杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

2021初春禅語

2021-01-13 12:56:41 | 駿河茶禅の会

 私が主宰する駿河茶禅の会で、1月に予定していた初釜茶会がコロナの影響でお流れになりました。茶室の ”密度” を考えたらやむを得ない判断でした。

 この会を始めてから毎年1月は、駿府城公園紅葉山庭園茶室での初釜で同志とともに新年を迎えることが定例化していましたが、今年はもとより、初詣にも行かなかったため、何か、けじめのない年明けとなってしまいました。

 昨年12月も直接集合しての例会は開催できなかったため、代わりに、「来年にかける思いを禅語に託して寄せてください」と呼びかけ、年末ギリギリで "紙上例会” というかたちで配信しました。その禅語集を何度か読み返し、こういう時期だけに、よけいに心に沁みる言葉が多かったので、ここでも寄稿者名を伏せてご紹介させていただこうと思います。言葉のチカラで今一度、自分自身を奮い立たせるつもりで。

 昨年1月の初釜の初炭

 

第63回駿河茶禅の会12月紙上例会より(抜粋)


「歳月不待人」
■出展 陶淵明  
現在、自宅に『歳月不待人』という一行物(掛軸)を掛けてあります。これは禅語ではありませんが、禅僧による染筆で、禅語辞典などの書物にも載せられている馴染み深い語です。
この語の前に『及時當勉励』(ときにおよんでまさにべんれいすべし)という語があって、それに続くのですが、決して勉学に励めということを奨めているのではありません。酒を愛した詩句を多く残した陶淵明の作品のひとつで、楽しむときは、思い切り楽しもうぜ、というのが趣旨であります。当面、疫禍のもとで制約が多い環境ではありますが、拠り所としたい言葉と考えております。

 


「塗毒鼓(ズドック)」
■出典 白隠禅師
昔、芳澤勝弘先生のところで見た白隠の書です。意味や謂われよりも見た瞬間、ガツンガツンと撃たれたようなショックを覚えました。これを見つけた!と言ったときの芳澤先生の嬉しそうなお顔を今でも忘れません。
意味は読んで字のごとく、毒を塗った太鼓のこと。この太鼓の音を聞いたものは皆、死ぬという恐ろしいものですが、仏の教えが聞く者の三毒-すなわち貪欲 瞋恚 愚痴をことごとく滅尽することの例えとして使われます。
白隠関係の資料を読んでいるとき、我が家の裏の寂れたお寺に、白隠禅師が参勤交代の途中の岡山の池田候を招いて「塗毒鼓」をテーマに法会を開いていたことを知り、ビックリしました。その法会では仏法を聞くことによって仏との縁を結び、発心し、修行すれば成仏が可能で、将来必ず救うことができると説いたそうです。仏に救われる他動的存在ではなく、私たち自身が菩薩として人々を救う存在、社会変革者として位置づけているところが白隠らしいと思いました。そういう謂われを踏まえたのでしょうか、後に、碧巌録や無門関などの語録を集めた宗門の書籍に、「塗毒鼓」という書もあります。

 


「主人公(しゅじんこう)」
■出典 無門関
禅語では、「主人公」という言葉を、自分の中にいる根源的で絶対的な主体性を表します。禅の修行ではまずこの「主人公」に目覚めることが肝要であり、悟後の修行を怠らず、日常においても自己を鍛錬し、明瞭さを持続する事が求められます。

中国・浙江省の丹丘、瑞厳寺の師彦和尚は毎日自分自身に「主人公」と呼び掛けては、自ら「はい」と応じまた、語り掛けては「はい」と応え、さらに「如何なるときも人に侮られてはならんぞ」と言い聞かせては「はい、はい」と自問自答する日々を過ごしていたそうです。余計なものを脱ぎ去り自分らしく生きていることが個性であり、自分らしく生きている自分こそが「主人公」、ということでしょうか。

 


「友情にも季節がある」
■出典 南方熊楠
南方が孫文との交わりを表した言葉。出会いの春や、楽しい夏、物思いに耽る秋や会えない冬、でもまた、春が来ていつか会えると思って友情を育む。南方熊楠の本当の意味は、違うところにあって、私の勝手な解釈かもしれませんが、会わない友情もあると知り、もともと人付き合いが苦手な自分としては、とても救われた言葉です。でも、同時に、会うべき人には必ずまた会えると信じていて、なぜか、本当に会えるから、そのときまで、1人の冬を大切に過ごそうと思っています。

 


「看々臘月盡」
■出典 虚堂録
まだ来ぬ来年より今に賭ける(笑)。臘月は陰暦12月のこと。光陰箭の如し、みるみるうちに1年が尽きる。臘月の人生に悔いを遺さぬよう一瞬一瞬を充実して生きる。左右を見たり、後先を気にしている暇はない。今、ここの、私を完全燃焼する。

 


「看脚下」
■出典 圜悟克勤
落ち着いて、自らの立場と進む道を考えること、と解釈しました。

 



「放てば手にみてり」
■出典 道元禅師
正法眼蔵弁道話に「妙修を放下すれば、本證手の中にみてり」とあります。一度手から離して見れば、大切なものが手に入る、という意味のようですが、その奥にある意味は深く、真に理解し、実践となるとなかなか難しい。こだわりを捨てられたらと思いますが、様々な文化も、こだわりがあるからこそ生まれてくるのでは、と思ってしまいます。
あれもこれもという物の時代。手放してこそ大切なものがきっと手に入るに違いありません。100年後に思いを馳せ、八大人格の少欲、知足などを心に留め、少しずつ実践して行きたいと思っているこの頃です。

 

 

「夜静渓声近 庭寒月色深」    
 ■出典 厳維(三体詩) 
夜に入ってあたり一面が静かになると、遠くの谷川のせせらぎが間近に聞こえ、気温が下がって庭が寒気で満たされると、月の光が澄み切ってさらに深い色で輝き出す。とらわれや苦悩・怒りなど、心の中のあらゆるざわめきが消えて静かな境地が得られると、人々が本来持っている仏の本性の輝きが一層際立って、生き生きとしたはたらきがあらわれることのたとえ。    
真冬は昼間の喧騒感から、日の入りと共に活動を終えた安堵感を感じますが、今はそのような感じを持てない気がします。コロナ禍の終わりが見えない日々に、一日も早く終息を願い、新しい春を迎えたい。

 

 

「壽如南山(じゅはなんざんのごとし)」

■出典 詩経
壽は「寿命」「天寿」などの言葉がありますように、人の命を意味するそうです。私たち人間の生存は、すでに天の理(ことわり)によって定められた物としています。
南山は中国・西安の西南に聳える終南山の事だそうです。南山は「不壊」を意味し、陽気温暖の山「天寿極まりなし」という意と同時に 「壽」も「南山」もめでたさを表す縁語につながるために、正月やおめでたいことがあった時に、よく床の間に掛ける軸物の語句となっているそうです。

 


「結果自然成(けっかじねんになる)」 
■出典 少室六門集
禅宗の初祖達磨大師が、二祖慧可に与えた伝法偈の一部~ 「一華五葉を開き 結果自然に成る」からとられたもので、ひとつの花が五弁の花びらを開きやがて自ずから‘結実’するように、 われわれの心が迷いや煩悩から解放されて真実の智慧の花を咲かせれば、自ずから仏果(悟り)を得られるだろう~ という意味。   

現代の教えとしてはいろんな解釈ができるようですが、やれるだけのことを精一杯やったら、結果は自然と実を結ぶものと捉え、結果にこだわらず目の前のやるべき事に必死になって取り組むことの大切さをこころに留めようと思います。       

 


「自灯明」
■出典 釈迦

コロナ禍で混迷の状況のなか、ソーシャルディスタンスのなか、私が選んだ禅語は「自灯明」です。他に寄りかからずとも自分の力で根を張って立ち、灯りもともす。そうなりたいなと心から思った、いや実感しました。

 


「随所に主と作(な)れば 立処皆真なり」 
■出典 臨済義玄禅師『臨済録』示衆
何処に居ようと自分自身を見失わなければ、いつどこでもそこに真理が存在する。いつ如何なる時も、心の主は自分の精神であれ。精神が主であるなら、つまり自分自身の純粋な心を忘れることなく精一杯の行いをすれば、何処にいようと人生の真理、生きる意味が見つかる。何処にいても、どんな環境のもとでも安らかに生きることができる。
いつも精神によって欲をコントロールすることができたなら、清々しい道が見えてくるようなきがする。令和三年はそう生きたい。

 


「不急集中」
禅語でも何でもないMy熟語です。想えば、この一年で、世の中の時間と空間の概念が大分様変わりしました。「スピード効率至上主義」の価値観は相変わらず世界標準ですが、確実に人々の暮らしの色合いや温度感は変化しているように感じます。
「不急」を辞書で調べると、「急を要しないこと。今すぐでなくてもよいこと。また、そのさま。」とあります。世界で起きている「スピード」の弊害(気候変動、人口問題、食糧危機、膨大な国の負債など)を考えると、急を要しない、今すぐでなくてもよいことをしているのは人間ばかりで、他の生き物は「不急」で暮らしているように思います。ただ、「不急」でないことは、ノンベンダラリンとしていることではなくて、常に何かに集中し没頭していることなのではないかと思います。
ちなみに、私の新年のテーマは、“Design of Mindfulness”「全集中のデザイン」です。

 

「功徳海中一滴を譲るべからず 善根山上一塵も亦積むべきか」
■出典 道元禅師
世の中のたくさんの人が、ひとつずつ良いことをしたら功徳は山のように、海のようになるだろう。それなら自分は、やらなくても良いのだろうか?
否、それでも私が、一滴の水を加えよう。砂一粒でも加えよう。私がやることが大事なのだ。それが誠の功徳につながる。
・・・身に滲みる言葉です。

 

最後に私・鈴木真弓が選んだ言葉です。
「一切皆苦」
■出典 ダンマパダ278(原始経典)
一切皆苦とは文字通り、「この世のすべては苦しみである」。仏教の根本的な教えです。
現代人にとっての「苦しみ」とは、自分の思い通りにはならないということ。どんなに頑張っても結果が出ない。2020年は多くの人が一切皆苦な体験をし、思い通りが通らない暮らしを余儀なくされ、世の中、本当に思い通りにはいかないものだと実感させられました。

以前、Eテレの「こころの時代~禅の知恵に学ぶ」で美濃加茂の正眼寺山川宗玄老師が典座(台所役)の経験を話されました。托鉢ではいろんな米を頂く。古米もあれば外米もある。これらを一緒にし、ふつうに洗米浸漬した後、水を切って、釜の熱湯にぶち込んで炊くそうです。

蒸気は白から黄→青と変化するのでそのタイミングで薪を引っこ抜いて、後は余熱で置く。そうすると均等にふっくら焦げずに炊き上がるそう。科学的にどういうことなのか分かりませんが、老師曰く「熱湯という強烈な環境に置かれると古米も新米も外米も、みんなただの“米”に戻る。人間も同じだ」と。このお話がとても心に染み入り、2020年は老師の禅セミナーに美濃加茂まで2回通いました。

コロナという“熱湯”によって我欲から解かれ、多少はすっきりシンプルな米になれただろうか、「苦しみ」の本質に向き合うことが出来ただろうか、今も思案の毎日ですが、思い通りに行かずとも不必要に落ち込まず、「ダメで元々」「うまくいったら儲けもの」「一に感謝、二に感謝」の精神で前に進めたらと願う次第です。


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聚光院伊東別院訪問

2020-09-01 10:39:35 | 駿河茶禅の会

 9月の声を聴き、「コロナ」「猛暑」に先んじて、「台風」がニュースの冒頭を飾るようになりました。立秋を過ぎてから蒸し暑さが本格化するなど、季節の巡りが迷走しっぱなしの今年、台風シーズンがいつまで続くのか、秋はちゃんと来るのか心配は尽きません。

 そんな中、8月30日(日)に駿河茶禅の会で聚光院伊東別院を訪問しました。今年の初めに同院を取材し、小野澤虎洞和尚に茶禅の心得を直接うかがう機会に恵まれた私は、駿河茶禅の会のお仲間をぜひお連れしたいと企画。コロナの影響で紆余曲折ありましたが、院を預かる東谷宗弘和尚の細部に亘るご配慮のおかげで、無事、拝観と坐禅体験をさせていただくことができました。

 宗弘和尚とは不思議なご縁がありました。私自身は、伊豆高原のアート情報誌『iS』の取材で今年1月21日に同院を訪問したのが最初ですが、奇遇にも、今年の正月、駿河茶禅の会の望月座長が個人的に同院を拝観しており、私が取材した翌日22日の茶禅の会初釜例会で、望月座長が駿府城公園紅葉山庭園茶室に虎洞和尚が揮毫した禅語『千里同風』を掛けられたのです。「私、昨日、伊東別院に取材に行ってきたんですよ」と話したら、座長も驚かれ、会でぜひ訪問しましょうという話になりました。

 8月30日にはふだん禅道をご指導いただく東壽院の曦(あさひ)宗温和尚も参加されたのですが、宗弘和尚から「曦さんは京都の修行時代にご指導いただいた恩人です」とうかがい、二度ビックリ。さらに、昨年秋の博多茶禅研修でお世話になった承天寺塔頭乳峰寺の平兮正道和尚とも修行時代にご縁があったとのこと。この世に禅宗の僧侶が何人いらっしゃるのかわかりませんが、そんなに狭い世界なのか??とビックリ続きでした。

 

 コロナ禍によって人との出会いや接触が制限されるようになり、人脈づくりが仕事上の生命線にもなっている我が身としては、ソーシャルディスタンスの取り方に戸惑いや息苦しさを感じていた、そんな中、マスクを付け、冷房が効かない坐禅堂で足を組まさせてもらい、じんわり汗をかいた後に千住博さんの滝の襖絵を見直したとき、何か腑に落ちる感覚がありました。制約があるから気づける、見えてくる価値があるのだと。

 “千里同風” を地で行く場で、多くの仲間と共有できた時間に心から感謝します。

 

『iS』は伊豆高原でブックカフェ〈壺中天の本と珈琲〉を経営されているたてのしげきさんが発行するアート情報誌。写真や挿絵が素晴らしく、作家やエッセイストが寄稿する珠玉の文章も光っています。発行編集人のたてのさんご自身、マスコミのご出身で鋭い審美眼の持ち主。編集者の田邊詩野さんは静岡新聞社で私の『杯が満ちるまで』を作ってくれたスペシャリストで、彼女が書き下ろした貴重なルポやエッセイも素晴らしい。観光ガイド本とは一線を画す、読み応え十分の一冊です。お求め・お問合せは壺中天の本と珈琲(こちら)まで。

 以下、『iS』第4号に寄稿した記事の草稿を紹介させていただきます。荒削りで理屈っぽくて編集長から却下された草稿💦ですが、それなりに思いを込めて書いた原稿なので、備忘録として掲載します。

 

 

茶禅の世界へ誘う風 ―聚光院伊東別院

 

 聚光院は京都大徳寺の山内にある塔頭の一つで、茶道の千利休一族の菩提寺として知られる。

 千利休(1522~1591)は大徳寺第107世笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)和尚に禅を学び、笑嶺和尚が三好義継に請われて聚光院を開いたとき、多額の浄財を喜捨。自刃する2年前に仏塔形の墓を建て、自分と妻の名を彫り込んで寄進状を添え、一族の供養とした。三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)が交替で毎年28日に行う利休忌法要と茶会は、今も連綿と続いている。

 美術ファンならご存知だと思うが、聚光院方丈の襖絵「竹虎遊猿図」「花鳥図」等は狩野松栄・永徳親子が描いた日本画史上最高傑作のひとつ(国宝)。1974年に東京国立博物館がモナリザ展を開いた際、返礼としてルーブル美術館に貸し出された。

 通常非公開の聚光院が創建450年記念で特別公開された2017年5月、私は主宰する『駿河茶禅の会』の仲間と訪問し、保管先の京都国立博物館から里帰りした国宝の方丈襖絵と、2013年落慶の新書院の襖を彩る千住博画伯の、真青と純白のコントラスト鮮やかな「滝」を拝見した。千住画伯は、狩野永徳と並べて観られる作品を生み出す苦闘の中、「宇宙から見た地球の青=さすがの永徳も見たことのない色」に到達したという。

 宇宙、と聞いて脳裏に浮かんだのは禅画の円相。一筆でマルを描いたあれだ。

 2013年に渋谷のミュージアムで観た白隠禅師の円相には、〈十方無虚空、大地無寸土〉という画賛が添えられていた。「虚空もなければ大地もない。ただ清浄円明なる大円鏡の光が輝いている」という意味。これは、考えようによっては、量子論を取り入れた宇宙物理学―「宇宙の始まりは“無”だった」「宇宙が誕生する瞬間、“虚数時間”が流れた」「それによって宇宙の“卵”が大きくなり、急膨張した」「高温・高速度の火の玉状態(ビッグバン)を経て恒星や銀河が出来た」を表現しているようにも思える。

 後日聴講した科学者と禅学者のディスカッションによると、「科学の力で観測・実証できたとしても、人間自身が認識するものである以上、宇宙はイコール自己とも言える」という。武藤義一氏の『科学と仏教』には「釈尊は宇宙の創造神を認めず、内観によって自己を知り、智的直観によって宇宙や人生の全てを成り立たせる法を悟った」とある。「科学はwhat に答えるもので、仏教はhowに答えるもの」とも。となると、“己の認識の絶対矛盾をつきつめよ”という釈尊の法を科学者が実践してきた先に今日の宇宙物理学があるとも言える・・・。禅寺の障壁に宇宙を描いた画伯の“直観”に痺れたと同時に、500年後、宇宙の何処かに移住した人類が、里帰りした地球でこの絵を見て、あの「竹虎遊猿図」や「花鳥図」の熟成感に似たものを味わう姿を空想し、興奮を覚えた。

 

 iS第3号の巻頭特集―千住博「美と生命を語る」で紹介されたとおり、茶禅の聖地・聚光院の別院が、伊豆高原の富戸に1997年創建された。大徳寺塔頭では初めて、地方に置かれた別院である。

 創建のきっかけは聚光院前住職の小野澤寛海和尚が東京の篤志家より土地と建設費用を寄進されたこと。篤志家とは、福富太郎もボーイとして働いていたという浅草の伝説的キャバレー『現代』のオーナー岡崎重代氏。鳩山内閣の安藤正純文部大臣の秘書を務めた寛海和尚の伯父が常連客だったそうで、信心深く茶道の造詣も深い岡崎夫妻が「こういう商売をして儲けさせてもらっているから、何か社会に還元したい」と寺の寄進を申し出られたという。寛海和尚が聚光院住職となって2年目、1972年頃のことである。

 戦国武将が庇護する時代ならいざ知らず、寺の新設や経営が一筋縄ではいかない現代。何度か固辞をされた寛海和尚だったが、岡崎氏と共に浅草寺の総代理事を務めていた竹村吉左衛門氏(安田生命会長)の後押しもあって1977年頃から計画が動き出し、場所は富戸にある岡崎氏の所有地に、設計は日本を代表する建築家吉村順三氏に依頼することになった。皇居新宮殿の基本設計や奈良国立博物館新館の設計で名高い吉村氏も、寺院を手掛けるのは初めて。氏は残念ながら完成の直前に亡くなり、吉村設計の最初で最後の寺となった。

 岡崎氏の発案から四半世紀の時を経て、1998年3月に落慶式が執り行われた。その数年後、千住画伯が8室77面の襖絵を描き下ろし、寄進した。代表作「滝」のバックカラーは墨。大徳寺聚光院書院の青の滝を先に見ていた私は、地球から見た宇宙の闇を表現したんだな、と直感した。

 

 画伯がニューヨークのアトリエで、2001年9月11日の世界貿易センタービル爆破テロを間近に体験しながら苦悩の末に完成させた作画工程がNHKのドキュメンタリー等で詳しく紹介されると、伊東別院は千住アートの殿堂と称され、国内外の美術ファンが集うようになった。

 一方で、聚光院現住職の小野澤虎洞和尚は明言される。「ここへは茶を飲み、坐禅をしに来ていただきたい」と。

 ガラス張りの鉄筋吹き抜け構造。ロフトのような2階に坐禅堂を置き、ロフトからは「滝」の黒面と白瀑布が見下ろせる。伊東別院は類のない新しい禅寺のスタイルを打ち出している。しかしながら、ここは住職がおっしゃるとおり茶禅の聚光院であり、発起者岡崎氏も禅と茶道の実践道場に、と願っていた。

 

茶は服のよきように点て (相手が飲みやすいように点てよう)

炭は湯の沸くように置き (湯沸かしの準備やタイミングを大切に)

花は野にあるように生け (自然にあるように=本質を見失わずに)

夏は涼しく冬暖かに (相手が快適に過ごせるように)

刻限は早めに (時間は余裕を持って)

降らずとも傘の用意 (余計な心配をさせないように)

相客に心せよ (客同士で気を遣わせないように)

 

 茶道を修養する者が最初に叩き込まれる〈利休七則〉である。亭主にはこれだけの配慮が、客にはその配慮を理解する心が必要だからこそ、ただ座って茶碗を受け渡すだけの所作が「茶道」になるのだ。

 佗茶の創始者村田珠光は一休宗純に禅を学び、修行僧が坐禅や公案(禅問答)で無や空の境地を目指すように、茶道の一連の所作を通してこれを目指した。将軍足利義政に茶の奥義を問われた珠光は「茶ハ一味清浄禅悦法喜(一碗の茶をいただく中に、禅の悟りと同じほどの喜びがある)」と答えている。利休はこの精神を受け継ぎ、「仏法を以て修行得道する事なり」と終生、禅の修養に努めた。

 「茶をやる者は坐禅をせなあきません」と強調される虎洞和尚。兄の寛海和尚から住職を継いだ後、より積極的に伊東別院の坐禅堂と茶室の利活用を呼びかけておられる。東京に近いこともあって、首都圏の茶道関係者の利用が多いようだが、「門はいつでも開けておく。高い敷居なら削ってしまう。間口は狭いが気持ちは広い。それが寺の本来あるべき姿」とし、その意を受けた常在の東谷宗弘和尚が、地元伊東や伊豆の人々にも茶禅の心を伝える機会を設けておられる。毎月第2土曜の夕方17時から1時間程度、誰でも気軽に参禅できる坐禅会を開催中だ。

 

 今年1月、静岡市の駿府城公園紅葉山茶室で開いた『駿河茶禅の会』の初釜で、床の間に掛かった軸は、偶然にも虎洞和尚の筆による〈千里同風〉だった。会の座長である望月宗雄師匠に趣意を伺うと、伊東別院の正月特別拝観に行かれたからと。私が本稿の執筆依頼を受けたのはその直後。こういう縁の風が吹くのかと驚いた。

 千里同風とは、千里離れていても同じ風が吹いている=直接言葉を交わさずとも心は通じると解釈される。

 1591年に没した利休とは400年以上の時の隔たりがあり、伊東別院の創建に尽力された岡崎、竹村、吉村各氏は鬼籍に入られ、千住画伯はニューヨークに、虎洞和尚もふだんは京都におられる。離れた時空にあっても、この寺を現代に活かしたいという同じ思いの風が、ここに集まっている。虎洞和尚のまるくしなやかな筆づかいのその先で、塵のような存在の私も同じ風を感じている・・・。伊東別院には、そんな錯覚を覚えるほど心地好い風が帰着していた。

 京都の聚光院は利休の時代に生きた人のために建てられた。こちらは、当然ながら、今の時代を生きる人のために創られたのである。吉村デザインも千住アートも、現代人を茶禅の世界に誘う風だと思えば、こんなに美しい風の通り道はない。

 

 

聚光院伊東別院

〒413-0231 伊東市富戸1301-104

TEL 0557-51-4820

拝観は要予約。拝観料2000円。

坐禅会は毎月第2土曜17~18時。初めての人は電話でお問合せください。

 

(参考文献)

大徳寺聚光院別院襖絵大全/著・千住博

科学と仏教/著・武藤義一 

山上宗二記/校注・熊倉功夫

利休覚え書き「南方録覚書」/全訳注・筒井紘一

茶文化学術情報誌「茶の文化」4号/(社)静岡県茶文化振興協会


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駿河茶禅の会「私の好きな禅語2020」

2020-05-04 11:16:04 | 駿河茶禅の会

 茶道と禅の愛好者による交流サロンとして毎月開催中の駿河茶禅の会。茶室での実技習得、山上宗二記の読解、研修旅行等をはじめ、会員が自分で探してきた禅語を持ち寄って学び合う、ということも行っています。

 先月は月例会が開催できないかわりに、メールで寄せてもらった禅語と選んだ理由をまとめて会員にお送りし、自主学習の機会にしていただきました。胸を打つ言葉ばかりですので、このブログでも寄稿者の名前を伏せてご紹介させていただきたいと思います。

 写真は2017年5月の連休に催行した京都研修で訪れた天龍寺庭園の花々です。今このとき、訪ね人がなくとも、あるがままに咲いているであろう花々の生命力に思いを馳せるばかりです。

 

座禅せば 四条五条の橋の上 往き来の人を 深山木に見て
■作者/大燈国師  
 禅語ではありませんが大燈国師の言葉です。今から60年前、小学校の学芸会の舞台で、先生曰く「見ている人たちを大根だと思いなさい」と。次元の違うたとえ話ですが、ひたすら没頭するという意味で相通ずるところでしょう。利休百首の中の「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点てて飲むべかりけること・・・」もまた然り。


白雲自在
■出典/禅林句集
 白雲が少しの滞りもなく、自由自在に去来していくように、自分の心も自在に去来できるようになりたいもの。自宅に籠もっていても、心は自在にありたいと思います。


一心
 禅語ではありませんが、最近なんとなく気になっている言葉です。
 ブリタニカ国際大百科事典では『仏教用語で、宇宙の事象の基本にある絶対的な真実、真如のこと。また阿弥陀仏のみを念じる心または念仏のみに専念する心をいう。また仏陀の救済を信じる心は、その本質が仏陀の心そのものであって、このような信仰を得た人は凡夫でありながら仏陀の心をそなえているので、このような心を仏凡一体の一心と呼ぶ。』、
 デジタル大辞泉では『①多くの人々が心を一つにすること。同心。②心を一つのことに集中すること、またはその心。専念。③仏語。あらゆる現象の根源にある心。浄土真宗で真実の信心』とあります。なんとなく現状の世界に適する言葉だと思いました。
 そこで思い出したのが、以前、ある時にふっと沸いた言葉を自分なりに禅語風にしてみましたので、恥ずかしながら。
「忘我百語 刻此一心」
 さまざまな情報や知識に振り回されず、自分がこれぞと想う信念に従って生きていきたいという意味です。

 

颯々(さつさつ)
■出典/荘子 
 禅語としては、ぼんやりしていては“さわやかな”音も聞こえないように、自然の声にふと心をとめる余裕を持ちなさいということでしょうか。風がサワサワと吹くさまをイメージすると、新緑の茶畑を気持ちの良い風が頬や髪をくすぐるような、いまこれからの季節が思い浮かびます。あるがままの自然に何を感ずるかは、自分の気づき次第。美しい日本の四季を愛でるこころのゆとりを持ちたいです。


和顔愛語
■出典/大無量寿経
 2020年は未だかつて経験したことがない状況に全世界の人間が遭遇してしまいました。健康を脅かされ、経済的にも立ち上がれないほどの大きな打撃を、小さな小さなミクロの生命体によってもたらされました。「生」と「死」は隣り合わせということを、コロナウィルスは気づかせてくれた一面もあります。
生きている間も、死して残された人の記憶の中だけで生きることになっても、やわらかい笑顔と思いやりのある言葉は、関わる人たちを温かい気持ちにさせることが出来ます。
 心から笑顔になることは、強い精神がなければなかなか難しいことと思いますし、また、人への愛がなければ、愛情のある言葉は伝わらないでしょう。つらい時こそ、周りを和ませる笑顔で過ごしたいと思います。

 

松樹千年翠
平常心是道
■出典/続伝灯録 馬祖語録
 幾多の艱難辛苦を耐え忍び、永年の常緑をまっとうする松。コロナ禍の中、この状況だからこそ、本分を忘れず、ただひたすらに淡々と、やるべきことをまっとうする。平時を継続できるよう最善を尽くすのみ。有事のときこそ当たり前のことを大切に。

 

逢茶々遇飯々 
■作者/宙宝宗宇  ■出典/碧巌録
 お茶をだされれば、その好意に感謝してお茶を飲み、ご飯を供されれば有り難くいただく。裏からいえば「茶がなければ茶を飲まず、酒が無ければ酒を飲まず」。その場その場の与えられた条件に即応して、主体的に、無心にスラスラ生きる禅者の生き方。無心に、自由に生きていいんだと思わせてくれます。


紅炉一点雪
■出典/碧巌録
 禅の修業は、徹底的に身を焼き尽くしても、炉の上の雪が一瞬で消えるように、次の瞬間には全く痕跡さえ残さずけろりとしているというものでなければならないという意味。雪は落ちるべき所に落ちる(人は収まるべき所に収まるということ?)とも教わった記憶があり、厳しさと儚さ、暖かさも感じます。

 

犀の角  
■作者/釈迦  ■出典/スッタニパータ
 意味は「犀の角のようにただひとり歩め」=犀の頭部にそそり立つ太い一本角のよう、独り自らの歩みを進めなさいということ。禅語ではありませんが、毎日ひとり残業していた頃に後輩から教わった言葉。仕事帰りに真っ暗闇の崖っぷちをひとり歩いているような気がして泣けそうなときは、ふと思い出して忘れることがない。今年は仕事を時間で区切りをつけて、禅や好きなことへ歩みを止めずに貪欲に教えを乞いたいと思っています。

 


 これまで茶道を学んでいながら、好きな禅語を示せないのも恥ずかしい限りで、禅語の本を見たりしましたが、それぞれ意味が難しいため、熟語でも何でも、とのことでしたので、思い浮かんだ言葉を選びました。
 若い頃は「縁」の有難さを思うことがあまりありませんでしたが、還暦を過ぎたころから、これまでの人生を振り返り、多くの人達との「縁」、めぐり合わせ、出会いに感謝する心(おかげさまの心)が出てきたような気がします。
「人間は一生のうちに会うべき人には必ず会える」と言います。駿河茶禅の会で学ぶ機会と新しい出会いを得、多くの皆様とのご縁に感謝しております。

 

任運自在(にんうんじざい)
 世の中、変われば変わるものなんですね。ずっと在って当たり前だったことが、いっぺんにひっくり返る!…というのは阪神淡路や東北の大地震で理解していたつもりでしたが、本当にそうだったと、今回こういうカタチで現実にわが身に迫った状況は、ちょっと前まで想像だにしなかったことでした。自分の力ではどうしようもない中で、生きる希望を持ちたい究極の言葉として選びました。

 


庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)
■作者/趙州和尚  ■出典/無門関
 禅問答の内で、趙州和尚が弟子に答えられた言葉だそうです。弟子の問いは、「達磨大師がインドから中国へと来られたのは何故でしょうか。」というもので、まるで答えになっているとは思われません。しかし禅問答ですから、これをして禅の本質や何らかの教訓を伝えようとしているとされ、様々な解釈があるようです。
 僕はその内の一つの解釈を知り、わからないなりに趙州和尚、ひいてはこのような思想を持つ禅に畏敬の念を持つようになったためにこの言葉を選びました。
「庭前柏樹子」―その問答をしていた寺の庭にあった柏の木ですが、趙州和尚はそれこそが私の心の有り様である、主体でも客体でもない区別しようのないものとしてある、と示しているというものです。

 話が飛ぶのですが、量子力学という学問を以前知りまして、非常に小さい、しかし私達の世界を確かに構成している粒子は、人に観測されることでその有り様がその時に定まるらしいのです。ですから、観測することが影響を与えており、例えるならば、上司が何をしていても、何もしていなくても部下に影響を与えるように、そのミクロな世界では客観的な視点というのがありえないらしいのです。それは現実全体にも言えることの筈でしょう。
 しかし、趙州和尚はそうした僕にとっての固定観念を超越した心の持ち方をこの一言で表された、ようにその解釈を聞いて感じました。わからないなりに、これからも学んでいきたいと思います。

 


壺中日月長(こちゅうじつげつながし)
■出典/虚堂録
 後漢の時代、壺公という薬売りの老人が夕方、店を閉めると店頭にぶら下がる小さな古い壺の中にヒラリと飛び込んで身を隠したという。あるとき噂を聞きつけた町の役人・費長房が一緒につれて行くよう頼むので、しぶしぶ連れて行ったところ、壺の中は広大無辺で金殿玉楼がそびえる仙境だった。実は壺公は壺中を住処にした仙人。費長房は美女から美酒佳肴のもてなしを受けたり仙術を授かったりで、ご満悦で現実に戻ってきたら、2~3日のはずが、10数年経っていた。そんな浦島太郎のような故事に由来する言葉。
 壺中とは、悟りの部屋=悟りの世界のこと。狭い我が家であっても、何ものにもとらわれない大きな心で一日24時間、充実して過ごせば、壺中も仙境になり得る。壺の中に無限の世界と無限の時間が広がっている。そのような気持ちで、STAY HOME 。ちなみに静岡市の臨済寺の茶室名は「壺中庵」。

 

 

 ここでは無記名にしましたが、「庭前柏樹子」をセレクトしたのは最年少会員(高校2年生)のWくんです。受験の準備を控える身で休校が続く状況下、このような思いで禅語に向き合ってくれた若くみずみずしい感性が、どうか花開き、実りあるものとなるよう願うばかりです。


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福岡・聖一国師の足跡と博多茶禅文化探訪(その3)

2019-11-09 22:46:52 | 駿河茶禅の会

 博多研修レポートの続きです。研修3日目は朝9時より筥崎宮を正式参拝しました。

 蒙古襲来のとき、筥崎八幡神の神風が日本を守ったといわれ、厄除け・勝運の神として名を馳せる筥崎宮。足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など名だたる武将が参詣し、江戸時代には福岡藩主黒田長政以下、歴代藩主の崇敬も集めた社です。

 仁治2年(1241)、留学先の宋から戻る途中、嵐に遭遇した聖一国師は、筥崎八幡神のご加護で九死に一生を得たといわれ、国師は毎年筥崎宮に参詣し報恩の読経を行いました。以来、現在に至るまで承天寺の僧による「報賽式」が執り行われ、僧侶が神社で納経する珍しい行事として知られます。

 

 

 正式参拝の後、安武権禰宜のご案内で本殿・拝殿をじっくり見学しました。神殿の回廊には筥崎宮ゆかりの偉人が残した墨跡が掲げてあり、パッと目に付いたのがこれ。

 大河ドラマ『いだてん』で役所広司さんが熱演した柔道の創始者・嘉納治五郎の書です。『いだてん』は視聴率で苦戦しているようですが、私は毎回楽しみに視聴しています。金栗四三と嘉納治五郎と田端政治と古今亭志ん生をあれだけ複雑に絡めながら、近現代史をしっかり描いている。人見絹枝メインの回、嘉納治五郎が亡くなる回、志ん生が満州で富久を演じた回などは1本の映画にしてもいいくらい素晴らしかったですね。

 

 話は逸れましたが、安武権禰宜が我々の目的を知ってぜひ、とご案内くださったのが、千利休奉納の石灯籠でした。天正15年(1587)、九州平定を終えた豊臣秀吉が箱崎茶会を催した際、随行した千利休が奉納したものです。

 この灯籠の火袋底裏刻銘の終末に「観応元年庚寅六月弐八日、勧進尼了法」「大工井長」とあり、観応元年(1350)作成の灯籠と判ります。平成17年(2005)3月の福岡県西方沖地震の際、この灯籠が倒れ、火袋底裏刻銘を再確認できたとのこと。一般に奉納物には寄進者の名前を印することが通例ですが、利休がなぜ200年以上も前の古い灯籠を奉納したのか―そこに、自分の名を刻んだ真新しい灯籠を置くよりも、利休らしい侘びの美学から時を経た趣のある古灯籠を置いたのではないか等など、興味は尽きませんでした。

 

  次いで訪ねたのは崇福寺。ここも聖一国師開山の名刹です。当時は太宰府にあり、駿河井宮生まれの大応国師(南浦紹明)、そして大応国師の弟子で大徳寺を開いた大燈国師(宗峰妙超)が入寺。博多滞在中の古渓宗陳も訪ねています。その後、黒田長政によって博多に移され、黒田家歴代藩主の菩提寺となりました。臨済宗大徳寺派の3大修行道場の一つで、拝観はできませんでしたが、静岡出身の聖一国師、大応国師の足跡を訪ねる上で欠かせない寺です。

 門前茶屋の女将さんから、崇福寺のある博多区千代の千代流(ちよながれ)が記念すべき令和元年の博多祇園山笠で一番山笠を務めたとうかがいました。千代流の山笠はここ崇福寺の門前で願文を奏上し大いに盛り上がった、また大河ドラマで黒田官兵衛を演じた岡田准一さんが再三訪れ、沸き立ったことなどを誇らしげに話してくれました。

 

 

 研修の締めくくりは、茶祖栄西禅師が日本で最初に開いた禅寺・聖福寺での写経奉納です。

 

 建久6年(1195)、源頼朝を開基に創建され、蒙古襲来時に焼失。再建後、室町期には五山十刹制度の十刹第二位に序され、38院の塔頭を擁する大伽藍を誇りました。戦国~江戸期にかけ幾度か焼失と再建を繰り返し、江戸後期の第123代仙厓義梵禅師が禅の修行道場として再興し、今日に至っています。仙厓禅師は駿河の白隠禅師と並んで禅画の名手として知られる禅僧です。

 崇福寺同様、修行道場のため拝観はできませんでしたが、希望すれば写経や坐禅の体験ができるということで、一同、写経堂にて心静かに般若心経をしたためました。写経初体験の参加者が多く、貴重な体験になったようです。

 

 

 

■参加者の声

○UIAメンバーが鹿児島、宮崎からも遠路参集してくれたことにより、交流が 盛り上がった。各訪問先は初回ではなかったが、寺社関係者からの解説により新たな情報を頂き、また再認識の事項も多く非常に有意義であった。博多の地下街の規模、人口増などを見聞し、東京・大阪とは一味異なる活動的な文化を感じたが、神仏・祭礼を基盤とした精神性が背景にあるものと強く感じた。「茶の湯」という観点からは、昨年訪問の出雲は城下町としての歴史を抱く「静」、福岡は海外交易の窓口として活動してきた博多商人のパワー「動」が印象的であった。(M)

 

○福岡・聖一国師足跡めぐりとUIAの方々と交流茶会はお天気にも恵まれてすばらしい旅となった。博多山笠は福岡ではいまでも経済活性の柱の一つであり、博多の伝統行事として人々の生活に溶け込んだ非常に意義があるものと再認識した。UIAの方々の茶席でのおもてなしや、福岡の見どころや情報を用意していただく等、見習うべきところがたくさんあり、本当のおもてなしを学び、大変有意義な研修旅行だった。(I)

 

○UIA九州エリアの皆さまの心づくしのおもてなしには感激した。会場の松風園の保存管理も行き届いていた。承天寺や櫛田神社を通して聖一国師が博多の人々の日々の生活の中に、文化として根付いていると実感できた。とくに櫛田神社の阿部宮司の気さくで明るいお人柄に、博多っ子の心意気を感じた。(A)

 

○福岡市文化交流公園「松風園」茶室でのUIAとの交流茶会&昼食会は、駿河茶禅の会とUIAのメンバーが交互に座ることで、自然に隣の方と話が盛り上がり、交流が深まった。自己紹介をして行く中で、UIAの方々は、鹿児島、宮崎等九州遠方からこの茶会のために集まって頂いたことが分かり、心からのおもてなしに本当に感謝・感激した。(D)

 

○博多祇園山笠は重さ1トンの曳き山笠が町中を勇壮に疾走する。その際、承天寺前に聖水が設けられ、山笠を担ぐ若衆に勢水が盛んにかけられる。真夏の山曳きで熱くなった曳手を冷やす冷却水の役目を果たすという。私の住んでいる場所は静岡市郊外の安倍川の近くで、上流側に上った処に足久保がある。聖一国師が中国から茶の種を持ち帰り、初めて蒔いた場所だ。聖一国師が生まれたのは静岡市葵区栃沢の地。その生家の庭先にて沸き出る清く澄み切った聖水を福岡の博多に運び、承天寺に献水し、祇園山笠の勢水として掛けられている。なんと素晴らしいことだ。駿河茶禅の会ではお茶と禅に通じる心、作法を学んでいるが、この会を機会に、少しではあるが静岡と福岡お互いの発展に繋がれば良いと思わずにいられない。お茶の心得は何かに繋がり、気分が円やかになることである。たった1時間40分の飛行時間だ。九州に飛行機を利用して旅に行こう。そしてもっと盛んに交流しよう。(S)

 

○UIAの皆さんとの交流茶会、小生の右隣りは久留米から、左隣りは大宰府から、皆さん「茶道」の精神をしっかりと生活をしていらっしゃるのを感じた。大宰府からいらしたご婦人はミッション系の女学校を卒業されたとのことで、今のこの大変な世の中、いかに生きるべきかを自分で考える「禅」の心が大事ではないかと話した。最後、栄西禅師が開山の日本で最初の禅寺・聖福寺での般若心経の写経体験はこの研修旅行の締めくくりとして相応しい体験だった。聖一国師とその業績についてその誕生の地静岡から、もっともっと発信すべきであると実感した。(I)

 

○博多では静岡より聖一国師のことをよく知っているという話は聞いていたが、実際に訪れてみて街の真ん中にある櫛田神社の何百年も続く市民の祭り、祇園山笠の生みの親なのだからこれはもっともだと思った。暮らしの中に聖一国師が今も息づいている博多と、生まれ故郷というだけの静岡とでは比べようもなく、彼我の差にため息が出るばかりだった。UIA九州地区の皆様には、素晴らしい庭園と茶室の松風園でお茶会を開いていただき、まさに一期一会を感じた一日だった。茶会前の鈴木さんの聖一国師物語の講話も茶室の雰囲気とあいまってとてもよかった。研修旅行とはいえ、やはり旅は人との出会いや交流あってこそ。いつか皆様を静岡へお招きしたい。(U)

 

 

  今回の研修旅行は、企画段階で静岡県茶業会議所、聖一国師顕彰会(静岡商工会議所内)のご担当者より有益な情報をいただきました。また乳峰寺の平兮正道和尚様には事前の資料送付やスケジュール調整等きめ細やかなお心遣いをいただきました。心より感謝申し上げます。

 茶禅を学ぶ者の夢としては、今後、聖一国師を介在に、静岡ー京都ー博多を巡る茶禅の旅を「お茶三都物語」として定例化できたらと願っています。また国内外で活動されている裏千家インターナショナルアソシエーションの方々と、様々なテーマで交流茶会を企画できたらと思います。なお駿河茶禅の会は毎月1回静岡市内で定例会を開いていますので、興味のある方はご一報ください。


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福岡・聖一国師の足跡と博多茶禅文化探訪(その2)

2019-11-08 09:18:53 | 駿河茶禅の会

 博多研修レポートの続きです。10月14日(月)、福岡市文化交流公園「松風園」を会場に、裏千家インターナショナルアソシエーション(UIA)九州エリア会員との交流茶会を催しました。

 

 まずは、裏千家インターナショナルアソシエーション(UIA)という組織についてご紹介します。UIAは茶道の国際化を推進し、“一碗からピースフルネス(平和)を”の理念に基づき、世界平和に寄与することを目的に設立された、茶道裏千家の“国際部”。海外に向けての活動のみならず、国内においても在留外国人への日本文化紹介や、その手法を学ぼうとする日本人向けの啓蒙に寄与しています。

 
〇設立: 1985年

〇活動内容:裏千家茶道の海外普及の推進

      茶道を通じての国際文化交流、国際親善への寄与

      会員相互の親睦

〇活動区域:北海道・東北エリア、関東エリア、信越・北陸エリア、東海エリア、近畿エリア、中国・四国エリア、九州・沖縄エリア、海外   

〇会員数:581名(2019年3月現在)

〇事務局:一般社団法人茶道裏千家淡交会総本部 内 (裏千家の公式サイトはこちら
〒602-0073 京都市上京区堀川通寺之内上る寺之内竪町682番地

 

 

会場の庭園は駿河湾と富士山をイメージ

 当日は清々しい秋晴れのもと、福岡市内の閑静な住宅街の一角にある福岡市文化交流公園「松風園」茶室に、14名のUIA九州エリア会員が迎えてくれました。

 「松風園」は昭和20年代に建設された茶室と日本庭園を有する公園。福岡市の繁華街天神から南に広がる高級住宅街・浄水エリアに位置します。もともと福岡を代表する百貨店だった「福岡玉屋」創業者・田中丸善八翁の邸宅「松風荘」の跡地を新しく整備し、平成19年に開園したもの。まるで駿府城公園紅葉山庭園茶室が住宅街にポコンと出現したような雰囲気です。

 茶会の前に松風園スタッフが、駿河湾と富士山をイメージしたという日本庭園を案内してくれました。樹齢100年を超えるイロハモミジの木をはじめ、織部灯籠や春日灯籠、イスが卍型に配置された東屋、そして数寄者として知られた田中丸翁が茶の湯文化発祥の地京都から資材や職人を集めて造った本格的な茶室「松風庵」。庵の扁額は電力王で知られる松永安左エ門(耳庵)の揮毫だそうです。茶室の意匠に詳しい望月座長が懇切丁寧に解説してくれました。

 



「一碗からピースフルネスを」の実践

 茶事研修に使われる和室にて、UIA九州エリア会員との交流茶会が始まりました。まずUIA会員による歓迎の呈茶です。14名の九州エリア会員の中には鹿児島県や宮崎県からの参加者もあり、ご当地の話題で大いに盛り上がりました。

 

茶会のしつらえは以下の通り。

 

掛物 「掬水月在手」 妙心寺 松山萬密老師書

花・花入れ  菊(シャムロック)・水引草  肥後寸胴

香合  むさしのの苗 三日月香合  清水祐斎作(山中)

棚   山雲棚  静峰(輪島)

水指  高取 管耳付半月水指 喜恵作

茶器  鵬雲斎好み 秋の野蒔絵 一閑 大棗  石井隆鳳作(加賀)

茶碗  上野 紫蘇手  銘「知足」鵬雲斎 箱

 替  紀州焼 葵窯  「旅衣」寒川栖豊作

茶杓  建仁寺 益州老師 「好日」

蓋置  三河内焼

菓子  錦秋 萬年屋製

 

 茶席でまず目を引いたのが、床の間の鮮やかなエメラルドグリーンの大輪の菊。オランダで改良された菊ですが、シャムロックとはもともとアイルランドの古い言葉で「若い牧草」という意味。クローバーのような草花で、アイルランドの国花になっています。前日13日夜、ラグビーワールドカップで日本がスコットランドに勝利し、アイルランドと並んでベスト8進出を決めた慶事にちなんでセレクトされたとのこと。まさに茶道の国際化を目指してグローバルな活動をされているUIAらしいしつらえでした。


 茶器は、かつてUIA代表幹事を務めた望月座長が身近に仕えた裏千家十五代家元、鵬雲斎千玄室大宗匠ゆかりの品を用意していただきました。

鵬雲斎千玄室は大正12年(1923)、14代無限斎の嫡男として誕生、昭和24年(1959)大徳寺にて後藤瑞巌老師より得度を受け、鵬雲斎玄秀宗興居士となり、昭和39年(1964)に無限斎の逝去に伴って裏千家15代家元を継承しました。太平洋戦争時は海軍士官として特別攻撃隊員となり、戦友(後に俳優となった西村晃)とともに死の瀬戸際を体験。敗戦後、虚脱感に襲われていた時、父の無限斎が進駐軍の将校に毅然とした態度で茶を教える姿を目にして日本文化の持つ力の強さを再認識し、茶道をもって世界平和に貢献することを生涯の目的としたのです。昭和26年(1951)、日本文化使節として初の渡米を皮切りに、「一碗からピースフルネスを」の理念を提唱して世界62ヶ国を歴訪。その功績に対し、平成9年(1997)には文化勲章が授与されています。

 茶会では鵬雲斎千玄室大宗匠のお人柄や、「一碗からピースフルネスを」の実践部隊として活動するUIAの世界各地での茶道伝道活動について話題が広がりました。UIA会員は、外資系企業、国際線客室乗務員、語学教師等など、職業上も海外との接点が多く、茶道の歴史や所作を外国人に伝えるため、本質をしっかり身に着け、それをわかりやすくかみ砕いて伝える術をお持ちです。当方はほとんどがお点前に不慣れな外国人みたいな初心者ばかりですが、気負わず茶席を楽しむことができました。

 

聖一国師の生涯と功績を伝える方法

 UIAの呈茶の後は静岡を代表して私が、にわか勉強で覚えた聖一国師の生まれ故郷・静岡栃沢や、修行中のエピソードについてUIAの方々にお話する時間をいただきました。予習でブログにまとめていたことが多少役立ちましたが、急なご指名だったので冷や汗タラタラでした(苦笑)。

 静岡人にとって聖一国師=静岡茶祖という固定観念がある一方、福岡や九州の方々にとっては「博多祇園山笠の始祖」であり、その知名度は静岡よりもはるかに高いようです。ただしお茶と聖一国師を結びつける人はほとんどおらず、茶祖と聞けば栄西を思い浮かべる人が多いとのこと。

 静岡では茶というかけがえのない地域産業の始祖である聖一国師。しかしその功績を知る市民は茶業関係者や顕彰活動を行う人に限られています。宗教者であるという理由から教育機関では取り上げづらいという声も聞きます。

 かけがえのない地域の伝統行事の始祖として高い知名度を持つ福岡を参考に、自分たちが暮らす地域産業や伝統文化の成り立ちを、どのように語り伝えるべきか、このような地域間交流の機会を活かして考えていきたいと締めくくらせていただきました。拙い話にUIAの方々が真剣に耳を傾け、メモを取ってくださっていた姿に感動しました。

 

 聖一国師講話の後は、昼食をはさんで本会員による静岡抹茶の呈茶でUIA会員の皆さまに感謝の気持ちをお伝えしました。UIA九州エリアの方々にとって、九州全域からメンバーが集まる機会は限られるとのことで、聖一国師を縁にこうして集まることができて本当に嬉しいとおっしゃっていただきました。ワンテーマで地域間交流が発展するという実感をしかと得ることができたと思います。(つづく)


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