杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

駿河白隠塾まち歩きツアー~かぐや姫のまちで白隠を学ぶ

2017-06-26 09:44:00 | 白隠禅師

 6月4日、駿河白隠塾開催のまち歩きツアーに参加しました。舞台は富士。「かぐや姫のまちで白隠を学ぶ」というのがツアータイトルです。かぐや姫と白隠さんってどんなつながりがあるんでしょう。

 最初に向かったのは富士山かぐや姫ミュージアム。今回のツアーのコーディネート役である木ノ内義昭館長が、館内を直接ご案内くださいました。1年前に富士市立博物館からリニューアルしてから初めての見学。イマドキの展示スタイルというんでしょうか、前回記事で紹介した岩手のもりおか歴史文化館もそうでしたが、テーマや時代ごとに“編集”され、ビジュアル効果も意識したスタイリッシュな見せ方に魅了されました。むかしの素朴な博物館に馴染んでいた身としては複雑な思いもありますが(苦笑)。

 

 富士山かぐや姫ミュージアムは富士山麓の暮らしの歴史や文化をさまざまなテーマで紹介しています。なかでも富士山南麓に残るかぐや姫伝承をクローズアップし、竹取物語が描かれ伝承されてきた経緯を丁寧に解説しています。

 ちょうどリニューアル1周年記念展『富士登山列伝~頂に挑むということ』が開催中(8月27日まで)で、馬に乗って富士山頂に舞い降りたという聖徳太子から、修験道の開祖・役行者、山頂に大日如来を祀った末代(富士上人)、富士講の先駆け長谷川角行、富士山に初めて登ったお殿様・本庄宗秀(宮津藩6代藩主)、初めて登った外国人ラザフォード・オールコック(初代駐日英国大使)、明治時代に夫婦で富士山頂での越冬気象観測に挑戦した野中至・千代子夫妻など、富士登山史に登場する開拓者たちのユニークな軌跡が展示されていました。富士山の世界遺産登録前、必死に取材調査して様々な媒体に執筆した内容がわかりやすく紹介されていて、最初からこういうのを見せてもらえたら楽な取材だったのに…と臍を噛む思いでしたが(笑)、夏休みに子どもたちと一緒に見るといいんじゃないかな。

 

 ツアー参加者の関心はやはり白隠さん関連の展示物。1階の展示室1「富士に生きる」の一角に、白隠禅師の墨蹟と、白隠画の最高傑作とされる富士大名行列図が実物の5倍尺でパネル展示されていました。駿河白隠塾長の芳澤勝弘先生も、この大きさで見るのは初めてだそうで、行列に描かれた人々の視線等をこと細かく解説してくださいました。白隠さんはこの5分の1サイズの紙に描いたのに、5倍に拡大しても遜色がない…というか、その意図がますます顕在化するという意味で、すごい画力の持ち主なんだと再認識させられました。

 

 パネルの向かい側には、白隠さんが生きた当時の吉原宿や間宿の本市場のにぎわいが再現されていました。私が以前、調べた富士の白酒もしっかり(こちらを参照)。・・・こうなると展示だけじゃなくて試飲もしたくなりますね!

 

 富士山かぐや姫ミュージアムは西富士バイパス広見インターから降りてすぐの広見公園の一角にあります。公園内は多目的広場、バラ園、芝生広場のほか、ふるさと村歴史ゾーンに「大淵の大家」と呼ばれた旧稲垣家住宅、明治の洋館・眺峰館など地元に残る歴史的建造物を移築保存しています。稲垣家住宅では以前、富士に残る天下一製法茶の実演を取材しに来たことがあり(こちらを参照)、文化財が市民に開放され、活用されている姿が羨ましく、こういう場所で地酒の会がやれたらいいなあと妄想しましたが、今回は白酒を飲みながら白隠禅画を語り合えたらいいなと妄想しました。

 

 お昼は田子ノ浦漁協食堂で生しらす丼を味わい、すぐ近くに新たに整備されたふじのくに田子ノ浦みなと公園を散策しました。山部赤人の句碑、富士山を模した展望台に加え、4月にオープンしたばかりのロシア軍艦ディアナ号が3分の1のスケールで復元され、内部が歴史学習館になっていました。

  ご存知ディアナ号は1854年に日露和親条約締結のため下田に停泊中、安政の大地震による津波で大破し、修理のために戸田村に向かっていた途中で強い西風に襲われ、宮島村(現富士市)沖で沈没。2つあった錨のうち、一つは昭和29年に引き上げられて沼津市造船郷土資料博物館に、もう一つは昭和51年に引き上げられ、田子の浦の三四軒屋緑道公園でプチャーチン像とともに展示されていました。これを新たに整備したもの。この日の富士山は雲に隠れていましたが、万葉から幕末までの人々の営みを、大いなる富士が包み込んで見守る、そんなスケール感を感じる清々しい公園でした。

 

 午後いちで訪れたのは滝川神社。周辺一帯は竹採塚をはじめとするかぐや姫伝説が色濃く残る地です。主祭神はコノハナサクヤヒメですが、かつてはかぐや姫の養父・竹取翁が「愛鷹権現」として祀られていたそうです。鷹を可愛がっていた人だったとか。

 ミュージアムでの解説によると、竹採塚一帯に残るかぐや姫伝説では、かぐや姫は富士山信仰と深いつながりがあり、天子様の求婚を振り切って月に帰ったのではなく、天子様とめでたく結ばれて富士山に登り、富士山の洞穴から続く神仙世界に入って浅間大菩薩になったとのこと。つまり富士山の女神はコノハナサクヤヒメではなく、かぐや姫なんだとか。・・・なんかそのほうがロマンチックですね!

 

 滝川神社に次いで訪れたのは、「滝川の観音堂」として知られる臨済宗藤沢山妙善寺。臨済宗になったのは江戸時代になってからで、もともとは富士宮の村山浅間神社の山伏・頼尊が建てた修験道の修行道場だったとか。室町時代には浄瑠璃や歌舞伎のモデルにもなっている小栗判官が愛馬鬼鹿毛と妻照手姫とともに隠れ住んだという伝説が残ります。

 観音堂には本尊十一面千手観音坐像(室町期作)をはじめ、たくさんの仏像が安置され、年に一度の例祭のときだけ御開帳されます。この中に木造の女神を象った白山妙理利権現があり、照手姫をモデルにしたのではと言われています。製作年代不明&かなり古いようで、白山妙理利権現がそもそも山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神として信仰されていた神様だけに、モデルは照手姫ではなく、かぐや姫ではないかという説も。

 木ノ内館長がご用意くださったレジメには「(妙善寺は)臨済宗に改宗以降は富士山信仰の道場としての色彩が薄れ、江戸時代に入り庶民の文化が隆盛するとともに、妙善寺が整えられていく中で布教活動の一環として、説教節小栗判官を援用し、この地域ならではの照手姫と鬼鹿毛伝承を再構築されたのではないか」とあります。説教節というのは中世末~近世にさかんに行われた“語りもの”。もともとは仏教の唱導師が唱える声明がベースになって成立した民衆芸能です。小栗の説教節では小栗と照手姫は藤沢の遊行寺の助けを受け、照手姫は晩年遊行寺内に草庵を結んで夫を慰霊したそうですから、妙善寺の藤沢山という山号にも何やら関連性がありそうです。

 

 観音堂の入口には、白隠さんが(もちろん江戸時代に)書いた『常念閣』という扁額が掲げられています。

  白隠さんは、かぐや姫生誕地とされる比奈の里にある古刹無量寺を、無量寿禅寺として再興しました。無量寿禅寺は残念なことに明治の廃仏毀釈で廃寺となり、最後の住職のご子孫岡田家が跡地を『竹採公園』として整備。園内で「竹採姫」と刻まれた卵型の石と、白隠禅師のお墓を大切に保存しています。ちなみに白隠さんのお墓はここと、住持を務めた原の松蔭寺、三島に修行道場として開いた龍澤寺の計3か所にあります。

 

 竹採公園のすぐ近くには白隠さんのスポンサーだった医師石井玄徳の墓所があり、白隠さんが書かれた墓碑銘が残っています。碑文には玄徳が無量寿禅寺の造営に尽力したことも記されていました。この日は子孫にあたる石井義昭さんが特設解説版を用意し、石井家に残る白隠書画を丁寧に解説してくださいました。芳澤先生がまとめられた白隠禅師年譜にも、石井玄徳の名前が再三登場し、白隠さんを資金面でバックアップしていたことがわかります。

 

 廃寺となった無量寿禅寺の器物の一部は、富士市神谷にある臨済宗少林山天澤寺に受け継がれました。天澤寺本堂前に置かれた六角灯篭型六地蔵は白隠さん自ら彫られたもので、本堂で今も使われる磬子(けいす)は無量寿禅寺のものだそうです。

 

「達磨を描いてほしい」とリクエストされ、富士大名行列図を描いた白隠さん。芳澤先生によると「“達磨”は、禅の祖・達磨大師を指すと同時に、Dharma(仏法)そのものを指し、白隠さんは聖なる仏法の世界の象徴として富士山を描き、俗世の象徴として大名行列を描いた」のですから、富士山の女神とされるかぐや姫のパワースポットに惹かれ、この地に足跡を残したのも無理ありません。

 木ノ内館長のレジメには「『真名本曽我物語』では浅間大菩薩の本地は大日如来ではなく、千手観音菩薩。千手観音菩薩は正式には千寿千眼観世音菩薩といい、千眼大菩薩=浅間大菩薩となった」とありました。かぐや姫そのものを描いた白隠禅画を、私は観たことがありませんが、白隠さんはたくさんの観音さま描いておられますから、比奈の人々はかぐや姫の写しとして信仰していたのかもしれませんね。

 

 天澤寺境内には白隠さん手彫りと伝わる版木の写しも設置してありました。この観音さまをかぐや姫と重ねて拝むのは・・・ちょっと無理があるかな(苦笑)。

 比奈という地名は、平安時代「姫名郷(ひめなのさと)」と呼ばれていたと和名類聚抄に書かれているそうです。・・・伝説が生まれた背景には、必然のリアルがあるはず。そう考えると興味は尽きません。

 

 

 

 

 


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南部杜氏、時空の旅

2017-06-16 16:16:42 | 地酒

 5月下旬、2年ぶりに岩手県の南部杜氏の故郷を訪問しました。「萩錦」「富士錦」の杜氏を務めた小田島健次さんが酒造人生にひと区切りつかれるということで、慰労と感謝を伝えるべく遠野市のご自宅にうがかいました。

 

 一昨年訪れたときは、小田島さんと後輩の蔵人小林一雲さんと3人で花巻の居酒屋で盛り上がりましたが(こちらを)、今回は嬉しいことに萩錦の蔵元夫人萩原郁子さんも来てくださり、ご一緒に小田島家に泊めていただけることになって、従前に増して賑やかな慰労会となりました。

 

 5月24日、まず東名高速バスで東京へ行き、東京国立博物館で「茶の湯展」、三井記念美術館で「奈良西大寺展」を鑑賞。新宿から盛岡行きの夜行高速バスを乗り継いで25日朝6時過ぎに盛岡駅に到着。早朝営業の入浴施設を見つけてリフレッシュした後、盛岡城址公園を散策し、9時開館のもりおか歴史文化館をのぞいてみました。6年前に開館したフィールドミュージアムで、盛岡の歴史文化をわかりやすく紹介しています。駿府城公園にもこういう施設が欲しいなあ…!

 同館で開催中の企画展『盛岡南部家の生き方』では、経済を支えていた金山が枯れたり天候不順による不作凶作、自然災害等に再三見舞われた地方大名の艱難辛苦がうかがえました。天下泰平と謳われた江戸時代も半ばを過ぎる頃には全国各地でこのような綻びが生じ始めていたんですね。

 胸を突かれたのは、享保21年(1736)1月に発行された『南部利視宛江戸幕府老中連署奉書(手伝普請命令)』。幕府から遠州大井川の河川整備を命じられたものでした。もちろん静岡の大井川のことです。会場では実際の絵図面も展示されていました。

 私は真っ先に、大井川の伏流水で酒を醸す志太の酒蔵に長年奉職した南部杜氏のおやっさんたちのことを思い出しました。おやっさんたちのご先祖様もこうして大井川を守ってくれていたんだ…と。

 南部家当主に宛てた江戸幕府老中連署奉書(手伝普請命令)は他にもたくさんあって、日光、仙洞御所、甲州など各地のインフラ整備に駆り出されていたようです。これは盛岡藩に限らず、全国のあらゆる藩に義務付けられていて、各藩主は苦しい財政を立て直すために必死に藩政改革を行った。そういう中から上杉鷹山(米沢藩)、細川重賢(熊本藩)、松平治郷(松江藩)、佐竹義和(秋田藩)といった後に名君といわれる逸材が生まれました。逆に言えば、幕府の直轄地だった駿府のようなところには、改革も名君も必要がなかったわけですね。

 

 お昼前に新花巻まで移動し、小田島さん夫妻、萩原さんと合流。花巻空港のレストランで盛岡冷麺をいただいた後、遠野市にある小田島家に向かいました。その途中、かつて小田島さんの下で頭(かしら)として働いていた菊池一美さんが入所しておられる介護施設にお見舞いにうかがいました。

 小田島さんは頭の菊池一美さん、釜屋の菊池正雄さん、まかないの菅原テツさんの4人でチームを組み、20年前に初めて取材させていただいた当時は萩錦、葵天下、曽我鶴、小夜衣の4蔵を掛け持ちしていたのです。そのことを書いた毎日新聞連載コラム『しずおか酒と人』1998年2月5日付け記事のコピーを小田島さんに託して駐車場で待っていたのですが、窓越しに、萩原さんとの再会を破顔一笑で受け入れた菊池さんを目にし、イラストで描かせてもらった面影がしっかり残っていて、胸が熱くなりました。

 毎日新聞連載コラム『しずおか酒と人』1998年2月5日より

 

 自宅のある長野県から車で掛けつけた小林一雲さんや小田島家のみなさんがバーベキューの準備をしてくださっている中、私と萩原さんは小田島家から車で数分の宮守川上流生産組合加工所を訪問しました。どぶろく特区で知られた遠野市にある4軒のどぶろく醸造所のうちの一つです。

 ここでは地元農産物の加工品(ジャム、ジュース、味噌など)のほか、自社栽培の酒造好適米「吟ぎんが」100%使用の『遠野のどぶろく』を造っていて、突然の訪問にもかかわらず加工部長の桶田陽子さんが丁寧に案内してくれました。市内4軒あるどぶろく醸造所の中では平成16年開業の最も新しい加工所で、仕込み蔵は建物も機械もまだ新しく、萩原さんも「うらやましい」を連発。どぶろくは甘口(アルコール度12%)と辛口(同15%)の2種類あって、辛口は吟ぎんが精米50%と大吟醸並みのスペック。どぶろくとは思えないスッキリ感と口当たりの柔らかさ&甘酸っぱさで、冷やして飲めばクイクイ行けちゃいます。 

 夜のバーべーキューでは、この辛口どぶろくと地元特産の馬肉をたっぷりご馳走になりました。明治元年に建てられたという小田島家は民宿が経営できるほどの広さで、小田島さんは趣味のジャズ音楽を聴くために音楽教室にあるような特大サイズのアンプをお持ち。「いずれはこの家をリフォームし、酒友が集えるサロンにしたい」とおっしゃっていました。実現のあかつきには写真付きで大々的にご紹介したいと思います!

 

 翌26日は朝7時30分から始まる南部杜氏自醸清酒鑑評会一般公開に参加しました。南部杜氏協会加盟の杜氏が平成28酒造年度中に醸した酒ー吟醸の部は全国(北海道~岡山)124蔵328品、純米吟醸の部は109蔵245品、純米酒の部は71蔵154品を対象にしたもの。吟醸の部トップはあさ開(岩手)の藤尾正彦さん、純米吟醸の部トップは三春駒(福島)の齋藤鉄平さん、純米酒の部トップは陸奥八仙(青森)の駒井伸介さんでした。

 静岡で活躍中の南部杜氏は小田島さん(萩錦・富士錦)をはじめ、山影純悦さん(正雪)、多田信男さん(磯自慢)、八重樫次幸さん(初亀)、菅原富男さん(臥龍梅)、伊藤賢一さん(富士正)、葛巻文夫さん(天虹)、日比野哲さん(若竹)、増井美和さん(出世城)等、静岡酒の屋台骨を支える方々ばかり。昨今のトレンドである高カプロン酸系酵母の香りと高糖タイプがやはり幅を利かせる中、入賞せずとも静岡らしさを堅持した銘柄がいくつもあり、ホッとしました。とくに、長年能登杜氏の蔵として認知されていた初亀に2年前に移り、それなりにご苦労もあっただろうと思われる八重樫さんの酒は、私の脳裏に焼き付いていた南部杜氏の醸す静岡吟醸のイメージを見事に体現していて、初亀の水や蔵のしくみを完全にご自分のものにされたんだろうと嬉しくなりました。

 静岡タイプでは上位入賞しないだろうと予想できる鑑評会に出品する杜氏さんたちの心境を慮ると複雑な気持ちになりますが、全国規模の鑑評会のような場で呑み比べてみるとやはり静岡酒の特徴がよくわかるし、審査員ではなく消費者の方を向いて造れと指導されていた亡き河村傳兵衛先生の教えが継承されていることを確認できるのです。

 

 一般公開は10時に終了。富士宮から駆けつけた富士錦酒造の清信一社長と合流し、南部杜氏自醸会吟醸の部でトップをとったあさ開(盛岡市)の蔵見学に向かいました。この蔵は20年前にしずおか地酒研究会の南部杜氏の故郷ツアーで訪問したことがありますが、当時の素朴な酒蔵の面影はなく、現在は見学者用コース&試飲お土産店&併設レストランが整備された立派な観光蔵に。静岡の蔵元には参考にならないくらいの規模で、いちいちため息をつくばかりでした(苦笑)。

 あさ開の併設レストランで昼食を済ませた後、帰りの新幹線まで時間があったので盛岡市内の報恩禅寺を訪ねてみました。広大な座禅堂と五百羅漢(ごひゃくらかん)で知られ、 宮沢賢治が盛岡高等農林学校時代に参禅したそう。受付にいらした和尚さんが「どこでも写真を撮ってかまわんよ」とおっしゃってくださったので、木彫りで499体が現存しているという羅漢堂をのぞいてビックリ!胎内の墨書銘から、1731年(享保16)に報恩寺代17世和尚が大願主として造立し、京都の9人の仏師によって4年後に完成し、京都から盛岡に運んだ輸送用の箱を台座として再利用しているとか。五百羅漢は全国で50例ほど現存が確認されていますが、木彫りで499体が現存し、造立年代が明確にわかるのは全国的にもまれだそうです。「こんなお寺があったなんて知らなかったなあ」と小田島さんも感心しきり。

 この羅漢さんたちが作られた享保=江戸中期といえば、前述した盛岡藩が藩政改革で苦労をしていた時代。辛い時代でも、いや、辛い時代だからこそ、人々は仏堂に救いと望みを寄せていたのでしょう。

 

 南部杜氏は、近江商人村井権兵衛が紫波郡志和村に大坂の池田杜氏を招いて酒造りを始めたのが源流とされています。村井家は信長に滅ぼされた越前浅井長政の家臣村井氏の子孫で、慶長年間に金山開発に沸いていた遠野に移住し、盛岡で「近江屋」を創業。当時最先端の酒造技術者を大坂から招いたことで、優秀な技術が根付き、多くの酒造職人が育ち、大消費地だった仙台藩へ出稼ぎに赴いた。江戸後期の文化文政年間には、米の収穫後に脱穀・籾摺りを簡便にした千歯扱き(せんばこき)が岩手にも普及し、年内に脱穀作業を終えることができるようになって冬場の出稼ぎが可能になったのです。

 静岡の酒を美味しくしてくれた南部杜氏のふるさとには、出稼ぎの酒造りで生きていかねばならなかった人々の歴史があり、南部に酒造りの技術が根付いた理由もちゃんとあった。東北の厳しい環境であったがゆえに地方自治や地域文化の根が張り、競争力のある優れた技や創意工夫の暮らしが育まれた・・・。小田島さんを道案内に、歴史の時空を超えた酒造の旅が出来た2日間でした。

 


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