杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

日本の葬のヒストリー&フォークロア②

2022-09-19 10:56:01 | 歴史

 日本の葬式の歴史を振り返っています。日本で最初に火葬されたのは女性天皇だったんですね。

 

火葬で送られた最初の天皇は持統・元明姉妹

 日本は7世紀、大化の改新を経て律令体制時代を迎えます。

 古墳時代を象徴していた大規模墳陵による「厚葬」は、大化の薄葬令(はくそうれい=646年発布)によって一変します。薄葬令とは、中国の儒教的徳治主義に倣い、葬送に莫大な財と労力を費やし民衆に過度な負担をかけてはならないというもので、墳陵は小型簡素化し、前方後円墳も造営されなくなりました。古墳時代の事実上の終焉です。

 この時期に、大陸から伝わったのが仏教です。

 釈迦は80歳で亡くなる前、修行を成し遂げた者の遺体は火葬し、遺骨と遺灰を仏舎利塔(ストゥーパ)に納め、花輪と香料を捧げて礼拝するよう言い残しました。

 ストゥーパは後に中国で「卒塔婆」の当て字が付き、日本で後に塔婆供養の習慣へと根付いていくのですが、当時、仏教を伝えた僧侶や、仏教を受け入れた天皇家、有力豪族など一部の支配階級は、火葬を積極的に導入しました。

 

 文献上、日本で最初に火葬されたのは文武4(700)年に仏僧の道昭、天皇家では大宝3(705)年に持統天皇だったとされ、持統天皇は「葬送はつとめて倹約せよ」と遺詔しています。その妹で、後に聖武天皇の祖母となる元明天皇は、さらに「人々に負担をかけぬよう、死後は山に簡単な竈を造って火葬し、そこに常葉の樹を植え、碑を建ててくれればよい」と厳命しました。日本の皇族で最初に火葬と葬儀のシンプル化=薄葬を選んだのが2人の女性天皇だったというのは興味深い史実です。

 

 行基が聖武天皇から大仏建立の指揮を命じられた8世紀半ば、日本は天然痘と思われる感染症パンデミックや天平大地震によって多くの人命を失い、行基は火葬や供養に奔走しました。

 平安時代の承和7(840)年に崩御した淳和天皇は、亡くなる前に「人は亡くなると精魂は天に還るが墓を造るとそこに鬼物が憑き、祟りをなす。したがって火葬し遺骨は砕いて山中にまき散らせ」と強烈な遺詔を発し、承和9(842)年に崩御した先代の嵯峨天皇も葬儀の俗事をことごとく廃止しました。この頃に薄葬のスタイルが定着したようです。

 火葬は当時、専用の施設がなく、その都度、火葬場を造営していたため、火葬で荼毘に付すことができたのは財力のある支配階級に限られていました。

 行基のような僧侶の手で火葬された庶民の被葬者はごく一部。大地震、感染症、飢餓等で大量の死者が出た場合、その多くは川や山中に遺棄されていたことが、『御伽草子』や『今昔物語』で描かれています。

 

浄土教の教え、禅宗の作法が〈葬儀〉を創り出した

 10世紀になり、葬儀スタイルは大きな変化を遂げます。

 当時、仏教寺院の多くは官制であり、僧侶も官の立場で国家の行事に従事していました。そのため、仏教の教義を都合良く解釈し、貴族の言いなりに呪詛や祈祷に力を入れるなど、いわば“貴族仏教化”に傾いていました。

 これに反発し、庶民の救済を志して国の許可を得ずに得度する私得僧や、大寺院に属さない名僧=聖(ひじり)が民間に入って伝道活動を始めます。「南無阿弥陀仏」を唱えれば誰でも極楽往生できるという浄土教の教えを広めた空也上人、『往生要集』を著した恵心僧都源信、『日本往生娯楽記』を著した慶滋保胤等が、念仏による葬送と追善供養を広めました。葬儀は、仏教の教えを庶民に浸透させる有効な機会となったのです。

 12世紀初め、中国では禅の修行僧の日々の行法や規律をまとめた『禅苑清規』が編纂され、留学経験のある栄西禅師や道元禅師がこれをベースに日本に合った生活規範を構築します。この中に、今に伝わる茶道のしきたりや、仏教葬儀の原型がありました。

 禅苑清規に示された葬儀作法には、亡くなった僧侶とその弟子に弔意を示す〈尊宿喪儀法〉と、修行半ばで亡くなった僧を供養する〈亡僧喪儀法〉の2つあり、後者は、死者となった修行僧に読経し悟らせ、剃髪して戒名を授け、引導を渡して成仏させる没後作僧(もつごさそう)という作法に倣ったもの。後に浄土教や密教の念仏・往生祈願が融合発展し、在家の葬法=壇信徒喪儀法として確立しました。

 記録に残る貴族や武士の葬儀次第によると、

枕直し(北枕)→灯火→香焚き(消臭)→納棺→喪服(当日あつらえた素服)→出棺→葬列→葬儀所前で僧侶の儀礼→火葬→翌日拾骨、首骨から順に一人ひとり箸で挟んで順に送る

とあり、現在に近い葬送儀礼がすでに確立していたことがうかがえます。やがて、禅宗以外の宗派も、この喪儀法を導入していきました。

 

 

檀家制度の光と影

 仏教様式による葬送儀礼=葬式仏教は、17世紀の江戸時代に法制化されました。

 徳川幕府は各宗派の本山に末寺を管理させる本末制度を敷いて、寺院を幕藩体制に組み入れます。誰もがいずれかの寺の檀家となる寺請制度、必ずその寺で葬式をすることを義務付ける寺檀制度を確立。敷地内に火屋(火葬炉)を持つ寺も増えました。結果として、寺は住民の戸籍を管理する役所の機能を果たすことになり、地域社会の要と位置づけられました。

 明治維新後、政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動によって仏教寺院を取り巻く環境は一変します。明治政府は1971年、戸籍法を改正し、檀家制度は法的根拠を失います。1873年には、仏教の葬法であるという理由から火葬禁止令が発布。しかし影響の大きさから、2年後、火葬場と墓地を離すこと、市街地から距離を置き煙突を高くすること等を条件に、禁止令は撤廃されました。

 

 1897年の伝染病予防法制定を機に、自治体が火葬場の改修と新設を推進し始めると、火葬は徐々に増え、1900年の火葬率は29・2%、1909年には34・8%、1940年には過半数の55・7%に達しました。1980年には9割を超え(91・1%)、 現在は99・9%です。

 1898年に施行された民法は家制度を基調としたことから、火葬と家墓(イエハカ)がセットで普及し、寺院の檀家制度の下支えともなります。しかし1930年から始まった日中戦争とそれに続く太平洋戦争によって、寺院は再び苦境の時代を迎えます。

 1947年の民法改正で、家・戸主の廃止、家督相続の廃止と均分相続の確立、婚姻・親族・相続等における女性の地位向上等が改正され、家制度は事実上、憲法の人権規定が適用されない皇室のみに残ることとなり、檀家制度の大きな分岐点ともなりました。

 戦後の農地解放によって、寺院が保有していた小作地は取り上げられ、檀家総代として寺院を経済的に支えていた地主層も力を失います。寺院では兼職や保育施設の経営等で収入確保に努めますが、現在は人口減少という不可抗力によって檀家の減少を食い止めることはできなくなっています。

「寺は高い戒名料を取って儲けている」という声を聞くことがありますが、ひとつは、戦時中、軍部が仏教界へ戦死者に院号を授与するよう働きかけていたことを起因に、戒名料が一つの財政基盤となったと考えられます。院号は戦後、多額の布施をした檀家に授けるものとなり、高度経済成長期やバブル時代は一種のステイタスともなりましたが、そのニーズも今は薄れつつあるようです。

 現在、日本の葬儀と埋葬は、葬祭専業者を中心に成り立っており、時代の潮流とともに多種多様な形式・サービスを生み出しています。

 

〈参考文献〉

日本人の葬儀/新谷尚紀著 紀伊國屋書店 1992年

葬と供養/五来重著 東方出版(新装版)2013年

お墓の教科書/一般社団法人日本石材産業協会編・発行 2014年

捨てられる宗教/島田裕巳著 SBクリエイティブ 2020年

生物はなぜ死ぬのか/小林武彦著 講談社現代新書 2021年


日本の葬のヒストリー&フォークロア①

2022-09-13 20:42:11 | 歴史

『静岡県の終活と葬儀』草稿のつづき。ここからは葬にまつわる日本の民俗史を紐解いていきます。もうすぐお彼岸。ご先祖に手を合わせる機会も多いと思います。日本人が〈弔う〉という行為をどのように育んでいったのか、ざっくり検証してみました。

 

先史時代の埋葬行為

 人は、いつから〈葬〉という行為を始めたのでしょうか。

 世界有数の紛争地帯である北イラクに、約7万年前のネアンデルタール人が眠るシャニダール遺跡があります。米コロンビア大学の発掘調査が行われた1959~1961年当時、この場所では咲かないはずのキンポウゲやタチアオイの花粉が発見され、ネズミなどの齧歯類が運んだ可能性があるものの、「死者を葬る時、花を供えた世界最古の痕跡」と考古学会を湧かせました。

 英ケンブリッジ大学による2014~2019年の再調査では、中年男性の頭蓋骨から腰骨までの骨格がほぼ完全な姿で発掘されました。頭のそばには遺体の場所を示すかのように石が置かれ、あきらかに第三者による埋葬行為が行われたことが判明しました。人類史ではホモ・エレクタス(原人)とクロマニヨン(新人)の間に位置する「旧人」として、猿人に近いイメージを持たれていたネアンデルタール人が、死者を尊び悼むという精神活動を行っていたのです。

 日本列島は、人骨が土中で融解しやすい酸性の土壌であるため、住居跡や土坑、出土品等から類推するしかありませんが、1983年、北海道知内町の湯の里4遺跡で旧石器時代の墓と考えられる日本最古の土坑が発見され、コハクや石製の小玉・垂飾・石刃・石刃核・細石刃など14点が出土しました。土坑の底には赤い土が敷かれており、当時から墓の内部や死者の身体を着色するという風習が存在していたことが分かります。

 狩猟中心の旧石器~縄文時代(約2500年前まで)、日本人の寿命は13~15歳、全人口は10万~30万人程度と推定されます。庶民の埋葬は、腕を曲げ、膝を折って土坑に埋める屈埋型が一般的で、遺体の上に石を置いて埋葬する「抱石葬」もありました。

 弥生時代(紀元前400~後300年)に大陸から稲作の技術が入ると定住型の生活になり、平均寿命は20歳、人口も60万人へと急増しました。この時代の遺跡からも土坑墓が多く見られることから、土葬が一般的と考えられますが、山麓や海岸の洞窟に遺体を安置し、自然に還す「風葬」や「水葬」も行われたようです。

 弥生時代には石柱を立てて埋葬した「支石墓」、遺体を納める「甕棺(かめかん)」、墓の周辺に溝をめぐらす「方形周溝墓」も登場します。稲作をベースとした生活集団が大きくなり、指導的な人物を中心に社会が組織化されると、権威を象徴する古墳が造られ、手厚く葬る「厚葬」が行われるようになったのです。

 そして6世紀の仏教伝来を契機に、火葬の概念が広がります。

 

死者の家を造り、寄り添った古代日本人

 火葬が入ってくる前の古代日本の土葬では、死者を室内または庭に殯(もがり)と呼ばれる喪屋を設けて2~3年安置し、風化させた後、埋葬しました。

  殯の最中には、遊部(あそびべ)と呼ばれる人々が魂を鎮めるため、祈りや踊りを捧げました。五来重氏著『葬と供養』によると、日本人は、人間の霊魂は肉体を持っているときは現世だけに接続し、死をきっかけに前世と来世を含めた3世代に接続できると考えていました。「葬」は死霊になったときの儀礼、「供養」は祖霊の中に帰入したときの儀礼、祖霊として一定期間を経たら神に昇華する、その儀礼が「祭祀」であると。

  死霊になったばかりの霊魂は、現世に思いを遺し、災いや祟りをおこす〈荒ぶる〉〈すさぶ〉存在であるから、遊部の鎮魂が必要であり、「天岩戸開きの天鈿女命の神楽も、天皇家の始祖がお隠れになったときの殯の鎮魂歌舞であり、お神楽とは鎮魂を目的としたものとして、葬制と日本芸能史を関連付けて研究すべし」と五来氏。遊部の人々の一部は殯の風習が廃れた後、奈良大仏の建立を指揮した名僧・行基の聖集団に加わったといわれ、殯で使われていた棺台、花籠、天蓋などは今も葬具として残っています。

 

  仏教宗派の中で唯一、禅宗の葬具にはなぜか鍬(くわ)があり、葬儀のクライマックスで導師が一喝して木製の鍬を投げつけるという摩訶不思議な儀式を行います。

 五来氏によると、古墳時代は鉤(かぎ)形の小枝を「お鍬様」と呼んで使い、古墳の副葬品には鍬のかたちの腕輪も出土しているため、鍬は鎮魂の葬具だったと想像できます。

 鍬のかたちをした鉤状の枝は、民俗学的にみると、山の神を手向(=鎮魂)する目的で峠に祀ったとも考えられます。そもそも、峠(たうげ)とは手向け(たむけ)の場という意味を持ち、祟りをおこしやすい荒々しい霊に対し、鍬形の枝を向けて鎮魂する。この原始的な風習が、禅宗の中に残ったようです。

 死霊への恐懼を解消するためであったとしても、私たちの祖先は死者を忌み避けず、生者と同じように向き合い、風化の時を共にしてきました。その経験は、かたちを変え、後年、通夜振る舞いや葬具の作法に伝承されました。


静岡県の葬のローカル・ルール③火葬のしきたり

2022-09-07 20:14:12 | 歴史

 今回は土葬と火葬のローカル・ルールをご紹介します。


 そもそも火葬は6世紀の仏教伝来とともに大陸から伝わり、天皇家や武家等の支配階級を中心に広がりましたが、庶民の火葬は伝染病等の罹患者に限られ、20世紀に入る頃まで庶民は埋葬方法は土葬でした。
 静岡県では、昭和50年代頃まで土葬の風習が残る地域があり、それぞれ地域性に応じたしきたりがありました。

 

〇熱海では埋葬地に目印となる石を置き、柱4本の小さな屋根を立てた。棺が腐って沈むまで2~3年そのままにし、石碑に建て替えた。

〇伊豆松崎では土葬が終わると草履を履き替え、「穴巡り」をし、その草鞋を残して帰った。

〇静岡周辺では少しでも遺体の腐敗を防ぐため、棺に茶の実や木炭を詰めた。

〇静岡や焼津の一部では、棺を穴に入れたら石を投げつける地域があったが、次第に土を掛けることに代わった。

〇本川根では、穴を掘ったら木の枝を2本、十字にして置き、そこから鎌の柄にヒモを付けて刃が上を向くように吊した。魔除けのカマキリといい、作業が終わったら酒を飲み、棺が到着するまでその場を離れない。

〇遠州では土葬をカマカキといい、濃い身内や隣家が務めた。一升瓶を必ず飲み干してから穴を掘る。

〇佐久間では六文銭として10円か20円を墓所に納めてから穴を掘る。棺を穴に入れるときは、穴底が近づくと一気に縄を放して地面に落とし、死者への未練を断ち切った。

 火葬が一般に浸透し始めたのは明治以降で、都市化の進展に伴い、火葬場の整備も進み、現在は火葬が99.6%となっています。
 昭和54(1979)発行の論文集『南中部の葬送・墓制』に、静岡県が昭和51・52年度に調査した〈土葬から火葬に切り替わった時期〉の記述があります。調査地域が限定されていますが、時代別に概ね次のとおり。

 

〇明治期/西伊豆町岩谷戸

〇大正初期/掛川市上垂木西側

〇大正中期/南伊豆町毛倉野、富士宮市下条

〇大正末~昭和初期前後/富士宮市杉田、富士川町木島室野、静岡市南沼上、藤枝市瀬戸谷塩本、中川根町地谷・家山塩本、豊田町立野長森

〇昭和10年前後/清水市宍原、金谷町菊川、竜洋町掛塚蟹町

〇昭和20年前後/天城湯ヶ島町柿の木・上船原、沼津市立保、長泉町元長窪、沼津市井出、蒲原町善福寺、清水市杉山・吉原庄可沢、静岡市俵峰・根古屋、島田市西向、菊川町牛渕長者原、春野町石切、森町大河内・亀久保、袋井市豊沢法多、豊岡村敷地虫生、細江町気賀呉石

〇昭和35年前後/東伊豆町北川、修善寺町本立野、中伊豆町原保、西伊豆町田子月東、富士宮市内野足形、静岡市有東木・栃沢・水見色、本川根町藤川、佐久間町川上、磐田市匂坂中

〇昭和50年代/天城湯ヶ島町西平、戸田村井田、静岡市口仙俣・大間、岡部町三輪

 

 初期の火葬は葬儀と葬列が終わった後、夕方から夜にかけて行いました。薪や藁を使っていたため、焼き上がるまでかなりの時間を要し、焼き方を均等にするため死体を動かす手間もかかったようです。
 夜間の長時間作業に付き添う身内のため、近親者や隣組の人々が酒や菓子を差し入れる習慣があり、静岡では「火屋見舞い」、焼津や旧大東町では「ノバ見舞い」、竜洋町では「サシビ見舞い」と呼んでいました。
 他、火葬にまつわるローカル・ルールをいくつか挙げます。

〇西伊豆の妻良では漁協の側に焼き場があり、俵薦(ムシロ)を20~30枚かけて焼いた。

〇西伊豆の仁科では安城山の近くに焼き場があり、漁協組合員が荷車3台分の薪を運んで組み合わせ、この中に棺を安置した。近くの御堂から僧侶を呼んで読経してもらい、夜中に点火し、朝までかかって焼いた。この間、組合員が3交替で立ち会った。

〇蒲原や清水では、火葬の骨上げをして帰宅した時、タライに死者の着物を入れ、足を3~4回突っ込む真似をしながら清めの塩を振った。

〇御前崎では、遠洋漁業者が多いため、主人の留守中に死者が出ると火葬しておき、主人の帰港後、葬儀を出していた。火葬は火持ちのよい柿や松の薪を使い、身内の者が焼いた。



 葬にまつわる縁起かつぎには、「清めの塩」や「友引の日を避ける」等、今でも色濃く残るものがあります。県下に残る珍しい伝承を集めてみました。

〇伊豆では四十九日まで死者の魂が家に留まっているとし、屋内では針を使わなかった。

〇伊東では葬儀後、喪家は21日間入浴を禁じられていた。

〇伊東の富戸では死者を出した家の作物の種は「死に種」と言われ、1年間もらわなかった。

〇天城湯ヶ島では四十九日まで鉱山の仕事を休んだ。

〇西伊豆田子でも四十九日まで漁に出ない。他地区でも最低1週間は休漁した。

〇由比でも葬式を出した漁師の家では1週間船を出さず、葬式の手伝いをした者も3日は休漁した。

〇シラス漁の網に死体が引っ掛かると「縁起がいい、大漁になる」といわれ、そのまま引いて港に戻った。沖で漁をするサクラエビの網ではなかなか引っ掛からない。

〇御前崎の遠洋漁業でも海で死体を見つけると大漁になるとされた。

〇遠州地方では、一年のうちに2人死ぬと、2度目の葬儀のとき、古い木槌か金槌にヒモを付けて埋葬地まで引っ張っていき、棺と一緒に埋めた。

〇お彼岸に亡くなると極楽に行くと歓迎され、お盆に死ぬと地獄に行くと嫌われた。そのため盆が明けるまで葬式を出さなかった。

 

 一般の死者とは異なり、非業の死を遂げた者や、子どもが親より早く亡くなる逆縁の場合、通常とは異なる葬法がとられました。

〇伊豆では子ども・未婚者が亡くなると、土葬した場所に「お天道様に当たらないように」とコモを被せた。死者の魂が荒ぶれないよう封印する意味とされる。

〇同じく大仁、修善寺、天城湯ヶ島では土葬の場所に鎌を立てた。

〇熱海、由比、静岡、焼津では、お産で母子ともに亡くなった場合「ヌノザラシ」を立てた。40~50センチ四方の白いサラシの布に母親の名前と年齢を書いて棒に付け、村を流れる小川の水場に立てる。竹の柄杓を置き、側を通る人に水をかけてもらい、字が消え、布がボロボロになったら成仏できるとされた。

〇沼津では水死者が上がった際、身元がわかれば髪の毛だけを葬り、わからなければ通常の野辺送りをし、無縁墓地に葬った。無縁仏を供養すると後生がよいとされ、盆や彼岸の供養も丁重に行った。

〇死産の子や生後間もなく死んだ子は、丁重に葬ると生まれ変わることができないとされ、葬式は出さなかった。親しい者が一人立ち会って僧侶に読経してもらうだけ。静岡ではこのとき他家の者が一人立ち会った。

〇遠州地方では子どもの埋葬のとき、母親の着物の左袖を切り取って顔に掛け、共同墓地に土葬した。親は埋葬に立ち会わない。後追い自死しようとする者もいたため。

〇共同墓地に埋葬された子どもに百日参りをした後、家の墓にお地蔵様を建てることが多かった。


静岡県の葬のローカル・ルール②葬を支えるライスパワー

2022-09-01 14:40:53 | 歴史

 前回の続きです。

 葬儀や法事のときにお供えするお餅やお酒。米というものが日本人の生死に寄り添うかけがえのない存在なんだと、今回の調査であらためて思い知らされました。葬を支えるライスパワーと題して、各地の風習を拾ってみました。

 

 

葬を支えるライスパワー

 稲作文化を持つ日本人は、米を生命力の源と考え、冠婚葬祭の場にも活用してきました。

 葬送儀礼では生米を始め、握り飯、餅、団子、酒といった米加工品がさまざまな形で使われます。全国各地に伝わる主な風習を挙げてみます。

〇危篤の病人の枕元で、竹筒に少量の米を入れて振って音を聴かせ、生き返るように願った。

〇亡くなると、近隣から手伝いの者がやってきて、喪家の戸外に炊事場を構えるか、別の家の炊事場を借りて玄米を炊き、死者のための「枕飯」「枕団子」を作る。「枕飯」は山盛りのご飯に箸をつきたてる。

〇湯灌や納棺、墓地の穴掘りなど、死者の身体と直接触れる者も、この「枕飯」「枕団子」を共食し、酒を飲んで作業に当たった。

〇墓地の穴掘り役が食べる握り飯は、必ず真ん丸にする。火葬の場合は、焼き場の担当者は夜通し酒を飲みながら作業した。

〇出棺前後には「食い分れ」の儀式として、ご飯、味噌汁、煮しめをそろえた膳、または握り飯、汁掛け飯、団子、餅を食べ、酒を一献飲む地域もあった。

〇葬儀のとき、死者と同年の者は絶縁のため、訃音が鳴るたびに「耳塞ぎ餅(小さな餅片)」で耳を覆った。

〇四十九日の席では「四十九餅」が振る舞われる。大きな丸餅1個と小さな丸餅49個を供え、49個のほうは本来、忌明けまでの49日間供えた風習に拠る。大きな丸餅は近親者で引っ張り合ってちぎって食べた。

〇四十九餅を人の手形や足形に見立てたり、大きい丸餅を胎盤、小さな49個を人の骨に見立てて食した地域もある。火葬の後、骨を噛んだり粉骨を食べる風習に関係していると思われる。

 

 

静岡県の“食い別れ”あれこれ

 静岡県にも、さまざまな名前の食い別れ餅が伝わっています。代表的なものでは静岡市清水区で盆の迎えや彼岸の入りのときに供える「チイチイ餅」。今も、区内の和菓子店が共同で、地域の行事菓子として伝承しています。

 実は、志太・榛原にはチイチイ餅によく似た「ハト」「サンコチ」という正月餅があります。「サンコチ」は女性の陰部を指す隠語。五穀豊穣や子孫繁栄を願って正月に供えられたと思われます。「ハト」は山梨のホウトウ、東北のハットウ、長野のオハット等、全国に似たような名前の郷土料理があり、いずれも手でちぎって握るカタチが基本とされます。

 似たような餅が、慶事にも弔事にも使われる意味について、民俗学者柳田國男によると―

 

「食物が人の形體を作るものとすれば、最も重要なる食物が最も大切なる部分を、構成するであらうといふのが古人の推理で、仍つて其の信念を心強くする為に、最初から其の形を目途の方に近づけようとして居たのでは無いか」と(柳田國男『食物と心臓』より)。

 

 柳田は、信州地方でミタマと呼ばれる三角形の握り飯を供える風習から着想し、餅はもともと心臓を模したものではないかと考察したのです。

 食い別れの餅であるチイチイ餅が、正月餅のハトやサンコチと形がよく似ているのは、ミタマをまつるという共通の意味があり、しかも米の力によって、ミタマ=いのちを指し示すよう心臓や女陰を模して作る。葬の場に用いられたのは、死者が浄土へたどり着くまでの力餅になれば、という思いがあったのかもしれません。

 餅をはじめ、県内各地で弔事に使われたさまざまな儀礼食について紹介します。

 

〇下田・南伊豆では玄米で作る黒団子を枕団子として供えた。近年は白米を搗いて醤油をからませ、着色した。

〇伊豆では彼岸の「入りボタ餅にアケ団子」を供える。彼岸の入りにぼた餅を、明けに団子を仏壇に供え、寺に白米や餅を持って墓参する。

〇御殿場付近では、戸外で3本組の棒に鍋を吊り、松明の火を用いて「オモリダンゴ」という枕団子を作った。作った団子をすべて盛りきることからその名が付いた。

〇裾野では出棺のとき、庭で餅搗きをした。臼と杵で出来る限り大きな音をさせて搗いた。搗いた餅は塩餡にし、葬儀や夕食でも振る舞った。

〇沼津・三島・御殿場の一部では葬儀でおはぎを出す。

〇富士・富士宮では弔事で「茶飯」を出す。水の代わりに番茶で米を炊く。

〇清水・庵原の「チイチイ餅」は子ネズミが丸まったような形の塩餡。出棺前後に死者と生者が最後に共食して縁を絶つ食い別れとして食べ、四十九日、盆や彼岸のときも寺へ持参する。ネズミのかたちに似ているから、その名が付いたというのが定説だが、 〈キチュウ(忌中)〉が語源ではないかという説もある。

〇静岡の竜爪山麓では明治頃まで「ボンメシ」という子どもの行事があった。盆の15日に14~15歳の娘たちが村の辻に集まって小豆飯を炊き、ナスやキュウリを煮て子どもたちに振る舞った。この飯を食べると夏病みしないといわれた。

〇大井川筋では米をすり鉢で摺り、食紅と砂糖を加えて棒状にし、薄く切って焼いた「すり焼き餅」を彼岸に供える。

〇榛南地区では焼香が済むと、「足軽餅」というあんころ餅を食べる。場所によっては出棺前、朝食べるところもあった。食べ方は、お箸1本で餅を突き刺して食べる。

〇浅羽では葬儀から3日後に精進落とし(=ミッカノモチ)として夜なべして餅を搗き、親類や寺などに配った。

〇遠州地方では四十九日に喪家の男性が米一升で一臼餅を搗く。「一生こんなことがあってはいけない」と一握りを除き、搗いた餅から「頭」「膝」「肘」と言いながら四十九餅を作り、寺へ納める。残った大きな餅は一升枡を伏せ、その底に乗せて包丁で切って塩を付けて食べた。これを食べると虫歯にならないといわれた。

〇精進落としの膳には豆腐やコンニャクが必ず付くが、遠州地方では、ひりゅうず(がんもどき)が出され、近年、持ち帰りに便利な堅パン「お平パン」に代わった。形が草履に似ていることから、故人の履物に見立て、2枚一組で売られるようになった。


静岡県の葬のローカル・ルール①水辺のハマオリ

2022-08-29 11:01:35 | 歴史

 8月24日刊行の『静岡県の終活と葬儀』。地元書店の店頭には平積みに置かれ、少しずつ目に留めていただいているようです。ありがとうございます。

 前回記事に書いたように、本書では編集方針の変更によって、静岡県の葬の歴史風俗について書いた原稿が丸々削除されてしまいました。自分の歴史・仏教好きが高じすぎて、編集部の皆さんに敬遠されたのだろうと反省しておりますが、前回記事をご覧になった方から「そういうの、私も大好物です。ぜひ読みたい」というメッセージをいただいて励みに感じ、ここで少しずつ紹介していこうと思います。

 民俗学的に専門調査されている方から見たら、内容的には不十分だと思いますので、これを機に新たな情報をいただければありがたいです。いずれ何かのカタチで書籍化できれば、と願っています。

 以下は『静岡県のローカル・ルール』と題した章で、静岡県の沿岸地域に伝わる独特な風習を集めたものです。きっかけは下田開国博物館の館長さんにヒヤリングしていたときに教えていただいたハマオリという言葉。南伊豆独特の風習かと思って調べてみたら、出てくる出てくるいろんなハマオリ・・・! 沿岸地域にお住まいで「うちの地域にもあったよ」という方がいらしたら、ぜひ情報をお願いします。

 

 

静岡県のローカル・ルール

 伊豆、駿河、遠江の3国から成り立つ静岡県は、多様な気候風土を持ち、東海道が東西を貫き、富士川・天竜川の水系が南北をつなぐ等、今の行政区分にとらわれない幅広い民俗文化を育んできました。

 葬と供養に関するしきたりも、またしかり。

 通夜や葬儀を自宅で行っていた時代は、近隣住民の協力なしには不可能だったため、おのずと各地域の民俗風習に影響を受け、その土地ならではの特殊性が生まれました。「就職先、婚姻先、移転先の風習が違っていて驚いた」という経験を持つ人も少なくないでしょう。

 今は、ほとんどの人が葬と供養を葬祭専業者に委託する時代。隣近所のつながりが薄くなった都市部では、地域の特殊性は失われつつあります。

 自分や自分の大切な人が最期を迎え、永眠するという深い縁を持つ土地で、過去どのような葬儀がなされてきたのか、先に眠りについた先人達がどのように供養されてきたのか―今、実際に昔と同じようなことは出来なくとも、各しきたりに込められた意味や先人の思いを知っておく価値は、十二分にあるように思われます

 ここでは郷土史料に残る地域のユニークな伝統、地域住民が記憶する独自のしきたり=いわゆる〈ローカル・ルール〉について、文献調査やインタビュー証言を基にまとめてみました。世代をつないで足下の地域性を探ることが、豊かなコミュニティづくりや終活の一助になればと思います。

 

 

1.水辺のハマオリ

 静岡県には東から相模湾、駿河湾、遠州灘に面した約52キロメートルの海岸線があり、多くの河川が流れ込んでいます。海に面した漁村や、河川流域の山村には、葬儀や法要の際、浜や川を他界への境界に見立てた「ハマオリ(浜下り)」と呼ばれる清めの習慣が存在しました。地域によって内容はさまざまです。各地のハマオリについてまとめました。

 写真提供/木下尚子さん

 

〇下田・南伊豆では葬礼に使用する清めの塩を、海で汲んだ海水から作った。

〇熱海では盆の迎え火を海岸の波打ち際で燃やしていた。

〇沼津の内浦・静浦では、百八灯(ひゃくはったい)といって、未婚の男性が亡くなると新盆では海岸で薪を積み上げ、松明を立てて燃やして弔った。

〇中伊豆では野辺送りをして戻った会葬者は川へ行き、河原に位牌を据え、食物を供えて線香を手向けた。

〇函南では喪家が属する組の代表が、戒名を記したハマオリ用の白木の位牌、線香と蝋燭、酒と握り飯を用意し、河川敷で待つ。野辺送りから戻った会葬者に清めの塩を渡し、笹で水をかけて清め、酒と握り飯を共食した後、位牌を川に流した。

〇裾野でも組衆が河原で白木の位牌、線香・蝋燭、団子を供えて会葬者を迎え、豆腐や菓子をつまみに酒を飲んで身を清める。その後、会葬者全員で土手から石を投げ、位牌を川に流した。

〇小山町ではサトヤと呼ばれる屋形型の門碑を三十五日または四十九日の追善法要のとき、川に流す。

〇富士宮の井出地区では土葬の後、土人衆(墓の穴掘り役)が喪家の近くの川の土手で精進落としをした。サトヤを立て、線香・灯明・供物をし、小豆御飯や佃煮等をつまみに酒を飲み、食べ切って戻った。

〇焼津・大井川では四十九日に草履、おこわ、御神酒、お花を持参し、浜へ下り、大きな石を見つけて、それをお墓に見立てて石塔を建てる。片方の草履の鼻緒をそのあたりに落ちている石と石を使って切る。お線香をあげて海に向かって拝む。お線香をあげて海に向かって拝む。おこわとお神酒を少しいただく。お神酒は昔、一升瓶を持って行った。

〇御前崎から浜松までの遠州灘一帯では身を清めることをハマオリと言った。弔事以外にも、祭りの前や妻が出産した漁師はハマオリしなければ船に乗れなかった。

〇浜名湖周辺では海水を持ってくることをハマオリと言った。舞阪では新盆に前浜の波打ち際に穴を掘り、百八体(ひゃくはっと)の松明、精霊飾り、食べ物、洗米等を入れて火をつけ、線香を灯して拝んだ。