杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

国勢調査100年

2020-10-20 16:38:55 | 国際・政治

 10月20日は、5年に1度の「国勢調査」の回答期限日。19日の段階で回答率80.9%との報道で、8割超えているならいいほうだと思いがちですが、未回収率は回を増す毎に高まっていて、1995年は0.5%、2000年には1.7%、2005年には4.4%、2010年は8.8%、前回2015年は13.1%に達したそうです。このままだと2020年は20%近い未回答率を記録してしまうことになりますね。

 

 国勢調査については、今年が調査開始100年という節目にあたることから、上川陽子さんとのラジオ番組で取り上げるのに、いろいろ調べた経緯があります。そして、国勢調査のもととなる人口調査が、明治時代に静岡藩で初めて行われたことを知りました。

 国勢調査は今からちょうど100年前の大正9年(1920年)、欧米各国と肩を並べるために国是として始まったものですが、それより約50年前、明治政府ができて間もない頃、 杉亨二という役人が静岡藩で住民に関する人口調査を試みたのです。

 杉亨二は、肥前国長崎の生まれ。医者の書生から、緒方洪庵の適塾に学び、嘉永6年(1853)、ペリーの黒船来航の年に勝海舟と出会い、その私塾長となります。その後、勝海舟の推薦で老中阿部正弘の顧問となり、幕末まで幕府に仕え、維新後も徳川家に仕えて、静岡藩へやってきたというわけです。来年の渋沢栄一を主人公にした大河ドラマでも取り上げられると思いますが、徳川慶喜公が滞在した静岡は、本当に人材の宝庫だったのですね。

 

 静岡藩での調査は一部地域での調査と集計にとどまりましたが、彼の能力を買った明治政府が杉を呼び寄せ、明治12年、今度は山梨県で「甲斐国現在人別調」を行いました。ここから今の時代のように全国調査へ広がればよかったのですが、当時のリーダーには理解がなく、その必要がないと言われ、予算が付かなかったようです。

 明治27年の日清戦争時に、スイスの万国統計協会から「欧米各国と歩調を合わせ、相互に比較可能な形で人口センサスを実施してください」と言われました。人口センサスとは人口を数える全数調査、すなわち今でいう国勢調査のことですが、すぐには実行されません。

 政治家で最初に国勢調査の重要性を説いたのは大隈重信侯でした。8年後の明治35年に「国勢調査ニ関スル法律」が定められ、さらに3年後の明治38 年、第一回国勢調査を行い、世界人口センサスに参加することになりました。ところがその前年に日露戦争が始まり、莫大な予算が必要な国勢調査どころではなくなってしまいました。

 次に予定された大正4年も第一次世界大戦で流れてしまいますが、大正6年に「国勢調査施行ニ関スル建議案」が衆議院で可決、大正9年の実施が決定し、大正7 年度の予算に国勢調査に関する予算が組み入れられました。国勢調査の実施に人生を懸けた杉亨二は、予算案が公表されたその日に息を引き取ったのです。

 

 第一回国勢調査は大正9年(1920年)10月1日に実施されました。杉亨二が「甲斐国現在人別調」を実施してから40年後、大隈公が説いた「国勢調査ニ 関スル法律」が定められてから18年後のことでした。

 第1回の調査は日本国中がお祭り騒ぎだったようです。当時、国民は国勢調査がどういったものなのかよく知りませんから、全国民に宣伝しなくてはいけないということで、政府もいろいろと考えたようで、まず分かりやすい標語を募集し、「国勢調査は文明国の鏡」「一家の為は一国の為になる」というストレートな標語から、「一人の嘘は万人の実を殺す」「申告は一に正直、二に正確」 という諌めの標語もあったようです。

「宣伝歌謡」も作られました。いわゆるコマーシャルソングですね。唱歌、数え歌、和歌、標語、川柳、都々逸、一口噺、安来節など民謡の数々、はては「センサス節」というのもあり、歌集は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。

 

 上川陽子さんは法務大臣として以前から無戸籍問題について取り組んでおり、「国勢調査で一人一人の戸籍を確認できなければ、さまざまな政策が立案・運用できない」と強調されていました。「同じ時期に同じ規模で5年ごとの定点観測をしてこそ判ることがたくさんある」と。

 たとえば人口ピラミッドのかたち。1920年の第1回は日本の人口は裾の広い「富士山型」でした。1965年の第10回は戦争の爪痕とベビーブームを象徴する「釣り鐘型」、前回2015年の第20回は「つぼ型」で出生数は100年前から半減しました。今の出生数は86万ぐらいですから100万人を切っているのです。

 このまま推移すると、将来は年齢間の凸凹がほぼなくなり、なめらかに下すぼまりのタワマン形になると予想されます。100歳以上の女性の多さも目立つようになるそう。

 人口ピラミッドは出生と死亡、国際的な人口移動等によって推計され、5年ごとの調査で補正されていきます。100年続く実施調査がなければ将来予測も立てられないということです。

 

 これまでの国勢調査は町内会の皆さんが手弁当で準備し、訪問調査をされてきましたが、コロナによって訪問調査がままならず、調査員自体も集まらない状況のよう。今回はネット回答率5割以上を目標にしたそうです。私は前回からネット回答しており、今回は前回よりも入力がカンタンでした。

 静岡で“試運転”を行った国勢調査、ぜひ実りあるデータサイエンスにつなげていただきたいですね。

 

 

 

 


伊豆の黎明と仏の里

2020-10-07 14:33:18 | 地酒

 私が長年応援してきた下田のご当地PB酒『黎明』が、誕生20周年を迎え、9月28日に開かれたお祝いの会へ行ってきました。

 『黎明』のプロジェクトに関わるようになったのは、2000年開催の伊豆新世紀創造祭がきっかけ。下田のまちおこしグループ『にぎわい社中』が創造祭で伊豆の陶芸家作品と料理を楽しむプログラム〈下田テイスティ・アート〉を企画し、社中で中心的に活動していた楠山俊介さんと植松酒店さんからお声かけをいただいて、しずおか地酒研究会でも出張お泊まり地酒サロン〈下田温泉・地酒夜話〉を開催したのでした。

 当時、伊豆の観光振興に尽力されていた坂野真帆さん((株)そふと研究室)や佐藤雄一さん(コンセプト(株))にもご協力いただき、伊豆にご縁の深い国際ラリーライダー&エッセイストの山村レイコさんをゲストにお迎えし、初亀、喜久醉、正雪の蔵元も参加して大いに盛り上がりました。

Img0932000年開催のしずおか地酒サロン〈下田温泉・地酒夜話〉

 

 下田テイスティ・アート実行委員会側で尽力された楠山俊介さんは、名刺に〈歯科医〉とあり、観光イベントのボランティアをやってもメリットがないのに、ずいぶんフットワークのいい歯医者さんだなあと思いましたが、「マユミさんも、酒のイベントやっても自分の儲けはないでしょ?好きでやっているんでしょ?同じだよ」とニコニコしながら楽しそうに飲む、そのエビス様みたいな顔が印象的で、行政に対しては、ちゃんとモノ申す人。地元愛が結実し、2012年には下田市長選に出馬して無投票当選を果たされました。

 創造祭の翌年2001年、にぎわい社中と下田市内の酒販店十数店で結成した下田自酒倶楽部が企画して『黎明』プロジェクトがスタート。行政等の補助金に一切頼らず、市民から会員を募り、下田市内でコメの田植えから稲刈りを体験し、新酒を買い取るというご当地PB酒の先駆けでした。『黎明』という酒銘は下田在住の女優有馬稲子さんの命名。醸造は富士高砂酒造に委託し、ピーク時は会員200名超の一大プロジェクトに。私はしずおか地酒研究会の活動や取材ワークを通し、このプロジェクトを陰ながら応援し続けてきました。

 その後、楠山さんが下田市長になったり、下田地酒倶楽部のリーダーだった植松酒店さんも店をたたむなど紆余曲折ありましたが、現在、事務局を預かる下田ケーブルテレビ渡邉社長のご尽力で、市民が買い支えるご当地PB酒が20年続くという快挙を成し遂げました。全国の観光地に数あるPB酒の多くが、酒造・酒販業者の企画商品あるいは行政や観光業団体の補助商品であることを考えると本当に凄いことだと思います。

 20周年の集いでは駅前の蕎麦店で久しぶりに楠山さんや渡邉さん、米生産者の土屋明さんにお会いし、『黎明』のほか、南伊豆産愛国米で志太泉が醸造した『身上起』、下田産キヌヒカリで正雪が醸した『黒船マシュー』、伊豆唯一の蔵元・万大醸造で醸した『下田美人』をたっぷり飲み比べ。20年前を思うと、伊豆でこんなに多くの静岡酒が愛飲されるようになったとは夢のようです。

 GoToキャンペーンでは高級ホテル旅館が人気のようですが、地元の店で、地の酒や地のつまみを囲んで地の人々と語り合う今この瞬間が、どんなゴージャスな観光メニューよりも貴重で得難いかをしみじみ噛み締めました。

 

 28日は下田へ行く前、函南町の「かんなみ仏の里美術館」を初訪問しました。平成24年(2012)に開館した函南町立の美術館で、函南町桑原地区に残る平安時代の薬師如来像や鎌倉期の阿弥陀三尊像ほか24体の仏像群を保存展示しています。

 函南町といえば、3年前に静岡新聞社の旅行雑誌『Tabi-tabi』で丹那トンネルの歴史を執筆した際に駅周辺を取材したことがありますが、プライベートで訪問する機会はなかった町。仏の里美術館についても、ちょっとした観光施設ぐらいの認識でいたのですが、大間違いでした。

 伊豆半島の付け根、熱海の西に隣接する函南は、箱根山からなだらかに傾斜する中間の交通要所にあり、昔から箱根大権現、伊豆山走湯大権現、三嶋大明神など神仏習合の寺社の影響を受けた地域でした。

 『箱根山縁起并序』によると、平安時代の817年、桑原の里に七堂伽藍を有する 新光寺が建立され、 薬師如来像はこの新光寺の本尊だったとのこと。阿弥陀三尊像は、『吾妻鏡』に石橋山合戦で戦死した北条宗時(北条時政の嫡男)の墳墓堂が伊豆国桑原郷にあったと記されており、源頼朝の舅である時政が、戦死した息子の慰霊のために慶派の仏師・実慶に造像させたと考えられています。

 中でも一目惚れしてしまったのが、阿弥陀三尊像の勢至菩薩様(国重要文化財)。奈良興福寺を本拠とした仏師工房『慶派』の実慶の作です。頭と体幹部をヒノキの一材から掘り出し、玉眼を嵌め込んだ漆箔の立像。実慶は修禅寺の大日如来の造立(1210)で知られており、ここの阿弥陀三尊像はそれより前に制作されたよう。実慶の作品は国内でこの計4体しか判明しておらず、運慶一派の継承を考える上でも貴重な文化財といえるそうです。

 三尊像の中で私はごく自然に勢至菩薩様に惹かれたのですが、帰り際に購入した図録の表紙にも勢至菩薩様を見つけ、この美術館を代表する美仏なんだと嬉しくなりました。


 阿弥陀三尊像を含む24体の貴重な仏像群は、明治の廃仏毀釈芽で散逸しないよう、明治30年代に里人の有志が『桑原観音堂』を建てて大切に守ってきました。私は8月に静岡市の建穂寺観音堂を訪ね、駿河の高野山と謳われた大伽藍・建穂寺(廃寺)の仏像群を、里の人々が観音堂を建てて地道に守り続ける姿に感動したばかりだったので、自治体規模でははるかに小さな函南町がこんな立派な美術館を造って保管展示していることに、少なからずショックを受けました。

かんなみ仏の里美術館

建穂観音堂と秘仏千手観音菩薩・不動明王像(静岡市)

 

 老朽化した桑原観音堂は修繕をしながら、今は町民の集いの場として活用されているようです。古い御堂に、子どもたちが描いたと思われる仏さまの墨絵が並んでいたのを見て、今は文化財として美術館のガラスケースに収まる仏さまと、ここまで仏さまを守り通した人々の素朴な思いが確かにつながっていることを実感し、じんわり感動しました。出来うることなら静岡市の建穂寺仏像群も、そうあってほしいと願わずにはいられません。