杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

白隠演談とトークの夕べ@禅叢寺ご案内

2019-11-11 20:28:33 | 白隠禅師

 私が数年前からお世話になっている静岡市清水区上清水の禅叢寺(ぜんそうじ)で、11月17日(日)18時から、『白隠演談とトークの夕べ』というイベントが開催されます。

 第一部では静岡県舞台芸術センターSPACの看板俳優・奥野晃士さんが、白隠禅師の逸話を動読(動きを取り入れた朗読)し、第二部では奥野さんと私とで白隠さんや禅叢寺の歴史についてトークします。トークといっても、奥野さんも私も白隠禅の専門家ではないので、禅叢寺の和尚さんや歴史に詳しい檀家さんにも加わっていただき、みんなで白隠さんや禅叢寺について理解や認識を共有できたらと考えています。

 どなたでも参加できますので、お時間のある方はぜひお越しください!

 

 禅叢寺は一般拝観できる観光寺ではないので清水区以外の人はご存知ないかもしれませんが、清水では清見寺や梅蔭寺に次ぐ格式を持ち、白隠さんが出家後、初めて修行したお寺。創建は平安時代で、現在、本堂にお祀りする御本尊釈迦如来は、調査の結果、10世紀(創建当時か)の作と判明しました。修復の手が加わっているので文化財指定にはならないそうですが、国立博物館蔵品並の価値はあると思います。

 寺は一時衰退しましたが、戦国時代に今川家の配下にあった岡部美濃守が再興し、鎌倉建長寺より雪心和尚を開山に招きました。岡部氏に仕えていた軍師山本勘助の武具も伝わっていたそうです(太平洋戦争で焼失)。雪心和尚の弟子で2代住職となったのが九岩和尚。この方、織田信長のひ孫にあたる御仁です。幕末には幼い清水次郎長が寺子屋修行に来て、やんちゃが過ぎて退塾させられたりと興味深いエピソードもたくさん。お寺の沿革については私が執筆させていただいた禅叢寺のHP(こちら)をぜひご一読ください。

 

 さて沼津・原の裕福な商家に育った慧鶴(白隠)は、幼いころに見た地獄絵図がトラウマになって、どうしたら地獄の苦しみを克服できるだろうかと思い詰め、原の松蔭寺で出家し、19歳から23歳まで全国各地で雲水修行をします。その最初の修行先が禅叢寺でした。

 慧鶴19歳の元禄16年(1703)当時、禅叢寺は千英祚円(せんえいそえん)和尚が住持を務めており、衆寮(しゅりょう=禅寺の研修場)に多くの修行僧が掛塔(かた=僧堂に籍を置く)していました。

 千英和尚がどういう方だったのかは、当日、禅叢寺の和尚さんに直接教えていただくとして、多くの修行僧が書物を読んで文字で理解しようとしていた中、慧鶴だけはひたすら礼拝誦経していたそう。ある日、千英和尚が講義で『江湖風月集』という中国宋代の著名な禅僧の詩偈(しげ=仏教の詩)を提唱し、その中に登場する唐の時代の巌頭(がんとう)という高僧に関心を抱いた慧鶴は、『五家正宗賛』という禅僧列伝書で巌頭和尚のことを調べてみたら、なんと巌頭の末期は盗賊に首を斬られ、その断末魔の叫びが数十里にわたって響いたことを知ります。「禅門の鶯鳳と誉れ高い巌頭和尚が、盗賊の難を避けられなかったのなら、自分のような若輩者が地獄の苦しみから逃れられるはずもない」と絶望感に陥り、修行を続けるべきか否か大いに悩んでしまいます。

 『白隠禅師年譜』によると、慧鶴は修行なんか意味ない、やりたいことをやって毎日愉快に過ごすがいいと開き直ってしまい、「詩文に耽り、筆墨を事とし、大いに外道の考えを起こし、時には魔群の業を習った。経や仏像を見るごとにはなはだしく厭悪感を生じた」とのこと。外道、魔群ってどんなヤンチャをしたんだろうとついつい想像してしまいますが、とにかくこの年、禅叢寺に逗留して漢詩文や書道を習い、後世に華開いた文才・画才の芽を育てたのだろうと思います。

 ちなみに1702年12月14日に赤穂浪士の討ち入りがあり、慧鶴は清水湊で『赤穂廼錦東枝雪』というお芝居を観て、このとき橘屋佐兵衛の娘と出逢い、恋に落ちた云々という逸話があるそうです。赤穂事件の翌年に清水で早くも舞台化されていたなんて眉唾モノですが、慧鶴が修行に行き詰まって横道に逸れたことを連想させるお話ですね。

 

 慧鶴は翌年の春、詩文の大家と噂の美濃・瑞雲寺の馬翁宗竹和尚を訪ね、掛塔します。当時の瑞雲寺はたいそうな貧寺で、おまけに馬翁和尚は“美濃の荒馬”と呼ばれるほどのパワハラ和尚。弟子がなかなか居着かなかったそうですが、進路に悩んでいた慧鶴は馬翁和尚のもとでしばらく詩文の修業を続けます。

 ちょうど土用の虫干しの季節になり、本堂には数多くの書物がうずたかく積まれていました。それを見た慧鶴は「儒学、仏経、老荘、あるいは諸家の道、自分はどれを師としたらよいか、正路を示したまえ」と目を閉じて手にした一冊が『禅関策道』という明の禅僧の書物。そこに、慈明楚円という高僧が坐禅中に眠くなったらキリで股を突き刺したという故事を見つけ、慧鶴はハッと目が醒めて猛省し、ふたたび禅道一筋に生きる決意をしたということです。

 

 白隠さんがもし生きていたら、禅叢寺と聞けば「若い頃の恥ずかしい思い出」にされるかもしれません。確かに瑞雲寺や、24歳のときに最初に悟りを得たとされる越後高田の英巌寺、正受老人に慢心を見透かされ打ちのめされて修行のやり直しをした信州飯山の正受庵等と比べると、白隠さんにとってどういう修行先だったのか、年譜を読んだだけでは判断できませんが、この寺で若き慧鶴が禅僧としての生き方に悩み、苦しみ、書や文学に没頭したのかと思うと、なんとも愛おしい思いが湧いてきます。白隠さんは最初から『駿河に過ぎたる白隠』じゃなくて、一生懸命悩んで苦しんで修行して、あの白隠さんになったのです。

 

 今回の白隠演談では、故郷の松蔭寺住職となってからの白隠慧鶴の逸話を、24歳のときの信州飯山での正受老人とのエピソードを挟みながら、奥野さん&禅叢寺の奥様&新命和尚&スタッフの計4人による動読でお楽しみいただきます。

 休憩時間には日本茶インストラクターの大川雅代さんによる呈茶サービスも。水は「清水」の地名の由縁となった禅叢寺の井戸水と、沼津在住の大川さんが白隠正宗の蔵元・高嶋酒造の仕込み水を汲んで来てくださる予定です。

 私が関わる会でお茶だけじゃ物足りないと言われるかもしれませんので(笑)、飲酒OKの人には地酒『白隠正宗』と、禅叢寺開基の岡部美濃守の出身地である藤枝市岡部の地酒『初亀』も用意しようかと思っています。

 事前申し込みは不要ですので、当日時間までに直接お越しください。なお駐車場は台数に限りがありますので、なるべく公共交通機関をご利用ください。静鉄電車『入江岡』より徒歩6~7分。アクセス方法は禅叢寺HPのこちらを参照してください。お待ちしています!

 

 

 


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福岡・聖一国師の足跡と博多茶禅文化探訪(その3)

2019-11-09 22:46:52 | 駿河茶禅の会

 博多研修レポートの続きです。研修3日目は朝9時より筥崎宮を正式参拝しました。

 蒙古襲来のとき、筥崎八幡神の神風が日本を守ったといわれ、厄除け・勝運の神として名を馳せる筥崎宮。足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など名だたる武将が参詣し、江戸時代には福岡藩主黒田長政以下、歴代藩主の崇敬も集めた社です。

 仁治2年(1241)、留学先の宋から戻る途中、嵐に遭遇した聖一国師は、筥崎八幡神のご加護で九死に一生を得たといわれ、国師は毎年筥崎宮に参詣し報恩の読経を行いました。以来、現在に至るまで承天寺の僧による「報賽式」が執り行われ、僧侶が神社で納経する珍しい行事として知られます。

 

 

 正式参拝の後、安武権禰宜のご案内で本殿・拝殿をじっくり見学しました。神殿の回廊には筥崎宮ゆかりの偉人が残した墨跡が掲げてあり、パッと目に付いたのがこれ。

 大河ドラマ『いだてん』で役所広司さんが熱演した柔道の創始者・嘉納治五郎の書です。『いだてん』は視聴率で苦戦しているようですが、私は毎回楽しみに視聴しています。金栗四三と嘉納治五郎と田端政治と古今亭志ん生をあれだけ複雑に絡めながら、近現代史をしっかり描いている。人見絹枝メインの回、嘉納治五郎が亡くなる回、志ん生が満州で富久を演じた回などは1本の映画にしてもいいくらい素晴らしかったですね。

 

 話は逸れましたが、安武権禰宜が我々の目的を知ってぜひ、とご案内くださったのが、千利休奉納の石灯籠でした。天正15年(1587)、九州平定を終えた豊臣秀吉が箱崎茶会を催した際、随行した千利休が奉納したものです。

 この灯籠の火袋底裏刻銘の終末に「観応元年庚寅六月弐八日、勧進尼了法」「大工井長」とあり、観応元年(1350)作成の灯籠と判ります。平成17年(2005)3月の福岡県西方沖地震の際、この灯籠が倒れ、火袋底裏刻銘を再確認できたとのこと。一般に奉納物には寄進者の名前を印することが通例ですが、利休がなぜ200年以上も前の古い灯籠を奉納したのか―そこに、自分の名を刻んだ真新しい灯籠を置くよりも、利休らしい侘びの美学から時を経た趣のある古灯籠を置いたのではないか等など、興味は尽きませんでした。

 

  次いで訪ねたのは崇福寺。ここも聖一国師開山の名刹です。当時は太宰府にあり、駿河井宮生まれの大応国師(南浦紹明)、そして大応国師の弟子で大徳寺を開いた大燈国師(宗峰妙超)が入寺。博多滞在中の古渓宗陳も訪ねています。その後、黒田長政によって博多に移され、黒田家歴代藩主の菩提寺となりました。臨済宗大徳寺派の3大修行道場の一つで、拝観はできませんでしたが、静岡出身の聖一国師、大応国師の足跡を訪ねる上で欠かせない寺です。

 門前茶屋の女将さんから、崇福寺のある博多区千代の千代流(ちよながれ)が記念すべき令和元年の博多祇園山笠で一番山笠を務めたとうかがいました。千代流の山笠はここ崇福寺の門前で願文を奏上し大いに盛り上がった、また大河ドラマで黒田官兵衛を演じた岡田准一さんが再三訪れ、沸き立ったことなどを誇らしげに話してくれました。

 

 

 研修の締めくくりは、茶祖栄西禅師が日本で最初に開いた禅寺・聖福寺での写経奉納です。

 

 建久6年(1195)、源頼朝を開基に創建され、蒙古襲来時に焼失。再建後、室町期には五山十刹制度の十刹第二位に序され、38院の塔頭を擁する大伽藍を誇りました。戦国~江戸期にかけ幾度か焼失と再建を繰り返し、江戸後期の第123代仙厓義梵禅師が禅の修行道場として再興し、今日に至っています。仙厓禅師は駿河の白隠禅師と並んで禅画の名手として知られる禅僧です。

 崇福寺同様、修行道場のため拝観はできませんでしたが、希望すれば写経や坐禅の体験ができるということで、一同、写経堂にて心静かに般若心経をしたためました。写経初体験の参加者が多く、貴重な体験になったようです。

 

 

 

■参加者の声

○UIAメンバーが鹿児島、宮崎からも遠路参集してくれたことにより、交流が 盛り上がった。各訪問先は初回ではなかったが、寺社関係者からの解説により新たな情報を頂き、また再認識の事項も多く非常に有意義であった。博多の地下街の規模、人口増などを見聞し、東京・大阪とは一味異なる活動的な文化を感じたが、神仏・祭礼を基盤とした精神性が背景にあるものと強く感じた。「茶の湯」という観点からは、昨年訪問の出雲は城下町としての歴史を抱く「静」、福岡は海外交易の窓口として活動してきた博多商人のパワー「動」が印象的であった。(M)

 

○福岡・聖一国師足跡めぐりとUIAの方々と交流茶会はお天気にも恵まれてすばらしい旅となった。博多山笠は福岡ではいまでも経済活性の柱の一つであり、博多の伝統行事として人々の生活に溶け込んだ非常に意義があるものと再認識した。UIAの方々の茶席でのおもてなしや、福岡の見どころや情報を用意していただく等、見習うべきところがたくさんあり、本当のおもてなしを学び、大変有意義な研修旅行だった。(I)

 

○UIA九州エリアの皆さまの心づくしのおもてなしには感激した。会場の松風園の保存管理も行き届いていた。承天寺や櫛田神社を通して聖一国師が博多の人々の日々の生活の中に、文化として根付いていると実感できた。とくに櫛田神社の阿部宮司の気さくで明るいお人柄に、博多っ子の心意気を感じた。(A)

 

○福岡市文化交流公園「松風園」茶室でのUIAとの交流茶会&昼食会は、駿河茶禅の会とUIAのメンバーが交互に座ることで、自然に隣の方と話が盛り上がり、交流が深まった。自己紹介をして行く中で、UIAの方々は、鹿児島、宮崎等九州遠方からこの茶会のために集まって頂いたことが分かり、心からのおもてなしに本当に感謝・感激した。(D)

 

○博多祇園山笠は重さ1トンの曳き山笠が町中を勇壮に疾走する。その際、承天寺前に聖水が設けられ、山笠を担ぐ若衆に勢水が盛んにかけられる。真夏の山曳きで熱くなった曳手を冷やす冷却水の役目を果たすという。私の住んでいる場所は静岡市郊外の安倍川の近くで、上流側に上った処に足久保がある。聖一国師が中国から茶の種を持ち帰り、初めて蒔いた場所だ。聖一国師が生まれたのは静岡市葵区栃沢の地。その生家の庭先にて沸き出る清く澄み切った聖水を福岡の博多に運び、承天寺に献水し、祇園山笠の勢水として掛けられている。なんと素晴らしいことだ。駿河茶禅の会ではお茶と禅に通じる心、作法を学んでいるが、この会を機会に、少しではあるが静岡と福岡お互いの発展に繋がれば良いと思わずにいられない。お茶の心得は何かに繋がり、気分が円やかになることである。たった1時間40分の飛行時間だ。九州に飛行機を利用して旅に行こう。そしてもっと盛んに交流しよう。(S)

 

○UIAの皆さんとの交流茶会、小生の右隣りは久留米から、左隣りは大宰府から、皆さん「茶道」の精神をしっかりと生活をしていらっしゃるのを感じた。大宰府からいらしたご婦人はミッション系の女学校を卒業されたとのことで、今のこの大変な世の中、いかに生きるべきかを自分で考える「禅」の心が大事ではないかと話した。最後、栄西禅師が開山の日本で最初の禅寺・聖福寺での般若心経の写経体験はこの研修旅行の締めくくりとして相応しい体験だった。聖一国師とその業績についてその誕生の地静岡から、もっともっと発信すべきであると実感した。(I)

 

○博多では静岡より聖一国師のことをよく知っているという話は聞いていたが、実際に訪れてみて街の真ん中にある櫛田神社の何百年も続く市民の祭り、祇園山笠の生みの親なのだからこれはもっともだと思った。暮らしの中に聖一国師が今も息づいている博多と、生まれ故郷というだけの静岡とでは比べようもなく、彼我の差にため息が出るばかりだった。UIA九州地区の皆様には、素晴らしい庭園と茶室の松風園でお茶会を開いていただき、まさに一期一会を感じた一日だった。茶会前の鈴木さんの聖一国師物語の講話も茶室の雰囲気とあいまってとてもよかった。研修旅行とはいえ、やはり旅は人との出会いや交流あってこそ。いつか皆様を静岡へお招きしたい。(U)

 

 

  今回の研修旅行は、企画段階で静岡県茶業会議所、聖一国師顕彰会(静岡商工会議所内)のご担当者より有益な情報をいただきました。また乳峰寺の平兮正道和尚様には事前の資料送付やスケジュール調整等きめ細やかなお心遣いをいただきました。心より感謝申し上げます。

 茶禅を学ぶ者の夢としては、今後、聖一国師を介在に、静岡ー京都ー博多を巡る茶禅の旅を「お茶三都物語」として定例化できたらと願っています。また国内外で活動されている裏千家インターナショナルアソシエーションの方々と、様々なテーマで交流茶会を企画できたらと思います。なお駿河茶禅の会は毎月1回静岡市内で定例会を開いていますので、興味のある方はご一報ください。


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福岡・聖一国師の足跡と博多茶禅文化探訪(その2)

2019-11-08 09:18:53 | 駿河茶禅の会

 博多研修レポートの続きです。10月14日(月)、福岡市文化交流公園「松風園」を会場に、裏千家インターナショナルアソシエーション(UIA)九州エリア会員との交流茶会を催しました。

 

 まずは、裏千家インターナショナルアソシエーション(UIA)という組織についてご紹介します。UIAは茶道の国際化を推進し、“一碗からピースフルネス(平和)を”の理念に基づき、世界平和に寄与することを目的に設立された、茶道裏千家の“国際部”。海外に向けての活動のみならず、国内においても在留外国人への日本文化紹介や、その手法を学ぼうとする日本人向けの啓蒙に寄与しています。

 
〇設立: 1985年

〇活動内容:裏千家茶道の海外普及の推進

      茶道を通じての国際文化交流、国際親善への寄与

      会員相互の親睦

〇活動区域:北海道・東北エリア、関東エリア、信越・北陸エリア、東海エリア、近畿エリア、中国・四国エリア、九州・沖縄エリア、海外   

〇会員数:581名(2019年3月現在)

〇事務局:一般社団法人茶道裏千家淡交会総本部 内 (裏千家の公式サイトはこちら
〒602-0073 京都市上京区堀川通寺之内上る寺之内竪町682番地

 

 

会場の庭園は駿河湾と富士山をイメージ

 当日は清々しい秋晴れのもと、福岡市内の閑静な住宅街の一角にある福岡市文化交流公園「松風園」茶室に、14名のUIA九州エリア会員が迎えてくれました。

 「松風園」は昭和20年代に建設された茶室と日本庭園を有する公園。福岡市の繁華街天神から南に広がる高級住宅街・浄水エリアに位置します。もともと福岡を代表する百貨店だった「福岡玉屋」創業者・田中丸善八翁の邸宅「松風荘」の跡地を新しく整備し、平成19年に開園したもの。まるで駿府城公園紅葉山庭園茶室が住宅街にポコンと出現したような雰囲気です。

 茶会の前に松風園スタッフが、駿河湾と富士山をイメージしたという日本庭園を案内してくれました。樹齢100年を超えるイロハモミジの木をはじめ、織部灯籠や春日灯籠、イスが卍型に配置された東屋、そして数寄者として知られた田中丸翁が茶の湯文化発祥の地京都から資材や職人を集めて造った本格的な茶室「松風庵」。庵の扁額は電力王で知られる松永安左エ門(耳庵)の揮毫だそうです。茶室の意匠に詳しい望月座長が懇切丁寧に解説してくれました。

 



「一碗からピースフルネスを」の実践

 茶事研修に使われる和室にて、UIA九州エリア会員との交流茶会が始まりました。まずUIA会員による歓迎の呈茶です。14名の九州エリア会員の中には鹿児島県や宮崎県からの参加者もあり、ご当地の話題で大いに盛り上がりました。

 

茶会のしつらえは以下の通り。

 

掛物 「掬水月在手」 妙心寺 松山萬密老師書

花・花入れ  菊(シャムロック)・水引草  肥後寸胴

香合  むさしのの苗 三日月香合  清水祐斎作(山中)

棚   山雲棚  静峰(輪島)

水指  高取 管耳付半月水指 喜恵作

茶器  鵬雲斎好み 秋の野蒔絵 一閑 大棗  石井隆鳳作(加賀)

茶碗  上野 紫蘇手  銘「知足」鵬雲斎 箱

 替  紀州焼 葵窯  「旅衣」寒川栖豊作

茶杓  建仁寺 益州老師 「好日」

蓋置  三河内焼

菓子  錦秋 萬年屋製

 

 茶席でまず目を引いたのが、床の間の鮮やかなエメラルドグリーンの大輪の菊。オランダで改良された菊ですが、シャムロックとはもともとアイルランドの古い言葉で「若い牧草」という意味。クローバーのような草花で、アイルランドの国花になっています。前日13日夜、ラグビーワールドカップで日本がスコットランドに勝利し、アイルランドと並んでベスト8進出を決めた慶事にちなんでセレクトされたとのこと。まさに茶道の国際化を目指してグローバルな活動をされているUIAらしいしつらえでした。


 茶器は、かつてUIA代表幹事を務めた望月座長が身近に仕えた裏千家十五代家元、鵬雲斎千玄室大宗匠ゆかりの品を用意していただきました。

鵬雲斎千玄室は大正12年(1923)、14代無限斎の嫡男として誕生、昭和24年(1959)大徳寺にて後藤瑞巌老師より得度を受け、鵬雲斎玄秀宗興居士となり、昭和39年(1964)に無限斎の逝去に伴って裏千家15代家元を継承しました。太平洋戦争時は海軍士官として特別攻撃隊員となり、戦友(後に俳優となった西村晃)とともに死の瀬戸際を体験。敗戦後、虚脱感に襲われていた時、父の無限斎が進駐軍の将校に毅然とした態度で茶を教える姿を目にして日本文化の持つ力の強さを再認識し、茶道をもって世界平和に貢献することを生涯の目的としたのです。昭和26年(1951)、日本文化使節として初の渡米を皮切りに、「一碗からピースフルネスを」の理念を提唱して世界62ヶ国を歴訪。その功績に対し、平成9年(1997)には文化勲章が授与されています。

 茶会では鵬雲斎千玄室大宗匠のお人柄や、「一碗からピースフルネスを」の実践部隊として活動するUIAの世界各地での茶道伝道活動について話題が広がりました。UIA会員は、外資系企業、国際線客室乗務員、語学教師等など、職業上も海外との接点が多く、茶道の歴史や所作を外国人に伝えるため、本質をしっかり身に着け、それをわかりやすくかみ砕いて伝える術をお持ちです。当方はほとんどがお点前に不慣れな外国人みたいな初心者ばかりですが、気負わず茶席を楽しむことができました。

 

聖一国師の生涯と功績を伝える方法

 UIAの呈茶の後は静岡を代表して私が、にわか勉強で覚えた聖一国師の生まれ故郷・静岡栃沢や、修行中のエピソードについてUIAの方々にお話する時間をいただきました。予習でブログにまとめていたことが多少役立ちましたが、急なご指名だったので冷や汗タラタラでした(苦笑)。

 静岡人にとって聖一国師=静岡茶祖という固定観念がある一方、福岡や九州の方々にとっては「博多祇園山笠の始祖」であり、その知名度は静岡よりもはるかに高いようです。ただしお茶と聖一国師を結びつける人はほとんどおらず、茶祖と聞けば栄西を思い浮かべる人が多いとのこと。

 静岡では茶というかけがえのない地域産業の始祖である聖一国師。しかしその功績を知る市民は茶業関係者や顕彰活動を行う人に限られています。宗教者であるという理由から教育機関では取り上げづらいという声も聞きます。

 かけがえのない地域の伝統行事の始祖として高い知名度を持つ福岡を参考に、自分たちが暮らす地域産業や伝統文化の成り立ちを、どのように語り伝えるべきか、このような地域間交流の機会を活かして考えていきたいと締めくくらせていただきました。拙い話にUIAの方々が真剣に耳を傾け、メモを取ってくださっていた姿に感動しました。

 

 聖一国師講話の後は、昼食をはさんで本会員による静岡抹茶の呈茶でUIA会員の皆さまに感謝の気持ちをお伝えしました。UIA九州エリアの方々にとって、九州全域からメンバーが集まる機会は限られるとのことで、聖一国師を縁にこうして集まることができて本当に嬉しいとおっしゃっていただきました。ワンテーマで地域間交流が発展するという実感をしかと得ることができたと思います。(つづく)


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福岡・聖一国師の足跡と博多茶禅文化探訪(その1)

2019-11-07 20:23:41 | 駿河茶禅の会

 先の記事でお知らせしたとおり、駿河茶禅の会の研修旅行で10月13日(日)~15日(火)に福岡へ行ってきました。前夜12日に台風19号が上陸し、予定の福岡便(13日9時発)が飛ぶのかどうかヒヤヒヤしましたが、搭乗機は前日から静岡空港の格納庫で台風避けしていたとのことで、台風一過の青空のもと、バッチリ富士山を背景に無事フライトしてくれました。

 

 静岡で茶禅を学ぶ者にとって、日本に初めて茶を伝えた栄西禅師、静岡に茶を伝えた聖一国師という2大禅僧は極めて重要な存在であり、福岡は両師が中国から帰国後に最初に布教活動を始めた記念すべき地。しかも16世紀末、豊臣秀吉が九州を平定した頃、千利休もこの地で茶会を催し、その足跡が数多く残っています。

 運良く静岡商工会議所内に発足した聖一国師顕彰会が福岡と交流活動を行っていることからアドバイスをいただこうと思い、ちょうど静岡茶の取材でお世話になっていた静岡県茶業会議所の小澤専務に顕彰会事務局を紹介いただき、駿河茶禅の会メンバーにも顕彰会会員がいたことから、福岡での聖一国師ゆかりの地訪問がスムーズに決まりました。

 単なる寺社巡りで終わらないのが駿河茶禅の会の研修旅行です。今回は望月静雄座長が所属する裏千家インターナショナルアソシエーション(UIA)の九州エリア会員が、我々を歓待する茶会を開いてくださることになりました。

 行程は13日に承天寺、櫛田神社、大同庵。14日にUIAとの交流茶会。15日に筥崎宮、崇福寺、聖福寺と回りました。順を追ってご紹介します。

 

 

 

承天寺

 まず最初の訪問は、博多を代表する名刹・承天寺です。案内役を買ってくださった承天寺塔頭乳峰寺の平兮正道和尚より待ち合わせ場所としてご指示いただいたのが「博多千年門」。多くの神社仏閣が並ぶ博多旧市街のウエルカムゲートとして平成26年に新設されたのだそうです。神社の鳥居や中華街の門なんかもそうだけど、こういう門って異境空間へと誘う効果がありますよね。

 

 承天寺は仁治3年(1242)に聖一国師を開山に創建しました。国師が宋から戻ったのが1241年ですから、禅の布教の最初の一歩という記念すべき場所ですね。平兮和尚には聖一国師を祀る開山堂、庫裏、方丈、国師が中国からその製法を伝えたとされる〈饂飩蕎麦発祥ノ地〉の碑、蒙古襲来時に元の軍船に使われていたとされる〈蒙古碇石〉、博多に疫病が蔓延した時、国師が施餓鬼棚に乗って棒で担がせ、祈祷水を撒いて病魔退散させたことにちなんだ〈博多山笠発祥之地〉の碑等をご案内いただきました。

 博多在住で南宋杭州出身の商人・謝国明が伽藍建設費用を出して完成したこと、鎌倉時代の博多にはすでに数多くの中国商人が暮らしており、貿易を行って寺の伽藍を寄進するほどの巨額の富を得ていたこと、聖一国師は帰国後に修行寺である径山寺が火事で焼けた際、謝国明の勧めで博多から寺再建のための木材を大量に送るなど、800年ほど前の話がついこの前の話のように身近に感じられました。

 そうそう、個人的懸案だった饅頭発祥について、聖一国師が宋から酒饅頭の作り方を伝えたのは確かなようで、この技を継いだ虎屋に、国師が揮毫したといわれる『御饅頭所看板』が残されています。一方で、聖一国師よりも先に宋へ渡った道元が、聖一国師帰国年の1241年に著した『正法眼蔵』の中で、饅頭の食べ方について言及しているとのこと。誰が一番最初に饅頭を伝えたのかハッキリした証拠はないし、「うちが元祖」って言った者勝ちの世界だ・・・なんて思えてきます。そもそも歴史とは「言った者勝ち」「書いたモノが残ってた者勝ち」で成り立っている世界だろうし(苦笑)。

 

 平兮和尚には、国の伝統的工芸品指定・博多織と国師との関係を教えていただきました。聖一国師が渡宋した際、博多商人の満田彌三右衛門が同行し、現地で習得した織物の技法に独自の意匠を加えて制作したものが起源とのこと。文様は仏具の独鈷と華皿を結合した紋様を縞に配したもので、後世、黒田長政が徳川幕府への献上品として同柄を“献上柄”としたことで、博多織の代表的な柄となったそうです。

 

 翌14日夜には博多旧市街ライトアップウォーク〈千年煌夜〉の一環で、艶やかにライトアップした方丈枯山水庭園や開山堂を見学しました。若者や家族連れ、ラグビーワールドカップの福岡開催ゲームで来福した外国人など、ふだん禅寺を訪ねる機会がないと思われる人々で大いに賑わっており、聖一国師と一般市民との距離の近さを実感しました。

 

 

 

櫛田神社

 櫛田神社は承天寺から歩いて7~8分。乳峰寺の平兮和尚にわざわざ神社までご案内いただき、本殿にて正式参拝。その後、阿部憲之介宮司と社務所内にて懇談させていただきました。

 櫛田神社はご存知の通り、天照皇大神、大幡主大神、須佐之男大神(祇園大神)をお祀りする博多総鎮守。須佐之男大神は天慶4年(941)、藤原純友の乱鎮圧にあたった小野好古が山城(京都)祇園社より勧請したもので、鎌倉中期の仁治2年(1241)、宋から帰国した聖一国師が博多に蔓延していた疫病退散の祈祷を行い、施餓鬼棚に乗って浄水を撒いた姿にあやかり博多祇園山笠が始まったといわれます。毎年7月1日から15日まで飾り山笠が公開され、10日からは勇壮な舁き山笠が街を駆け抜けます。期間中は300万人の観客を集め、平成28年にはユネスコ無形文化遺産に登録されています。

 

 福岡市は「博多祇園山笠」という核を中心に経済発展を遂げ、東アジアのゲートウエイとして交流人口が増加するだけでなく、定住人口も毎年1万人増だそうです。承天寺建立をスポンサードした謝国明の時代から有能な商人を数多く輩出し、大陸からもたらされる新しい産業や文化を柔軟に受け入れ、地域経済に取り込み昇華させてきた都市力が脈々と受け継がれてきたんですね。その象徴が、祇園山笠を実質的に指揮する阿部宮司で、なんというのか、博多の人ってこんな熱量を持っているんだ!とビンビン圧を感じる豪快でエネルギッシュな御仁。都市を勢いづかせるにはこういう人が不可欠なんだろうと思いました。

 宮司のご配慮で境内にある博多歴史館を見学し、博多人形師が腕によりをかけて制作した武者人形・歌舞伎人形等をあしらった豪華絢爛な山笠の展示を堪能しました。今年の博多祇園山笠の動画を館内ビデオで拝見し、テレビ画面からもその迫力と勇壮さが伝わってきました。みんなで「来年7月には博多と京都の祇園祭はしごツアーをやろう」と盛り上がりました。

 

 

大同庵跡・古渓水

 前々回の記事で紹介したとおり、千利休の参禅の師・大徳寺住職の古渓宗陳が博多に配流された際、滞在していた大同庵の跡地が中洲のビル街の一角にありました。古渓が使っていたという古井戸が残っており、今も水を湛えています。

 

 秀吉の命による寺の造営を巡って石田三成と対立した古渓は、天正16年(1588)に博多に流され、彼を慕う小早川隆景や博多の豪商らの庇護のもと、茶会や散策をして心穏やかに過ごしました。栄西禅師が開いた日本で最初の禅寺・聖福寺や、当時大宰府にあった崇福寺にも足を延ばしたようです。2年後に京へ戻った古渓は、愛弟子利休が秀吉の怒りを買って切腹、大徳寺も廃寺を命ぜられる事態に遭い、死を賭して秀吉を説得。晩年は利休の菩提寺大徳寺聚光院の住持を務めました。

 雑居ビルとコインパーキングに挟まれ、うっかり通り過ぎてしまいそうな路地裏の小さな史跡でしたが、この地で臥薪嘗胆の時を待っていた古渓の心中を想像し、井戸からくみ上げた水を古渓石像にかけ、合掌しました。電信柱に史跡紹介が書かれていたのが印象的でした。

 

 

 夜は西中洲のもつ鍋店でご当地グルメに舌鼓。ラグビーワールドカップの日本×スコットランド戦の行方が気になり、ほぼ全員がスマホで速報を凝視していました。ちょうど食事が終わって店の外に出たところ、近くから歓声が聞こえ、様子を見に行った会員さんから「パブリックビューイング会場があるぞ!」と。西中州の福岡市旧公会堂貴賓館前に設置された大型スクリーン前の群衆に我々も飛び込んで、ラスト10分、スコットランドの猛攻を必死に食い止める日本代表フォワード陣のハラハラドキドキの攻防を観戦し、歓喜の瞬間を大勢のギャラリーとともに分かち合うことができました。

 中洲の夜の思い出は?と聞かれたら、当面は、この瞬間がフラッシュバックするに違いありません。(つづく)


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