杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

出雲との茶文化交流と酒造起源探訪(その2)佐香神社どぶろく祭と出雲の酒

2018-11-08 14:42:42 | 地酒

  10月12日~14日の駿河茶禅の会「出雲との茶文化交流と酒造起源探訪」レポートの続きです。

 

●松江藩の維新秘話を伝える「玄丹おかよ弁当」

 13日は午前中に出雲焼樂山窯、茶室明々庵での茶文化交流の後、明々庵のある塩見縄手の風情ある街並みを散策し、武家屋敷や田部美術館を見学。お昼時でしたが17名まとまって入れる食事処が近くになく、時間もタイトだったので、バス車中でお弁当を食べてもらいました。

 そういうことなら、ぜひ松江の歴史にちなんだ特別なお弁当をと、明々庵の森山支配人がわざわざ手配してくださったのが『玄丹おかよ弁当』です。

 お加代さんというのは元松江藩士で鍼医・錦織玄丹の娘。明治維新の慶応4年(1868)、新政府側は徳川親藩の松江藩に不信を抱き、3か条の難問題を突き付け、家老大橋茂右衛門を切腹寸前に追い込むのですが、この時、新政府側との酒席で白刃に貫いたかまぼこを平然と紅唇に受け、幹部に迫って家老の命を助け、出雲女の義侠心を発揮という勇ましい女性です。その武勇伝にちなんだ特製弁当で、紅い実をかんざしのように楊枝で刺した「赤板かまぼこ」が入っています。千鳥城と謳われた松江城にちなんだ「千鳥長芋」、日本海で獲れた「スズキの酒蒸し」、島根和牛そぼろを添えた「赤貝飯」など、手の込んだ上品な味付け。出雲の食といえばシジミか蕎麦ぐらいしかピンとこなかったので、事前に現地の有識者に教えてもらって本当に良かったと思いました。

 

●出雲の酒造起源探訪―佐香神社(松尾神社)秋季大祭

 前々回のブログ記事で紹介したとおり、今回、偶然参拝できた佐香神社(松尾神社)秋季大祭。茶禅研修としては想定していなかったプログラムながら、アドバイスをいただいた山陰中央新報社文化事業局の担当者より、神話の国出雲で体験できる唯一無二の酒の神事であり、年に1度の大祭日に出雲に来る偶然を活かしてほしいと勧められたものです。

 

 出雲の酒といえばヤマタノオロチ伝説。弥生時代の初め、大陸から出雲に渡ってきたスサノオは、村人を苦しめる八岐大蛇を八醞折の酒で泥酔させ、退治しました。私は2009年に東京で備中神楽のヤマタノオロチ退治を取材しこちらを)、東京新聞タブロイド紙『暮らすめいと』で紹介したことがあるので、そのときの軽妙な演舞が懐かしく甦って来ました。

 

 以下は前々回記事と重複しますが、日本醸造協会機関誌『醸協(1987)』に掲載された速水保孝氏(元島根県立図書館長)の論文によると、スサノオの八醞折の酒は縄文文化の名残で果実を噛んで醗酵させ、造っていたようですが、弥生時代に稲作がさかんになると米を噛んで造るようになり(アニメ映画『君の名は』にも登場)、やがて大量生産に不向きな口噛み酒から、大陸伝来のコウジカビの活用へと転換していきます。これも、大陸からまず出雲地方に伝わったもの。『播磨国風土記』によると、出雲大神が播磨に遠征したとき軍隊の携行食の乾米が水に濡れてカビが生えたので、そのコウジを使って酒を醸造したという記録が残っています。

 

 『出雲国風土記』によると、佐香神社はもともと天平5年(733)に建てられた佐加社。現在、平田市に含まれるこの地の字は楯縫郡佐香郷と記されてきましたが、佐加・佐香とも、サカ=サケの古名を意味するもので、文字通り、古代に大陸から渡来した人々がコウジカビを用いて大規模な酒造を行い、この神社にお神酒を奉納したということ。室町末期、山津波で崩壊した神社を再建する際、「九社明神社」と名称が変わり、酒の神様としてのイメージが薄まってしまったところ、京の都へ酒造りに出稼ぎに出ていた出雲杜氏が松尾大社の分霊を勧請し、松尾神社を併存するようになったということです。

 そんな、日本酒発祥の聖地といえる佐香神社、素朴な村の鎮守のお社といった風情ですが、日本の神社でどぶろく醸造を行っているのは現在ここだけ。地元出雲市小境地区で収穫された米と水を使い、氏子を務める出雲杜氏経験者がこの日のために1石だけ醸造し、神社内にてこの日一日限定で飲み切る(酒造免許の規定で神社外持ち出し禁止)。新米で造られる新酒のどぶろくは今年の米の出来を推し量るものとされていました。

 

 予定よりも早く14時すぎに到着し、どぶろくの振る舞い開始時間(15時30分)までどうしようかと思っていたら、どぶろく配布の氏子さんが機転を利かせてフライングサービス。今回の参加者の一人・青島孝さん(青島酒造蔵元杜氏)に即興でどぶろく解説をしてもらいました。

 15時30分からは奉納舞踊の神楽が始まり、我々は楽殿の前に敷かれたブルーシートに座り、笛や太鼓の音色に身をゆだねながら、どぶろくを味わいました。三々五々集まった人々はお花見宴会のように酒肴を詰めた重箱弁当を広げ、楽しそうに歓談しています。

 どぶろくを配っていた氏子のおやっさんは地元でネギの栽培をしていると言い、「ネギ栽培で成功している浜松の農業法人を視察してきたばかりだ、いやあ遠くからよく来てくれたなあ」と大盤振る舞いしてくれました。他の参拝者からも「こんな片田舎の祭りに飛行機で来てくれるなんて、こんなに嬉しいことはない」と声を掛けられ、つい「来年も来ますよ!」と返事。青島さんは「想像以上に出来の良いどぶろくだった」と言い、他の参加者からも「祭礼といっても形式ばることなく、ゆるくて心地よい。それがある意味、出雲大社よりも神を身近に感じさせた」という声が上がりました。

 どぶろく祭は日が落ちてからが本格的に盛り上がるそうなので、次回は夜通し飲む覚悟で来なければ・・・!

 

●国宝松江城の天守閣茶会

 夕刻、松江市内に戻って不昧公200年祭の一環で開催された国宝松江城水燈路(ライトアップ)を観賞。天守閣に登り、国宝の城内で初めて催された茶会に参加しました。狭い天守閣に茶道各流派のボランティアや一般観光客が押し合い圧し合いの賑やかなイベント茶席でしたが、不昧公がこの光景を見たら何とおっしゃるのか、想像すると楽しくなりました。「国宝をこういう形で利用できるのは、これが最初で最後かもしれません」という関係者。どぶろく酔いが回る中で天守閣まで必死に登って、そんな貴重な茶席を体験できて感激でした。

 この後、しまね地酒マイスター福島将美さんが経営する居酒屋『朔屋』にて、神代からの出雲の酒文化についてたっぷりご教授いただきました。

 

●歴史を拓いた島根の酒造技術

 島根では東部で出雲杜氏、西部で石見杜氏が活躍していました。出雲杜氏は組合結成100年余の歴史を持ち、今の杜氏国家試験が出来る前から独自に資格試験や研修制度を設けて優秀な技能者を輩出してきました。それもこれも指導機関に日本酒造史に残る逸材がいたからです。

 

 明治37年、滝野川(東京都北区)に大蔵省醸造試験所が開設されたとき、技士として赴任したのが松江税務署鑑定科長の嘉儀(かぎ)金一郎氏。氏は松江税務署時代、松江局の清酒の大半が腐敗した苦い経験を経て、「山卸廃止試験」に挑戦し、滝野川に赴任した後、試験報告書を発表。これが「山廃酛」の誕生でした。嘉儀氏は40歳で会津若松の「末廣」に技術者として招かれ、末廣を山廃造りの銘醸に育て上げます。

 

 さらに特筆すべきは、協会9号酵母生みの親の野白金一氏が松江市出身だということ。醤油醸造家に生まれた野白氏は明治34年に東京高等工業学校(現東京工業大学)を首席で卒業し、松江税務署鑑定部へ着任。2年後に熊本税務監督局へ転任し、当時「赤酒」から脱皮しようとしていた熊本の酒造業界を指導。明治42年に熊本県酒造研究所を設立し、熊本酵母を開発したのでした。これが協会9号として吟醸酒酵母のスタンダードになり、静岡酵母もこれをベースに開発されたのです。

  

 東広島の全国新酒鑑評会前日に行なわれる(独)酒類総合研究所研究発表会に行くと、毎回会場から鋭い質問を浴びせる聴講者がいて、発表者の若手研究員とのやり取りを毎回楽しく拝聴します。その質問者とは元島根県立工業技術センター食品科長で酒類技術コンサルタントの堀江修二先生でした。以前、会場にいた青島さんに先生を紹介してもらい、きちんと取材にうかがおうと思いつつ日が経ってしまいましたが、島根の酒を呑むと、真っ先に「出雲にも河村傳兵衛先生みたいな人がいたなあ」と思い起こします。

 

 現地で購入した地酒ガイドムック『さんいんキラリ~神々を魅了した出雲の酒』の巻頭に、堀江先生の寄稿文が掲載されていました。その中の一節を紹介させていただきます。

「佐香神社での酒造りは奈良天平20年(748)頃から始まったとされ、その造りは長屋王遺跡から出土した天平元年(729)の木簡の酒造りにきわめてよく似ており、天平の頃奈良から伝わった酒造りではないかと思われる。出雲地伝酒は木灰添加による微アルカリ性にした酒で、日本では熊本、宮崎、鹿児島、出雲地方だけに見られる「灰持酒」と云われる珍しい酒である。この酒は古墳時代、筑紫国の熊本から海の道を通って石墓文化とともに直接出雲に伝わった酒と考えられ、ルーツは中国浙江省地域である」

  

 前掲の速水氏の論文と併せて出雲の酒のルーツを考えようと思ったら、日本の古代史学習が必須だ・・・!と頭を抱えてしまいます。登呂遺跡が残るわが静岡では当時、どんな酒を造っていたんでしょうね。

 それにしても、古代は熊本と出雲が酒のルーツで結びつき、近代以降、松江では山廃造の嘉儀先生と熊本酵母の野白先生を輩出し、現代の堀江先生や河村先生に連なる。出雲、熊本、静岡は、茶道三斎流で不思議なつながりがあると前回記事で紹介しましたが、酒においても酒造技術を切り拓いた指導者の不思議な縁を感じます。

・・・自分がこの地に呼ばれたのも、何かの縁に違いないと、ますます妄想が膨らみます。(つづく)

 

 

 

 

 

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出雲との茶文化交流と酒造起源探訪(その1)不昧流を満喫

2018-11-06 12:44:49 | 茶道研究会

  駿河茶禅の会で10月12日(金)から14日(日)まで催行した2018年秋の研修旅行『出雲との茶文化交流と酒造起源探訪』について、数回に分けてレポートします。 

 12日は富士山静岡空港16時15分発のFDA185便に17名の参加者で搭乗し、出雲縁結び空港には17時35分着。宿泊先の送迎バスで約30分、玉造温泉松乃湯に18時過ぎに到着し、まずは温泉に浸かって懇親会。前日が誕生日だった私に、参加者の皆さんが勾玉のアクセサリーをプレゼントしてくれました。

 

 改めてご紹介すると、駿河茶禅の会は一般社団法人静岡県ニュービジネス協議会の専門研究部会『茶道に学ぶ経営哲学研究会』の活動(20119月~20153月)を引き継ぎ、20154月設立。望月静雄氏(茶道家・裏千家インターナショナルアソシエーション准教授(元運営理事)・日本秘書協会元理事)を座長に、茶道の奥義や禅の教えについてさらに研賛を積んでいます。会員は茶道経験の有無にかかわらず茶禅文化に関心を持つ社会人(企業経営者、会社員、自営業者等)。毎月1回、駿府城公園紅葉山庭園茶室と会員企業のオフィスを借りて、座学と実技を交互に開催中。登録会員25名。毎回15名前後参加しています。

・・・と書くと、なんだかクソ真面目で堅苦しい会のように思えますが、静岡でこれほど茶禅に造詣の深い茶道家はいないと断言できる望月先生のもと、今更聞けない和の伝統やマナーを復習できるし、会員にはしずおか地酒研究会からも(蔵元を含め)何人か流れてきているので、酒の話もばっちり。一級建築士や作庭家や環境専門家の会員さんは、茶室や寺社巡りをするとき専門家解説をしてくれるし、ふだん異分野との接点が多い編集者や地域交流事業の担い手は、時代や場所の異なる文化への関心や理解がとても深い。歴史好きで酒好きの大人が知的好奇心を刺激し合える楽しい会です。興味のある方はぜひご連絡ください。

 

 翌10月13日(土)は小型バスを借り、終日、研修プログラムをこなしました。

 まずは、望月先生の訪問希望先だった松平不昧御用窯の一つ・出雲焼「樂山窯」の12代長岡空郷氏を表敬訪問。

 出雲焼は萩・京都・備前のほぼ等距離にあり、3つの特色が混在して独自の発展をなした稀な歴史を持ち、一時衰退したものの、不昧の支援で復興し、多種多様な技法を探求した焼物です。不昧の時代に御用窯だった窯元で、現在残っているのは、ここ長岡さんの樂山窯と、布志名焼雲善窯の2つ。明治維新で松江藩が消滅した後、苦難の時代を迎えましたが、もともと量産タイプの窯元だった雲善窯はバーナード・リーチや柳宗悦の民藝運動に結びついて日用陶器として復活。一方、不昧個人の御用達窯だった樂山窯はひたすら陶工の技量を追求し続け、江戸時代に築かれた登り窯を今も稼働させながら、13代へと継承しています。

 

 今年刊行された『今に生きる不昧―没後200年記念』(山陰中央新報社刊)によると、「不昧は雲善窯には大きさ・形・色を細かく指定し、樂山窯には自身の和歌を引き合いに「花入れを作れ」など大ざっぱだった」そう。不昧公は2つの窯元を「普及系」「革新系」に使い分けていたんですね。

 当日は樂山窯の長岡家の客間で歴代窯元の名品をじっくり鑑賞しながら、12代・13代の作品で抹茶をいただきました。茶道初心者の私には茶器の良し悪しはトンと解りませんが、不昧公にお題だけ示され、さあ作ってみろ、とプレッシャーを受け、応えてきた5代長岡住右衛門の陶工としての矜持を継いだ器であるならば、器を通して不昧公と対話ができるんじゃないか、なんて妄想を巡らせました。

 茶器はさすがに素人には触手しづらい高価格でしたが、せっかくなので、お小遣いで買えそうな三島柄のぐい吞みを一つ購入しました。これで出雲の地酒をじっくり味わいながら、私なりに不昧公との語らいを楽しんでみたいと思います。

 

 

 次いで、松江城下の茶室『明々庵』敷地内の百草亭に於いて、松江市内に拠点を置く「不昧流大円会」の山﨑清幹事長と会員3名、明々庵支配人で島根県茶道連盟の森山俊男事務局長との交流茶会に臨みました。山崎氏より不昧流の作法の解説と呈茶、松平不昧の茶道との関わりについて、森山氏より明々庵の構造並びに意匠についての解説をいただきました。以下は富士山静岡空港利用促進協議会へ提出した事業報告書に若干加筆したものです。

 

不昧流大円会(ふまいりゅうだいえんかい)について

 同会は松平不昧公の茶道精神に則り、茶の湯の本旨を体得すると共に、不昧流の作法の修練によって人格の形成を図り、併せて茶道文化の普及に寄与することを目的に昭和8年(1933)に設立。会員324名。島根県を代表する茶道流派です。毎年開催される松江城大茶会をはじめ、各季節の茶会や各種イベントボランティア等を通じ、不昧流茶道の普及に努めています。

 不昧流とは松江藩松平第7代藩主松平治郷(不昧)によって確立された武家茶道の一派。地元松江では「お流儀」「お国流」と呼ばれ、家老の有澤能登、茶頭の藤井長古に伝えられ、地元での流儀は初代~2代の藤井長古によって広く武士町人に伝えられました。藤井長古の流れをベースに、昭和8年、5名の先達によって不昧流大円会(当初の名称は「雲州大円会」、昭和63年に現在名に変更)として統一されたということです。

 ちなみに今回の交流茶会に参加された大円会会員に、奇遇にも松江出身の漆畑多恵子さんの高校の同窓生‶じゅんこちゃん″がいて、数十年ぶりの再会に感激の環が広がりました。

 

松平治郷(不昧)の茶道

 山崎幹事長により、不昧の茶道について懇切丁寧な解説をいただきました。

 松平治郷は明和4年(1767)、先代の急死を受け、17歳で松江藩7代藩主となりました。少年時代は豪放磊落な性格だったそうですが、18歳頃から本格的に茶道に取り組みます。徳川将軍家の茶道だった石州流をベースに、利休伝来の「侘び・寂び」、優雅さを伝える遠州流等を独自に取り入れるほか、19歳のとき、江戸天真寺の大巓和尚に禅学を学び、21歳で「不昧」の号を授かりました。

 不昧自身の茶道観は「江戸後期の遊芸化した茶道に対し利休の茶に還ることを唱え、茶禅一味(禅の教えと一体となった茶の境地)を究めようとしたもの」とのこと。駿河茶禅の会では昨年、利休の故郷・大阪堺に研修旅行へ出かけたので、利休が禅の修行をした堺の南宗寺の風情が甦って来ました。

 

 不昧流の所作で最も印象的だったのが、お辞儀でした。両手を広げず、握りこぶしでお辞儀をするのです。手のひらを畳に付けるのは不浄であり、親指を保護するため握りこぶしで隠すというのが不昧流。袱紗さばきに始まる一連の所作も、簡素で合理的な動きです。一般にイメージするお茶会の雅やかな雰囲気とは、あきらかに一線を画すものでした。明治以降、お茶は婦女子の習いごとの代名詞みたいになっていますが、そもそもは武家の社交あるいは精神修養の目的だということを想起させてくれました。

 

「会の習いは、客の心に叶うように叶いたるは悪し、夏はすずしく、冬は暖かに、炭は湯の沸くように、花はその花のようにと利休伝来にて候」

「茶の湯は雨にしおれたる竹の如く、雪をかかげたる松の如し」

「稲葉に置ける朝露のごとく、枯野に咲けるなでしこのやうにありたく候」

というのが不昧の教え。侘び寂びを恣意的につくろうのではなく、亭主の心の働きを第一に、自然に客の心に叶うのを良しということだろうと思います。これは広義のホスピタリティをとらえる上で学ぶべき視座ではないかと実感しました。

 

 

茶室明々庵の意匠

 明々庵支配人の森山俊男氏より明々庵について詳細にご案内いただきました。安永8年(1779)に松江市殿町の家老有澤家本邸に建てられた茅葺入母屋造りの茶室。松江市殿町から赤山下、東京の原宿、四谷と移築が繰り返され、昭和3年に松江に里帰り。戦時中に荒廃したものの、戦後、不昧流茶道振興に尽力した人々の手によって昭和41年(1966)の不昧公没後150年記念事業として現在地に移築されたということです。昭和44年(1969)には島根県指定有形文化財に指定されました。

 まず目を引いたのは待合に敷設された砂雪隠(トイレ)。飾雪隠ともいわれ、実際には使用しないようですが、客が最初に足を踏み入れる待合に雪隠を置くことで、東司(トイレ)の清浄を重んじる禅の修行を想起させます。まさに茶禅一味の世界に迎えられた、と感じます。

 茶室内は中柱のない二畳台目で点前畳に炉を切る「向切」、床の間は五枚半の杉柾の小幅板を削ぎ合わせた浅床にするなど、常識にとらわれない不昧スタイルが表現されています。『明々庵』の額は不昧の直筆によるものです。

 

 

利休直伝、白隠禅師ゆかりの三斎流

 森山支配人のお勧めにより、明々庵に隣接する赤山茶道会館で開催中の不昧公200年祭記念の三斎流九曜会茶会に、当会を代表し、座長の望月静雄先生と幹事の漆畑多恵子さんが参加しました。

 三斎流とは肥後熊本の藩主であった細川忠興(三斎)を祖とする流派です。三斎は"千利休七哲"と称される利休直弟子の一人で、ご存知明智光秀の娘(洗礼名ガラシャ)を妻とした戦国武将。三斎は利休の教えに一切手を加えず、現在の点前にもその原点が残るといわれます。江戸中期、三斎流を継承した江戸の茶人荒井一掌に松江藩士(侍医)林久嘉が茶を学び、不昧は林を通じて荒井一掌に心酔し、三斎流を重用したということです。紆余曲折の後、一掌以来の三斎流は出雲の地に根を下ろすことになりました。

 

 茶会の後、望月先生と漆畑さんが感動を抑えきれない、といった表情で、ことこまかに説明してくれました。

 まず三斎流の茶席では、喜寿近くかと思しき品のあるご婦人が席主として出座されたとのこと。ご挨拶の言葉の端々に、今日では耳にすることの少ない美しい日本語の響きがあって、床に掛けた一行書『独坐大雄峰』について、多弁を費やさず「今、ここにお座りのお客様方こそが大雄峰」と説かれました。

 用意された道具類にも「名品のお道具は博物館でご覧頂くこととして」とご謙遜。ちなみに主茶碗は十字の文様が施された古八代焼で、茶道とキリスト教との接点を暗示するもの。"利休七哲"(利休の7人の高弟)には三斎をはじめ、蒲生氏郷、古田織部、高山右近等キリシタン大名が名を連ねることから、歴史を知っている者にとっては「なるほど」「さすが」と手応えのあるご用意だったそうです。茶席で濃茶を一つの椀で回し飲むのは、キリスト教のワインの回し飲みに由来しているのでは、とも言われているんですね。

 

 望月先生が絶賛された品格ある席主とは、ほかならぬ、三斎流前家元の森山宗育宗匠でした。正客との絶妙のやりとりの後、「小規模の流派ではあるが、伝統を守り続けてゆきたい。皆様お流儀は様々なれど〝独坐大雄峰″で」と淡淡と語られ、二服目を供されたその佇まいには、茶道歴50年超の望月先生をして「これぞ茶道の神髄」と目頭を熱くさせたそうです。

 お話を聞いて、とかく道具自慢や華美なしつらえに偏りがちな昨今の茶道とは一線を画すこのような流派が、京都でも熊本でもなくこの地で「家元」を置いて細々と継承されているのは、出雲に茶禅一味の精神が浸透した証なんだな、と感じました。

 

茶禅がつむぐ地域間交流

 不昧流大円会ならびに三斎流九曜会との交流を通して実感したのは、茶禅の道には道を伝え継承した人々の歴史があり、人の歴史には、その人が生きた地域の歴史があるということ。地域の歴史を知ることは、他の地域とのつながりを発掘することになります。

 もともと松江藩は初代堀尾吉晴が家康の命で遠江国浜松からこの地に入国し、後に家康の孫松平直政が藩主を継ぐ等、静岡とは浅からぬ縁があります。東海道島田宿の名物清水屋の小饅頭は、参勤交代のときに島田宿に立ち寄った不昧公が「一口サイズにするといいよ」と進言されたものです。このことを、今回の研修を企画するまで知らず、山陰中央新報社文化事業局の方から教えてもらい、ビックリでした。清水屋の小饅頭は賞味期限は製造日当日限定なので手土産には黒奴にし、小饅頭は別途冷凍パックをクール便でお送りしました。

 

 さらに嬉しい驚きは、三斎流を出雲に根付かせた功労者である荒井一掌は、白隠禅師に禅の教えを受けており、「一掌」という名も白隠さんから賜ったとのこと。出雲の茶禅文化に白隠禅が投影されていたのです。

 三斎流九曜会HPによると、三斎流は細川忠興(三斎) ─ 一尾一庵 ─ 稲葉正喬 ─ 中井祐甫 ─ 志村三休 ─ 荒井一掌と継承され、宝歴年間に松江藩士林久嘉(医師)・高井長太夫・矢島半兵衛の3人が荒井一掌に師事し、 出雲地方に伝来。荒井一掌はもともと江戸で味噌屋を営む商人で、麹町に閑市庵を営み、古帆宗音と号した当時の超一級茶人。武士の血筋を持ち、武道修行後、 原の白隠禅師のもとで禅を9年間にわたって修養し、「一掌」の号を授かったそうです。

 一掌に師事した3人の松江藩士のうち、林久嘉は宝歴13年(1764)、13歳の不昧公の侍医となります。不昧公は藩主になった翌年、18歳で石州流に入門して茶道を始めた、と言われていますが、それ以前から林久嘉を通じて三斎流に親しんでいたようです。久嘉から紹介された荒井一掌のことを不昧公は大先生と尊敬したと、公の書簡等によって確認できるようです。

 

 出雲地方の寺院には白隠さんの書画がかなり残っていて、以前、花園大学国際禅学研究所でも出雲で白隠フォーラムを開催したことは知っていましたが、茶道とこのような関わりがあったことは、今回、三斎流のことを調べて初めて知りました。明治時代、白隠禅師の書画を発掘・収集した細川護立が三斎の末裔であることを顧みると、駿河と出雲と肥後(熊本)の不思議なつながりも見えてきます。まずは、白隠さんの下で修行していた荒井一掌のことをきちんと調べなきゃ、と思いました。

 

 

出雲松江の人々を静岡へ招聘するとしたら

 茶道文化が発達した出雲松江では、お茶をどれくらい消費しているのか、平成27~29年の総務省家計調査を調べてみたら、県庁所在地および政令都市における一世帯あたりの緑茶購入額は松江市が年間3,820円で全国33位。静岡市は9,491円で堂々第1位。全国平均は4,118円でした。松江出身の漆畑さんによると「松江の人にとって、茶葉をたっぷり使う煎茶は小さな茶器で丁寧に淹れて飲むぜいたくな味わい方。静岡へ嫁いできて急須でガブガブ淹れて飲むのにビックリした」そうです。これも静岡が家康公以来の御用茶産地だっだという利点でしょうか。

 松江藩では茶の生産について政策として他藩からの移入を厳しく制限し、藩内での生産を奨励していたようですが、他藩へ輸出し外貨を稼ぐほどの量は取れなかったよう。その代わり、不昧によって茶道文化が浸透し、生活の中で抹茶を気軽に点てたり客人に振る舞う喫茶習慣が今も残っているそうです。とくに農村部では今でも農作業の合間に縁側でお抹茶を点てて味わっているそうですが、こういう習慣って若い世代に継がれているのかなあ・・・。出雲松江の人々を静岡へ招くとしたら、まずは生産地静岡ならではの茶畑風景を堪能していただき、縁側カフェで急須の煎茶を味わっていただいて、地域の宝である喫茶習慣をどうやって次世代につなげるか、語り合いたいなと思いました。(つづく)

 


 

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出雲との酒縁

2018-10-22 20:55:09 | 地酒

 この春から静岡空港出雲線が就航し、山陰地方へのアクセスが便利になりました。昨年の大晦日に急死した父が生前、出雲大社参拝を熱望し、家族で計画していたのですが、残念ながらキャンセル。四十九日が終わって落ち着いたところで、飛行機便ではなくJR東海の格安ツアーで4月18~19日に行ってきました。さすがに1泊2日で新幹線&特急やくもを乗り継いで片道6時間強という移動時間は、なんとも悔しいタイムロス。飛行機なら1時間という便利さを羨ましく想像しました

 4月のこのJRツアーは松江城、足立美術館、出雲大社を廻るだけのコンパクトなツアーながら、夜には貴重な出会いがありました。

 

 実は、毎月活動中の駿河茶禅の会で、今年の研修旅行を出雲にしようという計画を年明けから進めていました。会員に松江出身の漆畑多恵子さんがいて、以前から出雲松江の茶道文化のレベルの高さをうかがっていたこと、2018年は大名茶人として名高い松江藩主松平不昧の没後200年記念のイベントが開催されることに加え、現地の地域団体との交流目的で静岡空港出雲便を利用すれば空港利用促進協議会から補助金が出るとの情報を得ていたからです。単なる観光旅行ではもちろんダメで、静岡と出雲の地域間交流を促進するしかるべき事業が対象。駿河茶禅の会ならば、現地の茶道関連団体との交流を図るという命題が必須となるわけです。

 まずは地元情報にイチバン長けた方々からアドバイスをいただこうとあれこれ人脈をたどり、松江で不昧公200年祭を運営する地元の新聞社・山陰中央新報社文化事業局の担当者とコンタクトを取り、4月18日夜に松江市内の居酒屋でお会いすることに。運よく漆畑多恵子さんがその期間に松江の実家へ帰省されているというので、多恵子さんにも同席してもらい、交流先として有望な茶道団体や現地視察先の選定についてさまざまな情報をいただきました。

 出雲の神様は縁結びの神といわれるだけに、これも不思議な縁というのでしょうか、多恵子さんは現在、静岡市内でご主人とともに池田の森ランドスケープの経営を手掛けてらっしゃいますが、結婚前は山陰中央新報社にお勤め。ウン十年前に半年勤めてすぐに転職されたというので、今回お会いした担当者小川氏とは直接の接点はありませんが、私のような肩書のない静岡のフリーライターが一人で会うよりはるかに効果はあったと思います。

 

 さらにこの夜は小川氏と一緒に来られた「茶文化に詳しい酒好きの文化事業局の先輩」が、私のことを事前に調べて『杯が満ちるまで』をわざわざ静岡新聞社から取り寄せて読んでくださっていて、「もう1冊、20年ぐらい前に地酒本を書かれていますよね、それが手に入らなくて」と何とも嬉しいお言葉をいただきました。

 駿河茶禅の会の研修日程を10月12~14日で計画していると伝えたら、「やっぱりスズキさんは酒の神様に呼ばれましたねえ」とニンマリ。10月13日、日本酒発祥の地の一つといわれる出雲・佐香神社(松尾神社)で年に1度の秋季大祭どぶろく祭があるからぜひ、と薦めてくださったのです。

 事前の下調べでは引っ掛かっていなかったので嬉しい驚き。茶禅の会の研修だというアタマで、はなからその情報に気づかなかっただけかもしれませんが、「神社内でどぶろくを1石造ってその日のうちに飲み切る。ハンパない量を飲まされるが、日本の神社でどぶろくを造っているのは今はここだけ。酒の取材をしているなら行かない手はない」とプッシュされ、すっかりその気になってしまいました。

 

 さらに会食した居酒屋のオーナー福島将美氏を小川氏から紹介され、しまね地酒マイスターという資格で日本酒伝道活動をされているとうかがい、出雲の酒文化に触れるというのも今回の研修プログラムに追加できないかなあと妄想を膨らませました。


 静岡へ戻ってきてからは、小川氏に紹介してもらった不昧流大円会という80年の歴史を持つ茶道流派の事務局とコンタクトを取り、具体的に視察スケジュールを組むには再度の現地調査と、わが駿河茶禅の会とは比較にならない歴史ある不昧流大円会関係者への事前挨拶が必要だと実感し、8月25~28日、今度は10月の計画通り静岡空港出雲線を使って、宿泊予定の玉造温泉と松江市内のビジネスホテルに泊まり、移動時間や交通機関の時刻表等を確認しました。プロのツアコンさんのご苦労が少し疑似体験できたかな…。

 静岡空港出雲線は行きは夕方着く便、帰りは午後早い時間に発つ便しかないので、現地で2泊は必要というのがネックといえばネックですが、静岡-出雲間は正味50分。自宅を14時に出て18時には玉造温泉の湯舟に浸かることができましたから、JR利用時とは比べ物にならない時短快適な移動です。同行してくれた友人も「会社の忘年会、玉造温泉に1泊して翌朝出雲大社をお参りして帰るコースにしようかな」とその手軽さに感心していました。

 

 今回は山陰中央新報社の小川氏が、不昧流大円会の山崎幹事長、不昧公ゆかりの島根県有形文化財茶室「明々庵」の森山支配人に引き合わせてくださり、10月には明々庵で不昧流のお点前のご披露と解説をいただけることに。その後、山崎幹事長はご自分の乗用車で不昧公の墓所がある月照寺をわざわざご案内くださいました。

 

 佐香神社には一畑電車の無人駅「一畑口」からのどかな田園地帯を10分ほどブラ歩き。松尾神社という立派な石碑と鳥居に迎えられ、石段を登った先に、こじんまりとしたお社が静かにたたずんでいました。

 私は今まで、酒造の神様といえば京都の松尾大社と奈良の大神神社、この2社をひたすら有難がってお参りしてきましたが、どうやら皮相な考えだったようです。

 

 以下、醸協(1987)に掲載された論文『出雲神話と酒造り/元島根県立図書館長 速水保孝氏』を参考に紹介すると― 

 ヤマタノオロチ伝説に記されるように、弥生時代の初め、大陸から出雲に渡ってきたスサノオは、村人を苦しめる八岐大蛇を八醞折の酒で泥酔させ、退治しました。この八醞折の酒は縄文文化の名残で果実を噛んで醗酵させ、造っていたようですが、弥生時代に稲作がさかんになると米を噛んで造るようになり(アニメ映画『君の名は』にも登場してましたね)、やがて大量生産に不向きな口噛み酒から、大陸伝来のコウジカビの活用へと転換していきます。これも、大陸からまず出雲地方に伝わったもの。『播磨国風土記』によると、出雲大神が播磨に遠征したとき軍隊の携行食の乾米が水に濡れてカビが生えたので、そのコウジを使って酒を醸造したという記録が残っています。

 ということは、この佐香神社が日本酒のほんとうの起源、といえるのかもしれませんね。『出雲国風土記』によると、佐香神社はもともと天平5年(733)に建てられた佐加社。現在、平田市に含まれるこの地の字は楯縫郡佐香郷と記されてきましたが、佐加・佐香とも、サカ=サケの古名を意味するもので、文字通り、古代に大陸から渡来した人々がコウジカビを用いて大規模な酒造を行い、この神社にお神酒を奉納したということ。室町末期、山津波で崩壊した神社を再建する際、「九社明神社」と名称が変わり、酒の神様としてのイメージが薄まってしまったところ、京の都へ酒造りに出稼ぎに出ていた出雲杜氏が松尾大社の分霊を勧請し、松尾神社を併存するようになったということです。

 

 8月に佐香神社を訪ねたときは、村の鎮守の神様みたいな、素朴でこじんまりとしたたたずまいに、それほどの威光を感じることはなかったのですが、10月、実際に秋季大祭どぶろく祭に参加し、出雲杜氏経験者だという氏子のおやっさんたちにどぶろくを注いでいただいたときは、「ああ、これぞ日本酒のふる里…!」と胸アツになりました。

 アツい10月の駿河茶禅の会出雲研修レポートは追ってじっくりご紹介します。

 

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Tabi tabi 4号 ~白隠が白隠になったまち

2018-09-21 13:57:03 | 白隠禅師

 静岡新聞社から春と秋に発行される旅の文化情報誌『Tabi tabi』第4号~しずおか温泉三昧が本日(9月21日)発売となりました。

 私は毎号、しずおか今昔物語というコーナーで静岡の歴史について書かせていただいており、今回は、当ブログの前記事でも触れた白隠禅師を取り上げ、白隠さんが生涯を過ごした沼津・原というまちについて紹介しました。

 

 執筆にあたっては、過去参加した白隠さん関連の講座・セミナーでの知識、その備忘録としてまとめてきた当ブログ記事が役に立ったのはもちろんのこと、駿河白隠塾でご一緒させていただく原の郷土史家・望月宏充先生、ご存知『白隠正宗』蔵元杜氏の高嶋一孝さんに、原というまちとの関係性について貴重な助言をいただきました。私レベルの書き手の原稿に、白隠禅画の画像使用は(予算的に)無理だったため、望月先生には大正時代の松蔭寺写真絵葉書を、高嶋さんには白隠画を使用したお酒のラベルをお借りするなど、お2人がいなければ誌面が成り立ちませんでした。好きで始めた白隠学習と地酒取材での人脈がこういう形で役に立つとは、ほんとうに、人生に無駄な道はないなあとしみじみ思います。

 ネタ元となったのがこちらのブログ記事です。興味がありましたらぜひご覧ください。

 〇「健康」の二文字を初めて使った白隠禅師(こちら

 〇白隠さんの折床會と朝鮮通信使扁額(こちら

 〇普賢象と白幽子(こちら

 

 

 なお、9月27日(水)から10月13日(土)まで白隠展2018inぬまづ(沼津市主催)が沼津市立図書館4階展示ホールで開催されます。松蔭寺所蔵の白隠禅画を沼津市内の施設では初めて展示するそうですので、お見逃しなく! 私は10月2日(火)、10月10日(水)13時から18時30分まで受付ボランティアをやります。平日ですが、お時間の許せる方はぜひ遊びにいらしてくださいね。

 

 さらに9月29日(土)10時30分から沼津市立図書館4階視聴覚ホールで、芳澤勝弘先生の講演会『駿河白隠塾フォーラム/白隠下の師承について』(一般2000円)が開催されます。おなじく12時45分から15時まで特別講演会『松蔭寺の歴史と文化財』『西洋における白隠禅師の理解』(参加無料)も開催されますので、興味のある方はぜひ。詳しくは駿河白隠塾フェイスブックページ(こちら)を。

 

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国書偽造事件と白隠禅画

2018-09-17 13:17:39 | 朝鮮通信使

 久しぶりに朝鮮通信使と白隠禅師にまつわるトリビア報告です。

 度々ご紹介しているとおり、私がここ10年ぐらい追いかけているこの2つの歴史テーマを結びつけたのは、地酒『白隠正宗』のラベルに使われた白隠禅師画「朝鮮通信使曲馬図」。思い入れの深いこの画の意味について、去る7月30日に開催された静岡県朝鮮通信使研究会例会で、北村欽哉先生が新しい解釈を発表されました。白隠研究者がこれまで誰も指摘していなかった斬り口で、自分に歴史小説を書くスキルがあったら絶対に書きたい!と思えるほどワクワクする内容でした。

 

 例会の演題は『国書偽造事件と馬上才の派遣』。国書偽造事件はNHKの『歴史秘話ヒストリア』や『英雄たちの選択』等々で取り上げているので、ご存知の方もいると思いますが、おおまかに説明すると、室町時代から日朝外交の橋渡しを担ってきた対馬の島主・宗氏は、交渉を円滑に進めるため、日本の為政者(足利将軍、豊臣秀吉、徳川家康)から朝鮮王に送る国書の文言をところどころ書き換え、ニセの国印まで作ったりしていた。江戸時代に入って対馬藩主となった宗義成と家臣柳川調興の間で争いが生じ、徳川3代将軍家光の時代、柳川が幕府に長年の偽造をリーク。幕閣内で喧々諤々の騒動となり、結果、宗義成はおとがめなし、柳川調興は津軽に流刑となったという事件です。

 国書という最も重要な公文書の改ざんを内部リークしたほうが重く処罰されたのですから、今の感覚ならアカンやろう~と言いたくなりますが、その裏には朝鮮貿易利権をめぐる、自民党も真っ青!の権力闘争があり、白隠さんが描いた「朝鮮通信使曲馬図」にはその皮肉が込められていたというのが今回のお話。

 これまでこの絵を解説した本や図録では、巷で話題沸騰していた朝鮮通信使の馬の曲芸「馬上才」をモチーフに、布袋が瓢箪から曲馬を吹き出す構図で移ろいやすい人の心=意馬心猿を制御したという禅的解釈が大半でしたが、しばしば幕藩体制にするどいツッコミをしていたリベラル派の白隠さんが朝鮮通信使を画題にする際、あえて馬上才を取り上げた真意を裏読みすると、北村先生の❝皮肉説❞も大いにアリだと思えてきます。

 

 先に結論を書いてしまって恐縮ですが、今回のお話の主な登場人物は以下の面々です。

 ①宗義智(そう よしとし)1568~1615/対馬の島主。初代対馬藩主。秀吉朝鮮出兵から家康の和平交渉~朝鮮通信使招聘まで激動の時代に島を支えた。

 ②宗義成(そう よしなり)1604~1657/義智の子。国書偽造事件当事者の一人。

 ③柳川調興(やなぎがわ しげおき)1603~1684/宗氏の家臣。祖父・父とも足利将軍時代より朝鮮貿易貨物管理者として暗躍。10歳のとき徳川家康に気に入られ駿府城で小姓となり、土井利勝ら幕閣実力者と強い人脈を持つ。宗義成の妹を妻に迎えていたが後に離縁。国書偽造事件では津軽藩に流刑となる。

 ④規伯玄方(きはく げんぽう)1588~1661/福岡宗像出身の禅僧。対馬の外交僧として宗義智・義成親子を支え、日本人では初めて秀吉出兵後に漢城(ソウル)訪問。国書偽造事件関与者として岩手南部藩に流刑に。この地に酒や味噌の醸造法、作庭技術、製薬技法等を伝え、方長老と呼ばれて藩主はじめ多くの庶民に親しまれる。晩年許され、大坂で亡くなる。

 

 ご覧いただくと、③柳川調興と④規伯玄方のプロフィールに興味が湧いてきませんか? 調興は駿府城で暮らしていた過去があり、玄方に関しては、南部杜氏のふるさとであるこの地に酒造技術を伝えたのは私のこれまでの取材では、近江商人が南部盛岡藩城下の商業や産業を興し、南部杜氏は近江商人村井権兵衛が池田流を導入したのが始まりだと承知していたので、玄方の存在や関与を知ってビックリしました。

 

 南部杜氏の話は別の機会に回すとして、今回のキモとなるのは、単純な主従関係ではなさそうな藩主宗家と家臣柳川家の間柄です。

 日朝関係史専門の田代和生氏が著した『書き替えられた国書』(中公新書)によると、宗氏はもともと古代末期の律令官人で、武士になって対馬を支配するようになり、14世紀以降、倭寇が朝鮮半島を荒らすようになると李朝政府から倭寇の取り締まりを依頼され、見返りに貿易上の特権を得ます。

 以降、日朝交渉は宗氏の専売特許となり、当時最高の知識人であった禅僧を雇って外交交渉をさせました。宗義智の時代には景轍玄蘇という僧が対馬に以酊庵という庵を建てて、ここをいわば外務省に見立てて国書偽造という禁じ手も使い、日朝修好を円滑に進めたのです。規伯玄方は玄蘇の同郷の弟子にあたり、24歳という若さで以酊庵二代目に。対馬激動の時代を支えた宗義智は48歳で急逝し、その子義成は12歳で家督を継承。玄方は若い当主を全身全霊で支えます。

 

 一方、柳川氏は出自がハッキリせず、出身地の筑紫国柳川にちなんで姓を名乗ったそう。宗氏14代島主に仕えて朝鮮貿易で功績を上げ、対馬郡内で勢力を伸ばします。秀吉が九州を平定したころには、朝鮮の珍品を石田三成に献上して秀吉にも取り入り、秀吉からは冠位を、家康からは本土に領地まで与えられました。国書偽造は、朝鮮事情に精通した柳川氏とGOサインを出した宗氏のいわば共犯作業。朝鮮側から絶大な信頼を得ていた柳川氏は「自分なしには朝鮮貿易は立ち行かないだろう」と次第に増長し、主君宗氏をおしのけて「徳川の直臣として朝鮮外交を担う」という野心を持つように。11歳で家督を継いだ調興は家康に気に入られて駿府城で小姓となり、家康亡き後は江戸に出て秀忠に仕え、神田に屋敷まで拝領したそうです。

 

 ともに若くして家督を継いだ宗義成と1歳上の柳川調興。親世代からの国書偽造という負の遺産を共有する2人でしたが、性格は正反対のようで、朝鮮通信使が2人の印象を「調興はすこぶる怜利(賢い)、義成は癡騃(愚か)」と記録しています。

 家督を継いだ当初、調興は「対馬みたいな僻地には興味ない、オレは江戸で出世するんだ!」と思っていたようですが、義成の母に「息子を支えてくれ」と頼まれ、しぶしぶ忠誠を誓い、義成の妹宮姫を妻に迎えます。その代り、徳川仕込みの世渡り術を身に着けていた調興は、対馬藩内で自分の意にそぐわない重臣を次々と失脚させていきます。義成が最も信頼していた重臣吉田蔵人に横領の罪をかぶせる際は、幕府老中の威光まで利用し、吉田は切腹に追い込まれます。さすがの義成も堪忍袋の緒が切れて、藩内は主君義成派と柳川派に二分対決する状況となりました。

 

 朝鮮通信使から癡騃と言われてしまった義成ですが、若くして以酊庵二代目となった当代随一の碩学・玄方から教育を受け、まっとうな政治力も備えていました。朝鮮半島に大陸北方から後金(のちの清王朝)が侵略してきたときは、義成が率先して徳川幕府に援軍派遣交渉を行い、当時日本人は釜山までしか許されなかった不文律を越え、玄方を首都漢城(ソウル)まで派遣させたのでした。

 柳川家が代々果たせなかった首都入城を玄方が成し得たというニュースに衝撃を受けた調興は、大胆な行動に出ます。義成から受けていた知行の返上を申し出て、義成に却下されると、幕府老中土井利勝に「パワハラを受けた」と訴え、義成も負けずに「不忠者」と申告。告げ口合戦の挙句、とうとう調興は「宗家は朝鮮外交担当者として不適格」と国書偽造を暴露してしまったのです。偽造の共犯だった柳川も火の粉をかぶるリスクはあったものの、幕閣に強いコネを持つ調興には勝算があったんですね。

 

 国書偽造が明るみとなった1633年、幕閣(老中土井利勝、老中酒井忠勝、阿部忠秋、松平信綱、柳生宗矩、林羅山)による事情聴取が始まり、翌年まで続き、朝鮮王朝にも知られるところとなりました。偽造国書を交わされてきたという国辱に対し、朝鮮側がどう反撃してくるか、宗義成は生きた心地がしなかったと思いますが、ここで玄方は「朝鮮側に天下一と評判の馬上才の招聘を打診してみてはいかがでしょうか?もし朝鮮側が応じれば、この問題は不問に帰すと判断できるでしょう」とアドバイス。1634年暮れ、義成の特命を帯びた側用人有田杢兵衛が釜山に渡って「家光公がぜひ観たいとおっしゃっているので」と馬上才招聘を願い出ます。無事、馬上才団を伴って1635年1月に帰国し、一団は対馬に滞在して❝裁判❞の成り行きを見守ります。

 

 1635年3月11日、徳川家光はすべての大名を江戸城に集め、公開評定で両者の主張を直接聴取します。ドラマや映画にするならまさにクライマックス!といったところでしょうか。江戸城内も義成派、調興派に二分され、大名たちは、単なる対馬のお家騒動がこんな大事件になるとは!と興奮気味。義成派の伊達政宗などは事前に「我々は朝鮮の役のとき、父君義智公に救われた恩義がある。もし柳川が勝ったら調興を屋敷に帰さず、切り捨てるよう家臣に申し付けてあります」と義成に耳打ちしていたそうです。

 調興を幼少の頃より可愛がっていた土井利勝らの反応が気になるところでしたが、翌12日、土井邸に呼ばれた義成は「今年か来年のうちに朝鮮通信使を招聘せよ」と事実上の勝訴を、松平邸に呼ばれた調興は、国書偽造の首謀者として津軽への流刑を言い渡されました。

 

 勝算があった調興がなぜ負けたのかー。田代氏は『書き替えられた国書』の中で、宗氏は中世以来、朝鮮国王へ使者を送る時は恭順の意を示すため、釜山の殿牌(国王を象徴する牌)を使者が拝む習慣があり、それで長年修好関係が続いてきた。幕府の直臣を自認する調興が義成にとって代わって使者を送った時、同じようなことをしたら❝徳川が朝鮮王に朝貢したスタイル❞になってしまう。宗氏の実績を採った方が後々問題ないという判断だった、と指摘されています。なにより、土井利勝や林羅山ら調興支持派を抑え込んで義成を擁護していたのは、ほかならぬ家光だった。彼には、家臣が主君を貶める先例を作っては絶対にならないという信念があったのです。

 とはいえ、処分は双方に及び、調興の家臣松尾七右衛門と宗家の祐筆島川内匠が死罪、玄方と宗智順(義成のいとこ)が偽造の事実を知っていながら報告しなかった罪で流刑となりました。玄方を奪われた義成は勝訴に浮かれるどころか「四分六分で敗けたような気がする」と側近に吐露したと伝わります。


 判決1か月後の4月20日、家光は江戸城で馬上才を観賞し、大いに喜び、翌1636年の朝鮮通信使招聘から馬上才が正式メンバーとなりました。この年、通信使は初めて日光まで足を延ばしたのですが、これは土井利勝と林羅山が宗義成に圧力をかけ、日光行きを嫌がる通信使を無理やり説き伏せさせたとか。通信使は「義成は血の気がなく慌てふためき、鼻血を3度も4度も出していた」と記録しています。通信使を巻き込んだなんとも陰険な意趣返しですね・・・。

 

 主を失った対馬以酊庵には、京都五山から交替で高僧が派遣されることになりました。私はこれまで、今回のことで幕府が対馬に外交を任せきりではまずいと判断したからと、理解していましたが、玄方ほどの優秀な僧が処罰されてしまったことから、後任の引き受け手がいなかったというのが実情のようです。

 

 48歳で南部藩に送られた玄方は、71歳までこの地で過ごします。私は北村先生のお話をうかがった後、どうしても玄方の足跡を知りたくて、南部杜氏の取材を兼ねて9月8~9日に盛岡へ行ってきました。盛岡城址の北東に位置する榊山稲荷神社(もりおかかいうん神社)には方長老と呼ばれて親しまれた玄方が作庭した旧桜山庭園緑風苑があります。観光パンフレットにはなぜか紹介されていないのですが、ご覧の通りの見ごたえある美しい庭園。境内には南部藩時代に「斗米稲荷」として崇敬された金殖神社があり、しっかりお詣りしてきました。

 神社の隣には、南部藩主歴代当主の墓がある聖寿禅寺があります。玄方が蟄居暮しをしていた寺で、南部家歴代藩主の中でも名君の誉れ高い29代南部重信は、青年時代に先祖墓参りのたびに玄方のもとを訪ね、多くを学んだと伝わります。

 

 盛岡市中心部を流れる中津川与の字橋たもとには、南部家重臣毛馬内三左衛門邸の庭を作庭した玄方の手による『方長老のつくばい』が。大通り二丁目には、玄方を慕って京都木津村から移住した商人池野藤兵衛の『木津屋』の屋敷と土蔵(岩手県有形文化財)が。

 

 もりおか歴史文化館では、玄方木像の写真を拝見できました。ホントはどんなお顔だったのかな・・・。

 

 1658年、72歳で放免となった玄方は、いったん江戸に立ち寄って林春斎(林羅山の子)の調べに応じ、その内容は『方長老朝鮮物語付柳川始末』という書物にまとめられました。こののち玄方は京都の南禅寺塔頭語心院の住職を1年務め、最期は大坂城そばの九昌院の庵で亡くなります。享年74歳。対馬の地を踏むことは二度とありませんでした。

 白隠さんが生まれたのは玄方が亡くなってからですから、2人に直接の接点はあり得ませんが、禅僧の大先輩である玄方の『方長老朝鮮物語付柳川始末』を読んでいたのかもしれませんね。

 今回、北村先生のレジメには興津の東勝院に伝わる朝鮮通信使曲馬図が紹介されており、上記の白隠正宗ラベルと同じような構図ながら、布袋さんの脇に〈抑是 朝鮮國 客僧 彼張華老 伯坊主〉と画賛が入っています。

 張果老とは中国唐代の仙人で、白い驢馬に後ろ向きに乗って一日数万里移動し、休む時は驢馬を紙のように折りたたんで箱に入れ、乗る時は水を吹きかけて元に戻したという伝説の人物。北村先生は「朝鮮通信使一行に僧侶はいなかったので、これは朝鮮国へ渡った日本の僧のことではないか」「張果老の果を華と書いたのは、わざと間違えたのではないか」と読み解きます。・・・となると、朝鮮通信使曲馬図の布袋さんとされているのは、規伯玄方のことではないかという仮説も。なにせ〈伯坊主〉ってズバリ書かれていますし、馬上才を日本に招聘したきっかけはほかならぬ玄方であり、その後の国書偽造事件を巡る顛末を見れば、白隠さんが「意馬心猿だ」と皮肉る気持ちも理解できますよね。

 

 歴史教科書では「国書偽造事件」とひと言で片付けられるお話ですが、現代の政治の世界にも、企業経営の世界にも置き換えられそうな話だなあとしみじみ・・・。映像化するなら宗義成は三浦春馬、柳川調興は高橋一生、規伯玄方は堺雅人なんてどうでしょうか(笑)。

 

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