杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

『獺祭』の躍進と國酒から考える日本の未来

2013-05-31 20:10:15 | 地酒

 5月はブログをあまり更新できませんでしたが、過去記事に訪問してくださったみなさま、本当にありがとうございました。消耗される情報ではなくアーカイブになる記事を、と心がけてきた者として嬉しく思います。

 

 今月ギリギリになってしまいましたが、ここで溜まった酒の話題で締めたいと思います。

 

 5月16日(木)には名古屋で開かれた『東海4県21世紀國酒研究会~國酒から考える日本の未来』に参加しました。5月21日(火)・22日(水)は東広島市で開催された全国新酒鑑評会に、5月26日(日)にはホテルセンチュリー静岡で開かれた『ヴィノスやまざき創業100周年記念・2013地酒フェスティバル蔵会』に参加しました。

 

 

 『東海4県21世紀國酒研究会~國酒から考える日本の未来』は、こちらの記事でも紹介したENJOY JAPANESE KOKUSHUプロジェクトの仕掛け人・佐藤宣之さん(現・名古屋大学教授)が呼びかけた講演会。基調講演に『獺祭(だっさい)』の蔵元・櫻井博志さん、パネリストに知多の地酒『生道井(いくぢゐ)』の蔵元・原田晃宏さん、静岡経済研究所の大石人士さん、国税庁課税部酒税課長の源新英明さん、外務省大臣官房在外公館課長の植野篤志さん、名古屋大学の家森信善さん、名城大学の加藤雅士さん。

 

 仕掛け人の佐藤さんが金融庁から名古屋大学に出向中で、なおかつこのプロジェクトに愛知出身者が多いことから、東海4県を拠点とする学界からの参画をベースにし、なおかつ東海4県にこだわることなく酒造・酒販関係者をふくむステークホルダーの参画を呼びかけた会、だそうです。

 

 

 

 

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 『獺祭(だっさい)』の蔵元・櫻井博志さんは、今、日本で一番、マスコミや講演等に引っ張りだこの“勝ち組”酒造家の代表格ですね。

 

 蔵のある山口県岩国市周東町は人口300人の過疎地で、櫻井さんが社長職を継いだ1984年当時、製造石高は700石、売り上げは年9700万円、従業員は9人だったそうですが、現在は石高1.6万石、売り上げは40億円、社員は100人を超えたとか。30年前、蔵を訪ねる客は年間ゼロだったのが、今は5000人。昨年は海外からも50組のゲストを迎えたそうです。

 

 岩国市周東町って大学の友人の故郷で、岩国市に合併される前、玖珂郡周東町と表記されていた学生当時、遊びに行ったことがあるんですが、本当にのどかな田舎でした。先日、その友人と広島で久しぶりに呑んだのですが、『獺祭』の大メジャー化には地元民もビックリのようです。「今度、送っちゃるね」と言うので、「静岡市内にマークイズ静岡ってイオンみたいなショッピングモールができて、そこの酒屋が獺祭専門店になってるよ」と話したら、またまたビックリしてました。

 

 『獺祭』のこの急成長、櫻井社長の先見の明と一言で片付いてしまうのですが、最も重要なのは、地域酒造業の存在意義をしっかり自覚されていることだと思います。岩国市は山陽ベストコンビナート地帯にあり、戦後は企業誘致によって発展した地域。町の主役は工場で、飲食街の主役は大企業の工場長。地元の人々は彼らを御大臣のように扱い、従順に勤めれば生涯安定、という、悪く言えば奉公人根性のようなものが染み付いてしまったようです。工場の海外移転が進むと、こういう地域はあっという間に沈滞してしまい、近年では山口県内の半導体関連企業の倒産が大問題となっているそうです。

 

 そんな中、櫻井社長は、「酒蔵は、どんなに規模が小さくても地元に本社機能があり、研究開発もブランディングもマーケティングもここで出来る。日本酒のブランディングとはすなわち日本の文化を発信し、守り伝えること。地酒なら、地域の文化を担うこと。そういう使命を持つ企業は、長期的に見たら、地域にとって大きな存在意義を持つ」と考えます。

 

 

 國酒と言われる酒類は、日本に限らず、世界各国で自国内の消費量は落ち込んでいます。フランスでもワインの一人当たりの消費量は3分の1に落ちているようですが、ワインメーカーの売上高は変わりません。国内で売れない分は海外で儲けているからです。日本が恰好のターゲットですね。名だたるワインメーカーやシャンパンメーカーは、京都の店を戦略的にマーケティングしています。

 

 

 京都へよく通う私は、日本酒専門の店しか行かないのでピンとこないのですが、新感覚の和モダン店に限らず高級料亭でも、日本酒よりワインの品揃えを充実させる店が増えているようです。でも「京都の料亭を選んで来る海外のお客さんが、ワインを好き好んで飲むでしょうか。本来は和食に合う日本酒をしっかり置いてもらうべきなのに、放っておけば日本酒が入る余地はなくなります」と櫻井社長。

 

 ワインメーカーに倣って10年前から海外進出を始めた櫻井社長は、「日本で売れないからなんとか買ってくださいと頭を下げるような営業はしない。最高のものを持って行き、これが日本の文化だと堂々と胸を張る売り方をする」と腹をくくり、結局、仕込む酒全量をすべて山田錦原料の純米大吟醸規格にしてしまいました。

 

 

 私は以前、「獺祭は全量山田錦の純米大吟醸だ」と聞いた時、小さな蔵元が勝負に出たんだな、と思ったのですが、今回、製造石高1.6万石と知って聞いてビックリ。山田錦は兵庫県加東郡の特A地区の契約農家から年間4万俵購入。しかも発注したのは4.3万俵。国の減反政策のせいで需給バランスがおかしくなっているんだそうです。櫻井社長、ついこの前、安倍首相に「減反規制を何とかしてくれ、山田錦をもっと自由に作らせないと海外に売れない」と直談判されましたっけ。

 

 過去20年、二桁成長で来ており、ゆくゆくは5万石蔵を目指すとか。そうなると山田錦は20万俵必要になりますが、現在、日本全体で31万俵しかとれないそうです。山田錦は過去、全国で40万俵強、生産していた時代もあり、「栽培適地はまだまだある。新しい適地を開拓する必要もある。そうなると農業のしくみそのものを変える必要がある」と櫻井社長は明言します。

 

 

 「日本酒は最盛期には950万石売れていたが、現在は300万石にまで落ち込んだ。最盛期に二級酒を飲んでいたような消費層は、今、安いワインを飲んでいる。こういう消費者を取り戻そうとしても、並行複式発酵の日本酒は、ワインより一手間多い分、コストで勝てない。根本的に低価格アルコールとの競争には勝てない。そうなると、高付加価値品として売っていくしかない。

 ふだん低価格酒を飲む若者も、海外経験が増えていくと、國酒である日本酒のことを知っておかないとまずい、と解るようになる。彼らに日本酒の美味しさをアピールする仕掛けを、スピード感を持って展開していかなければならない」と締めくくりました。

 

 

 

 

 後半のパネルディスカッションでは、『生道井(いくぢゐ)』の蔵元・原田晃宏さんが、「海外に行くと、日本の酒造業が150年以上続く直系のファミリービジネスだということに、まず驚かれる。低価格酒と同じ土壌に乗るのは確かに厳しいため、海外展開を進め、同時に、地域の米や名城大学と共同開発したカーネーション酵母のような差別化できる技術で、オンリーワンの酒を造っていきたい」と語りました。

 

 

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 静岡経済研究所の大石人士さんは、『静岡deはしご酒』のイベント紹介をし、「今後は世界遺産登録が決まった富士山を活かす方法を考えていきたい」とアピール。

 冒頭で、客席に並んで座っていた神田えり子さんと私をめざとく見つけて「今日は自分の酒の師匠の女性が2人来ているので話しにくい」と言い、隣の櫻井さんの笑いを誘っていましたが、櫻井さんはどうみても、「酒の師匠の女性」って「飲み屋のママさん」だと思っただろうなあ(苦笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 外務省大臣官房在外公館課長の植野篤志さんによると―

○日本酒の海外輸出額は昨年207億円と過去最高を記録した。

○安倍内閣でもクールジャパン推進会議で、和食・メディアコンテンツ・スイーツと並んで酒類も重点項目に挙げている。

○在外公館で母国から料理人を同伴してくるのは中国と日本だけで、海外では日本の大使に招かれたら日本食と日本酒が楽しめると期待されている。

○これまでワイン一辺倒だったが、ゲストのほうから日本酒はないのか、と聴かれるようになっている。

○一千年近い歴史を持つファミリービジネスであり、コメを原料とした日本の食文化の象徴でもあり、政治家や企業人には造り酒屋出身者が多い。SONYの盛田家も酒蔵である云々、外交官にとって日本酒は外交トークのネタに事欠かない。

 

 

 

 名城大学の加藤雅士さんは「麹菌は“國菌”に認定されている」とし、日本の醸造発酵技術についての再認識・再評価を呼びかけておられました。

 

 國酒という言葉に象徴されるようなグローバルな話題で、故郷の酒をチビチビ呑んでいる自分にとっては遠い世界のような気がしましたが、会場の名城大学駅前サテライトは入室しきれない人でギッシリ。NHKの取材も入っていて熱気にあふれていました。日本酒が、経営や外交の専門家の講演のテーマになっているって、なんだかワクワクしますよね。

 

 

 なお、5月22日の全国新酒鑑評会については、【日刊いーしず】の隔週連載コラム『杯は眠らない』第9回(こちら)で紹介しましたので、ぜひご笑覧くださいませ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


駿河近郷十二薬師巡礼その2

2013-05-28 14:33:49 | 歴史

 5月13日に参加した駿河近郷十二薬師巡礼のつづきです。

 

 お昼は日本平ホテルの和食の店。ホテルが新しくなってから初めての食事だったので期待していたんですが、予約の時間に到着したのに揚げ物も煮物も冷めていて、いかにも作り置きした団体客向けのランチコースって感じ。湯飲みが小さいのでお茶はすぐに空になってしまい、お代わりしたくても仲居さんがなかなか来てくれなくて、急須を置いていってくださいとお願いしてもなぜかNO。見た目は良くても肝心のホスピタリティがこれじゃぁ・・・とガッカリしちゃいました。まだスタッフがオペレーションに慣れていないのかな。せっかく静岡市民自慢のホテルになったんですから、気持ちよく過ごせるよう、改善を期待しています。

 

 気を取り直し、午後に回った6ヵ寺をご紹介します。

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 七番ヵ寺は草薙の長昌寺薬師堂。徳川初期の創建のようですが仔細は不明で、寺も明治19年(1886)に廃寺となっていて、今は、「草薙一丁目自治会館」の中に薬師如来像だけが残されています。ふだんはお参りする人がほとんどないようで、鍵を預かっている向かいのお宅の奥さんはバス2台でやってきた我々にビックリ。ご近所のお年寄りもやってきて、「こんなにたくさんの人にお参りしてもらってありがたいねえ」と感無量の表情でした。

 

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 狭い会館には全員が入りきらず、私も外で読経や御詠歌を聞くだけ。頭ごしに垣間見る厨子だけではお薬師さまがどんなお姿なのかうかがい知ることはできませんでしたが、病気平癒や健康長寿を願う人々の信仰の的である一方、このみほとけは、寺がつぶれ、薬師堂が失われてもなお、地域の人々の「守り伝える」という意志によって生かされている。・・・ただの造形物でもモニュメントでもない、人の心の象形なのだと真に迫るものがありました。

 

 

 

 

 

 

 

 八番ヵ寺は中之郷の鳳林寺薬師堂。鳳林寺の飛地境内である熊野神社の敷地内に、薬師堂があります。寺そものは正保・慶安年間(1644-51)に創建され、本尊は地蔵菩薩。薬師堂は元文4年(1739)に創建されました。

 

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 この薬師堂も狭くて全員が入りきれませんでしたが、堂内には薬師如来のほか大日如来、八幡大菩薩、千手観音、虚空菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、閻魔大王などほとけさまがオールスター軍団のようにズラッと並び、圧巻でした。中でも迫力満点の閻魔さま、近所の子どもたちのスケッチモデルにうってつけのようで、子どもたちの閻魔画が窓枠いっぱいに貼られていました。神社の中にあって、外からはなかなか気がつかないけど、地域にちゃんと愛されている薬師堂なんだなあと思いました。

 

 

 

 

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 九番ヵ寺は馬走の薬師堂。馬走神社裏手の堂山の中腹にあり、今回廻った中では登り階段がキツくて一番苦労したかな。ご高齢の参加者には大変でしたが、それだけにご利益も期待したいところ。この薬師堂は元禄12年(1699)頃の創建で、有東坂村に住む水野氏のご先祖が、夢に薬師如来が現れ、「我いまに藪の中に埋もれて年を経たり。掘出して供養せよ」とお告げをしたそう。さっそく見つけてお祀りしたところ、眼病にとくに功徳があったので、村民こぞって薬師堂を建立したという言い伝えだそうです。この山を『堂山』というのは、薬師堂があるからなんですね。

 

 御堂の中は観られませんでしたが、こうして連れて行ってもらわねば、ここに薬師堂があって眼病にご利益があるなんて知らなかったと思います。・・・50歳を過ぎ、自分にとって視力低下は老化現象の中でも深刻な悩み。しみじみ仏縁だなあと実感し、ありがたく合掌しました。

 

 

 

 

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 十番ヵ寺は村松の鉄舟寺。今回訪ねた中で、唯一、参拝経験のあるお寺です。ご存知、山岡鉄舟ゆかりの名刹。もともとは飛鳥時代に藤原氏の一族である久能忠仁が、今の久能山東照宮のあたりに建立し、奈良時代に行基が来山して久能寺と号しました。戦国時代に武田氏が久能山に侵攻し、城を造るため、村松の妙音寺のあった場所に寺を移し、久能山妙音院となります。そして明治になって住職不在で廃寺となってしまったのを、明治16年、山岡鉄舟が再興した、というわけです。

 

 さすがに歴史があるだけに、薬師如来は三尺三寸の木造坐像で、脇侍の日光・月光菩薩とともに平安時代の作。源義経が久能寺に預けたとされる薄墨の笛や、鉄舟の墓のことは知っていましたが、お薬師さんが巡礼コースに入っていることは今回初めて知りました。京都や奈良の有名古寺にひけをとらない伝統と歴史を持つのですから、もう少しこの寺の魅力を効果的にアピールできないものか・・・と、ついつい取材者目線で見てしまいました。

 

 

 

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 十一番ヵ寺は宮加三の東向寺。慶長年間(1596-1614)に有度山麓の寺家山に創建した寺で、のちに移転。宝永4年(1707)の大地震で大破し、再建したものの、安政の大地震でふたたび全壊。明治3年に三保の領主太田家の旧宅を移して再建し、昭和42年に改めて現在の御堂を新築したそうです。度重なる震災をくぐりぬけてきた根性のお薬師さまなんですね・・・!

 

 

 

 

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 十二番ヵ寺は横砂の東光寺。旧東海道沿いにある天文年間(1533-54)創建の寺です。かつて勅使が関東へ下向した際、興津川の洪水で足止めに遭い、この寺に宿泊することになりましたが、門扉がなかったため、丸木を集めて格子戸の門を急ごしらえしたとか。ゆえに今でも寺の門扉は格子戸となっています。

 

  巡礼最後の寺ということで、御詠歌はこのように詠われました。

 『 のぼりきて ふだらく山のふもとより これが如来の たちところなり 』(観音様がおられるという、ふだらく山の麓より登るように、一番から順拝して東光寺まで来た。この寺こそ、本当に如来のおわす所のようである)。

 

 ご参加のみなさま、本当におつかれさまでした。とにもかくにも、お参りのご利益がありますように・・・!

 

 

 

 


駿河近郷十二薬師巡礼その1

2013-05-27 11:55:29 | 歴史

 しばらく更新をサボっていたら、ネタが溜まりに溜まってしまい、どれから書こうか迷っています。イザ書くとなると、ハンパには書けない性分で、「書くぞ!」と気合をいれないと書けないのが悩み。

 そんなこんなで、ちょっと時間が経ってしまいましたが、今日は5月13日(月)に参加した『駿河近郷十二薬師巡礼』について書こうと思います。

 

 

 

 みなさんは駿河近郷十二薬師ってご存知ですか? 私はまったく知らなくて、バイトでお世話になっているお寺さんから教えてもらいました。

駿河近郷とは、正確には清水湊(清水区内)のことで、12ヵ所のお寺に祀られた薬師如来を順にお参りすること。幕末頃から始まった風習のようです。

 

 お寺の巡拝・巡礼は、有名なところでは西国三十三箇所巡り。これは古く平安中期から始まったようです。お寺巡りがブームになったのは江戸時代で、坂東・秩父地方の三十三観音巡りから火がつき、江戸、京都、大阪などで三十三観音が選定され、ここ静岡でも駿河三十三観音や駿河百地蔵などを選定されました。これもそれも、もとは、戦乱の時代が終わって江戸の泰平の世になって、民衆が安心して旅が出来るようになったからなんだと思います。やっぱ家康さんエライ!

 

 駿河近郷十二薬師も三十三観音にあやかって選定巡礼されたものと思われ、観音巡りと同様に、人々は御詠歌を唱えて巡拝しました。

 13日は、この十二薬師を順番に回る信徒のみなさんのバスに同乗し、そのレポートを禅宗の協会誌に寄稿するお仕事。一日で12ヵ寺を回るという結構ハードなスケジュールでした。

 

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 一番ヵ寺は上清水の禅叢寺(ぜんそうじ)。享禄4年(1531)、岡部美濃守を開基とし、建長寺の雪心和尚を開山に創建。準開山にあたる九岩和尚は、織田信長の三男神戸信孝の息子神戸飛騨守の子=つまり織田信長のひ孫にあたる人だとか。開基の岡部氏はその名の通り、岡部町の出身で岸和田藩主岡部氏の先祖にあたる人で、当時、清水一帯を領有していたそうです。この寺の井戸からこんこんと湧き上がる水が、『清水』という地名の由来とか。白隠禅師が若い頃、この寺で修行し、修行の壁にぶち当たり、大いに悩んだという逸話も残っています。こんな由緒あるお寺が清水の街中にあったなんて知らなかった・・・!

 

 薬師如来は、山門正面の薬師堂に祀られていて、もとは寺の前にあった塔頭の法西寺のご本尊だったそうです。天竺から伝来したといわれる由緒あるものですが、60年に一度しかご開帳されません。そもそも薬師如来さまというのは、人々の病苦を癒すものすごいパワーのあるほとけさまで、ふだんは厨子の中に納まっていて、パワーが強すぎるというか、パワーが放出されるのを恐れ、めったに公開しないものだそうです。

 

 

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 信徒のみなさんは般若心経を唱えたあと、薬師如来真言『オンコロコロ センダリ マトウギ ソワカ』を唱和します。これは以前、こちらの記事にも書いたように、意味はわからずとも発音そのものに秘めたパワーがある、という陀羅尼の一節なんでしょう。

 

 そのあと、有志のみなさんが御詠歌を詠われました。ご存知の通り、5・7・5・7・7の和歌にリズムをつけて詠うもの。ここでは禅叢寺のことを詠った歌『むかしより 詣る道者はたえもなく まこと如来を おがむみなもと』に節がついたものが披露されました。

 

 

 

 

 

 
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 二番ヵ寺は追分の東泉寺。ちょうど国道1号線と南幹線をつなぐ新しい抜け道ができましたよね。そこから線路沿いすぐ。境内には地蔵菩薩や羅漢さまなど様々な石仏が並び、キンポウジュという赤いたわしみたいな珍しい花が咲いていました。天正年間(1573-91)創建の寺で、開山の樹岳宗白座元が以前からあった薬師堂を一寺として創建。ここでは薬師如来が公開されていましたが、惧れ多くて真正面から写真を撮るのをためらってしまいました。

 

 

 

 

 

 ちなみに、薬師如来が本尊の場合、脇侍は必ず日光菩薩と月光菩薩がつとめます。奈良の薬師寺は日光と月光も麗しいほとけさまとして名高いですよね。数年前、東京国立博物館で薬師寺展があったときは、360度のお姿を拝見できて感激しました。

 

 

 本尊が釈迦如来だったら、脇は獅子に乗った文殊菩薩と、象に乗Dsc02168った普賢菩薩。文殊さまは知恵を、普賢さまは慈悲を象徴する菩薩さまですね。「智慧を磨き、優しさや謙虚さを持て」という教え。あらたまって解説してもらうと、なるほど~とナットクです。

 

 

 

 

 

 

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 三番ヵ寺は渋川の金剛法寺。本尊の薬師如来は鎌倉期の仏師雲慶の作と伝えられています。寺はもともと真言宗で久能寺の末寺として鎌倉期から栄えていましたが、永禄11年(1568)武田信玄が駿河侵攻した際に焼失。江戸元禄期に臨済宗の寺として再建されました。

 

 

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 四番ヵ寺は北脇の西照寺。創建は文禄期(1592-95)。安政の大地震(1854)で本堂が倒壊し、仮の御堂を造ったあと、昭和に入って再建・改築されました。現在は住職が常駐しておらず、訪問時にも中に入れず、御堂の外で読経と御詠歌を捧げました。

 

 

 

 

 

 

 

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 五番ヵ寺は下野の崇寿寺。本尊の薬師如来は、もともと鎌倉の崇寿寺の本尊で、正慶5年(1336)、北条高時が討たれたとき、寺も兵火に遭い、住持の南山和尚が本尊を背負って清水のこの地まで逃れてきたのだそうです。薬師如来は弘法大師作と伝わる堂々とした木彫立像とのこと。釈迦如来の後ろの厨子の中に納められ、ふだんは写真で拝礼します。

 

 

 

 

 

 

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 六番ヵ寺は大内の保蟹寺。本尊の薬師如来は、なんと蟹の上に乗っています。巴川から蟹の背中に乗ってやってきたとのこと。なんだかまんが昔話に出てくる御伽噺みたいですね。昔は道端の小さな薬師堂に祀られていましたが、永禄年間(1558-69)に三河の設楽村から移住した設楽四郎左衛門が寺を建立しました。

 

 

 

 

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 こちらも写真でしか観られませんでしたが、これを観たら、実物も観て見たい!と誰もが思うでしょう。ご高齢の檀家さんから「生きているうちに一度拝ませてほしい」と懇願され、今の和尚さんも、「お盆のときだけでも公開しようかと考えています」とおっしゃっていました。実現するといいですね。

 長くなったので、つづきはまた後で。


沼津発・日本最高峰のお茶とお酒を味わうセミナーご案内

2013-05-17 10:31:23 | 地酒

 初夏の陽気が続いています。気分爽快!と行きたいところですが、フリーランサーにとっては年度初めのこの時期、コンペや入札で、今年度の仕事のボリュームが決まる気の重い季節でもあります。

 

 毎年頑張って成果を出し、コンペ企画審査にも打ち勝って、長年受注してきた県の仕事に、今年、とうとう落ちてしまいました。行政の場合、同一業者と継続契約するにはオンリーワンの専門領域でもない限り、なかなか難しいだろうと毎年毎年覚悟しつつ、(私がお世話になっていた制作元の)見積もりも含めた実績や企画のよさをきちんと評価されてきたと信じてきました。しかし、やはりこういう時が来たのですね。・・・残念ですが、これもフリーの宿命といえば宿命なんです。

 

 収入の柱をひとつ失ったショックもさることながら、とてもやりがいがあり、多くを学ばせてもらい、自分が生まれ住む静岡県が本当に好きになれた仕事だっただけに、他の仕事を落としたとき以上の喪失感があって、ブログの更新も滞ってしまうほど落ち込んでいました(苦笑)。

 

 

 そんなとき、県の知り合いから、県のイベントで集客に力を貸して欲しいとの連絡。このタイミングでか~と正直、心が折れそうになりましたが、こうしてブログを再開することでこのドツボから抜け出せればと、気合を入れ直して紹介させていただきます。

 

 

 

 講師の山本洋子さんは静岡酒にも造詣の深いライター&プランナーで、消費者目線でわかりやすく語ってくれると思います。地酒は、沼津の『白隠正宗』蔵元・高嶋一孝さんが直接解説をされるそうです。地酒ファンにしてみたら、1500円の内容とは思えない充実したプログラムですから、ご都合のつく方はぜひ!

 

 

 

 

沼津発・日本最高峰のお茶とお酒を味わうセミナー

静岡県はお茶や魚などの食材が豊富にあり、お米の消費量も日本一の“和食文化先進県”。さらに、全国に知られる吟醸酒王国です。若者にその魅力を伝えるため、若くして社長になった生産者にその工夫と技を伺いながら、お茶と地酒、またそれぞれに合う食を考えるセミナーを開催します。

 

◇主催  県茶業農産課、県東部農林事務所

 

◇日時  平成25年5月25日(土)午後1時から午後5時30分まで

 

◇集合  JR沼津駅北口 午後1時

 

◇会場  山二園(沼津市中沢田)、千本プラザ(沼津市本字千本)

 

◇対象  20歳以上の学生、食と農に関心のある人、青年農業士 等 40人

 

◇概要
コーディネーター・講師  山本 洋子氏
(地域食ブランドアドバイザー、酒食ジャーナリスト)

 

 鳥取県境港市生まれ。㈱オレンジページ・雑誌編集長を経て独立し、地域食ブランドのアドバイザー、酒食ジャーナリストとして全国行脚中。「感動と勇気を与える地方のお宝探し」がライフワーク。「1日1合純米酒、田んぼの未来を燗がえる!」がモットー。著書『純米酒BOOK』ほか。ホームページはこちら

 

プログラム
・ 茶工場、茶園見学、お茶の煎れ方について(山二園代表 後藤 義博氏から)
・ 講演「おいしい!感動をつくる仕事 沼津から考える日本のお茶とお酒」
・ 試飲(お茶とスイーツ、地酒とつまみのマッチング)

 

 

申込方法
・募集〆切 5月20日(月) 定員になり次第締め切ります。
・参加料 1,500円(学生は1,000円 学生証を持参)
・申込方法  こちらを参照。
・受付完了後、参加票と講師からの事前課題(アンケート)をお送りします。

 

申込み・問合せ先
静岡県 経済産業部 茶業農産課(水田農業班)
Tel 054-221-3249  Fax 054-221-2299


松井妙子先生新作展と朝鮮通信使研究会のお知らせ

2013-05-07 10:30:23 | アート・文化

 天候に恵まれたGW、後半は3日に江南市へ遠出した以外、お寺のバイトや市内での打ち合わせ等、いつもと変わらない週末でした。合間に、映画は『リンカーン』『ヒッチコック』『藁の盾』の3本観ました。『リンカーン』と『ヒッチコック』は、偉人の伝記という以上に、夫婦のドラマとして見応えがありましたね。並外れた能力とカリスマ性がある夫と、どう折り合って暮らしていくのか、妻が抱える複雑な内面を、どちらかといえばわりとストレートに解りやすく描いていました。日本やヨーロッパの監督だったら、もう少し繊細な演出を加えていただろうな、と想像しつつ・・・。

 

 『藁の盾』は、昨年末、アメリカから一時帰国した妹夫婦が予告編を観て「これ、チョー面白そう!」とウケてたので、カンヌに出品すると知ったときも、なるほど、と思いました。凶悪犯を護送する警察官が賞金目当ての一般市民から狙われるというプロットは、以前観たハリウッド映画『SWAT』に似ているなあと思いつつ、それぞれの登場人物に、やむをえない事情を匂わせるウエットなところが日本的でした。大沢たかおが好演だっただけに、対峙する犯人役に、『ブラックレイン』の松田優作ぐらいのカリスマ性があったら引き締まったかなあ。あの手の犯罪者役は、確かにキャスティングが難しいだろうけど・・・。

 

 

 今月は、これから、個人的に楽しみな催事が続きます。まず、GWImg020明けの恒例・静岡松坂屋での松井妙子先生の新作展。

 今回は東北を旅し、宮沢賢治を題材にした作品もあるようです。新しい絵葉書セットも出来たそうですから、お楽しみに!

 

 

第18回 松井妙子染色画展

 

■期間 2013年5月15日(水)~21日(火)

 

■会場 静岡松坂屋本館6階美術画廊

 

 

 

 

 

 

 

 

 5月17日(金)夜には、静岡県朝鮮通信使研究会例会が予定されています。今回は、江戸時代中期に興津海岸に朝鮮船が漂着したときの知られざるエピソードを、北村欽哉先生が解説してくださいます。実は、漂流者に対するしっかりとしたノウハウがあったとか・・・。江戸時代の安全保障や外交のあり方を知る上で興味がそそられます。会員以外の方でもお気軽にご参加ください。

 

静岡県朝鮮通信使研究会例会 【興津宿朝鮮船漂流一件】

 

■日時 2013年5月17日(金) 19時~20時

 

■場所 アイセル21 4階42集会室 (アイセル1階の案内板では「静岡に文化の風をの会」名義になっています)。

 

■講師 北村欽哉氏(郷土史家・朝鮮通信使研究家)

 

 

 

 

 

 

 

 アイセルといえば、アイセル21静岡市女性会館の建設に尽力された、故・近藤美津江さんへの追悼記事が、現在発行中の会報誌「アイセル通信Wave 74号」に掲載されています。元しずおか女性の会会長の杉山佳代子さん、ゆとり研究所の野口智子さん、元葵区長の高野康代さんが追悼文を寄せておられます。近藤さんと、この世代の女性たちが、男女共同参画という社会テーマと必死に格闘し、今日を切り拓いてくださったのだ・・・としみじみ感じます。アイセルを利用する機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧くださいね。

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