不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

朝日テレビカルチャー地酒講座のご案内

2015-09-26 08:45:52 | しずおか地酒研究会

 9月1日付けの記事でもご紹介したとおり、10月から朝日テレビカルチャー静岡スクールで【地酒ライターとめぐる酒蔵探訪】という講座を始めることになりました。来年3月までの半年、毎月1回、計6回の講座です。

 第1回/10月25日(日)、第2回/11月29日(日)は、新静岡セノバ5階にある静岡スクールの教室で座学&試飲。

 第3回/12月27日(日)はコミュニティ居酒屋くれば(両替町)で日本酒カクテルや甘酒の作り方講座。

 第4回/1月24日(日)は英君酒造(由比)見学

 第5回/2月28日は初亀醸造(岡部)見学

 第6回/3月27日(日)は「喜久醉」青島酒造(藤枝)見学

を予定しています。

 

 9月中に申し込むと、入会金(3,240円)が無料になるそうです。

 

 ネットからも申し込めますので、こちらをご参照ください!

 

 なお、10月末には静岡新聞社より【杯が満ちるまで~しずおか地酒手習帳】を上梓する予定です。平成元年に地酒取材を始めてから書き貯めていたものや、来年で発足20年になるしずおか地酒研究会のご縁の賜物を凝縮した読み物です。現在、編集&校正の最終段階。まもなくご案内できると思いますので、ぜひご期待ください♪


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨済寺ZENカルチャー「茶の湯の中の禅」

2015-09-22 13:52:53 | 仏教

 シルバーウィーク期間中、静岡市の駿府城公園では徳川家康公顕彰400年祭「駿府天下泰平まつり」が開催されています。初日19日の夕方、仕事帰りにちょこっとのぞいてみたら、ちょうど朝鮮通信使のイベントをやっていました。せっかくの400年祭、イベント行列やパフォーマンスばかりじゃなく、終戦70年という節目に鑑みて、朝鮮通信使という格好の教材をもとに家康の平和外交について学術的なシンポジウムでもあれば、と期待していたんですが、観光や商業活性化につながるイベント・パフォーマンスの類にしか予算がつかないんでしょうね・・・。イベント会場をスルーして、知り合いの飲食店主が出展しているビール&地酒ブースへ直行。サッポロ生ビールと磯自慢をクイッといただいて、ほろよい気分で帰りました。

 

 先週は国会での安保法案可決を通して、政治への関心がひときわ高まった一週間でした。世論が分かれる問題に政治家が判断を下すときというのは、やはり政治家自身の知性や人格が試されると実感しました。それら資質は若い頃から積み重ねてきた教養―とくに歴史や地理や哲学といった、入試ではあまり重視されない人文系の科目をしっかり学んで得る人間力に相違ない・・・。そういうことも、家康公の人生から読み解くことができると思います。今川人質時代、臨済寺の太原崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)から得た教養は、治世者となって政治基盤を築く際に大きな影響を与えたといえるでしょう。

 

 

 家康公の政治家としての資質人格を養ったであろう臨済寺で、9月15日、一般向けの教養講座・臨済寺ZENカルチャーが開かれ、静岡文化芸術大学の熊倉功夫学長が【茶の湯の中の禅】と題した講義を行ないました。長年、臨済寺の茶会に参加されている裏千家の望月静雄先生から聴講を勧められ、主催する駿河茶禅の会でもちょうど熊倉先生が訳注した『山上宗二記』を輪読中ということもあり、行って来ました。以下に先生の講義の聞き書きを勝手にまとめます。私の勝手な解釈が入っていますが、ご容赦ください。

 

 茶の湯と禅が出合ったのは室町時代。いわゆる中世です。政治や文化が、宗教なしでは生まれ得なかった時代であり、ヨーロッパでも同じ。この頃の芸術はキリストを題材にした宗教画や彫刻がほとんどでした。これと対照的に、神仏ではなく人間が主役になったのが近世。日本では江戸時代、ヨーロッパではルネサンス時代ということになります。確かに、モナリザのような俗人が肖像画のモチーフになったことで、人間主役の時代に替わった、といえますね。

 時代を戻して神仏主役の中世。能、連歌、水墨画、歌舞伎、茶の湯などを生み出したのは、社会的に身分が低く、差別を受けていた下層階級出身者でした。森鴎外の『山椒大夫』で凶暴な人買い荘園主として知られた山椒大夫は、大夫が語源で、とは人が住まない場所=役立たずの場所=河原を指し、河原の住人の親分、という意味だったそう。歌舞伎役者もかつては「」と蔑まれていたんですよね。

 そんな下層階級者に救いの手を差し伸べたのが、遊行で知られた時宗の一遍上人(1239~1289)でした。貴賎を問わず民衆の中に飛び込んで、誰でも「南無阿弥陀仏」を唱えれば救われると説いた人。国宝の一遍聖画には乞食や身体障害者もリアルに描かれています。下層出身者である芸能者の多くも、時宗に入信し、「○○阿弥陀仏」という法名をもらいます。「観阿弥」「世阿弥」といった名前がそうですね。時宗の得度を受けた形になれば、出自を問わず、貴人の側に仕えることができるようになるのです。私は以前、臨済寺にほど近い丸山町にある時宗・安西寺のホームページコンテンツ(こちら)を手伝ったことがあり、時宗について調査し、臨済寺ならびに駿河の仏教寺院については、こちらでも考察しています。それにしても、一遍上人なくては日本の芸能は発展しなかったことを改めて教わって、鳥肌が立ちました。

 

 阿弥号を持つ芸能者は、貴人の側に仕える雑務役として同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれるようになります。彼らが力を持ち始めた14~15世紀頃になると、時宗の勢力が衰え、清廉な芸能者にとっては精神的支柱となる別の宗教が必要となりました。注目されたのが禅です。

 禅宗はご存知の通り、6世紀に達磨大師によって始まり、鎌倉時代、日本から栄西と道元が宋に渡り、それぞれ臨済宗と曹洞宗を学んで開きました。臨済宗では宋の渡来僧や日本人僧によって各地に禅道場が開かれ、14の本山が築かれました。このうち政権の精神的支柱となったのが、いわゆる京都五山。無窓疎石(1275~1351)が中国の五山制度を取り入れ、南禅寺(別格)、天龍寺(第一位)、相国寺(第二位)、建仁寺(第三位)、東福寺(第四位)、万寿寺(第五位)というランク付けを行ないました。このランク付けは京都すべての禅寺ランキングではなく、この6寺の中で室町・足利政権にとって重要かどうかのランク付けだそうです。

 一方、五山には入っていない、いわば在野派の代表格が大徳寺。開山は大燈国師です。大燈国師のお師匠さん大応国師はわが静岡の井宮出身で、鎌倉建長寺の住持を務めた人です。で、大燈国師のお弟子さん関山慧玄は京都妙心寺の開山。この3人の法系〈応―燈―関〉が、臨済禅の柱になったのですね。その後、ごちゃごちゃになって勢力を失った臨済禅法系を江戸中期の白隠禅師が再興し、今日のZENを築いた、というわけです。

 

 話がずれましたが、在野の禅堂・大徳寺の歴代住職で筆頭に上がるのが一休禅師でしょう。反骨で変わり者といわれた一休さんですが、エリート五山僧とは違い、貴賎を問わず芸能者に禅を説き、庶民に愛されました。やはり静岡に縁のある連歌師宗長は一休さんの大ファンで、大事な家宝の源氏物語写本を売り払って大徳寺三門を寄進。侘び茶の創始者である村田珠光は一休さんから圜悟禅師(「碧厳録」を著した中国の名僧)の墨蹟をもらい、草庵に墨蹟を飾って茶を点てる茶道の原型を築きました。墨蹟とは「喫茶去」「日々是好日」「看脚下」といったお馴染みの禅語ですね。茶室では墨蹟を高僧その人に見立てて礼を尽し、教えを乞う場として位置づけたのです。珠光が弟子の古市播磨法師に書き記した「心の文」には、「此の道、第一わろき事ハ心のかまんかしやう(我慢我執=己の慢心と執着)也」とあり、茶の湯が単なる喫茶文化ではなく、禅の道そのものであると伝えました。

  

 珠光の孫弟子にあたるのが堺の豪商・武野紹鴎。その弟子が千利休です。紹鴎は大徳寺の大林宗套に禅を学び、利休も大林宗套や、大徳寺歴代管首が住持を勤める堺・南宗寺の笑嶺宗訴や古渓宗陳に参禅。利休宗易という法名をもらいました。

 話はまたまた逸れますが、この南宗寺には、徳川家康公の墓があるそうです。大阪夏の陣の茶臼山の戦いで家康は敵から逃げる際に乗っていた駕籠(かご)ごと後藤又兵衛の槍に突かれて重傷を負い、南宗寺に運ばれて絶命したという伝説が残っていて、その伝説に沿うように建てられたとか。太平洋戦争の後、水戸徳川家家老の末裔・三木啓次郎氏が東照宮跡碑として建立し、墓の裏にある賛同者名の中には、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助氏の名前も。家康公没後400年の記念事業真っ只中の駿府静岡人からしたら「・・・んな、馬鹿な!」と仰天しちゃいますが、徳川秀忠、家光の両将軍が相次いで同寺を参拝している記録もあり、徳川家にとって特別な場所であることは間違いなさそう。駿河茶禅の会でぜひ一度訪ねて検証してみます!

 

 さて利休はそれまで茶室には中国の高僧の墨蹟を飾っていた伝統を破り、あるとき、一休さんが書いた達磨大師の一行句を飾り、「卒塔婆を飾るようでとても良い」と言われたとか。中国高僧の墨蹟は長文で読みづらいし、客人も読む気になれない。でも分かりやすい一行句、しかも日本人が親しむ一休さんの墨蹟なら、墨蹟そのものを一休さんの卒塔婆に見立て、茶を献上するという気持ちになれるというわけです。

 

 利休は、連歌師宗長が寄進した大徳寺三門(金毛閣)を二階建てに建て増ししました。ここに雪駄履きの利休木像が置かれたことから太閤秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられたと伝えられます。真相はさだかではありませんが、熊倉先生は「利休は生死をかけて禅に向き合っていたのではないか」と説きます。一休の墨蹟を卒塔婆に見立てたり、三門への難癖に反論せず黙って切腹を受け容れた。先生が訳注された【南方録】には、利休の教えとして、

 「家ハもらぬほど 食事ハ飢えぬほどにてたる事也。是仏の教 茶の湯の本意也。水を運び 薪をとり 湯をわかし茶をたてゝ 仏にそなへ 人にもほどこし 吾ものむ。花を立て香をたく みなゝゝ仏祖の行ひのあとを学ぶ也」

 と書かれています。雨露しのげる家と飢えない程度の食事があればよいというのが茶の湯の本意とし、茶はまず仏さまに、次に客人に、最後に自分にも、という教え。「茶は、“吾ものむ”で初めて完成する。すなわち、利他と自利の円満なる姿が仏の教え」と熊倉先生。あっそうなんだ・・・と気づかされました。

 茶の湯の精神=おもてなしの原点とは、ひたすら他者に誠意を尽すことだと考えていたのですが、熊倉先生は「客が亭主の心遣いに気づいて感謝する。双方向の思いによって完成するもの」と指摘されました。・・・確かに、いくら亭主が心を尽しても、客が何も気づかず、感じないままで帰ってしまったのでは、その茶席で過ごした時間は互いに無駄になってしまいますね。そう考えると、ときに、秀吉や家康にも茶を点てたという時間は、利休にしてみれば、まさに生死をかけた時間だったのだ・・・と迫ってきます。

 

 利休の孫で千家3代目の千宗旦は81歳まで長生きし、3人の息子に大名家のパトロンをつけて表千家・裏千家・武者小路千家を興した功労者ですが、30歳から60歳ぐらいまでうつ病をわずらい、まともに人にも会えず、“乞食宗旦”と呼ばれていたそうです。唯一話し相手になっていたのが大徳寺の僧たち。生活苦のため、利休から受け継いだ貴重な茶道具を売り払ってしまい、それでも足りないときは大徳寺の僧が墨蹟を書いて売って助けたとか。これも、茶の湯と禅のかかわりを物語るエピソードですね。

 

 江戸時代以降、形式や権威付けによって、茶人は“我慢我執の権化”と揶揄されるようになってしまいました。「日本の芸道は好きもの=数寄もの=風流に執着するものによって発展した。執着しすぎて出家までする武士もいたほど」と熊倉先生。利休の精神から乖離したように見える茶の湯ですが、21世紀の今、形式や権威付けのために学ぼうとする日本人はいないと思う。今こそ初心に戻って、珠光の “我慢我執を捨てよ” と、利休の “仏にそなへ 人にもほどこし、吾ものむ” 精神を見つめなおすときではないでしょうか。

  茶道同様、家康公400年祭のような顕彰イベントも、形式再現で終わるのではなく、顕彰すべき先人の教えや精神を現代に生かす学びの機会にしてほしいと願います。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒い服を着る機会

2015-09-07 20:07:42 | 東日本大震災

 週末は2年ぶりに福島いわきへ車でひとっ走り。道の駅よつくら港を運営するNPO法人よつくらぶ理事長佐藤雄二さんの葬儀告別式に参列させていただきました。享年59歳。病気が発覚してまもない急死とのことで、ご家族やお仲間はもちろん、なによりご本人にとって、さぞご無念だったと思います。

 

 佐藤さんは生まれ育ったいわき市四倉で建設会社を営むかたわら、趣味の剣道を通して地域の青少年教育やまちおこし活動にも熱心に取り組んでおられました。市町村合併していわき市に編入された四倉の町の絆を大切に守っていこうと町おこし団体(四倉ふれあい市民会議)を立ち上げ、NPOを設立し、民設民営で道の駅よつくら港を創り上げました。

 オープン2年目にして震災に遭い、ふたたびゼロベースからの立ち上げ。この間、取材(こちらのカテゴリーをぜひ)にうかがった私は、道の駅よつくら港での復興活動に尽力されるお姿しか存じ上げませんでしたが、2013年にリニューアルオープンにこぎつけ、2014年には震災孤児・遺児たちのために「チャイルドハウス・ふくまる」を増設。佐藤さんが経営されている建設会社がどれほどの規模かはよく知りませんが、本来、自分の会社を大きくすることに投資してしかるべき時間や労力を地域のために費やした佐藤さんの企業人としての姿勢は惚れ惚れします。

 この写真は道の駅よつくら港の事務所でスタッフの皆さんから「いい表情でしょう?」と見せていただいたもの。2年前の道の駅リニューアル直後の佐藤さんです。

 

 告別式では出身校の日本大学工学部の恩師や剣道仲間、四倉での剣道場のお仲間の弔辞が心に沁みました。企業家が、しがらみの多い地元で公助や共助を実践し続けることができた根底には、武道で鍛えた克己心や義侠心、他者を思いやる懐の大きさがあったのだと解りました。葬儀会場に飾られた花輪、弔電、会場に入りきれない参列者の驚くような数の多さに、佐藤さんが地域でどれほど得難い“人財”であったかが示されていました。

 

 

 ところでお寺のバイトを始めて以来、“葬式仏教”と揶揄される今の仏教や葬儀について内から外から様々考える機会を、意識して持つようにしていたのですが、福島へ行く直前、仏教系の新聞・中外日報の社説【黒い服を着る機会 広まる「身内葬」に思う】という記事を目にしました。最近の傾向として、葬式は身内だけで簡素に済ます「身内葬」や、病院から火葬場へ直接運ぶ「直葬」が増えているそう。お寺で葬式を行なう人は確かに少ないし、広報の仕事を手伝っている友人の食品会社でも「仏事(香典返し)の需要がめっきり減った」と。お墓の問題もそうですね。管理しきれないからと、お墓を移したり閉じたり、ということが比較的抵抗なく行なわれているようです。日本人の宗教感覚はやはり変化しているんだな、と実感します。

 

 ご本人の遺志として仰々しい葬式を望まない、或は人を呼べない特別な事情がある場合を除けば、私自身は縁のあった人を出来るだけ多く招いてしかるべきではないかと考えます。人の人生とは、縁のあった人々と共に刻んだ時間の積み重ねでしょう。葬式は、その人が結んだすべての縁をつなぐ唯一の機会です。

 佐藤さんの場合、建設会社社長として業界での公的役職もしっかり務めておられたこと、剣道の達人で、日大工学部出身で恩師や学友を大事にされ、地域の剣道指南者として子どもたちの面倒をよく見ていたことなど、初めて知る一面を会葬者の顔ぶれからうかがい知ることができました。弔辞を読まれた方以外にも、佐藤さんのいろいろな顔をご存知の方が多くいらっしゃって、お身内が知らないこともあるはず。静岡へ来られたとき、青葉おでん横丁や玄南通りの居酒屋で地酒を飲んで盛り上がったことなども、おそらく存じ上げないでしょう(笑)。佐藤さんと縁のあった人々が、佐藤さんとの思い出を心置きなく語り合い、佐藤さんという人の人生をより深く、より鮮やかに脳裏に刻む・・・それが故人にたいする何よりの供養だなあとしみじみ思いました。

 私自身はこのまま子なし独身で一人暮らしを続けていたら、世間並みの葬式は望めないと思いますが、縁のあった居酒屋で縁のあった人が縁のあった酒を呑んで大いに盛り上がってくれたら嬉しいなあと想像します。今からでも、自分より長生きしそうな飲み仲間を大切にしなくては(笑)。

 

 今まで参列したお葬式では、型どおりの儀式・挨拶だけで、故人について、自分が知る範囲以外のことは分からず終まい・・・というケースがほとんどでした。その意味で、今回の佐藤家の葬儀は、福島まで往復1000キロ車を飛ばして来た甲斐のあった、心に残るいいお葬式でした。ご遺族の皆さま、NPO法人よつくらぶ及び道の駅よつくら港の皆さま、お世話になりました。

 

 

  最後に中外日報の記事を紹介しておきます。

 

黒い服を着る機会 広まる「身内葬」に思う 〈2015年9月4日付 中外日報(社説)〉

病気で亡くなった愛児を生き返らせてほしいと頼まれた釈尊は、その母親に「葬式を一度も出したことのない家からケシの実をもらってきなさい」と言った。母親は家々を訪ね歩いたが、葬式を出したことのない家は一軒もない。母親は、初めて死の現実を受け止めることができたという。

先頃、哲学者としても評論家としても有名な人物が亡くなった。真っ先に訃報を伝えた新聞には、死去の日時や場所、病名等の記載がなかった。本人が葬儀を営んではならぬと遺言し、遺族がそれを守ったため、世間並みの発表が遅れたものらしい。珍しいケースであった。

奈良県在住で、間もなく喜寿を迎えるAさんは、このところ川柳を楽しんでいる。5年前に作った「定年後たまの外出黒い服」は仲間うちで好評だった。仕事を離れた現在は、いつも自宅でカジュアルな服装でいる。ネクタイを締めて出掛けるのは、友人知己の通夜か葬儀のときに限られる、という日常を詠んだものだ。

だがAさんは、この句を詠んで以後「黒い服」を着る機会がめっきり減ったことに気付いた。同窓会からも、職場のOB会からも、訃報が届くことはない。時代の流れで地味な「身内葬」を選ぶ家が増えたためだ。新聞に掲載される有名人の場合も「葬儀は身内で済ませた」の書き込みが目立つ。Aさんは「100円ショップで買い置きの香典袋は出番がなく、色があせた」と苦笑する。

「新聞の川柳欄では、告別式が同窓会に早変わりしたという句を何度も見た。弔いの場を旧交を温める機会にするのは不謹慎と見られるかもしれないが、案外、故人もそれを喜んでくれるかもしれないと理由付けして、典礼会館からの帰途、精進落としの場所を探したものだ。そんな機会が減ったのは寂しいですね」

多くの会葬者の集まる葬式が少ないのは、一般市民が宗教と接する機会が減ることを意味する。仏式,神式にせよキリスト教式にせよ、それぞれの宗教の行き届いた式次第に接すれば、信仰心を高める効果があるはずだ。宗教者の工夫で,華美を避け、質素な中にも心のこもった葬送を創出できるのではないだろうか。

Aさんの趣味は川柳だが、お寺の檀徒には俳句ファンも多い。一部寺院では寺報に文芸コーナーを設けて、檀信徒交流の場としているところもある。こうした配慮で「身内葬」のワクを打破することはできないであろうか。年末に届く喪中はがきで旧友の訃を知るのは、寂し過ぎる。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015年秋・白隠禅師展&地酒講座のご案内

2015-09-01 20:44:56 | 白隠禅師

 9月スタートの今日は、この秋、私が関わる諸々の行事お知らせを。

 

 まずは白隠さん関連から。直近で9月5日(土)にグランシップ連続講座【静岡×徳川時代】の第4回として、芳澤勝弘先生が「富士山と白隠」をテーマに講義されます。

 「駿河には過ぎたるものが二つあり・・・」と謳われる徳川時代の静岡の偉人、原の白隠禅師が残した大量の書画の中から、富士山にスポットをあて、そこに込められたメッセージを読み解きます。こちらを参照。

 ◇日時 9月5日(土) 14時~

 ◇会場 グランシップ9階910会議室

 ◇講師 芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所元教授)

 ◇費用 1000円 *直接会場で受付可

 

 

 沼津市主催の【白隠禅画墨蹟名品100展inぬまづ】と【駿河白隠塾第2回白隠塾フォーラム】は、9月のシルバーウィークに開催します。

 白隠禅師が遺した1万点とも言われる書画。その多くは目に触れる機会が限られています。今回の展示は、約100点にのぼる国内有数の規模。白隠塾フォーラムでは芳澤先生がいくつかの書画を詳しく解説。斬新で迫力に満ちた白隠書画の名品をより深く堪能することができます。私は9月24日(木)に会場当番で詰めております。連休明けの平日でたぶん静かだろうな・・・じっくり鑑賞できる穴場日です!

 ◇会期 9月18日(金)~27日(日) *会期中、一部入れ替えあり。

 ◇時間 10時~16時30分(入場は16時まで)

 ◇会場 プラザヴェルデギャラリー(キラメッセぬまづ2階)

 ◇料金 500円(高校生以下無料) 事前申込不要

【第2回白隠塾フォーラム】

 ◇日時 9月23日(水・祝) 13時~15時

 ◇会場 プラザヴェルデ3階コンベンションホールB

 ◇内容 第1部「白隠禅師の世界」 第2部「白隠禅画墨蹟名品100選展inぬまづ 展示作品解説」

 ◇講師 芳澤勝弘氏(駿河白隠塾塾長/花園大学国際禅学研究所元教授)

 ◇料金 一般2000円  駿河白隠塾会員は無料 

 ◇申込 要事前予約  駿河白隠塾事務局 TEL055-925-0512  

     hakuinjuku@hakuin.jp  (メールでは件名を「第2回白隠塾フォーラム申込」とし、住所・氏名・電話番号を明記)

 

 

 FBでは先行告知した朝日テレビカルチャーの新講座【地酒ライターとめぐる酒蔵探訪】。静岡スクール(新静岡セノバ5階)で10月から開講で、9月中に入会申込すると入会金(3240円)が無料になります。

 

 これまで有料カルチャーで講師の依頼があっても、私自身はカルチャー講師にふさわしい資格(利き酒師とか日本酒学講師など等)を持ち合わせていないため、知り合いの酒販店主を講師に紹介してきました。酒販店さんなら試飲酒の手配ができるし、講師にも受講者にも互いにメリットがありますしね。今回は、5月の志太平野美酒物語2015の会場で偶然再会した中学高校の同級生A子ちゃんが、現在朝日カルチャーに勤めており、「静岡スクールには日本酒講座がないから、ぜひやって!」と本人リクエスト。しずおか地酒研究会でやっているような内容でよければ、と受けることになりました。

 地酒研でやっていることといえば、現場をみて、現場の人の声を聴くこと。集団での酒蔵見学となると、場所は限られるかなと思いましたが、「私が行きたいのはここ!」とA子ちゃんが挙げた3蔵にダメもとでアタックしたら幸運にもOKをいただけました。酒の専門家ではない、単なる取材記者の私では講師としていたらない点は、訪問先の蔵元や杜氏のみなさんが助けてくださると信じています。というか、消費者のみなさんを現場の造り手につなぐのが私の役割だなと。

 年末はさすがにどこもテンテコマイだと思ったので、地酒研で困ったときにいつも頼ってしまう後藤英和さん(ときわストア店主)に甘酒づくり指導をお願いしました。初回と2回目はセノバの教室で「吟醸王国しずおかパイロット版」を観てもらってざっくり解説&テイスティングを楽しんでいただこうと考えています。地酒に興味のある方、仕込み最盛期の酒蔵をのぞいてみたい!という方は、ぜひぜひ受講生になってくださいね。詳しくはこちらを!

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする