杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

茶禅一味の京都課外授業・秋編(その2)

2014-10-30 08:42:23 | 駿河茶禅の会

 高台寺は臨済宗建仁寺派に属します。その大本山、建仁寺は、茶祖として知られる栄西禅師が1207年に開いた京都最古の禅寺。高台寺からは東大路通りをはさんで歩いて数分のところにあります。ちなみに栄西って正式には「ようさい」って読むそうです。

 

 建仁寺の目玉というと、俵屋宗達の傑作「風神雷神図屏風」や、創建800年記念で2002年に小泉淳作が描いた法堂の天井画「双龍図」が知られますが、我々が向かったのは茶室「東陽坊」。天正15年(1587)に秀吉が盛大に開いた北野大茶会で、利休の高弟で真如堂の東陽坊長盛が担当した副席だと伝えられています。二帖台目席という茶室ではおなじみのレイアウトだそうです。我々は東陽坊に隣接した呈茶席で一服いただきました。

 

 

 東陽房から方丈へ戻る途中に「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)首塚」を発見しました。大河ドラマ軍師官兵衛の毛利攻めの回で、毛利側の使者として官兵衛と対峙し、講和を結んだ“外交僧”としておなじみですね。

 

 恵瓊はもともと安芸国守護職武田氏の家系に生まれましたが、4歳のとき武田家が大内家に滅ぼされ、安芸国の安国寺に身を寄せてそのまま僧侶に。16歳の時に京都東福寺へ入り、35歳の時に正式に安国寺の住職となって毛利氏の外交を担当するようになったようです。当時、禅僧には宗教家ならでは人脈があって、大名同士の確執とは一線を置いた立場で自由に動くことができたんですね。後に秀吉から直臣の大名に取り立てられ、伊予二万三千石を与えました。その頃、安国寺の方丈を建仁寺に移築したり、東福寺の庫裏を再建するなど多くの復興事業で功績を残したそうです。
 関が原の戦いではご承知のとおり毛利氏が西軍の大将にかつがれ、恵瓊自身も西軍の最高首脳として参戦したものの、あえなく敗北。京都六条河原で斬首されました。享年63歳。その首塚が建仁寺にあることは、今回初めて知りました。

 

 夜は烏丸御池近くの京料理「亀甲屋」で、汲み上げ湯葉や季節料理と京の地酒を満喫。このブログを通して知己を得た花園大学国際禅学研究所の芳澤勝弘先生をゲストにお招きし、亀甲屋を紹介してくれたバイト先のお寺の奥様(龍安寺西源院の娘さん)も合流してくださって、大いに盛り上がりました。

 

 亀甲屋の女将さんは生粋の京美人で、芳澤先生が「長く京都に住んどるが初めてホンマモンの京都弁を聴いたなあ」と感心するほど。入店前、「(茶席に必要な)懐紙を忘れたのでどこか買える店はないか」と聞いたメンバーに対し、ちゃんと新品の懐紙を用意してお土産に渡すなど、おもてなしや気遣いも“ホンマモン”でした。

 汲み上げ湯葉は卓上で熱した豆乳を、チーズフォンデュのように自分で汲み上げていただきます。ウチワで風を送って表面を乾燥させるのがツボ。底に残った豆乳は、にがりを加えて“即席おから”みたいにしていただくんです。私はメニューにあった地酒をかたっぱしからきき酒するのに大忙しでしたが(笑)、メンバーは大いに楽しんで味わっていました。

 

 

 翌26日は興聖寺の達磨忌法要に参列しました。禅の始祖・達磨大師の命日は10月5日。全国の禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)のお寺で記念法要が営まれ、興聖寺では毎年10月第4日曜日に行ないます。私は7年前に映画【朝鮮通信使】の撮影でお世話になって以来、ほぼ毎年参加しています。

 達磨忌をはじめ、興聖寺の坐禅会や諸々の法事でよく読経するのが【大悲呪】と【観音経】。“ナムカラタンノートラヤーヤー”で始まる【大悲呪】については、6年前、こちらの記事で考察してみました。終わった後、メンバーから「お経が長かった~」と愚痴られましたが(苦笑)、坐禅でも読経でも茶席の正座でも、まずは体で慣れていくのが肝要なんですね。

 

 この日のハイライトは織部流の茶席です。興聖寺は古田織部が虚応円耳を開山に招いて開き、古田織部や曽我蕭白の菩提寺として知る人ぞ知る寺ですが、歴代和尚が茶道織部流の式正茶法(利休の侘茶以前、室町時代にメジャーだった書院や広間の茶でいただく書院茶に、武家の礼儀作法と侘茶の精神とを取り入れたもの)を伝えています。私は毎年、テーブル席で気軽に味わう立礼式の呈茶だけ満足していたのですが、今回は望月先生がいてくださるので、織部流の正式な茶席を初体験しました。写真撮影は遠慮したため、文字だけで説明しきるのは難しいのですが、裏千家の望月先生から見ると興味深い点がたくさんあったようです。

  

 まず、千家諸流と異なって、帛紗を右腰につけていること。織部の弟子だった小堀遠州が開いた遠州流も右。利休の先妻の息子・千道安の流れを汲む石州流も右だそうです。織部は徳川2代将軍秀忠、遠州は3代家光に茶を指南し、石州流は4代以降、徳川家の茶指南役として今に伝わる流派で、望月先生曰く「粗い表現をすれば、武家茶道の系統は右腰、と言える」そう。理由には諸説あり、一般的には「(席中でも)脇差を帯刀しているから」とのことですが、「ほとんどの人が右利きなので、右につけるのが自然。利休時代も右だったが、千宗旦が左利きなので、その後裔である三千家では左につけるようになった」との説も。

 茶道具を置く袋棚の客付(側面)に透かし模様が入っていました。何かいわれがあるのかと思ったら、この日の席主が香道の棚を真似てデザインしたとのこと。他の流派では宗家以外に出来るものではなく、「さすがに自由な発想を幹とする織部流。温故知新の具現化と感服した」と望月先生。“綺麗さび”と称される小堀遠州の好んだ品々も、この辺りが原点かと感じたそうです。

 お点前の最中で、釜を清める羽箒を使ったのも、望月先生は初体験だったそうです。現代の千家では、春季に釣釜を用いる際に羽箒を使用するそうですが、歴史的には幅広い時期に用いられていたことが茶会記にも記されており、その実証ではないか、とのこと。ほか、茶杓、柄杓、茶筅などの扱い方も「点前法のルーツを辿る観点で、大変参考になった」と満足していただきました。

 私のレベルではその違いがまったくわかりませんでしたが、千利休―千少庵―千宗旦と続く千家流が“王道メジャー”となった今、利休より前の書院茶&江戸時代の武家茶が融合した織部流に、茶の点前のルーツが残っているというのは、素人からみても大変興味深いお話です。

 

 この日のお茶は、これぞ「へうげもの!」という意匠の織部焼や、16~17世紀頃に安南(ベトナム)や朝鮮半島で使われていた食器など、博物館級の名品をおしげもなく使っていただき、同席した15人ほどがそれぞれの茶碗を見比べ、大いに楽しみました。

 

 茶席のあとは達磨忌恒例の興聖寺そばをたっぷりいただき、、奉納音楽会ではモンゴルの馬頭琴演奏を満喫しました。その後、興聖寺と堀川通りをはさんで反対側にある裏千家茶道資料館を見学し、本法寺~今日庵~不審庵界隈を散策。一條戻り橋の晴明神社まで足を運びました。

 晴明神社は陰陽師安倍晴明でおなじみ、今や修学旅行生の超人気スポットになっていますが、我々の目的は鳥居のそばに建つ石碑。千利休の屋敷跡だったんですね、ここ。ちょうど秀吉の聚楽第の端っこにあたる位置です。

 茶道講座のはじめの頃、五行陰陽について学んだことが思い出されました。詳しくはこちらの記事をご覧ください。

 

 この後、四条烏丸まで移動して自由解散。残った4人で伊勢丹京都店内の居酒屋でビールを飲み、塩小路高倉の「第一旭」に行列40分!並んでラーメンを食べて帰路につきました。お抹茶、お豆腐、そばとヘルシーメニュー三昧だったせいか、〆のビール&ラーメンに五臓六腑が音を立てて喜んでました(笑)。

 望月先生、お寺のヒサコ様、亀甲屋のマチコ様、芳澤先生、興聖寺の和尚様、そして参加者の皆さん、本当にお世話になりました!

 

 


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茶禅一味の京都課外授業・秋編(その1)

2014-10-29 20:28:29 | 駿河茶禅の会

 10月25~26日、静岡県ニュービジネス協議会の有志勉強会『茶道に学ぶ経営哲学研究会』の仲間10人で京都をまわりました。

 京都課外授業は今年6月に続いて2回目です。6月の記事でも紹介したとおり、研究会は3年前の発足以来、裏千家インターナショナルアソシエーション運営理事を務める望月静雄(宗雄)先生を師に、茶道の基本的な所作はもちろん、茶の歴史を禅宗とのかかわりの中で学んできました。

 6月はたまたま私が坐禅に通う京都・堀川寺之内の興聖寺で古田織部400年忌の記念行事があったことから、同行事に参加がてら、大徳寺、万福寺、一休寺といった禅の名刹をまわりました。

 今回は興聖寺の達磨忌法要に参加し、織部流茶席を体験することを第一目的に、紅葉には少し早い京都を歩きました。

 

 25日は10時前に京都駅に集合し、山陰本線で花園駅まで移動し、まずは臨済宗妙心寺派の総本山・妙心寺~龍安寺を歩きました。

 妙心寺は時間の都合で境内を散策するだけでしたが、10万坪ともいわれる広大な敷地に46も塔頭が点在し、そのほとんどが非公開。有名観光寺のように修学旅行生や外国人客が押し寄せることもなく、修行寺らしい静寂さを保っていました。

 

 創建は1337年。花園法皇が無相国師(関山慧元)を開山に迎えたのが始まりです。6月にも書きましたが、静岡の井宮出身の大応国師と、その弟子で大徳寺を開いた大燈国師、さらにその弟子で妙心寺を開いた関山慧元の3人が、禅宗(臨済宗)を確立させた法系“応燈関(おうとうかん)”と称されています。

 望月先生の講座で教えていただき、印象的だったのが、「算盤面(そろばんづら)の妙心寺」との異名があったこと。全国で3400ヶ寺を束ねる臨済宗最大宗派として地方の末寺をしっかり支え、経済的な基盤が磐石であるという意味です。臨済宗にはほかに相国寺派、南禅寺派、天龍寺派、大徳寺派、建仁寺派、東福寺派があり、一休禅師や千利休と縁の深い大徳寺は「お茶面(おちゃづら)」といわれ、建造物が美しい東福寺は「伽藍面(がらんづら)」といわれているそうです。誰がネーミングしたのかわかりませんが、面白いですね!

 

 妙心寺から北へ数分歩いたところに、石庭で有名な龍安寺があります。1450年、細川勝元が妙心寺の義天玄承を開山として創建。今は妙心寺よりも(観光寺として)有名ですが、もともとは妙心寺の塔頭の一つでした。現在の方丈は、龍安寺境内の塔頭・西源院の方丈を移築したものだそうです。

 

 ここでは石庭よりも、禅の格言【吾唯足知】のつくばいを観るのが目的でした。方丈をはさんで石庭とは反対側の北東の庭にある銭形のつくばい。中央の「口」を共用すれば、【吾】【唯】【足】【知】の文字になるという凄いデザインです。現在、設置されているのはレプリカだそうで、遠目から撮った写真では見づらいと思いますが、ホンモノはかの水戸光圀公が寄進したそうです。

 千利休は茶道の心得として「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事也」と述べました。必要な分を必要なだけ用意し、茶を点ててまず仏に供え、人に差しあげ、施し、最後に自分もいただく「利他」の精神がそのまま自分の幸せであるということ。現代人には耳の痛い格言です・・・。

 実はこの日、不思議なことがありました。20年近く前、【静岡アウトドアガイド】という雑誌で初めて地酒の連載を持っていたとき、レイアウトを担当してくれたデザイナーのクツマヒロミさんが、現在、京都で茶の湯関係の出版で有名な淡交社の仕事をしていることを、昨年、フェイスブックで偶然知りました。何度か京都で食事をしたり、6月の興聖寺織部忌にもお誘いしたりと交流が復活し、今回もお誘いしたのですが、あいにく都合が合わず。

 

 ところがこの日、【吾唯足知】のつくばいを観ていたら、目の前にクツマヒロミさんがいるではありませんか! ビックリして声をかけたら、ヒロミさん曰く「今朝、起きるときになぜかこのつくばいのビジョンが眼に浮かび、仕事が急に空いたので観に来たの」とのこと。・・・そんな偶然があるんだなあと、ホント、不思議な気持ちになりました。

 

 お昼は龍安寺塔頭・西源院で湯豆腐&精進料理をいただきました。料理屋さんが出店しているのではなく、西源院というれっきとしたお寺が、修行僧が自炊する食事を体験していただこうと営業しているもの。坐禅体験、写経体験など禅寺にさまざまある体験メニューの一つ、というわけです。

 西源院は1489年、細川政元が特芳禅傑を請じて創建し、大休宗休(だいきゅうそうきゅう、1468-1549)が中興したとされます。宗休は静岡の臨済寺の開山でもあります。静岡市民には親近感が湧きますね!

 

 西源院とも不思議なご縁があります。私が今、バイトに通っている静岡市内のお寺の奥様が、ここの娘さんなんですね。さらに不思議なことに、龍安寺境内にあるもう一つの塔頭・大珠院で、興聖寺の和尚さんが若かりし頃、修行していて、西源院の娘さん(件の奥様)を子守したことがあるとのこと。日本には何万というお寺があって、臨済宗妙心寺派にも3400ヶ寺あるというのに、こういう偶然ってあるんだなあと、空恐ろしくなりました(笑)。

 

 湯豆腐料理を出すようになったのは50年ほど前からだそうです。その頃、龍安寺の和尚さんたちが海外を視察し、禅の教えを国内外に伝える一助として観光客を受け入れる方法を模索されたとか。それ以前は静かな修行寺で「鏡容池で水遊びしていたのよ」と件の奥様。育った環境のせいか、奥様は何事にも動じないさばけた性格の方で、この日もわざわざ我々の昼食にお付き合いし、お土産までご用意くださいました。

 

 

 午後は東山に移動し、茶器コレクションで有名な野村美術館、秀吉の正室北政所の菩提寺として知られる高台寺、臨済宗建仁寺派総本山の建仁寺を回りました。

 野村美術館はその名のとおり、野村證券・旧大和銀行・旧東京生命等を興した野村財閥の祖・野村徳七のコレクションを展示しています。12月7日まで【秋季特別展・大名道具の世界―茶の湯と能楽】を開催中で、加賀前田家、雲州松平家、尾張・紀州・水戸の各徳川家のお宝をじっくり拝見できました。

 地階では「淡斎茶花研究会」という華道会が個展を開いていて、現代作家の花器プラス17~18世紀の朝鮮から伝わった伝統花器を使っていました。美術館の展示会場で、展示物の花器に直接生花をいけて見せるというのは珍しいなと思いましたが、考えてみれば花器なんだから、花が挿さった姿で観るのが正しいんですよね。花だけでなく、花器もなんだか生き生きと見えました。

 

 高台寺は夜間ライトアップ等ですっかり観光人気スポットになっていますが、今回は境内にある茶室「遺芳庵」「傘亭」「時雨亭」を観るのが目的でした。

 「遺芳庵」は江戸初期の豪商・灰屋紹益が妻の吉野太夫を偲んで建てた茶室で、写真ではちょっと判りにくいですが、「吉野窓」と呼ばれる丸い窓が印象的です。茶室全体もどことなくほっこり可愛らしい感じがしました。

 一方、「傘亭」は竹が放射状に組まれ、唐傘を開いたように見せる千利休の意匠だそうです。当代随一のクリエーターによる洗練されたデザイン、というのでしょうか。茶室というのは空間デザインからパーツ選びまで隅々まで創作者の感性が発揮される総合芸術なんだと思い知らされました。(つづく)


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上川陽子さんと犯罪被害者等基本法

2014-10-21 22:06:35 | 国際・政治

 上川陽子さんが法務大臣に任命されました。女性大臣をねじこむ急ごしらえの人事、と思われる人もいるようですが、政治に限らず、どんな仕事でも、非常時に難しい職務を託すことのできる人、まっとうできると信頼される人というのが、本当のプロフェショナルではないかと思っています。

 

 私が陽子さんのお相手になって2011年4月から放送中のFM-Hi 【かみかわ陽子ラジオシェイク】では、陽子さんのプロフェショナルぶりを市民目線で出来る限りわかりやすくお伝えしようと努力しています。ちょうど1年前の2013年11月に静岡新聞社から出版したラジオシェイクのトーク集【静岡発かみかわ陽子流・視点を変えると見えてくる】で、陽子さんが犯罪被害者等基本法の成立について語ったことを文章化した一説があります。法務大臣に抜擢された理由を多少なりともご理解いただければと、再掲させていただきます。

 

 

 

犯罪被害者等基本法成立

 

被害者の思いをつなぐ

 2000年に初当選して以来、私がこれまで取り組んできた政策の一つに司法制度改革があります。法律に関すること、となると、なんだか国民には縁遠いような気もしますが、犯罪被害者の権利に関する法改正は、たとえば山口県光市の母子殺害事件などでもクローズアップされました。

 私がこの問題にはじめて関わったのは2003年末のことでした。当時、自民党では司法制度を抜本的に改革し、国民により身近なものに改めるべきとの考えが強まってきました。そうした中で、司法制度調査会の保岡興治会長から、「今度立ち上げる犯罪被害者問題のプロジェクトチームの座長を引き受けてほしい」という要請を受けたのです。

 それまで私は少年法の改正問題に取り組んだ経験があり、その折に少年犯罪の被害者であるご遺族の方から意見を聴取する機会はありました。しかし、その時は加害者である少年の更生を図ることに主眼がありました。犯罪被害者の実情をほとんど知らなかったのです。そこでまずはじめに、被害者本人や遺族、家族のみなさんから生の声をできるだけ多く聴かせてもらうことにしました。被害者のつらい体験談を聞き、私も心がつぶれる思いだったことを今も鮮明に覚えています。

 そんなとき出会ったのが、全国犯罪被害者あすの会(NAVS=National Association of Crime Victims Surving Families)代表の岡村勲弁護士や本村洋さんでした。岡村さんは仕事上の逆恨みから奥様を殺害された方。本村さんは光市母子殺害事件の遺族です。この会に参加された犯罪被害者のみなさんは、自らもカウンセリングを受けたりしながら、ほかの被害者たちが立ち直るよう支援活動に取り組んでおられました。

 みなさんの苦しみはある日突然、何の前触れもなくその身に襲いかかり、多くの場合、一生癒されることのない終わりなき戦いです。当時はこうした被害者の救済を国に義務づける法律がありませんでした。被害者は犯罪に巻き込まれても、一人ひとりが孤独な中で、精神的、肉体的、そして経済的な苦境を耐え忍んでいくしかなかったのです。話を聞いて私は被害者のみなさんの思いを政治の場につなぐのが私の使命だと確信しました。ごく普通の生活を送っている私たち誰もが犯罪被害者になりうるのです。一部例外的な人たちだけの問題ではありません。直ちにそのための法律制定に向けて動き出しました。

 

 

議員の思いを込めた「前文」

 まず第一のハードルは6ヵ月後に「中間報告」を出すことでした。「中間報告」というものの、立法の世界での「中間報告」は基本法あるいは基本計画の大きな骨組みが盛り込まれるのが普通です。それまでにしっかりした全体構想をまとめなくてはいけません。さっそく被害者や支援団体の皆さんにプロジェクトチームの会合に参加をお願いし、公開の場で議論を深めてもらうよう提案しました。

 司法制度調査会の保岡会長ほか多くの議員にも会合に参加してもらい、議論を積み重ねました。そして予定通り「中間報告」をまとめ、小泉純一郎総理に報告しました。小泉総理もこの問題に大変強い関心を抱かれ、直ちに基本法を作るようにとのご指示をいただきました。さらに6か月後の2004年12月、議員立法のかたちで犯罪被害者等基本法というそれまでの日本では考えられなかった法律を制定することができました。

 この基本法の画期的な点は「前文」を付けたことにあります。日本国憲法の前文はよく知られていますが、個別の法令に前文をつけるということは必ずしも一般的ではありません。教育基本法や男女共同参画社会基本法など時代の大きな変化を法律に反映する場合に限られるようです。しかも犯罪被害者等基本法の「前文」はかなりの長文です。法律専門家からは「長すぎる」とクレームが寄せられたほどでした。しかしその精神や理念を「前文」で明確にしておくことが重要だと判断し、一言一句に犯罪被害者のみなさんの思いを込め、彼らの口から聞いた表現をそのまま随所に盛り込みました。少し長くなりますが、その一部を紹介します。

 

『安全で安心して暮らせる社会を実現することは、国民すべての願いであるとともに、国の重要な責務であり、我が国においては、犯罪等を抑止するためのたゆみない努力が重ねられてきた。しかしながら、近年、様々な犯罪等が跡を絶たず、それらに巻き込まれた犯罪被害者等の多くは、これまでその権利が尊重されてきたとは言い難いばかりか、十分な支援を受けられず、社会において孤立することを余儀なくされてきた。さらに、犯罪等による直接的な被害にとどまらず、その後も副次的な被害に苦しめられることも少なくなかった。

  もとより、犯罪等による被害について第一義的責任を負うのは、加害者である。しかしながら、犯罪等を抑止し、安全で安心して暮らせる社会の実現を図る責務を有する我々もまた、犯罪被害者等の声に耳を傾けなければならない。国民の誰もが犯罪被害者等となる可能性が高まっている今こそ、犯罪被害者等の視点に立った施策を講じ、その権利利益の保護が図られる社会の実現に向けた新たな一歩を踏み出さなければならない。ここに、犯罪被害者等のための施策の基本理念を明らかにしてその方向を示し、国、地方公共団体及びその他の関係機関並びに民間の団体等の連携の下、犯罪被害者等のための施策を総合的かつ計画的に推進するため、この法律を制定する。』

 

 

 この前文に盛り込んだ基本理念は、「全ての犯罪被害者は個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有する」ということです。

 法案を作成する過程で最も意見が対立したのは「権利」という2文字を入れることの是非でした。国の抵抗がすさまじかったのです。どのような法律でも条文に「権利」という表現を盛り込むと、国にはその権利を守る責任が生じます。そのため国は「権利」という表現を嫌います。しかし「権利」を盛り込まなければ、この法律が犯罪被害者を単に「支援」の対象とするものでしかなくなってしまいます。犯罪被害者が置かれている悲惨な状況を思えば、「権利」の二文字をあきらめることはできませんでした。

 日本国憲法においては犯罪被害者の権利は認められていませんでした。そのため犯罪被害者の権利に関しては、犯罪被害者等基本法が実質上、憲法に代わるものとなりました。法律制定の手続きがすべて完了した後で法務省のある役人からつぎのように言われました。それまで侃侃諤々の議論を戦わせた相手です。

 「この法律は今後、半永久的に六法全書に残り続けるでしょう」。一緒に頑張ってきた被害者のみなさんの喜びの表情が目にうかんだ瞬間でした。

 

【静岡発かみかわ陽子流 視点を変えると見えてくる(静岡新聞社刊)】 P80~84より抜粋 


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「地酒deハロウィン のみにくれば」ご案内

2014-10-18 18:31:55 | しずおか地酒研究会

 久しぶりにしずおか地酒サロンのお知らせです。といっても街のイベントに便乗した企画なんですが、今回は定員制限ナシで場所も便利!多くの皆さんにお声かけしやすいカジュアルなサロンです。

 

 来る10月31日(金)から、静岡市街ではおなじみの大道芸ワールドカップ2014が開催されます。31日(金)・11月1日(土)・2日(日)の3日間は、時を同じくして両替町通りで『ちょっと大人なハロウィンの夜~両替町通りハロウィンパレード』というストリートフェスティバルが開かれます。両替町二丁目発展会に加盟するお店が、ハロウィンナイトのアイディア企画でお客様をお迎えするとのこと。これに参加する【コミュニティカフェ・くれば】に、今月はじめ、たまたまランチに行って、大原店長から「地酒で何か出来ない?」と相談を受けたのがきっかけでした。

 

 

 

 【くれば】は15席ほどの小さなお店ですが、運営するNPO法人静岡団塊創業塾(こちらを)の交流スペースとして活用されており、棚や掲示板には会員が自由に情報を持ち寄り、スクリーンやプロジェクターも完備しているのでミニセミナーも開催できます。2階には飲食店の空き店舗があり、レンタル可能とのこと。テナントビル全体がくれば店長大原さんの持ちビルなので、かなりフレキシブルに活用できるようです。

 

 ちなみに火曜日から日曜日まで11時30分からオーダーできる日替わりランチは料理達人の会員さんが旬の野菜をバランスよく使った500円ランチ。両替町のど真ん中で手作りワンコインランチがいただけるって嬉しいですよね。コーヒーも手作りスイーツもお手頃価格です。営業は17時までで、アルコール類は扱っていません。ご存知のとおり、両替町通りは夜に比べると昼の人通りはグッと少ないのですが、【くれば】の存在はこの通りのポテンシャルをひとつ高めたような気がします。昼間は昼間で両替町という由緒ある町名を活かし、何か新しい顔を創ってみたらとも思います。

 

 私は数年前、静岡県ニュービジネス協議会を通じて静岡団塊創業塾の原田理事長や大原さんと知り合い、「こういう場所だから地酒研究会さんでも使ってくださいね」とありがたいお声かけをいただき、いつか何かを・・・と思っていたところ、今回の話がとんとん拍子にまとまりました。

 地酒ファンにはおなじみのはしご酒方式で、地酒+酒肴セットで1000円という提案をしたところ、最初は「うちで1000円も取るメニューはないんだけど・・・」と尻込みされてしまったものの、「地酒は2種類で飲み比べしよう」「おつまみは3種ぐらい出そう」と意欲満々のお返事。アルコールの扱いに慣れていないスタッフさんのために、地酒バーも経営されている岡部の酒販店ときわストア後藤英和さんに協力してもらうことにしました。

 

 地酒は喜久醉(藤枝)と白隠正宗(沼津)を用意します。冷でも燗でもうまい静岡型の真髄を味わっていただけると確信しています。せっかくお店にスクリーンがあるので、『吟醸王国しずおかパイロット版』(約20分)も流そうと思っています。大道芸やハロウィン見物のついでに、ぜひお立ち寄りくださいませ!

 

 

 しずおか地酒サロン飛び入り企画/両替町通りハロウィンパレード参加店「くれば」主催

地酒deハロウィン のみにくれば

■料金 お一人 1000円 (地酒2種、酒肴3種セット)  【吟醸王国しずおかパイロット版】随時上映

 

■日時 2014年10月31日(金) 11月1日(土) 2日(日) 18:00~21:00

    予約は要りません。時間内に自由にお越しください。

 

■場所 シニアライフ支援センターくれば 静岡市葵区両替町2-3-6(両替町通り大原ビル) TEL 054-252-8018

■主催 NPO法人静岡団塊創業塾 管理運営「シニアライフ支援センターくれば」

■協力 しずおか地酒研究会


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白隠フォーラムin沼津2014 開催のご案内

2014-10-08 15:04:11 | 白隠禅師

 7月にJR沼津駅隣にオープンした複合コンベンションホール、プラザヴェルデで、開館記念講演【富士と白隠】が開かれ、聴講レポート(こちら)をUPしたところ、講演者の芳澤勝弘先生(花園大学国際禅学研究所教授)から思いがけずコメントをいただいた顛末、こちらにもご紹介しました。

 

 9月には沼津へお越しになった芳澤先生と禅学研の國友憲昭先生(天龍寺塔頭永明院住職)と会食する機会に恵まれ、白隠禅師の故郷・沼津で禅師の功績を学ぶ場所づくりの必要性を実感しました。

 

 沼津のプラザ・ヴェルデでは11月9日(日)に【白隠フォーラムin沼津2014】が開催されます。花園大学が主催する白隠フォーラムは国内外で開催されていますが、沼津では初めて。芳澤先生をはじめ、フランス国立極東学院のフランソワ・ラショー教授、鎌倉円覚寺管長の横田南嶺老大師が登壇されます。

 國友先生より送っていただいた案内パンフレット裏面には、芳澤先生のフォーラムに寄せる深遠なメッセージが掲載されていましたので、ここにご紹介いたします。

 

 

 

 

白隠フォーラムin沼津に向けて/京都 花園大学国際禅学研究所教授 芳澤勝弘

 

 西洋では「予言者、故郷に容れられず」といい、また中国の馬祖道一禅師は「修行者は故郷に帰ってはならない。帰ったら幼名で呼ばれることになる」と言っています。このように、多くの聖人は生まれ故郷を離れるのが常です。しかし、白隠禅師だけは例外です。諸国行脚ののちに沼津原の松蔭寺に住職し、ここを中心に活動されたからです。

 

 近年、白隠禅師に関する資料収集および研究が京都の花園大学国際禅学研究所によって推進され、大型図録の刊行、大規模の白隠展の開催、日本各地および海外における「白隠フォーラム」の実施などによって、白隠の偉業は大きく再評価され、その名は今や世界的なものになっています。2016年には白隠禅師の250年遠忌をむかえ、さらにさまざまな企画が準備されています。

 

 白隠禅師の教えは、一口でいえば「十字街頭の禅」です。すなわち、山中の寺に閉じこもっているのではなく、人々が生活している場所に出かけて、人々に分かるように教えを説かれたのです。その十字街頭がまさに原であり、三島であり、伊豆であり、富士なのです。白隠禅師のホームグランドともいえる沼津で、このたび初めて白隠フォーラムを開催することになりました。

 

 白隠禅師は郷土が生んだ偉人として、すでに地元ではよく知られているのですが、さて本当に禅師の本領、本質が理解できているでしょうか。「おらが白隠」的な雰囲気に終わっていないか、あるいは「知ってるつもり」になってはいないだろうか。

 白隠禅師の偉業は今や世界的な範囲で再評価されつつあります。そのことをふまえて、ゆかりの地においても再評価の努力をし、次世代に伝えてゆくことが求められています。世界的な(グローバル)観点から沼津(ローカル)のよさを見直し、誇りをもって、それを日本全体にそして世界に発信してゆければと考えます。

 そのためには、沼津を中心としてひろく多くのかたのご参加を得て、ともに学び、認識を共有してゆきたいと念願しております。

 

 

 沼津で初めて開催される記念すべき白隠フォーラム、ぜひご参加くださいませ!

 

◇日時 2014年11月9日(日) 12時30分~16時30分

◇場所 プラザ・ヴェルデ 3階コンベンションホールB (JR沼津駅北口東隣)

◇講師 フランソワ・ラショー氏(フランス国立極東学院教授)、横田南嶺老大師(鎌倉 臨済宗円覚寺派管長)、芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所教授)

◇入場 無料

◇主催 花園大学国際禅学研究所

◇後援 沼津市

◇定員 400名

◇申込 花園大学国際禅学研究所 tel 075-823-0585 (月~金/9時~17時)  e-mail  hakuin@hanazono.ac.jp

 

 


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