杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

チイチイ餅と食い別れ

2021-07-16 20:46:41 | 歴史

 久しぶりの投稿です。お休み期間も過去記事に多くのアクセスをいただき感謝いたします。ブログを書き始めて15年になりますが、時間が経っても必要とされる人に届く記事を書きたいと願ってきたので、心から嬉しく思います。

 誰かに必要とされる記事を書き続ける―その自信とモチベーションを持ち続けるのに、私の場合、外を走り回って人に会い、場の空気を感じ、たくさんの刺激を脳に与えることが必須で、コロナ禍の行動制約は、自覚する以上にダメージとなっていました。ある特定の記事に酷い中傷コメントを連発されたことも、じわじわとボディブローのように気持ちを萎えさせた一因でした。

 まだまだ制約の多い毎日ですが、外に出る仕事が少しずつ戻ってきて、それに伴う新たな調査や資料読みが刺激をもたらし始めています。これから少しずつ更新頻度を上げていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。

 

 先日、某メディアから、このブログで2012年7月に書いた『風流と慰霊のはざまで~安倍川花火の今昔』という記事(こちら)について問合せがありました。文中の〈花火は徳川時代、泰平の世にあっても武家の伝統として砲術・火術の秘法を守ろうと譜代の若者たちが継承してきたもの〉という節の根拠は何かという問合せ。これを書いたときは安倍川花火大会公式HPの記事(こちら)を参照しただけで、自分で江戸時代の花火史を調べたわけではなかったので、少々気まずい思いをし、やはり個人ブログといえども歴史を取り上げるときは二次資料ではなく、可能な限り一次資料を当たり、エビデンスを示さねばと痛感しました。

 

 現在、取り組んでいるのは昔から関心を寄せていた葬礼にまつわる考察。静岡県民俗学会誌第23号に掲載されていた松田香世子先生の『食い別れの餅』という論文に惹かれ、松田先生が参考にされた新谷尚紀先生の『日本人の葬儀』、新谷先生が参考にされた柳田国男の『食物と心臓』へと読み進めるうちに、御飯・餅・酒など米を原料にしたもの、あるいは米そのものが、死者と生者をつなぐ重要なものだったと解り、知的興奮を得ています。

 

 私が生まれた清水には、お盆とお彼岸に〈チイチイ餅〉を供える風習があります。松田先生の『食い別れの餅』によると、もともとはお葬式に出された餅で、出棺前後に死者と生者が最後に共食して縁を絶つ “食い別れ” の儀式で食べていたそうです。

 同様に、裾野では出棺のときに庭で餅つきをし、由比では〈チューチュー餅〉という塩餡の餅を配り、福田ではお葬式の朝に餅つきをし、参会者の食事に出していたそう。

 浅羽ではお葬式から3日後の精進落とし(=ミッカノモチ)として夜なべして餅をつき、親類や寺などに配り、四十九日にも餅をついて49個に切り分けて配ったそう。

 チイチイ餅は、四十九日のときも寺へ持参し、仏さまにお供えします。つまり仏さまとの食い別れをも意味するといいます。菓子店のしおりによると、チイチイ餅の名前の由来はネズミのかたちに似ているから、だそうですが、松田先生は 〈キチュウ(忌中)〉が語源ではないかと考察されます。

 志太榛原地区にもチイチイ餅によく似た〈ハト〉〈サンコチ〉という正月餅があり、〈サンコチ〉は女性の陰部!を指す隠語だそう。五穀豊穣や子孫繁栄を願って供えられたのでしょうか。〈ハト〉は山梨の〈ホウトウ〉、東北の〈ハットウ〉、長野の〈オハット〉等々、全国に似たような名前の郷土料理があり、松田先生は「いずれも手で握るカタチが基本」と考察されています。チイチイ餅はお汁粉に入れるチギリダンゴのように、小麦粉を水で溶いて手で固めてちぎる素朴な餅、というわけです。

 柳田国男は『食物と心臓』の中で、餅はもともと心臓を模したものという仮説を立てています。信州ではミタマ様という三角形の握り飯をお供えすることから、

食物が人の形體を作るものとすれば、最も重要なる食物が最も大切なる部分を、構成するであらうといふのが古人の推理で、仍つて其の信念を心強くする為に、最初から其の形を目途の方に近づけようとして居たのでは無いか」と。

 

 食い別れの餅であるチイチイ餅が、正月餅のハトやサンコチと形がよく似ているのは、ミタマをまつるという共通の意味があったのですね。しかも穀物の粉を握って作ることに意味があり、ミタマ=いのちを指し示すように心臓や女陰を模して作る。これほどの米の力が、食い別れから忌み明けに必要とされていたのです。

 米の力といえば、餅だけでなく酒も同じ。新谷尚紀先生の『日本人の葬儀』によると、

〇死者の身体をタライの湯で洗う湯灌の役目は、酒を飲んでから行う。これを“湯灌酒”という。

〇墓の穴掘り当番にあたったら、握り飯やおかずや豆腐とともに酒がふるまわれ、握り飯や酒は決して残してはいけない。火葬の場合も焼き場の当番は夜通し酒を飲みながら焼く。

という風習が東北~関東、近畿、四国、九州の一部に残っていたとのこと。葬礼そのものが家から離れ、ほとんどを葬儀業者に委託するようになった今では想像もつかない作業ですが、長い間、日本人は死と直接、接触するときに、酒=米の力をいかに必要としていたかが伝わってきます。

 

 ちょうどこれらの本を読み込んでいたとき、ある若い女性から「稲作って地球環境を悪化させるんですよね」と指摘され、ギョッとしました。稲作は人間が作り出すメタンガスのうち約10%を占める排出源とされ、田んぼから発生したメタンガスは、イネの根や茎を通って大気中に放出され、回収は難しい。まさに現代農業が抱えるジレンマです(水田から発生するメタンを削減させる研究も進んでいますのでこちらを参照してください)。

 柳田国男が生きていたら、このジレンマをどのように考察するでしょうか・・・。