杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

都心で満喫、ふじのくに・酒といちごとお茶の味

2012-02-29 12:21:11 | 地酒

 2月24日(金)は夜、東京で某氏主宰の「日本酒大学」に参加しました。官民幅広い交友関係を持つ某氏が主宰するというだけで、どういう会なのかまったくのシークレット。一人では心もとないと、dancyuの里見美香さんをお誘いしてうかがったのですが、40人ほどの実に興味深い顔ぶれの異業種交流会で、「日本酒」だけでこれだけいろんな人がつながるんだ~と嬉しくなりました。

 とりあえずどんなトップレベルの酒通でも一目置くだろうと、『喜久醉松下米』の10年ビンテージを持参していったら、一番反応したのが、参加者のお一人の有名蔵元さんと、会場となった居酒屋の女将さんでした。ちなみに松下米の10年モノ、熟成酒とはおもえない、まったくブレのない品格のある味わいでした。

 

 

 24日は早めに東京入りして、池袋の東武百貨店で開催中の『静岡いちご紅ほっぺスイーツフェア』と、有楽町の静岡県観光協会東京事務所のお茶カフェをのぞいてきました。

 

 『紅ほっぺフェア』は、池袋東武レストラン街スパイスと静岡県いちご協議会、JA、JA静岡経済連が企画し、45店舗のレストランのシェフが東京家政大学等の学生さんたちと紅ほっぺを使った新作フルーツを紹介するもの。適当に入った『シヴェルニー』というカフェレストランImgp5669
で、『紅ほっぺのミルフィーユ~緑茶とチョコレートのアイス添え』をいただき、期待以上の美味しさで大感激でした!! 

 紅ほっぺはそのままでも十分美味しいんですが、ミルフィーユの香ばしい生地との相性がピッタリ。緑茶アイスの風味がとても上品で、抹茶アイスほどお茶が主張してなくて、添えのアイスとしては理想的。静岡らしさが存分に伝わると思いました。

 

 

 今年は寒さの影響でいちごの生育が遅れているようで、紅ほっぺの店頭価格も高く、満足に食べられないでいただけに、少量だけどホントに美味しく感じました。フェアは3月7日(水)まで開催中ですので、池袋まで足を伸ばせる方はぜひ!!

 

 

 

 

 有楽町駅前の東京交通会館地下にある静岡県観光協会東京事務所は、昨年11月、『シズオカ・マウントフジ・グリーンティー・プラザ』という横文字のお茶カフェに変身しました。

 時事通信のこちらの記事によると、マリ・クリスティーヌさんがアドバイスしたようですね。昔の、観光パンフが置いてあるだけの、どちらかというと入りにくい事務所に比べたら、ずいぶん垢ぬけたな~と思います。記事にある通り、お茶だけじゃなくて、首都圏で人気の高い地酒も買えたり飲めたりできるといいのにね。もし実現したら私、コンシェルジュに立候補します!!

 

 

 産地別のヤブキタ茶が何種類かそろっていて、私は2種類チョイスの試飲セットを頼みました。人気があるのは深蒸し茶のようですが、私はもともと好きな中山間地の山茶から、『森町』と、故郷静岡市の『本山茶』をセレクト。森町のほうが上品な香味で、本山のほうは骨太Imgp5671
な味わいでした。

 

 

 

 

 私がお茶にうるさそうなオバサンだと思われたのかどうか、コンシェルジュさんが「こういうの、お好きですか?」と紹介してくれたのが、書作品『百茶文』でした。

 

 書家で静岡大学名誉教授の平形精逸さんが、O-CHAパイオニア顕彰を受賞した作品で、中国の殷の時代から日本の江戸時代までの古典や茶の史書から選び抜いた『茶』の文字を、年代順に列挙したもの。王義之、空海、栄西、千利休、本阿弥光悦、伊達正宗、良寛等など有名人の名蹟が一堂に並び、漢字の歴史ロマンもたっぷり。

 

 

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 平形氏から県に寄贈され、静岡駅南口のOーCHAプラザや富士山静岡空港にも展示され、レプリカがここにも飾られることになったそうです。これは解説コピーですが、レプリカでも欲しいという人、たくさんいるんじゃないかな。

 有楽町に行かれたら、ぜひのぞいてみてください。

 

 


中日新聞富士山特集 岩槻先生インタビュー

2012-02-28 13:27:19 | アート・文化

 遅い報告になりましたが、2月23日(木)は富士山の日記念。グランシップで開催された富士山世界文化遺産フォーラムに行ってきました。パネリストのお一人だった岩槻邦男先生に、同日発刊の中日新聞富士山特集でインタビューした記事が掲載されました。フォーラムでの先生のご発言も、インタビュー内容に重なっている部分が多かったので、改めてご紹介します。

 

 

自然と文化を統合した「富士山学」の必要性<o:p></o:p>

 岩槻邦男氏(東京大学名誉教授)に聞く<o:p></o:p>

 

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2月1日、富士山の世界文化遺産推薦書がユネスコへ正式に提出された。日本の象徴・富士山が、世界共通の文化遺産になる日に向けて、カウントダウンが始まった。<o:p></o:p>

 223日は富士山の日。グランシップで開催される記念行事・富士山の日フェスタ2012の『富士山世界文化遺産フォーラム』にパネリストとして参加する岩槻邦男氏(東京大学名誉教授・元日本ユネスコ協会委員)に、信仰・芸術の源泉となった富士山の自然の価値、人と自然の共生について統合的に研究する「富士山学」の必要性についてうかがった。(取材・文/鈴木真弓)<o:p></o:p>

 

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―先生は自然科学を専門とし、環境省の「世界自然遺産候補に関する検討会」の座長も務められました。一般的な認識として、「富士山は自然遺産にはなれないから文化遺産登録を目指した」と受け取られていますが・・・?<o:p></o:p>

 

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 その認識は誤りです。2003年の検討会では、国内の世界自然遺産の候補地を19カ所選び出しました(表参照)。その中から知床半島、小笠原諸島、琉球諸島が登録に向けて動き出し、ご存じのように知床と小笠原の登録が叶い、現在、琉球諸島が2013年の暫定リスト入りを目指して準備をしているところです。富士山も19候補の中に入っており、今も自然遺産候補であることに変わりはありません。<o:p></o:p>

 

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―富士山イコール日本の象徴だと誰もが認識しているのに、知床、小笠原、琉球諸島に“遅れ”をとったのは、やはり問題があったのでは?<o:p></o:p>

 

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 確かに、先行した3カ所に比べると、富士山は「すぐにでも登録可能な有力候補」という状況ではありませんでした。しかし世界遺産候補という“表舞台”に上がったことで、し尿問題やゴミ問題はじめ、保全について不備な点が大きくクローズアップされ、問題解決のきっかけとなったのです。自然遺産候補として否定されたのではなく、むしろ世界遺産としてもふさわしい方向に一歩前進させたと理解してほしいですね。<o:p></o:p>

 

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―あらためて、富士山の自然の価値をどのように見ておられますか?<o:p></o:p>

 

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富士山をテーマにした信仰や芸術や、そこから得る感動は、まぎれもなくあの山の自然景観の美しさがもたらしたもの、と実感しています。<o:p></o:p>

 

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―専門家から見た富士山の自然の特徴とは?<o:p></o:p>

 

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生物学から見れば、中腹以下に特徴があるといえますが、人の生活圏に近くなれば問題が生じるのはやむをえません。しかしながら、日本人は、日本の自然に対し、自然科学で解析するだけでは評価し得ない、宗教的ともいえる価値を見出しています。山そのものをご神体として崇拝する精神文化を持ち、山の噴火を神の怒りと考え、神社を建て、身を律した。日本列島は平地・谷地が2割強です。8割近くを占める山岳・森林地帯のうち国土の2割程度を里山として切り拓き、残りの奥山は“神々の住まい”として、きちんと住み分けたのです。このゾーニングは見事と言ってよいでしょう。<o:p></o:p>

 

 伐り開いた人里に鎮守の森を置き、氏神様を祀っているのも、本来、ご神体である山や森の一部を使わせていただいている、という畏敬と感謝の念が信仰として表れたのです。<o:p></o:p>

 

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―日本人のそのような価値観を、世界は理解するでしょうか?<o:p></o:p>

 

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 明治維新で西洋文明が入って来た時、神仏分離令などもあり,鎮守の森は3分の1に減りました。日本人は豊かな緑を神々からの授かりものと考え、西洋人は合理的に有効活用すべきものと考える。彼らにとって、自然を人為的にコントロールするのは正しいこと。だから戦争で敵の領域の森を焼き払うのは平気です。日本人は絶対にやりませんね。織田信長が比叡山を焼き撃ちにしたときも、お寺の周辺を焼いただけです。富士山が浅間大社のご神体であるという意味は、西洋人には解りづらいかもしれませんね。<o:p></o:p>

 

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―では、世界に向けてどのようなメッセージを送ればよいのでしょうか?<o:p></o:p>

 

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日本人は“純粋な雑種”です。古来、日本には大陸からさまざまな系統の人たちが流入してきて、大和王朝が成立した8世紀にも“混血化”は進展していました。にもかかわらず、日本語という統一言語を持ち、北から南まで統一した固有の文化を生み出しました。これは、日本列島の自然がそうさせたと言ってよいでしょう。自然と共生するためにゾーニングをし、四季に応じた暮らし方を発展させた。自然あっての暮らしであり文化です。<o:p></o:p>

 

富士山の文化的な価値を伝えるには、富士山の自然から語らなければ始まりません。その意味で、私は自然と文化を統合的に研究する「富士山学」というものを推進すべきだと考えます。日本人の自然観を理解してもらうためにも必要だと思います。<o:p></o:p>

 

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―現在、富士山世界遺産センター(仮称)構想も進んでいるようですが。<o:p></o:p>

 

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 富士山学の研究拠点になれば、と期待しています。世界中の研究家が参加できるような統括センターになってほしいですね。ユネスコに関わる施設となれば、『平和』というキーワードも重要になります。富士山と日本人の関係性は、世界平和の在り方や今後の環境問題にも示唆を与えるはず。まさに世界に誇る富士山らしい構想を発展させてほしいと思います。<o:p></o:p>

 

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―静岡県には県の顔となるような博物館施設がありません。世界遺産センターがその役割を担ってくれるのでは、と期待しているのですが。<o:p></o:p>

 

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 日本に既存の博物館的構想からは脱却した方がいいと思います。博物館は生涯学習の受け皿として長寿国日本に必要不可欠な存在になっており、そのためにも県内外の人に向けたシンクタンク機能と生涯学習支援機能を持ち合せる必要があります。<o:p></o:p>

 

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―先生が館長を務める『兵庫県立人と自然の博物館』は、その先進例として注目されています。

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博物館の資料や作品を「展示」するのではなく、「演示」しようと言っています。作品を一方的に飾って見せて終わりでは、イベント会社が催事場でやるのと変わりありません。その道の専門家やプロの研究者がいる施設なら、第一級の研究成果を見せる。しかも鑑賞者がともに学び、楽しめる見せ方をすべきだと。そうなると若い人からシニアまで、知識欲のある幅広い人々が集まってくるでしょう。<o:p></o:p>

 

博物館運営に携わる者として、学校の詰め込み教育では充足できない部分を博物館が補完することで、長寿社会の真の豊かさづくりに貢献したいとつくづく思います。富士山は世界中の老若男女を吸引できるテーマですから、日本を代表するような、新たな博物館モデルを創り上げてほしいと願っています。<o:p></o:p>

 

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―ありがとうございました。

 

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岩槻邦男氏プロフィール<o:p></o:p>

1934年兵庫県生まれ。京都大学理学部植物学科卒業。同大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。京都大学教授、東京大学教授、立教大学教授、放送大学教授等を経て、現在、東京大学名誉教授、兵庫県人と自然の博物館館長。専門は植物系統分類学。<o:p></o:p>

 

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『生命系―生物多様性の新しい考え』岩槻邦男著 岩波書店1999年発行<o:p></o:p>

 

生物は個体だけで生きているのではなく、他の生物とさまざまな関係をもって生物圏という広がりの中で生きている。また、生物は現在だけを生きているのではなく、すべての生命は30数億年の歴史を共有し、未来に向かって生きている。岩槻氏は、そのような空間と時間の広がりを持った生命活動を「生命系」と名付けた。環境創成の在り方やその本質を探る上で多くの示唆を与える名著。(こちらをぜひ)<o:p></o:p>

 


はやぶさが遺したもの

2012-02-26 15:35:32 | 映画

 少し遅くなりましたが、こちらでお知らせしたとおり、2月21日(火)夜、(社)静岡県ニュービジネス協議会西部部会のトップセミナーで、NEC航空宇宙システムシニアエキスパートの小笠原雅弘さんの講演会がありました。小笠原さんは1985年に初めてハレーすい星へ旅した「さきがけ」、スイングバイ技術を修得した「ひてん」、月のハイビジョン映像を地球に送り届けた「かぐや」、そしてチーム「はやぶさ」のメンバーとして、感動の地球帰還を成功させた、日本の太陽系探査衛星のスペシャリストです。

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 理系エンジニアの人の話を聴くのはとても好きなんですが、物理や科学や生物の成績がまるでダメ子だった自分には、小笠原さんのお話をコンパクトに取材記事にまとめるなんて今から受験勉強をしろと言われるようなもの・・・ 講演会場へ向かう前に、浜松駅近くのシネコンで上映中の映画『はやぶさ~遥かなる帰還』を観て、なんとなく予習した気分になって、自分の気持ちを、理解しきれずともせめて前向きにお話を楽しんで聴けるような状態に持って行って、会場入りしました(苦手な分野の取材の時は、「せめて気持ちを作って臨む」だけでも違うんです・・・)。

 

 

 会場入りして小笠原さんに「今、映画を観てきたばかりです~」とご挨拶したとき、小笠原さんの上司が、映画ではピエール瀧さんが演じた人で、本人は似ても似つかぬ容姿(笑)で、「渡辺謙さんはじめ、映画に登場する役者さんはモデルの人物とは見た目にギャップのある人を敢えて選んだみたいですねえ」と愉快そうに話してくれました。

 「ピエール瀧さんは静岡出身ですよ」と応えたら、「それはいいことを聞いた、今日の講演のネタに使わせてもらいます」とクイック返答。こういう切り返しのよさが、理系の人と話すときの楽しみなんですね。

 

 

 小笠原さんの講演は、さすがNECだけあって映像やパワーポイントを活かして大変解りやすく、また、航空エンジニアという職人さんは、宇宙少年のように夢や冒険心を熱く持っているんだ・・・と伝わってくる素敵な講演でした。詳しい内容は(専門用語とかいっぱい出てくるので)、小笠原さんに原稿を校正チェックをしていただいた後に紹介するとして、これから映画『はやぶさ』をご覧になる方にも参考になりそうな点だけ(ちょっとネタバレも含みますが)書きますね。

 

 はやぶさの形は、太陽電池パネルが|‐○‐|とアルファベットのHのように連結されています。パネルの端から端までの長さが5.7メートル、総重量は510kgで、軽自動車よりも軽いんです。それまでの人工衛星はゆうに600kgを超えていたんですが、これでは3億キロ彼方のイトカワまで飛ぶのにメタボ過ぎるということで、ネジの材質やら板の厚みやらまでトコトン軽量化しました。おぉ、これぞ日本の技術だ~と聴いていてワクワクしました。ちなみに、はやぶさの形って当初の設計ではー○ーだったそうで、少しでもストロークを短くしたほうが飛行中のバランスが取りやすいということで、H型にしたようです。

 

 映画を観ていてわかりにくかった「スイングバイ」という技術。はやぶさは2003年5月に打ち上がって、太陽の軌道を1周回って2004年5月にもう一度地球の近くまで戻ってきているんですね。地球自身が太陽の周りを1秒間に34kmの速度で回っているので、その軌道速度に乗っかると、+4㎞/秒速くなるそうです。歩いている人が途中から走行中の電車に飛び乗ったような感じでしょうか。少しでもエネルギーロスの少ない飛行を目指して開発されたんですね。

 

 

 映画でも面白いなあと思ったのは、イトカワに落とすターゲットマーカーを「お手玉」から発想したというところ。小笠原さんはこの部分の開発にも関わっておられ、詳しく解説してくれました。

 

 

 なにせ、イトカワは宇宙空間をプカプカ浮いている直径500mぐらいの岩石で、表面は直径20mもある岩石がゴロゴロしている。なんとか平べったいところを見つけて球を落として、パッと飛び散った表面のチリや破片をパッとつかまえて持ち帰る=サンプルリターンというのが、はやぶさの最重要ミッションです。でもイトカワの重力は地球の10万分の1でほぼ無重力状態。表面でハネ返らず、ある程度留まってサンプルキャッチできるターゲットマーカーを、どうやって作るのか、無重力下での物体の動きを地球上では想像し切れず、おもちゃのスライムみたいなもので実験したりして、「我々は“井の中の蛙というか、“1Gの中の蛙”でした」と小笠原さんは振り返ります。

 

 

 技術者の直感で「お手玉」を思い付き、江東区の町工場(映画では山崎努さんの工場がモデル)にファックスを送って、薄いアルミ製の球体を試作品に作ってもらいました。「本当にハネ返らないのか?」という疑問を払拭するために、飛行機を急降下させて無重力に近い状態でのべ12回、3年にわたって実証実験を重ねたそうです。小笠原さんは「技術者には、妄想でもいいから“直感”が大事」と強調されていました。・・・なんだかこのエピソードだけでも1本の映画になりそうですね。

 

 

 その後、さまざまなトラブルに見舞われながらも、プロダクトマネージャー川口さんの「はやぶさの目的地は地球」「地球へ帰そう」の一言でチームは団結しました。小笠原さんは、「いろんな人がいろんなことを言ったが、プロマネのあの一言は今でも忘れられない」そうです。「リーダーは、たった一言、心に残る言葉があればいい」と実感を込めておられました。

 

 

 

 

 最後にイオンエンジン全停止という最大の危機を迎え、映画では政府(JAXA)と民間(NEC)出身の2人の技術者が対立したような描き方でした。ま、そこで最終的に渡辺謙さんが主役らしく「全責任は私が取る」とカッコよくおさめるんですが、実際は技術者2人が最後まであきらめずに食らいついて、周囲が引っ張られたそうです。

 

 「抵抗するのが一人で残り全員があきらめモードだったら無理だったと思う。2人だったから前進できた」と小笠原さん。・・・うん、すごく現実味があるなあ。いろんなことで四面楚歌になるとき、1人ならくじけちゃいそうなところ、誰か1人でも賛成してくれると馬力が出るし、反対する人も一応聞いてみるか、という気になってくれそうですよね。映画的に見せ場を作りたかったのかもしれないけど、あそこはあまりいじらずに、2人の団結力を見せてほしかったと、まあ後から実際の裏話を聞いて思った次第です・・・

 

 

 はやぶさの技術的な功績は、①イオンエンジンの性能の凄さ、②ハイレベルな自律航法、③小さな球を打ちこんで採集に成功したこと、④サンプルを守り切ったカプセルの性能の凄さーだそうですが、やはり映画のキャッチコピーにもあるとおり、「あきらめないこと」に尽きると思います。

 

 現在、金星探査機「あかつき」が、金星の軌道突入時にエンジン全停止というアクシデントに見舞われ、姿勢制御用エンジンで再チャレンジしているところで、あかつきのスタッフは、はやぶさの功績を間近に見ているだけに、小笠原さんは「彼らはまったくあきらめていない」と頼もしそうに語ります。

 

 2014年には「はやぶさ2」が、小惑星1999JUSという水や炭素系有機物がありそうな惑星を目指して出発する予定だそうです。事業仕分けで予算が削られ、そっちの面で苦労されているそうですが、日本人の技術力とあきらめない強靭な精神力を最大限に発揮させるこういう舞台を縮小させないでほしいと、切に感じますね。

 

 

 

 歴史好きの私は、未来を考えたり研究したりする人とはあまり縁がないけど、歴史を創ってきた人は間違いなく現状で縮こまらず、未来を志向し、壁を打ち破ってきた人だということぐらいは理解できる、と実感した講演会でした。


新聞記事に想う

2012-02-22 20:46:10 | 国際・政治

 今日(2月22日)夕方、仕事から帰ってきて静岡新聞夕刊を開いたら、『満寿一酒造り断念、また消える県内老舗酒蔵』という記事が社会面トップに載っていました。ああ、本当に増井浩二さんは亡くなったんだなあと胸が痛くなりました。

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 私がこのブログで増井さんの訃報を伝えた直後に静岡新聞社会部の小林記者から問合せがあり、「記事にするなら、彼が、志太杜氏の伝承に功績があったことをぜひ書いて。葬儀で弔辞を読んだ喜久醉の青島さんにも取材してみて」と伝えたのですが、その後、新聞社内で“新しい展望が見いだせるストーリーでなければ掲載にしにくい”と言われたとか。

 確かに、「蔵元の意志を継ぐ後継者誕生」とか、「生前最期に搾った酒が金賞受賞」な~んて話ならニュースバリューも高いだろうけど、「蔵元が亡くなって酒造の灯が消える」では難しいのかもしれません。期待薄だっただけに、今日の夕刊はとても感慨深かったです。

 

 

 

 新たな展望が見いだせる内容ではなかったものの、記事は、増井さんの父で満寿一酒造社長の増井成美さんが「他の酒蔵は我々の分まで頑張って」とエールを送ったと締めくくられていました。

 ご家族としての思いは、いかばかりだろう・・・と辛くなりますが、増井さんが亡くなったことが新聞記事として取り上げられたのは意義があると思います。酒造りを断念したことが、こんなにデカい記事になるなんて、満寿一という酒がいかにスゴいかってことですよね。何か、天国からの増井さんのメッセージのような気もします。それをきちんとキャッチしてくれた小林記者と、掲載してくれた新聞社にも感謝です!。

 

 

 ・・・なんか部外者のくせに横から裏ネタを晒すようで申し訳ないんですが、静岡新聞を直接読めない県外の静岡酒ファンの方のために、満寿一という酒の価値を伝える意味で、紹介させてもらいました。

 

 

 

 ここからは当事者として。明日2月23日は富士山の日記念で、2ヶ月ぶりに中日新聞に世界文化遺産特集が掲載されます。今回は富士山の日掲載ということで、紙面も広く、かなり力が入ってます!! こちらで紹介した岩槻邦男先生へのインタビュー記事も載りますので、ぜひご覧ください。


草原の王朝 契丹展を見て(その2)

2012-02-21 10:44:18 | アート・文化

 契丹展の続きです。

 

 今回の展覧会はキャッチコピーに「美しき3人のプリンセス」とあります。契丹国を建国した初代皇帝・耶律阿保機の妹ユルドゥグではないかと思われる謎の女性、18歳で亡くなった5代皇帝・景宗の孫娘・陳国公主(ちんこくこうしゅ)、6代皇帝・聖宗の第二夫人・章聖皇太后(しょうせいこうたいごう)の3人を指すようですが、会場を観た限り、3人のキャラクターがイマイチ解りません。

 図録を読んでも、3人の解説は書いてないし、第一、3人の肖像画がないのに「美しきプリンセス」とはいかにも誇大表現だし(笑)、なんとなく展覧会を盛り上げるためにプロモート側が後付けしたイメージ戦略なのかなあと・・・。こういう裏読みは職業柄、悪い癖です(苦笑)。

 

 

 契丹という国、確かに認知度は低いかもしれませんが、今回、聞きかじりでざっくり勉強しただけでも、大変魅力的な歴史や文化を持っている国だと解りました。

 とにかく多くの出土品が、1千年以上、手つかずで当時のまま鮮やかな色彩や形状を保ったまま発掘されていること、それら出土品の多くが、遊牧民とは思えない高い文化レベルを伝えていること、仏教信仰が厚く日本との共通点も多いことなど、歴史ファンの琴線に触れる要素がたくさんあります。「美しきプリンセス」という実体のないコピーより、契丹という国の未知の魅力を伝える、品格ある表現がなかったのかなあと思いました・・・。

 

 それはさておき、19日の講演会「契丹王族の仏教信仰」は、3人のプリンセスの一人、6代皇帝の第二夫人・章聖皇太后が建てた慶州白塔と出土品がテーマでした。

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 慶州白塔とは、内モンゴル自治区赤峰市にある慶州古城遺跡の一角に建つ釈迦仏舎利塔。八角形の平面で上に向かうほど細くなる七層の塔です。図録からコピーした写真ですが、これが、緑の草原にドーンとそびえているんですね、実に美しい!!

 

 この白塔、章聖皇太后が1047~1049年頃、創建したもので、1988~1992年に内蒙古文物考古研究所が解体修理をした際に、塔の先端部分から数多くの色鮮やかな文物が発見されました。

 出土品の状態は、講師の古松先生曰く「造りたてと思えるほど鮮明な色や形状。正真正銘、1千年のタイムカプセル」とのこと。高層部で密封されていたため、奈良の正倉院並みかそれ以上のコンディションで保存できたんですね。

 

 

 

 今回の展覧会で公開されている出土品は、赤や緑の彩色が残る釈迦涅槃像、当時の輝きのままの銀・鍍金・真珠で作られた鳳凰舎利塔、鮮やかな金・銀板の陀羅尼経、高さ30~50センチほどの法舎利塔(経巻を入れた舎利塔)が100基あまり、日本的な花鳥文の刺繍が施された刺繍裂に遊牧民風の騎馬人物文の袱紗など。どれも保存状態がいいので、施主である皇太后の意志や、当時の職人の意匠や技術が手にとるように判ります。

 

 

 

 とくに法舎利塔の中には「七仏法舎利塔(過去七仏=釈迦とそれ以前に釈迦だった6仏を合わせた7仏を彫ったもの)」と「十方仏塔(全方位に存在する仏を彫ったもの)」が含まれ、多量の法華経が納められていたそうです。古松先生は「仏教の時間軸と空間の広がりをとらえたもの。皇太后がいかに深く仏教を理解し、帰依していたかが解る」と解説されます。

 

 

 

 皇太后は、この白塔を、『無垢浄光大陀羅尼経』の教えに基づいて建てたとされています。陀羅尼というのは、こちらの記事でも紹介したとおり、お釈迦様の功徳をいただくパワフルな呪文、みたいなもの。塔そのものが陀羅尼を具現化したようなものです。当時、契丹国では、陀羅尼を称えれば“滅罪と往生”がなる、と一種のブームのように信仰されていたそうです。

 

 

 彼女がこうも深く信仰した背景には、当時の複雑な政治状況があったよう。契丹は前の記事にも書いたとおり、初代皇帝耶律阿保機は、国内に移住してきた漢民族への対策に力を入れ、彼らが安心して定住できるように仏寺を多く建立しました。

 2代皇帝太宗の時代には、東方の渤海国が滅んで、唐仏教の流れを汲む渤海仏教が流入したり、領土となった華北の燕雲16州の仏徒が移住したりで、仏教が契丹国に幅広く浸透したようです。

 

 

 中国本土でも一大勢力を誇っていた契丹国は、章聖皇太后の夫である6代皇帝聖宗の時代に北宋と「澶淵(せんえん)の盟」という平和締結をして、その後120年間、中国大陸に泰平の世が訪れます。日本の江戸時代に比べると短いけど、群雄割拠する大陸で統一政権のない時代、100年以上も平和が保たれたというのは奇跡的な話なんですね。

 

 

 章聖皇太后は第二夫人ながら、正妻を自殺に追いやった、いわゆる“猛女”だったそうです。夫亡き後、長男を7代興宗に就かせ、皇太后として君臨するのですが、次第に長男と意見が合わなくなり(・・・そりゃあ息子からしてみたら、いつまでも口出しする母親はウザいよね)、彼女は次男を溺愛するようになり、長男とは険悪な状態に。

 

 

 それでも、やっぱり血を分けた母子。仏教によってある意味救われたのかもしれませんね。彼女は白塔を建てて7月15日に供物を奉納し、亡夫の追善供養をしました。

 舎利塔の塔身正面の扉に刻まれた男女は、自分と、息子興宗の肖像画。鮮やかな鍍金が残った肖像画で、「美しきプリンセス」かどうかは判断しかねますが(笑)、とにかく気持ちがこもっているであろうものが、ちゃんとした形で残っていることに感動しました。

 

 

 

 草原の王朝・契丹展は、3月4日まで静岡県立美術館で開催中です。難しいことはわからなくても、1千年前のものとは思えない完璧に近い状態で保存された文化遺産、しかも世界初公開のものを身近で観られるというだけで価値があると思います。