきない」(人身売買商人)も半島に渡り、はなっから「ひとあきない」を目的に暗躍していたそうです。

 

 豊後臼杵城主太田一吉の従軍僧だった慶念が書き残した『朝鮮日々記』には、「日本よりも、よろつのあき人もきたりしなかに、人あきないせるもの来り。奥陣ヨリあとにつきあるき、男女老若かい取て、なわにてくひをくくりあつめ、さきへおひたてあゆひ候はねハあとよりつへにておつたて、うちはらしらかすの有様は、さなから、あぼう(地獄の役人)・らせつ(悪鬼)の罪人をせめけるもかくやとおもひ侍る」とあり、相当乱暴な“拉致行為”を働いたことが判ります。もっとも「ひとあきない」は、当時の日本国内でもごく日常的に行われていた、立派な?経済行為だったようです。

 

 

 

 

 そんなこんなで、日本に連れて来られた被虜は、数万人とも数十万人ともいわれ、家康が朝鮮側と戦後処理交渉したときは、当然ながら被虜の扱いが大きな議題となり、1607年の第1回朝鮮通信使は正式には「回答兼刷還使」と言いました。この時点ではまだ友好使節団ではなく、朝鮮国王の国書に対する回答をもらい、被虜を刷還(連れ戻す)するための使者という意味です。ついでに日本が二度と朝鮮に攻め込んで来ないかどうか国情を探るという目的もありました。

 そして第1回(1607)刷還使に伴って1418人、第2回(1617)は321人、第3回(1624)で146人、確認できた数で計1901人の朝鮮被虜が帰国しました。

 

 

 

 

 

 年々、帰国者が減少するのは、日本側が帰すのを嫌がったわけではなく、被虜たちも日本での暮らしが長くなって、帰りづらくなったからでしょう。家康は最初から「故郷に帰る意思のある者をちゃんと帰すように」と命じていました。

 

 家康の側近・本多正信が朝鮮側の外務次官に宛てた返書では「(わが殿は)、貴国の人々が帰国する意思がなければそれぞれ思い通りにしてやり、帰国の意思がある者はすみやかに準備をしてやるように厳命しております。たとえわが殿の中で養育した士人でも、帰る心が切なるものであれば、許可いたしました。古今を問わず、仁政でなければ国を治めることは出来ません」(第1回使行録「海槎録」より)とあります。

 

 

 あるとき、吉田村(豊橋あたり)から駿府に逃げてきた朝鮮被虜数名を、主人が追いかけて抑留を強制しようとし、役人が「将軍様の命に逆らうのか」と主人を叱責し、退去させたという記録も残っています。

 

 

 

 

 

 

 さて、そんな中、駿府城には朝鮮国の軍官・槙忠義の使用人だった允福(インプク)という名の閹人(えんじん=去勢された者・宦官)が住んでいました。彼は壬辰の乱(1591)のとき、16歳で被虜となって連れて来られ、どんないきさつかはわかりませんが、家康の後宮で働くようになり、大変信頼が厚く、食禄も多かったと海槎録に残っています。

 

 

 

 1607年、第1回回答兼刷還使がやってきたときは、すでに30歳を超えていた允福ですが、清見寺まで面会に行き、一行が駿府を通り過ぎるときは家康や側室たちといっしょに駿府城の層楼に登って見学するなど、故郷の人々との再会を「はなはだ喜んでいた」そうです。

 

 

 彼は帰国を希望し、「家康の許可をもらい、新関白(秀忠)にも話を通した」と書状をもって刷還使のもとにやってきます。家康の印はちゃんとあるのかと聞かれ、「以前はあったが部下に偽造されたので、その部下を罰し、今は現存しない」と答えたそうです。

 

 

 ところが海槎録では、『対馬で允福はほしいままに酒を飲み、刀を抜いたので、人々はみな驚いて逃げた。人をして刀を奪わせ、人家に閉じ込めた』という記録を最後に、彼の消息は不明のまま。彼が乱心した理由も、今は想像するしかありません。

 

 宦官の身で被虜となり、しかも仕えていたのが家康公。朝鮮の使節団や他の被虜人たちから見ると、同郷人とはいえ、特別な目で見ざるを得なかったろうと思います。また彼のほうも、特別な意識があったろうと想像します。そんなもろもろの精神的ストレスが、故郷を目前にして一気に暴発してしまったのでしょうか・・・。いやあ、いろんなドラマが妄想できますよねえ(妄想ではやはり美形であってほしい)。

 

 

 

 

 

 

 NHK大河ドラマでは、今ちょうどこの時期が舞台にもかかわらず、家康と秀忠とその嫁と乳母の内輪のモメゴトしか描かれていないようですが、韓流ブームの火付け役だったNHKならば、家康の日朝平和外交の功績と、陰にこんなトリビアがあったこともちゃんと取り上げてって言いたくなります。

 

 駿府城を再建するしないの議論が盛り上がっているようですが、まず先に、家康をあいも変わらず腹黒いタヌキ親父として描く戦国ドラマにダメ出しをし、平和を構築した名宰相としてきちんと評価するよう、静岡から変えていくべきですね。朝鮮通信使の存在は、その一助になるはずです。

 

 

 

 

 

 


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祝!「たまらん」創刊

2011-11-19 09:45:27 | しずおか地酒研究会

 私が敬愛する編集者で、いつも京都旅行にご一緒する平野斗紀子さんが、かねてから準備されていた地域新聞「たまらん」を創刊されました。2011年11月11日のイチ並びの日に創刊し、戸田書店や吉見書店等で販売されています。ご覧になった方もいらっしゃるかな?

 

 体裁はタブロイド版8ページ(モノクロ)で、1部100円。記念すべき創刊号の特集は、平野さんが静岡新聞社時代から追いかけていた地域農業について。静岡パルコ前の小梳神社で毎月開催する「サンデーサニーピクニック」(地場産品マルシェ)、平野さんが10月に旅行したドイツ・フランクフルトのマルクト事情、静岡市の中山間地・水見色のエリア情報、静岡のモノづくり職人さんやオトコマエ農家、私もお世話になったスノドカフェ・柚木康裕さんが創刊するアート批評誌の紹介など、取材・編集のプロが足で稼いで得た地域のディープ情報を、プロのデザイナーのセンスですっきり読ませてくれます。

 

 平野さんの思いは、編集後記にコンパクトに紹介されていました。一部抜粋すると、

 

 『仕事で農家や飲食店などの取材をしてきたが、本や雑誌の存在を、ほんとうにその情報を欲している人たちに知ってもらえないことが長年の悩みだった』

 『全国規模の流通システムで機械的に配られるのではなく、顔の見える読者に直接渡せるような小さな発行物が理想だった』

 『昭和50年代以降、日本は急速に地方文化を失った。一極集中で東京が考えたモデルを全国そろってコピーしたからだ』

 『地方には地方の必然性に基づいた、悠長で効率の悪い文化があったはずだ。そんな疑問を抱いている人は潜在的に多かったのではないだろうか。それが、今年の東日本大震災と原発事故で確信に変わった』

 『いまこそ地域に根差した暮らしを取り戻す時である。いや次の時代は地方が創るのかもしれない。その知恵や志は小さな地域の、たった一人の人間の中にある』

 『個で知恵を絞り、技を磨く農家や商店の主と話をしながら、個で考える消費者に紹介しようというのがこの新聞の意図である』

 

 

 大新聞は相手にしない小さな地域の個の存在、フリーペーパーは扱わない“悠長で効率の悪い”テーマ、ウェブでは保証されない情報の質と深さ・・・私自身も日頃から感じていた既存活字メディアの不満解消に、フリーランスの身でたった一人で立ち向かい、ちゃんと答えを出した平野さん。大先輩ながら“アッパレ!”と花輪を贈りたい気持ちです。

 

 

 ・・・といっても、私の身の丈では、せいぜい広告協力ができる程度ですが、ぜひぜひご支援をよろしくお願いいたします(ちなみに光栄にも1面にしずおか地酒研究会の広告を掲載していただきました。2面はアンコメさん、3面は青島酒造さんです)。

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