杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

光の管が灯すもの

2014-11-29 20:29:30 | ニュービジネス協議会

 11月20日にJR静岡駅前葵タワーのグランディエールブケトーカイ全館を貸し切って、【第10回新事業創出全国フォーラム】が開催されました。(独)中小企業基盤整備機構/(公社)日本ニュービジネス協議会連合会が主催し、(一社)静岡県ニュービジネス協議会が主管運営するビジネスフォーラムで、1000人を越える来場者で賑わいました。私は実行委員会の記録班スタッフとして終日会場を走り回り、今は膨大な数の写真整理や講演&パネルディスカッションのテープ起こしに追われています。このフォーラムでいろいろ思うことがあったので、忘れないうちにブログに書き留めておこうと思います。

 

 パネルディスカッションのパネリストは基調講演の講師も務めた山本芳春氏(㈱本田技研研究所社長)、山口建氏(静岡県立静岡がんセンター総長)、木苗直秀氏(静岡県立大学学長)、原勉氏(浜松ホトニクス㈱中央研究所長)という豪華な顔ぶれ。「ふじのくにから未来が見える~20年後のビッグビジネスを語る」というテーマで、それぞれの専門分野で世界を変えるような近未来ビジネスを語っていただくというものでした。

 

 

 実はフォーラムの準備期間中だった9月9日、パネルディスカッションのコーディネーターを務める静岡県ニュービジネス協議会の鴇田勝彦会長、原田道子副会長のお供で、浜松ホトニクス㈱中央研究所の原所長を表敬訪問しました。お宝技術満載の研究所内部は写真撮影不可で、唯一OKだったのが、岐阜のスーパーカミオカンデに設置して宇宙素粒子ニュートリノをキャッチし、2002年に小柴昌俊東大名誉教授にノーベル賞をもたらした光電子倍増管。これを目の前にしたとき、私の脳裏には、なぜか、“ナムカラタンノートラヤーヤー”で始まるお経「大悲呪」が響いてきました。光電子倍増管とは直接関連はありませんが、2008年10月、南部陽一郎氏、小林誠氏、益川敏英氏の3氏が“素粒子物理学における「対称性の破れ」”でノーベル物理学賞を受賞した日、私はこのブログに「大悲呪と素粒子」という記事(こちらを書いていたのです。

 

 

 ブログを読み返すと、科学と仏教を無理やりこじつけたシュールな記事だなあと恥ずかしくなっちゃうのですが、このところ、あながち、こじつけではないのかも、と確信を持つ出来事が続きました。9月9日の浜ホト訪問日は、原所長が自己紹介のとき、京都龍安寺の庭の蹲(つくばい)に刻された禅語『吾唯足知』や同義語の『少欲知足』がお好きだと話されたのです。おおーやっぱり科学者は禅の世界に共鳴しているんだ!と驚きました。というのも、その数日前、臨済宗妙心寺派東京禅センター主催の講演会【科学と仏教の接点】の開催を、偶然ネットで見つけて参加を申し込んだばかり(聴講後の感想ブログはこちらをご覧ください)。で、訪問前日の9月8日には禅学の大家である芳澤勝弘先生と沼津でお会いできるという連絡が。そして次の日、目には感じない波長や超微弱な光を検出するという倍増管をイザ目の前にしたら、自然にお経が聴こえてきた…。なんともシュールな体験でした(苦笑)。

 

 浜松ホトニクス中央研究所ではこのほか、バイオフォトン(生体微弱光)といって植物が光合成しきれず光が戻る時間差をキャッチして植物の健康状態を量る―たとえば排水中の藻類の状態を量って有害性を評価する装置、放射線を使わず光で体内のガン細胞の状態を判断できる次世代PET診断システム光の位相を整える制御技術を登載した眼底カメラで眼の疾患や糖尿病の早期発見を可能にするしくみ、中赤外に発振波長を持つ半導体レーザ(量子カスケードレーザ)で炭酸ガスの成分を細かく分析して空中に漂っているCO2が今いる建物から発生したものか中国から飛んできたものかが判るしくみ、ヒッグス粒子を検出したシリコンストライプディテクタすばる望遠鏡に登載した世界最高感度のイメージセンサ等など、原所長自ら一生懸命説明してくださるのにこちらの理解がまったく伴わず、でもとんでもなくスゴイらしい製品群を存分に見せていただきました。・・・とにかく、光でなければ認識できないものを可視化させるテクノロジーなんだ、ということだけは解りました。

 ご一緒した鴇田会長から「あなたが食いつきそうなものがあったよ」と背中を突かれたのが、赤色&青色発光ダイオードと高圧ナトリウムランプの植物工場でわずか75日で育ったという山田錦で醸した地酒「光の誉」。2002年に磐田市の千寿酒造と共同開発したそうですが、1升瓶あたり30万円とべらぼうなコストがかかり、あいにく試験醸造で終わってしまったとか。千寿酒造には何度も行っているのに知らなかった(悔)・・・! 植物工場で2ヵ月半で育つなら、今現在、山田錦を全国から必死にかき集めているアノ酒蔵が実用化するんじゃ、なんて思ったりして。

 

 10月半ばにはニュービジネス協議会の茶道研究会でこれも偶然、龍安寺の『吾唯足知』を見に行きました。そういえば浜松ホトニクスの所長が好きだって言ってたなあと眺めていたら、京都在住の友人ヒロミさんとバッタリ再会。なぜかこの日の朝起きたら『吾唯足知』の蹲が頭に浮かんで、自然と足が向いたのだと。ヒロミさんは昔、静岡アウトドアガイドという雑誌で初めて地酒の連載記事を持っていたとき、誌面を作ってくれたデザイナーさんで、現在は京都で出版の仕事に関わっていることを最近フェイスブックで知りました。なんとも不思議な再会です。

 

 

 1997年6月発行の静岡アウトドアガイドで、ヒロミさんに誌面を組んでもらった千寿酒造の紹介記事を読み返してみたら、昭和21年から千寿の杜氏を務めた伝説の越後杜氏・河合清さんとその弟子の中村守さん、孫弟子の高綱孝さんの3代に亘る越後流酒造りが、磐田の地でしっかり息づいた価値を力説していました。千寿酒造は現在、経営者が変わってしまいましたが、高綱さんのもとで修業した東京農大醸造学科卒の社員杜氏鈴木繁希さんが現役で居る限り、酒道の灯は消えないと信じています。これは科学技術ではなく、人が、灯し続ける意思があるかないかの話、ですね。

 

 

 とにもかくにも、11月20日のパネルディスカッションで、1000人を超える聴衆を前に原所長はこんな発言をされました。

「京都のある高僧に“少欲知足”という禅語を英語に訳すとどうなるかと訊いたところ、即座に“sustainable(持続可能)”と応えたそうです。日本の生活の知恵や考え方、東洋的な思想はすばらしいと思いました。我々が研究する光技術が産業化できれば、いずれは地球上の問題解決にもつながるのではないか」

 

 浜松ホトニクスの光電子倍増管の威力って、月で懐中電灯を灯して地球でキャッチするようなレベルだそうです。11月20日のフォーラム会場での点灯展示を見ていたら、なんだか、塵のような私の仏性(といえるものがあれば)を灯してくれた観音様が姿を変えて現れたのかもしれない、と思えてきました・・・(笑)。

 

 存在しているものを認識する力を得たら、科学技術は地球上の問題を一つずつ解決していくのでしょう。同じように、禅の教えは人間の心の問題を解決してくれるんだろうか・・・。まだまだテープ起こしが終わらないというのに、なんだか酒を呑まずにはいられなくなってしまいます(乾いた杯に酒を注いでくれる相手は傍にいないのだけれど)。

 

 とりとめもない駄文でスミマセン。フォーラムの講演録はしっかり作りますので、関係各位はしばしお待ちくださいまし。


白隠フォーラムin沼津 2014 (その3)~白隠劇場の役者たち

2014-11-23 15:46:50 | 白隠禅師

 11月9日白隠フォーラムin沼津の続きです。

 三番目に登壇されたのは、このフォーラムの顔ともいえる芳澤勝弘先生(花園大学国際禅学研究所副所長・教授)です。

 ちょっと面白かったのは、フォーラムが始まる前、花園大学側代表者の挨拶で「若い頃より年齢を重ねてからのほうが、禅を学ぶ面白さが分かると思います」と、熱心に社会人入学を勧めていたこと。入場無料でこれだけ充実したプログラムを提供するのはこういうPRも兼ねていたのか、と妙にナットクしてしまいました。私自身は出来るものならすぐにでも芳澤ゼミに入学したいと願っているのですが、今のところ京都へ遊学できる時間&経済的余裕はナシ(涙)。時間とお金に余裕のあるシニアのみなさん、ぜひ学生になって本格的に学んでみてはいかがでしょうか。こちらの大学HPを参照してください。

 

 さて、7月のプラザヴェルデ開館記念講演で「富士大名行列図」を取り上げた芳澤先生。今回は「布袋吹於福」をメインに紹介してくださいました。「布袋吹於福」は、布袋さんが煙草を吸いながらお多福(於福)を吹き出すという、一度見たら忘れられない奇天烈な絵。2年前の渋谷Bunkamura白隠展のビジュアルツアー映像(こちら)に紹介されています。2分10秒~30秒あたりをご確認ください。

 

 布袋さんというのは中国に実在していた僧で、本名は契此(かいし)。生まれはさだかではありませんが916年に亡くなっています。山やお寺に籠もっている人ではなく、街の盛り場を行き来して人々に物乞いをしては袋に詰め、かついで歩いていたので「布袋」というニックネームがついた。お天気や人の吉兆を予言し、けっこう当たっていたそうですが、メタボ腹の見るからにだらしのない怪しげな乞食坊主だった。916年3月、奉化県(今の浙江省寧波市)の岳林寺の廊下で遺体となって発見され、そばに、

 「弥勒真弥勒、分身千百億、時時示時人、時人自不識」

 という偈(げ=仏の教えを説いた韻文)が残されていました。「我こそは真の弥勒菩薩なり。されど誰もわからなかった」という意味だそうです。このことが布袋伝説を生み、禅宗とともに日本にも伝わって、七福神に加えられました。

 白隠さんはこの布袋さんをとても敬愛し、数多く描いています。先生曰く「白隠劇場の主演男優」なみの扱い。お多福を吹き出したり、春駒(張子の馬)を操ったり、人形遣いを演じさせたりと、大道芸人並みのパフォーマンスをさせている。白隠監督のもとで布袋さんが演じた一番人気のキャラクター「すたすた坊主」は、お参り代行をして日銭を稼いでいた乞食坊主のことで、寒い冬でも裸で縄の鉢巻をし、腰に注連縄を巻いて面白おかしく口上を述べながら東海道筋を闊歩していた。元禄時代に来日したオランダ人ケンペルも、「街道でたくさん見かけた!」と目撃談を日記に書き残しています。すたすた坊主や大道芸人のようなストリートパフォーマーの存在を白隠監督はしっかり認識し、画題に採用していたんですね。

 

 お多福は先生曰く「白隠劇場の主演女優」。おふく、おかめとも呼ばれます。丸顔で鼻が低く、おでこが大きくて両頬がぷっくり。今風に言えば「ブサカワ」って感じでしょうか。神代、天照大神が岩戸に籠もってしまったとき、岩戸を開かせようと妖しいダンスをした天鈿女命(あまのうずめのみこと)は、いわゆるお多福顔だったそうですが、当時はそれが美女とされていた。今年の正倉院展で話題になった「鳥毛立女図」も蛾眉豊頬のお多福系美女。美の定義は時代や地域によっていろいろ変わるものですね。

 白隠さんの時代、お多福はあいにく醜女の典型として扱われました。芳澤先生は白隠画のお多福の髪形や前帯姿から推察し、「宿場町の旅籠の飯盛り女か女郎を演じさせたのでは」と説きます。社会の底辺にいた醜女を「主演女優」にしたからには、当然、描きたい、伝えたいテーマがあったはず。着物の柄に「壽」という文字や「梅鉢紋」が躍っていることから、不幸の象徴ではなく、長寿の天神様のつもりで描いたのではないかと先生。

 醜いお多福が実は天神様の化身だった。大道芸人のような布袋さんが実は弥勒菩薩の化身だった。・・・白隠さんは「見た目で判断しちゃいけないよ」って教えたかったのでしょうか。

 

 白隠画の主題を探る“hakuin code”ともいうべき〈画賛〉を、先生に解説していただくと、

 

  随分とおもへど、おふくばかりは吹にくひものじや

  (一生懸命きばって吹き出そうとしたが、お福さんばかりはなかなか難しいものじゃ)

  善導吐三尊彌陀。布袋吹二八於福。吐彌陀依稱名功、吹於福將其何力。

  (中国浄土宗の開祖、善導大師が念仏を唱えるとそれが阿弥陀さまになったそうだが、この布袋は、煙草の煙から妙齢のお多福美人を吹き出すのだ。阿弥陀さま を吹き出すのは念仏の功徳だが、このお福さんを吹き出せるのは、さて、いかなる功徳によるのか)

  

 布袋が生きたころの中国には煙草がなかったので、煙草を吸う布袋さんとは、大の愛煙家だった白隠自身のこと。布袋さんの腰のあたりに描かれた瓢箪の根付には『道楽通宝』の四文字。室町時代に大陸から伝わった通貨『永楽通宝』を明らかに捩っています。

 これらの描写から、白隠さんが画賛に込めたメッセージとは「わしは煙草道楽もするが、人々に法を説き、福を分け与えるのが一番の道楽なんじゃ」と解読できるようです。衆生を救うのが道楽だという表現、とても面白いですね。芳澤先生によると「白隠が描く道楽とは、仏道修行によって得る楽しみと、酒色や趣味におぼれ放蕩し財産を食いつぶすという真逆の意味が込められている」のだそうです。

 各キャラクターにも二面性をしっかり与えています。すなわち、酒色道楽の象徴であるお多福が実は天神様の化身であり、すたすた坊主にまで身をやつした布袋は弥勒菩薩の化身であり、白隠自身でもある。・・・ものすごく高度で重層的な表現です。極楽と地獄、美と醜、正と邪、強さと弱さ―社会も人もつねに表裏一体、相反し、矛盾するものを孕んでいる。それをまるごとひっくるめて受け入れ、救うのが白隠禅の目指すところ、といえるのでしょうか。

 

 

 先生はこのほかに「雷神」を取り上げてくださいました。雷神が風の又三郎(風神)に「雲どもに集まってとお願いして」と手紙を書き、その返事を庄屋(宿場町の代表)が待っているという絵です。恵みの雨=仏の教えを乞う人々への思いやりが伝わってきます。お寺の名前に「雲」の字が多いのは、仏の教えのことを慈雨と表現するからだそうです。

 

 白隠フォーラムin沼津(その1)でも触れたのですが、このような絵と画賛を当時、どれだけの人が正しく読めて、内容を理解できたのか不思議です。そんな自分の疑問を見透かしたかのように、芳澤先生が明快に語りかけてくださいました。

 「当時の人々は、ひらがなを150文字ぐらい知っていた。今の人は50文字しか知らない」。・・・そうだった、ひらがなは、今使っているひらがなだけじゃなかったんだ、と今更ながら目からウロコでした。みなさんは変体仮名をどれだけご存知ですか?

 

 

 

 


白隠フォーラムin沼津2014(その2)~延命十句観音経

2014-11-22 20:53:44 | 白隠禅師

 11月9日の白隠フォーラムin沼津2014 続きです。

 お2人目の講師は臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺氏です。鎌倉の円覚寺といえば日本を代表する禅の名刹。その老師様と聞いて、勝手ながら高齢の方を想像していたら、自分より若い方だったのでビックリしました。1964年和歌山県新宮市のお生まれで、筑波大学在学中に出家。ご実家はお寺ではなく、身近な死をきっかけに小学生の頃から坐禅会に通ったり本を読んだり、ラジオで法話を聞いて仏教に親しみ、松原泰道氏に直接手紙を書いて教えを受け、仏道に入られたそうです。そういう経歴の方が40代で宗派のトップに就いたというのは、政治の世界より民主的だなあと感心しました(・・・エラそうな物言いですみません)。

 

 横田氏のお話は、白隠禅師が熱心に広めた『延命十句観音経』という、わずか42文字の短いお経について。

 

 観世音 かんぜーおん

 南無仏 なーむーぶつ

 与仏有因 よーぶつうーいん

 与仏有縁 よーぶつうーえん

 仏法僧縁 ぶっぽうそうえん

 常楽我常 じょうらくがーじょう

 朝念観世音 ちょうねんかんぜーおん

 暮念観世音 ぼーねんかんぜーおん

 念念従心起 ねんねんじゅうしんきー

 念念不離心 ねんねんふーりーしん

 

 漢字だけでもなんとなく意味がわかる、やさしいお経ですね。円覚寺では幼稚園児が毎朝唱えているそうです。

 白隠さんが59歳のとき、のちに筆頭弟子となる東嶺さんと出会い、後継者が出来て安心したのか61歳ぐらいから外の世界に視野を広げ、庶民に向けてこのお経をさかんに説くようになりました。「松蔭寺が山奥ではなく、東海道宿場町の街道沿いにあった町のお寺で、庶民の暮らしに身近に接していたから」と横田氏。白隠さんの功績からしたら、大伽藍を擁する大寺院の管首になってもおかしくないのに、白隠さんは生まれ故郷の町のお寺で生涯を送ったのです。おかげで原の町には全国から白隠さんを慕って修行僧や一般参禅者が大挙して押し寄せたんだとか。約250年後のこのフォーラムに700人集まったのですから、十分想像できます。

 白隠さんは75歳のとき、九州のさる藩主に宛て、このお経の功徳を紹介した手紙を書きます。それが「延命十句観音経霊験記」として伝わっています。


 大名は自身の日記で、白隠さんの手紙に、

 「この経を読んで瀕死の重病人が治癒した」

 「さる武将が敵に処刑されそうになったとき、このお経を読んだら敵将の夢に観音が現われ、処刑するなと諌めたため、命拾いした」

 「薄島(すきじま)のお蝶という娘が死んで地獄の閻魔大王に一生の罪科を調べられた。そのとき10歳位の小僧が現れ、たちまち観音様に変身し、“この娘は延命十句観音経を護念して未だに寿命が尽きないから、娑婆へ返して観音経の功徳を衆生に知らせる方が良い”とアドバイス。娘は生き返り、延命十句観音経の功徳を白隠に物語った」

 という摩訶不思議なエピソードが紹介されていたと書き残しています。いくらお経を勧めるためとはいえ、白隠さんが大名に奇跡話の類を説くのかなあと首をかしげたくなりますが、とにかくその大名の日記には、江戸でも白隠さんが説く延命十句観音経が大流行していると書いてあった。庶民がこの手の話を聞きつければ、間違いなくブームになるでしょう。

 

 横田氏は「このお経を、丹田に力を込めて何度も唱える。その繰り返しの中で、己の心を検証させる。それが白隠さんの言う真の功徳です」と解説されました。霊験記は、このお経に関心を持ってもらうためのきっかけ、という位置づけなのかな。同等で語っちゃぁ申し訳ないんですが、私なんかも地酒の講座で、「この酒は皇室献上酒です」「有名人の○○さんが大量買いしました」なんて“盛ったハナシ”で関心を引いたりします。自分が心底自信を持って勧める酒ならば、きっかけなんてその程度でも十分アリだと思っています。

 

 東日本大震災の後、被災地のお寺の支援に入られた横田氏は、僧侶が何をすべきか真剣に悩まれたそうです。炊き出しや瓦礫の片付に汗をかく中で、物資以外に届けられるものはないだろうかと。そして、ある人の助言で、延命十句観音経と観音様の絵を色紙に書いて被災寺院に届けたら、たいそう喜ばれた。「避難所で色紙を本尊に見立てて読経したら涙を流して感謝された」「大勢の檀家が亡くなり、本堂も流され、絶望の底にいたときにこの色紙が届けられ、力が湧いてきた」という声も寄せられたそうです。現地の和尚さん方の何よりの励みになったんですね。

 このお話を聞きながら、2011年4月17日に歩いた福島県いわき市の久ノ浜海岸を思い出しました。空襲にでも遭ったかのように、瓦礫一面だった海岸沿いの町・・・そこで出会った男性に「家はすべて流され、これだけがめっかった(見つかった)」と見せてもらったのが、この小さな額絵でした。

 

 横田氏が経験されたこととは比べ物にもなりませんが、見ず知らずの自分に写真まで撮らせてくれたからには、この、ささいな言葉が家族の思い出として手元に残ったことを、この男性は本当に心の糧にされているんだと胸に迫ってくるものがありました。

 

 当日配られた延命十句観音経のプリントに意訳が書かれていました。とても丁寧な意訳でしたが、42文字のシンプルなお経ですから、私なりにシンプルに要訳してみました。

 観音さま、

 苦しいときに寄り添い、救おうとしてくださる仏さまの心。それは私たちが本来持って生まれたものなんですね。いろいろなご縁によって、そのことに気づかされます。

 人のために尽くす。それこそが楽しみであり、己を清める生き方です。毎朝、毎晩、仏さまの心に従い、離れないと念じます。

 

 観音さま(観世音菩薩)は数ある仏や菩薩の中でも、人の声を観る=心で聴くという力を持っていて、何かにすがりたいとき、聞いてもらいたいことがあるときに呼びかけるキーコードのような存在だと解釈しています。でもキリスト教のお祈りで天に向かって「主よ」と呼びかけることとは少し違う。救いとなる仏心は、実は自分の中にあって、自分の心を呼び覚ます、という意味もあるのです。

 世は無常=常にあらず。すべてのものがうつろいゆく世では、人は、ひとりでは生きられない。出合った人とつながり、慈しみ、支え合って生きるしかない。でも人は本来、この世で起き得るどんなことも受け容れる力を持っている。耐えられない試練は与えられない、とも言える。・・・そのことに気づかせてくれるお経だと、私は解釈しています。 

 

 フォーラム終了後、一緒に聴講した友人2人と行きつけの居酒屋で3時間熱く語りました。友人の一人は家族全員を相次いで病気で亡くして孤独になり、自分自身もガン闘病中。横田氏の講演中、涙がとまらなくなったそうで、「ずっと下を向いていたんだけど、最前列だったから横田先生に居眠りしていると思われたかも」と苦笑いしていました。

 お経を唱えるだけで病気が治る、命が助かるという白隠流のプレゼンテーション、本当にそうかもしれないと信じて懸命に唱えていくうちに、心が浄化されていく作用が確かにあったのでしょう。250年経ってもその作用は十分効くようです。

 

 こちらの著書に横田氏の思いが丁寧につづられていますのでぜひご参考に。円覚寺のHPはこちら

 


白隠フォーラムin沼津 2014(その1)~白隠さんの地獄絵

2014-11-21 11:28:00 | 白隠禅師

 再三ご案内したとおり、11月9日(日)12時30分から、沼津駅北口プラザヴェルデで【白隠フォーラムin沼津2014(主催/花園大学国際禅学研究所、後援/沼津市)】が開かれました。

 400名定員の会場がすぐに満席となり、サブ会場(モニター聴講)まで設置、トータル700名近い聴衆が集まったビッグフォーラム。一般市民を対象にした歴史講座でこれほどの人が集まるというと、静岡市で開催中の徳川みらい学会ぐらいでしょうか、来年が家康公の400年忌、平成29年が白隠さんの250年忌というタイミングも相まって、歴史学や宗教学のトップランナーが静岡に集結し、県民に貴重な学習の機会を与えてくれる。大変ありがたいことです。この日プラザヴェルデに集まった聴衆の中には、県内で活躍する歴史家・芸術家等、私でも知っている著名人を数多く見かけました。

 

 4時間にわたる密度の濃いフォーラム。3名の講師がそれぞれの得意分野をテーマに講演されました。

 最初に登壇されたフランソワ・ラショー氏(フランス国立極東学院教授)は、フランスにおける日本文化研究の第一人者のお一人。現在、京都大学人文科学研究所でも研究活動をされています。老獪な学者さんを想像していたら、意外にもお若い方で、ご自分の体型を“布袋ルック”と自虐的に紹介されるノリのいい方でした。

 ラショー氏が取り上げたのは、白隠さんの書『南無地獄大菩薩』。2年前の渋谷Bunkamura白隠展で初めて観た時、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経ではなく、なんで地獄の大菩薩?と、まずは言葉の意味に首をひねり、晩年の作というのに小学生のお習字みたいに紙一杯に整列した野太い文字にゾクっときました。でもこのときは、地獄の恐ろしさに対抗するために力をググッと込めて書かれたんだと勝手に解釈していました。

 

 東海道「原」宿の問屋業・長澤家に生まれた岩次郎(白隠の幼名)は8~9歳の頃、母親に連れられて行ったお寺の説法で地獄の恐ろしさを教わり、トラウマになった。13歳の頃、上方からやってきた浄瑠璃一座の芝居で、真っ赤に焼かれた大鍋をかぶり焼き鍬を両脇に挟んでもびくともしない日親上人のことを知り、地獄の業火に耐えられる仏力を自ら得ようと出家した、と言われます。「地獄」は白隠さんにとって終生のテーマだったのでしょうか、白隠さんは地獄の閻魔大王を描いた絵もたくさん描いています。

 ラショー氏によると、キリスト教圏にも地獄を描いた絵がたくさんあり、天国の絵はわりとワンパターンなのに比べ、地獄絵図は多種多様。人が、地獄を想像させる痛みや苦しみを現世で経験するからだと。確かに北欧神話のベルセルク(凶戦士)伝説とか、ダンテの神曲に影響されたミケランジェロ「最後の審判」、ロダン「地獄の門」など等、時代や地域を越え、実に多くの地獄が可視化されています。

 それらに比べると白隠さんの地獄絵はどことなくユーモラスです。松蔭寺のお隣り清梵寺が所有する『地獄極楽変相図』は、上からお釈迦様と両脇の普賢&文殊、真ん中に閻魔大王、その左側にはアーチ型の橋を渡るお金持ちそうな人々が描かれているのですが、この人々は、子ども→青年→壮年→老年と、一人の人間の一生を表現しているそう。閻魔様に一番近いところにいる老人、はたしてどんな地獄の沙汰が待っているのか。恵まれた生涯であっても功徳を積まなければ地獄に落ちるよ、というメッセージが込められているそうです。

 閻魔様の下には地獄で様々な拷問を受ける人々が描かれています。ラショー氏は「キリスト教のテーマは地獄から救われること、禅のテーマは自分の心から救われること。己の心の研究なんです」と説きます。

 

 芳澤先生は『南無地獄大菩薩』の意味を、「地獄と極楽の当体は同じもので表裏一体なものにほかならない」「地獄は単なる懲悪のシステムであるだけではなく、そのまま救済の方便にもなっていたのである」と説きます。白隠さんがその絵の中で、美と醜、地獄と極楽といった対極的なものを一体化させるのは、表裏一体という教えがベースにあるようです。

 そういえばレオナルド・ダビンチの名言に似たような言葉があったっけ。

 

 美しいものと醜いものは、ともにあると互いに引き立て合う。(レオナルド・ダビンチ)

 

 白隠さんは、引き立てあう“美醜”をさらに発展させ、“美醜は本来一体”と考えたのかな・・・。

 

 とにもかくにも、地獄の絵を見てそのような深遠なメッセージを理解できた人が、当時どれだけいたのでしょうか。白隠さんが生きた時代は、五百羅漢や七福神のような愛嬌のある、ゆるキャラみたいなアイコンがブームになっていたようです。また当時は中国からやってきた黄檗宗の僧たちが本場で流行していた“唐様”の書道を持ち込んで、知識層の間では王義之のような大家の書がもてはやされていた。白隠さんはそういう世の中のトレンドをある意味きちんと分析し、わかりやすさや親しみやすさを加味しつつも、画賛や絵の構図によって〈心を識る禅の教え〉を伝えようとした。

 その、白隠画の真意を読み取るリテラシー能力が当時の人々にあったのだとしたら、現代人よりもはるかに教養があったのではないかと想像します。我々は、芳澤先生のような翻訳家がいなかったら、白隠さんのことをただユニークで個性的な書画を描く和尚さん、としか判断できないけれど、考えてみると江戸時代の庶民の識字率は都市部に限れば80%近くあり、当時の国際社会では突出した数字。しかもラショー氏によると「江戸の中期、庶民の関心は地方や海外に向いていた」。富士講や伊勢参りがブームになったのもこの頃です。

 ダビンチの名言の中で一番好きなこの一説を想起しました。

 

 最も高貴な娯楽は、理解する喜びである。(レオナルド・ダビンチ)

 

 私は、白隠さんが戦国期や幕末のような革命ルネサンス時代ではなく、日本が比較的穏やかで、人々も文化活動を楽しむ余裕や外界への好奇心を持っていた一方、社会の隙間にさまざまなひずみが生じ、将来に対する漠然とした不安感や厭世観がただよっていた・・・そんな、今の平成ニッポンみたいな時代に生まれた人、というところに面白さを感じます。

 東海道という人・モノ・情報が行き交い、人々は目新しいものに飛びつきやすく、飽きっぽい、静岡人気質そのものという土地に生まれ、その土地で生涯を終えたというのも非常にユニークです。地政学から見て、駿河という土地が白隠さんの業績にどれほどの影響があったのか・・・今、自分が白隠さんを学ぶ根源的な意義がそこにあるような気がします。

 

 知るだけでは不十分である。活用しなければならない。意思だけでは不十分である。実行しなければならない。(レオナルド・ダビンチ) 

 


欠伸会 in 沼津御用邸

2014-11-15 17:57:38 | 仏教

 京都紫野の大徳寺は茶道関係者にとって“聖地”の一つ。境内には一休禅師や千利休はじめ高僧茶匠ゆかりの塔頭寺院が数多く点在しています。私も今年6月、茶道仲間と一緒にいくつか回らせてもらいました(こちらを参照)。

 

 6月に拝観できなかった塔頭の一つに龍光院(りょうこういん)があります。大河ドラマ【軍師官兵衛】でおなじみ黒田家ゆかりの寺で、黒田長政が父・官兵衛(如水)を弔うために建立したもの。大河ドラマファンならぜひ訪ねたいところですが、一般公開はもちろん特別公開もしない拝観謝絶のお寺です。

 開山は大徳寺住持だった春屋宗園(しゅんおくそうえん)。堺商人今井宗久や千利休とも交流が深かった高僧で、石田三成とも親交があり、関ヶ原の後処刑された三成の遺体を沢庵和尚と一緒に大徳寺三玄院に手厚く葬った人です。そんな人が、大河ドラマでも三成と仲悪そうに描かれている黒田如水ゆかりの龍光院で晩年を過ごしたって面白い、というか、当時の宗教家のフリーハンドなポジションがよく分かりますね。

 

 宗園は龍光院に隠居して間もなく亡くなったため、弟子の江月宗玩(こうげつそうがん)が継ぎ、事実上の開山となりました。

 江月宗玩(1574~1643)は堺の豪商&茶人津田宗及の息子。津田宗及の名は茶道研の講座でも何度か登場しており、大好きだった大河ドラマ【黄金の日々】にも登場していたので親しみがありました(ちなみに津田宗及役は津川雅彦さん、今井宗久は丹波哲郎さん、千利休は鶴田浩二さんという豪華キャスト!)。龍光院には宗玩が父から相続したであろう名物茶道具が数多く伝わっています。

 そっちのほうの知識はまったくない私、お茶の望月先生から「龍光院には世界で3つしか現存していない南宋時代の燿変天目茶碗(黒釉の表面に大小の斑紋が現れ、虹のようにきらめく)がある」と教えてもらいましたが、その望月先生も今まで拝観の機会はなかったとのこと。ましてや茶道初心者の自分には「一生ご縁のないお寺」だと思っていました。

 

 花園大学国際禅学研究所の芳澤勝弘先生から11月9日開催の白隠フォーラムIN沼津2014の案内をいただいたとき、前日8日に沼津御用邸で大徳寺龍光院が『欠伸会(かんしんかい)』というお茶会を開くことを知りました。お茶会といってもメインは茶席ではなく、坐禅+講座という現代版寺子屋みたいな場とか。講座は、芳澤先生が龍光院の小堀和尚から江月宗玩の語録「欠伸稿」の解読を依頼され、1997年から毎月第一日曜日、関心のある人々と共に続けておられる輪読会で、今回で記念すべき200回を数えるとか。これまで解読した語録の訳注本がすでに書籍化されています。

 最初、「欠伸ってまさかアクビについて書いたもの??」ってなレベルの浅学菲才なれど芳澤先生の講義なら行きたいなぁ、いやいや京都屈指の茶禅の達人ぞろいの会だろうと逡巡し、沼津の関係者からも「一般素人が参加できる会ではない」とあっさり言われて、あきらめていました。

 

 ところが幸運なことに、10月下旬に望月先生以下10名で京都研修旅行をした際、望月先生が芳澤先生から直接欠伸会へのお誘いを受け、それならば付き人のフリして行けるかもと思い、国際禅学研究所のスタッフさんに助けていただいて龍光院に直接アタック。望月先生、平野斗紀子さん、私の3人で参加できることになりました。望月茶匠と、何があっても動じない斗紀子姐さんが一緒なら、と、大船に乗った気分でうかがったのです。

 

 沼津御用邸は2年前に東京新聞の仕事で取材しており(こちらを参照)、今回の会場となる東附属邸には京都大山崎にある国宝「待庵」を模した「駿河待庵」があります。 2年前には「こんなところでお茶会する人たちってどんだけセレブ!?」と想像し、遠巻きに写真だけ撮ったまさにその場所に、こうして足を踏み入れる日が来るとは・・・。感動と緊張が綯い交ぜになりながら、まずは茶室翠松亭でお茶をいただきました。呈茶は日頃、沼津御用邸の茶事を担当する東海流の皆さんが担当されました。

 軸は牧谿の栗図。牧谿(もっけい)とは宋の末期~元時代の僧で、長谷川等伯や俵屋宗達に大きな影響を与えた水墨画家でもあるそうです。茶席には高僧の墨蹟(禅語)を飾るのが正しいと聞きますが、皇室ゆかりの茶室で禅の学習会を催すことに席主が一定の配慮をし、ストレートな禅語ではなく、水墨画だけの軸を選んだのではないかと想像しました。もちろん牧谿の栗の絵は見る人が見れば高潔なメッセージを読み解くだろうと思いますが、それを表立ってひけらかさない絵を選んだところに、なんともいえない茶禅精神の奥ゆかしさを感じます。

 

 翠松庵に付随した「駿河待庵」、希望者が順に中に入ってじっくり見ることができました。本物の待庵をご存知の望月先生に、炉の位置、天井の四隅の角が曲線でやわらかい印象を与えていること等、わずか二畳の茶室に利休が込めた創意工夫の粋を解説していただきました。客が座るスペースは一畳分しかありません。招かれた客は、この距離感でどんなやりとり(他に聞かれちゃならない密談もあったでしょう)していたのかな・・・妄想するだけでワクワクしてきちゃいました。

 

 

 坐禅と講義が行なわれる東附属邸の和室で待機していたところ、「あらマユミさん!」という声。顔を上げたら、沼津の酒販店『酒・ながしま』の長島幸子さんが鮮やかなお着物姿で立っておられました。そう、長島ご夫妻は酒の小売のかたわら、東海流家元として三嶋大社や沼津御用邸献茶所を切り盛りする茶人だったのです。地元の知り合いに会えてホッとしたのと同時に、酒縁と茶縁と仏縁が一瞬にしてつながったことに新鮮な驚きを覚えました。

 「せっかくマユミさんが来てくれたなら見せちゃおう」と東海流の皆さんがお稽古に使っている別室にこっそり案内され、見せていただいたのが、長島家秘蔵の白隠禅師の禅画3品。もちろん初めてお目にかかるものです。「賛(絵に添える言葉)が読めなくて、長い間、絵の意味が解らなかったんだけど、芳澤先生がいらっしゃるなら見ていただこうと、満を持してお蔵から出して来たの」と幸子さん。そうこうしているうちに先生が来られ、3本の軸をあっという間に解読し、手元にあった懐紙にサラサラと読み下し文を書かれました。手を合わせて感激される長島夫妻。先生は時空を越えた白隠翻訳家なんだ…!と私も心底感動しました。

 

 この日の参加者は全部でゆうに100人はいたでしょうか、京都から龍光院の小堀和尚はじめ、欠伸会会員・関係者が数十人、地元沼津からは栗原市長はじめ行政や禅宗寺院関係者、東海流関係者等で東附属邸は廊下の隅々までびっしり。部外者はどこらへんに座ればいいものか迷っているうちに、欠伸会の常連会員と思しき男性から「遠慮せんと、どうぞどうぞ」と勧められ、ちゃっかり最前列に着座しちゃいました。

 小堀和尚のご指導で坐禅と読経からスタート。坐蒲(坐禅のときの丸い座布団)ナシで毛氈を敷いた畳に直接座ったので足を組むのが難しく、ほとんどの人が正座でした。ロングスカートだった私は半跏趺坐に挑戦してみたものの、どうにもバランスが悪くて集中できず。警策(きょうさく)を叩いていただこうと思ったのですが、隣の人に先を越され、タイミングを逸してしまいました。そうそう、よく聞かれるんですが、警策って自分から「お願いします」と叩いてもらうんですよ。

 読経は「興禅大燈国師遺誡」。大徳寺開山・大燈国師の遺言で、国師の教えが凝縮されていて、白隠禅師がとても大切にされていたそうです。欠伸会で必ず読むものなのかどうかわかりませんが、望月先生は「裏千家の学校では朝の日課だった」と諳んじておられました。白隠さんがここ沼津のすぐお近くで唱和されていたのかと想像すると、白隠さんのことがより一層身近に感じられます。内容についてはこちらを参照してください。

 

 講義では、江月宗玩の漢詩を取り上げました。宗玩は先述のとおり堺の茶人津田宗及の次男で、龍光院二世(事実上の開山)となり、博多の崇福寺住職を経て慶長15年(1610)に大徳寺156世となった人物。応仁の乱以降、荒廃していた大徳寺を復興させた功労者だそうです。信長・秀吉・家康の戦国3傑と同時代の人ですから、戦国武将たちの力をうまく生かしたのでしょう。どうりで大徳寺には戦国武将の名が刻まれた石碑があちこち建ってます。

 徳川政権になって、三代家光の時代に「紫衣事件」というのが発生し、宗玩も関係者の一人として歴史に登場します。う~ん日本史の授業で勉強したかもしれないけど忘れちゃってたので、改めて調べてみると、朝廷は高僧に徳の高さを示す紫色の法衣や袈裟を授け、一部収入源にもしていたのですが、徳川幕府がこれを規制。ときの後水尾天皇が規制を無視して授けたので、幕府は怒って紫衣を取り上げてしまった。政権発足直後に朝廷とスワッ全面対決か!と大騒ぎになったのです。で、寛永6年(1629)、幕府に反抗した大徳寺や妙心寺の高僧が流罪処分を受けたとき、宗玩一人だけお構いなしだった。東北に流罪となり、その後家光と和解した沢庵和尚は江戸庶民の人気を集めましたが、宗玩さんは卑怯者扱いされた、ということです。

 宗玩だけが許された理由は未だに不明だそう。「欠伸稿」はかなり難解な禅語録のようですが、龍光院の皆さんにしてみれば、しっかり解読し、宗玩さんがどんな方だったのか正しく理解したいというお気持ち、よくわかります。しかも学者専門家に丸投げするのではなく、龍光院に集う善男善女が共に会読し、訳注本まで出版したという。・・・なんだか禅寺の理想の姿を見たというか、宗玩さんはさぞお喜びだろうなあと思いました。

 訳注本、今、一生懸命読んでいますが、2冊で全1300ページぐらいある・・・(ため息)。

 

 

 

 この日、芳澤先生は宗玩が富士山を詠んだ5つの漢詩を紹介してくださいました。とくに印象に残った2つを紹介します。( )内は芳澤先生の訳を私が勝手に脚色しました(先生スミマセン)。

 

 餞宗瓢韻人歸駿州 (連歌師の宗瓢が駿河に帰るのを送る)

 相逢相別思無涯 把手留邪又送邪 好去維時士峯雪 重来有約洛陽花 

 (逢ったばかりなのにもうお別れか。握手したこの手は、見送っているのか引き留めているのか・・・。まあ、とにかく道中お元気で。富士山も待っているしね。花が咲くころ、京に戻ってきなさいよ)

 駿河の連歌師宗瓢って、宗長の弟子か子孫かな?・・・図書館で調べてみたんですがよくわかりません。宗玩さんとこんなに親しいなら、どんな人か興味があります。ご存知の方がいらしたら教えてください。

 

 

 寄思三保幾千重 清見晴天月掛松 料識吟嚢可無底 毎逢佳境有詩濃

 (何千回、三保に思いを寄せたか。晴天の夜、清見寺の松に月が掛かる。そんな絶景に出合うたびに詩心がゆさぶられ、吟嚢の底が抜けてしまうかもしれない)

 吟嚢とは、旅先で詠んだ詩歌の紙を入れておく携帯ポシェットみたいな袋のこと。宗玩本人の体験談なのかどうかはわかりませんが、芳澤先生は「紫衣事件の頃、江戸に何度も交渉に行っていたので、三保や清見寺にも立ち寄っただろう」と推察されます。

 

 いずれにしても、一生縁がないと思っていた龍光院の開山が、自分の生まれ故郷清水の詩を詠んでいたという縁(えにし)の不思議さ。白隠さんがつないでくれた縁の糸を大切に紡いでいきたいと心に誓いました。 

 

 

 ついでといっては何ですが、清見寺に残る朝鮮通信使(第6回/1655年)の従事官・南壺谷の詩を紹介しておきます。

 夜過清見寺

 日落諸天路  風翻大海波  法縁憐始結  詩句記曾過  瀑布燈光乱

 蒲圑睡味多  客行留不得  其奈月明何

(天上人が舞い降りる道に、日が落ち、風が立ち、大海原が波立っている。ここで詩を詠むことは、みほとけの縁(えにし)だろうか。滝のしぶきに灯光がきらめくのを眺めていると、心地よい眠りに誘われる。旅はまだ終わらないが、こんな月明かりの夜は、このまま留まっていられたら・・・と思わずにいられない)

 

 朝鮮通信使の漢詩については、こちらもぜひご覧くださいね。