杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

よみがえる伊豆修験『伊豆峯』の考古学

2014-11-11 11:11:16 | 歴史

 少し時間が経ってしまいましたが、11月1日にSBS学苑パルシェ校で受講した『修験道の歴史とこころ』①~よみがえる伊豆修験・伊豆峯の考古学』についてレポートします。講師は國學院大學の深澤太郎先生。宗教学ではなく考古学の専門家で、何でもお父様が元SBSアナウンサーだったとのご縁で講座依頼があったそうです。

 

 この夏、五来重先生の『葬と供養』という本を読んだ時、認識を新たにしたのが、修験道の存在でした(こちらを)。山伏姿の修験者って歴史ドラマではよく隠密役、どっちかというとダークヒーロー的な扱いで出てきますが、五来先生のおかげで日本の宗教史上、大変大きな役割を果たしていることを知りました。

 修験道は11~12世紀頃、山岳信仰や山林仏教の流れを組んで成立した日本独自の宗教です。仏教とごちゃまぜに考えてましたが、仏教はあくまでも渡来宗教。修験道はジャパンオリジナル。開祖は役行者(えんのぎょうじゃ)です。この名前はかろうじて知ってました。

 役行者は舒明天皇6年(634)に生まれ、大宝元年(701)頃亡くなった方。修験道が成立するずいぶん前に活動されていたんですね。奈良の葛木山に住んでいて、なにやら妖しげな呪術を使って人々を惑わせているという讒言によって、伊豆に島流しにあったとのこと。静岡にご縁のある方とはビックリです。

 

 伊豆にも山中で修行に励む行者たちが多くいました。平安末期に書かれた『梁塵秘抄』という史書には、「四方の霊験者は伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯者の大山」・・・云々とあり、今の熱海市にある伊豆山神社が霊場でした。ここは明治の神仏分離によって「伊豆山神社」と改められるまで、「走湯権現」「伊豆山権現」などの名で呼ばれていたそうです。

 

 話は逸れますが、今から10年前の2005年発行【静岡の文化81号~静岡県の頼朝義経特集】で、北条政子の記事を書いたことがあります。政子が頼朝と駆け落ちをする待ち合わせ場所に使われたのが、ここ伊豆山権現。後に頼朝が亡くなってから、政子は自分の毛髪を織り込んだ頭髪曼荼羅を伊豆山権現法華堂に奉納し、これを本尊にした、と紹介したんですが、神社に法華堂があって曼荼羅が本尊ってよく考えるとすごいミックス感!キリスト教やイスラム教の信者が見たら「はぁ~?」って感じでしょうね(笑)・・・。

 
 

 鎌倉時代に書かれた『伊呂波宇類抄』によると、伊豆山権現はもともと承和3年(863)、甲斐の国の賢安が夢のお告げで築いた走湯山東明寺という寺がベースになっていて、その後、『伊豆国神階帳』という神様のランキングガイド?に、伊豆一宮の三嶋大明神と后神、御子神に次いで、「正一位千眼大菩薩」と紹介されたとか。

 鎌倉時代後期の『走湯権現当峯辺路本縁起集』には、藍達聖人(龍樹菩薩の化身と謳われた人)が12月15日から翌年正月28日にかけて半島を一周し、役行者の古跡をはじめ、380ヶ所もの拝所を巡る「伊豆峯」の辺路を始めた、と書かれています。辺路とは海岸沿いを歩くという意味です。

 

 豊臣秀吉の北条攻めで伊豆峯に関する中世以前の記録は焼失してしまいましたが、江戸時代になり、宝暦11(1761)年の『伊豆峯次第』や天保8(1837)年の『修験古実書上』に「修験者3人・強力1人・案内役の行者1人の5人チームで歩くこと」など当時の決まりごとが詳しく記録されています。

 修験道は天台宗・真言宗の両派の影響を受け、江戸時代、真言系の修験は醍醐寺三宝院支配となることが通例でした。しかし、「伊豆派」を称した伊豆修験は、伊豆山権現別当である般若院のみの支配を受け、独自の路線を歩んで明治に至ったそうです。


 

 深澤先生と國學院大研究チームは、考古資料から伊豆修験や富士修験の実態を探る調査をされています。お話の中で面白かったのは、建長3年(1251)の『浅間大菩薩縁起』という富士山の修験者について書かれた史書には伊豆走湯山出身の末代(富士上人)が、応永5年(1398)の『伊豆密厳院領関東知行地注文』には駿河「富士村山寺」の名が登場すること。富士村山寺というのは今の村山浅間神社のことで、ここが伊豆山権現の末寺的な存在だったことが判ります。

 これをベースに、村山浅間神社遺跡や富士山頂の三島ヶ獄経塚を調査したところ、噴火活動が活発だった9~10世紀にも山頂にアタックした猛者がいたことや、末代が富士山頂に大日寺を建立し、久安5年(1149)に鳥羽院らが書写した一切経50巻を納めたことが判りました。昭和5年の山小屋建設のときに出土したそうで、「紙に書かれたお経が腐らずに残ったのは、富士山頂の土や気候のお陰かも」と深澤先生。それにしても発見した人はさぞビックリしたでしょうね。ふと、以前観た映画【剣岳・点の記】のラストシーンを思い出してしまいました。

 

 吉田口二合目にある御室には、走湯山の覚実と覚台坊という修験者が富士修験20回記念で日本武尊像を、25回記念で女神像を建てたとか。いずれも現存はしていませんが、伊豆の修験者が富士山に大きな足跡を残していたことが判ります。


 深澤先生は実際に12月15日に伊豆山神社をスタートし、1月28日の熱海本宮神社ゴールまでを実際に歩かれたそうです。伊東の洞の穴(薬師之岩屋)、河津の温泉堂(湯之堂地蔵尊)、弘法大師が護摩修行をしたとされる下田の美穂ヶ崎(心檀堂之岩屋)、南伊豆の岩殿寺薬師堂や石室神社、松崎の舟寄神社、函南の法伝寺等の史跡や考古資料から、「伊豆峯」拝所の古態を丹念に調査。「埋蔵文化財は辺路行そのものの痕跡ではないかもしれないが、辺路ルート上にある拝所の形成過程を復元するための貴重な情報をもたらしてくれる」と語ります。

 

 役行者や弘法大師の足跡が残る貴重な辺路にもかかわらず、四国のお遍路のようにメジャーにならず、現在、ほとんど忘れ去られているのは、「ここがプロの修行場だったゆえ」と深澤先生。調査はまだまだ不十分で、三島箱根や富士信仰との関係性や比較検討も必要になってくるでしょう。

 いすれにしても、世界遺産だのジオパークだのと盛り上がっているけれど、私たちは、自分たちの足元の本当の歴史を何も知らないんだ・・・そんな羞恥心を抑えることができませんでした。

 

 伊豆峯ルートについては、國學院大學のこちらのサイトに詳細が載っていますので、参照してください。


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3 コメント

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新しい観光ルートへの曙光 (猫爺)
2014-11-12 15:25:11
驚きました。あの変哲もない伊豆半島に修験道があったなんて!ましてや密教。猫爺も20代の頃より自然の持つ力に感銘を受け山野を跋渉した時期がありました。尺六寸の小刀を腰に歩き、眠り過ごした頃を思い出しました。
あれから半世紀、もう少し若ければ伊豆密教ルートを提唱、新しい観光資源にチャレンジしたことと残念です。
近くの村山の浅間さんは、ある種の何かを20年ほど前の取材で感応しました。本当に面白い!
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私もビックリ (鈴木真弓)
2014-11-12 15:35:16
以前、南伊豆の古道を取材したとき、崖に彫られた石仏があってここで修行した人がいたんだなあと思いましたが、修験道として確立されていたとは知りませんでした。取材の仕事を30年近くやってるのに地元でも知らないことばかりでホント、焦ります・・・
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Unknown (保田義之)
2019-08-20 21:33:23
國學院大学准教授深澤太郎准教授のツイッターを見ていただきたい。非常に暴力的で金を払えなど脅迫もございます。
一度見てください。
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