杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

柳陰と日本酒カクテル

2017-07-27 10:26:43 | 地酒

 前回記事で、広島県鞆の浦の『保命酒』のことを書いた後、日刊いーしずの連載コラム〈杯は眠らない〉2013年8月掲載の記事を思い出しました。再掲しますので、この時期の家呑みに参考になれば幸いです。

 

 ◇

 

 静岡弁で“やっきり”するほど暑い夏。人前では日本酒しか呑みません宣言をしている私も、外出先から帰ってくると冷蔵庫からまず取り出すのが冷え冷えの缶ビールになっちゃって、これじゃぁ日頃お世話になっている蔵元さんや酒屋さんに顔向けできないと忸怩たる思い…。できるだけこの時期、日本酒を消費する対策をあれこれ試している最中です。

 先日、フェイスブックに「暑いから日本酒をソーダ水で割って飲んでいる」と書いたら、「そんな飲み方があるの!?」というコメントをもらいました。「自由にアレンジしていいんですよ♪」と返信しながら、自分もちょっと前まで、“蔵元さんが丹精込めて造った酒を、勝手に加工しちゃいけない”と思い込んでいたよなぁ…とセルフ突っ込みしてました(苦笑)。

 実は、しずおか地酒研究会で2012年7月、藤枝市文化センターで【酒と匠の文化祭~夏版】というイベントを開いたとき、酒販店会員の後藤英和さんに、日本酒を使ったサマーカクテルをあれこれ考案してもらい、お客さんと一緒にテイスティングを楽しんだのです。

 

 こちらがそのレシピ。合わせる量はお好みです。

 

●SAKE・ライム/ロックアイス+日本酒+ライムジュース

●SAKE・ロック/ロックアイス+どぶろく

●ドブ・ハイ/どぶろく+ソーダ

●SAKE・リッキー/日本酒+ライムジュース+ソーダ

●SAKE・トニック/日本酒+トニックウォーター

●SAKE・フィズ/日本酒+レモンジュース+サイダー

●SAKE・バック/日本酒+レモンジュース+ジンジャーエール

●SAKE・カルピス/日本酒+カルピス+ソーダ

●SAKE・オレンジ/日本酒+オレンジジュース

●SAKE・アップル/日本酒+アップルジュース

●SAKE・ピーチ/日本酒+モモの果肉(みじんぎり)

●SAKE・梅ハイ/日本酒+梅酒+ソーダまたはサイダー

●酒茶漬け/水洗いした冷や飯に好みの具(鮭・梅・塩から等)をのせ、キンキンに冷やした酒を注ぐ。

●酒しゃぶ/出汁のかわりに酒で肉・魚・野菜をしゃぶしゃぶする。沸騰させてアルコールを飛ばす。

 

 

 冒頭の「SAKEライム」は、日本酒をライムで割ったカクテル「サムライ・ロック」でおなじみですね。外国人受けを狙ったネーミングなのかな。いずれにしても、このレシピのおかげで、気分や体調に合わせて氷やミネラルウォーターで割って飲むスタイルを自然に楽しめるようになりました。レシピの中では日本酒をレモンジュースとジンジャーエールで割った「SAKEバック」がお気に入り。爽快で飲みやすくて、これなら日本酒が苦手という女子たちにも薦められます。

 ◇

 【酒と匠の文化祭】では、後藤さんのカクテル片手に、フリーアナウンサー國本良博さんに、酒の名文を朗読してもらうスペシャルステージを行いました。國本さんに読んでいただく文章をあれこれ探していたとき、目に留まったのが、篠田次郎氏の『日本酒ことば入門』(無明舎出版)。その中に、こんな一節があります。

 

 

8月の酒 柳陰

 猛暑のシーズン、だれもが疲労回復の妙薬が欲しいと思うだろう。現代人なら健康ドリンクの小鬢の蓋を開けて、グイーっとやって、しばしスタミナが回復したと思うのであろうが・・・。それと同じ効果を、江戸の人たちもやっていた。

 ビタミン剤とか疲労回復剤なんどが発明・発見される、はるか以前のことである。

 私たちの体を活性させる一番の妙薬は、体を動かすエネルギーを補給することである。それは、枯渇した糖分を補給すればいいのだ。糖分でなく、デンプン質でもいいし、アルコール分なら、より効き目は早く来る。ウソと思うなら、お手元のドリンク剤の成分をよく読んでみてほしい。

 ごはんのデンプンを、麹の力で糖化した『甘酒』は、江戸の人の夏の飲み物だった。甘酒売りから甘酒を買って飲む。そうすれば疲労感はすっ飛ぶのだ。

 それに、少量のアルコールが入っていれば、効果は倍増する。「甘酒なんて女・子どもの飲み物だ」とおっしゃる飲んベイ、江戸っ子はそれなりの智恵を働かせた。

 彼らは夏の真っ盛りの飲物に「柳」に「陰」と書いて「柳陰」というのを愛用した。それは、酒屋で売っているのではなく、自分で作ったのである。

 作り方はいたって簡単。酒にみりんを加えるだけだ。みりんは主に調理に使われる甘さとうまみ材である。甘さがたっぷりはいったアルコール系飲料だから、エネルギー欠乏時の活性剤としてはまさにずばりの飲物である。

 ウソだと思う人は、ドリンク剤の成分をもう一度お読みください。

 篠田次郎氏『日本酒ことば入門』(無明舎出版)より

 

 

 文中に出てくる「柳陰(やなぎかげ)」という酒、気になりますよね。古典落語の『青菜』に登場する酒です。

「植木屋さん、こっち来て一杯やらんかいな。」

「へえ。旦那さん。おおきにありがとさんでございます。」

「一人で飲んでてもおもろあらへん。植木屋さん相手に一杯飲もうと用意してましたのじゃ。どや、あんた柳蔭飲まんか。」

「へっ! 旦那さん、もうし、柳蔭ちゅうたら上等の酒やおまへんか。いただいてよろしいんで?」

「遠慮せんでよろし。こうして冷やしてました。さあ、注いだげよ。」

「こら、えらいありがたいことでおます。」

 

 ってな感じの軽妙なやりとり。最初に聴いたとき、「柳陰」ってどこの蔵元のどんな高級酒かと思いましたが、調べてみたら、焼酎をみりんで割った“酒カクテル”だったんです。

 

 確かに丁寧に醸造された本みりんは、ストレートでも飲める美味しさ。度数の高いアルコールとブレンドすれば、アルコール由来のつんつんとした辛さを甘くまろやかにコーティングしてくれるでしょう。オンザロックや炭酸水で割れば、度数が低くなり、グイグイ爽快に飲めます。

 わが家には焼酎の買い置きはないので、日本酒に、ふだん料理に使っている杉井酒造(藤枝市)の純米みりん『飛鳥山』と、広島県福山市の薬草酒『保命酒』をそれぞれ半量混ぜてロックにして飲んでみたら、篠田氏ご指摘のとおり、時々飲む栄養ドリンク剤からクスリ臭さや香料臭さを除去したような、自然の甘みがふんわり口中に広がり、ビックリするほど美味しかった。この時期の滋養強壮にピッタリだと実感しました。

 ちなみに、保命酒というのは、広島県福山市鞆の浦で江戸時代から造られている薬草酒。2007年静岡市製作の映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の脚本を担当したとき、鞆の浦で見つけた通信使ゆかりの地酒です。幕末には、老中阿部正弘(福山藩主)が下田でペリー一行にこの酒を振舞ったという逸話も残っています。 

 ◇

 体力が落ちているとき、人は甘いものを欲するといいます。鑑評会出品酒が甘い酒になっているのは、甘い=オイシイの代名詞になっている傾向の表れだし、何でもかんでも甘味を第一評価するというのは、現代日本人が疲れている、あるいは味覚が原始化?しているのでは、と考えさせられます。自分も、日本酒に甘味や酸味を加えてアレンジしたくなるのは、やっぱりいつもの調子じゃないときだって自覚します。

 日本酒は、夏を越し、涼しくなる秋口からグーンと旨味が増してくるといわれます。それは、熟成の妙だけでなく、受け止める人間の味覚も“本調子”に戻ってくるからじゃないでしょうか。

 

 自分も、この暑さがひと段落したら、日本酒本来の香味バランスと繊細な渋味や辛さを美味しく感じられる状態に戻れるんじゃないか、と期待しつつ、それまでは江戸っ子の知恵や流儀を上手に取り入れ、汗をかきかき、今夜も冷蔵庫や調味料棚を物色しています。杉井酒造では、日本酒「杉錦」、焼酎「才助」、みりん「飛鳥山」が揃っているので、杉錦トリプルブレンドに挑戦してみようかな。

 

 

 


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阿部正弘と朝鮮通信使

2017-07-17 20:14:50 | 朝鮮通信使

 先日、ふじのくに地球環境史ミュージアムで開催中の企画展『雲の伯爵―富士山と向き合う阿部正直』に行ってきました。阿部正直伯爵は明治時代、富士山に発生する山雲の観測に生涯をささげた理学博士。会場では約100点の写真や撮影機器が並び、戦前に撮影された富士山の見事な写真芸術が堪能できました。

 展示会に足を運んだきっかけは、6月28日の静岡県朝鮮通信使研究会で北村欣哉先生から、阿部正直が幕末の老中阿部正弘の子孫だと聞いたからです。

 福山藩主阿部正弘(1819~1857)は26歳で老中首座(今の総理大臣)に抜擢され、開明派といわれる外様大名(松平春嶽島津斉彬、伊達宗城、山内容堂徳川斉昭等)を重用。黒船来航という日本始まって以来の安保・通商危機や安政大地震に見舞われつつも、約200年続いた鎖国政策を大転換させました。長崎に海軍伝習所を設け西洋砲術の推進し、「大船建造の禁」を緩和して軍備の西洋化や洋学所を作らせ、慣習や身分に関わらず人材を登用するなど幕政改革を断行。勝海舟や江川英龍らが活躍の場を得ました。

 徳川13代・14代の軟弱な将軍に仕え、老中職のまま38歳で病死しますが、間違いなく近代日本の礎を築いた人物。幕末史の中ではあまり取り上げられませんが、彼がこのとき老中首座にいなかったら日本はどうなっていたんだろう、もし長生きしてたら確実に幕末史は変わっていただろうと思います。

 

 そんな阿部正弘が、実は「朝鮮通信使」という表現を初めてした人物だと北村先生からうかがって、ビックリしました。それまで徳川幕府は「朝鮮信使」「韓使」と呼んでいたそうで、安政期にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと通商条約を結ぶ際、朝鮮国との長い友好関係について通商(ビジネス)ではなく通信(よしみをかわす)であると明確にしたため。最後の朝鮮通信使がやってきたのが、阿部正弘が生まれる前の文化8年(1811)ですから、彼には通信使を接待した経験はないわけですが、徳川政権にとって特別な存在だったことは政権中枢に在る者ならばよく理解していたことでしょう。

 彼の出身地である福山藩には、朝鮮通信使が「日東第一景勝」と呼んで最も愛した鞆の浦があり、鞆の浦の名産である保命酒(薬草酒)を接待に使って喜ばれた。そのことをよく知っている阿部は、ペリーが下田にやってきた時、故郷から保命酒を取り寄せて接待に使いました。下田の土屋酒店ではその故事にちなんで、ペリーラベルの保命酒を販売しています。私はこれを今のような暑い時期には炭酸水で割って風呂上りによく飲みます。

 

 6月28日の静岡県朝鮮通信使研究会では新規受講者が増えたため、北村先生が朝鮮通信使が何人で、どんなスケジュールで漢城(ソウル)から江戸まで往復したかをおさらいしてくれました。


第1回 慶長12年(1607) 1月12日~7月19日 (6か月と7日) 467人

第2回 元和3年(1617) *京都まで 478人

第3回 寛永元年(1624) 8月20日~3月23日 (7か月と3日)*日光まで。300人

第4回 寛永13年(1636) 8月11日~3月9日  (6か月と28日)*日光まで。475人

第5回 寛永20年(1643) 2月20日~11月21日 (9か月と1日)*日光まで。462人

第6回 明暦元年(1655) 4月20日~2月20日 (10か月) 488人

第7回 天和2年(1682) 5月8日~11月16日 (6か月と8日) 475人

第8回 正徳元年(1711) 5月15日~3月9日 (9か月と24日) 500人

第9回 享保4年(1719) 4月11日~1月24日 (9か月と13日) 479人

第10回 寛延元年(1748) 11月28日~7月30日 (9か月と2日) 475人

第11回 宝暦13年(1763) 8月3日~7月8日 (11か月と5日) 462人

第12回 文化8年(1811) *対馬まで 336人


 こうして数字だけ見ると、日本の随行員を合わせると500人をゆうに超える外交使節団が半年以上、ヘタをすると丸1年近く対馬から江戸までを往復していたわけです。最初の1~2回は回答兼刷還使(秀吉の朝鮮侵攻に対する謝罪の回答と被虜の返還を目的にした使者)で、3回以降は友好使節団として主に徳川将軍の交替時にやってきました。

 3回~5回はわりと短期間に、しかも日光まで行っていますが、いずれも3代将軍徳川家光の治世です。家光が通信使招聘を実現させた祖父家康をいかに尊敬し、通信使に自慢したかったかが分かるし、3度も招聘するだけの力がこの時代の徳川政権にあったということですね。

 

 ちなみに最もロングステイとなった第11回(宝暦13年)、静岡県内の日程を見ると、行きは2月6日に新居→浜松(泊)、2月7日に見附→掛川(泊)、2月8日は大井川増水のため掛川にもう一泊、2月9日は金谷→藤枝(泊)、2月10日は府中(宝泰寺でお昼休憩)→江尻(泊)、2月11日は吉原(悪天候のため泊り)2月12日は吉原→三島(泊)という7泊の行程。帰りは富士川増水のため3月14日~16日まで三島泊、17~19日まで吉原泊、3月22日~24日は大井川増水のため藤枝泊と計13泊したもよう。500人もの外交使節団が静岡県内に20泊もしたのですから、さぞ大騒ぎだっただろうと想像します。


 庶民にとっても、限られた港とその周辺でしか接点のない西洋人とは違い、朝鮮通信使と出合う機会や噂話を聞く機会は膨大な数だったでしょう。各地域を舞台に、本当に豊かな国際交流が花開いていたと思います。

 幕末、文化の異なる西洋列強から通商条約を強いられたとき、朝鮮とは「通信」で結ばれてきたのだと明言した阿部正弘。彼は福山藩主として代々接待役を務めていた家に生まれ、老中在職時には詳細な接待記録を目にしていたでしょう。実際、幕府は嘉永5年(1865)に第13回目を実現すべく対馬藩に交渉させていたのですが、時代がその実現を許してくれませんでした。

 阿部正弘本人も、自らの手で接待してみたかっただろうなあ・・・保命酒を味わうたびに、彼の早逝がどうにも悔やまれてなりません。

 

 なお『雲の伯爵―富士山と向き合う阿部正直』は8月13日(日)まで開催中。8月12日(土)夜には19時・20時に「ジャズと楽しむ雲の科学」というナイトミュージアムイベントがあるそうです。詳しくはふじのくに地球環境史ミュージアム(こちら)まで。


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千利休の故郷とゆかりの国宝探訪(その2)堺の歴史ウォーキング

2017-07-09 19:01:55 | 駿河茶禅の会

 前回の続きです。2日目(6月11日)は千利休の生まれ故郷堺市の史跡巡りを楽しみました。歴代大河ドラマで一番好きな『黄金の日々』の舞台にもなったまち。日本中世史上、重要な交易都市として、長年脳内トリップし続けてきましたが、実際に訪ねるのは今回初めてです。

 

 歴史教科書では、まずは仁徳天皇陵古墳のある町として登場し、遣明船が出港した1469年から、大坂夏の陣で焼失する1615年までの約150年の間、町人による自治都市、国際貿易都市として栄えた堺。1550年にはフランシスコ・ザビエル、1564年にはルイス・フロイス、1577年には織田信長がやってきて栄華を極め、堺の納屋衆(倉庫業者)出身の利休によって、“究極のおもてなし”である茶道が大成しました。

 利休が秀吉によって切腹させられ、さらに秀吉も亡くなると町衆の権力は失速し、大坂夏の陣で壊滅的な被害をこうむり、徳川幕府により商人の位置づけが「士農工商」と社会秩序の中で最低の格付けに据え置かれた・・・ということで、江戸時代は商人の町から職人の町へと変貌し、今の堺に残る史跡といえば鉄砲、包丁、織物等の職人屋敷が中心です。
 

 我々は、観光案内に載っていた約10㎞の散策モデルコースを参考に、9時に南海本線七道駅を出発。駅からすぐの清学院(江戸時代の寺子屋/国登録有形文化財)を訪ねたら10時開館で中に入れず。外観写真だけ撮っていたら清学院の観光ボランティアガイドさんがやってきて、建物の解説や周辺の見どころを即興案内してくれました。さすが究極のおもてなしを生んだ町のガイドさん!と一同感激でした。

 

 ガイドさんのレコメンドに従って、地図を片手に鉄砲鍛冶屋敷→江戸前期の町家・山口家住宅を外から眺め、寺院が軒を連ねる紀州街道界隈を30分ほど進むと、日蓮宗の名刹・妙國寺に到着。境内の大ソテツ(国天然記念物)で知られる名刹です。このソテツ、なんでも信長が気に入って安土城に移植したものの、ソテツが夜な夜な「堺へ帰りたい」と泣いたので激怒した信長が「切り倒してしまえ」と命じたところ、切り口から鮮血を流し、大蛇のごとく悶絶し、恐れをなした信長は、妙国寺に返したそうな。

 この寺には本能寺の変のときに徳川家康が滞在し、僧の機転で家康は難を逃れ、筒井一族の手引きで伊賀越えをして三河に戻りました。その後、家康に仕えていた小堀遠州が見事なソテツに心惹かれ、茶の師匠古田織部と妙國寺貫首の許しを得て枯山水の庭を創り上げました。石組みの中央に富士山、右側に富士川、左側に大井川が流れて遠州灘に注いでいる景観を取り入れて、ソテツの庭で駿府の国を再現し、大坂冬の陣でこの寺に滞在することになった家康を癒し、悦ばせたそうです。

 この寺はまた、幕末には堺を警護していた土佐藩士とフランス軍艦兵が衝突し、国際問題に。土佐藩はフランスに賠償金を払い、藩士20名に切腹が命じられました。切腹の光景があまりにも壮絶だったためフランス側が12人目で止めさせ、残り9名は流罪となったという『堺事件』の舞台にもなりました。

 そんなこんなで静岡人がビックリ感激するようなトリビアをご住職が丁寧に説明してくださって、土佐十一烈士の遺品、呂宋助左衛門がルソンから持ち帰って信長に献上した壺、本阿弥光悦が奉納した法華経等々のお宝が展示された宝物資料館もしっかり見せていただきました(寺院内部や庭は撮影不可)。


 堺の名産品がそろった堺伝統産業会館、望月先生ご所望の御干菓子『利休古印』を製造販売する丸市菓子舗で土産物をひとそろえした後、ランチで訪ねたのは創業元禄8年というトンデモ老舗の蕎麦店『ちく満』。メニューはせいろそば一斤、一斤半(1.5人前)のみ。生卵と熱い蕎麦つゆが添えられ、すき焼きのように生卵をつゆと混ぜ合わせます。せいろそばは、本当にセイロで蒸した、コシがまったくないうどんに近い柔らか~い蕎麦。コシのある麺をスルッとすすってのど越しを楽しむいつもの蕎麦とはあきらかに別モノですが、せいろそばって言うぐらいだから、もともとは茹でるんじゃなくて、蒸してこんなふうにモチモチしていたんだろうなあと想像します。

 望月先生が「やっぱりこしのある蕎麦で口直ししたい」と、帰りの新大阪駅構内でうどんすきの名店「美々卯」のそばを食べて帰るとおっしゃるのでおつきあいしました。うどん屋さんの蕎麦だけど、静岡人が食べ慣れたコシのある蕎麦でホッとしました(笑)。

 

 午後はちく満からほど近い場所に、2015年3月にオープンした文化ミュージアム『さかい利晶の杜を訪ねました。利晶というのは千利休と与謝野晶子の頭文字。与謝野晶子も堺生まれなんですね。ここで立礼呈茶をいただき、茶の湯の歴史展示資料を拝見。待庵を模した『さかい待庵』もしっかり復元されていました。ミュージアムが建てられた場所は、もともと千利休の屋敷があった場所。利休が使っていたと伝わる井戸が残っています。


 さらに15分ほど歩いて、本日のクライマックス・南宗寺に到着。武野紹鴎、千利休が禅を学んだ臨済宗大徳寺派の名刹です。

 こちらも内部は写真撮影不可につき、文字説明だけで恐縮ですが、境内には利休一門の墓があり、古田織部が作ったと伝わる枯山水庭園(国名勝)も。とくにコアな歴史ファンの間では、境内に徳川家康の墓があることでも有名です。

 静岡人にしてみればエッ⁉と思いますが、寺史には「大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」とあり、2代将軍秀忠、3代家光がそろって参詣した事実も。墓標近くには山岡鉄舟筆「この無名塔を家康の墓と認める」の碑文もあります。延宝7年(1679)には山内に東照宮が建てられ、水戸徳川家家老裔の三木啓次郎によって昭和42年に東照宮跡碑が建立されました。碑石の銘は「東照宮 徳川家康墓」と記され、賛同者名の中には、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助の名前もありました。

 家康の墓の謎には興味が尽きませんが、わが駿河茶禅の会としては、やはりこの寺が「茶禅一味」の精神を育んだ場所であることに思いが深まります。寺はもともと大徳寺90世の大林宗套(1480~1568)が開き、当時堺を治めていた三好長慶や堺の町衆に禅を教化。利休は南宗寺開山大林宗套と2世笑嶺宗訢に参禅し、極限まで無駄を省くわび茶を大成させたのでした。境内には利休の師武野紹鴎ゆかりの六地蔵石灯籠、利休が使ったといわれる袈裟型手水鉢、利休好みの茶室・実相庵等が残っています。

 山内の塔頭天慶院(非公開)の門前には、山上宗二(1544-1590)の供養塔が建っていました。

 現在、駿河茶禅の会では「茶禅一味」という概念を初めて記した山上宗二記を勉強しています。山上宗二も堺の町衆出身の茶人で、権力者にも物怖じしない性格で、秀吉の逆鱗に触れ、利休より1年早く処刑された人物。師である利休の“茶の湯革命”について、刑死直前に必死に書き留めたのが山上宗二記でした。わび茶の始祖といわれる村田珠光の一紙目録(秘伝書)を武野紹鴎が書き写し、そこに「紹鷗末期の言」として出てくるのが〈料知茶味同禅味 汲尽松風意未塵〉という言葉。大林宗套が紹鷗の肖像画の賛として送った言葉で、さらにこれを山上宗二が書き伝えました。

 「一味」はもともと仏教語で、仏の教えは説き方がさまざまあっても、その本旨はただひとつという意味。茶の道は禅の修行と本質が同じということです。その本質が何たるかを究めるのに50の手習いでは遅すぎる気もしますが、こうして心を同じくする仲間と紹鴎や利休が参禅したという寺を訪ね、山上宗二の供養塔に手を合わせる機会を得たことは大きな前進でした。

 


 旅の最後にお詣りしたのは、南海本線の途中駅にある住吉大社。大阪を代表する初詣スポットとして名前は知っていましたが、お詣りするのは初めてです。第一本宮から第三本宮までが直列、第四本宮と第三本宮は並列に配置されるという全国的にも珍しい本殿の配置で、20年に一度の式年遷宮が平成20~21年に行なわれ、平成23年には鎮座1800年祭が執り行われました。本殿(国宝)は住吉造りといわれる特殊なスタイルで、①柱・垂木・破風板は丹塗り、 羽目板壁は白胡粉塗り、②屋根は桧皮葺で切妻の力強い直線、③出入り口が直線型妻入式という特徴があるそうです。どうりで、荘厳で美しいけど、どこか見慣れぬ不思議な佇まいを感じました。

 

 住吉大社のご祭神は水都のお社らしく海の神様。お祓い・航海安全・和歌の道・産業育成の神として信仰されています。堺の町が最も輝いたのは戦国~安土桃山時代の150年間でしたが、その前もその後も、20年を節目に伝統を継承しながらこの地の歩みを見守り続けてこられたんですね。本質を変えないために更新するという二面的な強靭さ・・・禅の精神が憑依したわび茶にもそれを感じます。これぞ日本文化の特異性だなと改めて思い知ることのできた旅でした。




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千利休の故郷とゆかりの国宝探訪(その1)待庵と曜変天目茶碗

2017-07-03 10:30:56 | 駿河茶禅の会

 6月10~11日、駿河茶禅の会で京都・大阪・堺を廻ってきました。20名の大所帯ツアーながらお天気にも恵まれ、大変充実した大人の修学旅行となりました。

 今回のツアーのテーマは千利休ゆかりの国宝探訪、そして利休の生まれ故郷・堺の歴史ウォーキング。利休の唯一の遺構にして日本最古の茶室『待庵』(国宝)の見学からスタートです。2011年に会を作ってから6年越し、ようやくホンモノの待庵とご対面です。

 

 10日朝、集合時間より1時間早く山崎入りした私は、見学ルートを確認した後、時間まで天王山の登山道をブラブラし、登って10分ほどの宝積寺を訪ねました。天王山の合戦では秀吉が陣を置き、幕末禁門の変では尊皇攘夷派の真木和泉ら十七烈士の陣が置かれた古刹。724年に聖武天皇の勅命を受けたに行基が建てたと伝えられ、本堂の本尊の木造十一面観世音菩薩立像、閻魔堂の木彫りの閻魔大王に間近に拝顔できました。戦国、幕末の動乱期の人間の所業を、御仏たちはどのように見つめておられたのか想像すると、背筋がピンとしてきます。閻魔堂の出口扉を開いたら境内から聞き慣れた声がし、望月先生ほか数名のツアー仲間が「まゆみさんが閻魔堂から現れた!」と目を丸くしていました(笑)。

 

 待庵は、山崎駅前の妙喜庵という禅宗寺院の一角にあります。創建は室町時代。聖一国師の教えを継ぐ東福寺春嶽禅師が開山で、この場所は連歌や俳諧の始祖といわれる山崎宗鑑が隠遁していた屋敷跡だったそうです。宗鑑は応仁の乱の元凶とされる足利義尚(こちらを参照)の侍童だった人物で、義尚が25歳で早世した後、髪を下ろし、一休禅師に教えを乞い、一休亡き後、山崎に移り住んで華道や連歌を嗜みました。

 天王山の合戦が起きたのは妙喜庵3世の功寂和尚の時。秀吉は戦に勝った後も山崎に1年ほど住み着き、利休も山崎に屋敷を建てて功寂和尚に茶を指南したそうです。江戸時代の寛永年間1643年に第5回朝鮮通信使が訪日した折には、写字官金義信が『妙喜庵』の墨蹟を残しました。私は実物を2013年に高麗美術館開催の『朝鮮通信使と京都展』で見ています。

 高麗美術館企画展『朝鮮通信使と京都』2013年 図録より

  利休の茶室待庵があるお寺、という認識しかなかった妙喜庵が、今までさまざまな機会に学んだ歴史上の人物たちと深いかかわりがあることを知り、何やら急に親近感を覚えました。

 

 待庵はもともと利休の屋敷か天王山の秀吉の陣中に造られたようで、秀吉が大坂城に入った後、妙喜庵に移築されたとのこと。千家二代少庵の手が少し入っているそうです。

 それにしても、本物の待庵の佇まい。テレビや雑誌で何度も目にし、待庵の写しといわれる沼津御用邸内にある駿河待庵を訪ねたこともありましたが、本物はまったく違いました。禅の侘びを表現したわずか二畳敷の簡素な茶室ながら、壁に藁スサを塗り込んだり、隅をカチッと切らず丸く壁土を塗りまわしたり、窓のサイズが全部異なったりと、快適な空間づくりのために緻密な設計が施されていることを、素人目にも感じました。

 外から窓越しに眺めるだけ、入室はもちろん写真撮影もNGですが、戦国動乱の時代に建てられたとは思えないほど穏やかで優しい佇まい。ニセモノやレプリカが多く出回るような著名な建造物や芸術品の多くは、本物にはホンモノらしい気品があったり、意外に地味で小ぶりな印象だったり、ということがありますが、待庵にはそのどれにも当てはまらない不思議な「やわらかさ」を感じ、ツアー仲間の建築家永田章人さんと「ずっと眺めていたいですねえ」と眼を見合わせました。好奇心ではなく、心地よさから溢れ出たひと言です。建物だけでこれほどの感動を覚える経験は初めて。茶道経験者でなくても通じ合える感動だろうと思いました。

  妙喜庵しおりより

 *妙喜庵待庵の見学は、往復はがきによる事前申し込みが必要です(こちらを参照)。

 

 山崎は中世、油の産地として繁栄し、駅の近くに油の神様を祀る『離宮八幡宮』があります。その御神油を使っているという天婦羅の老舗『三笑亭』でお昼をとり、JRで大阪へ。向かったのは国宝『曜変天目茶碗』を所有する藤田美術館です。年に春と秋の2期のみの開館で、今期は6月11日まで。しかもこの後、全面的な改築工事に入り、次の開館は2020年ということで、長期休館前のギリギリの訪問となりました。

 同館は明治の実業家藤田傳三郎と息子たちが収集した国宝9件、重要文化財52件を含むそうそうたる東洋美術コレクションで知られます。藤田傳三郎(1841~1912)は幕末の長州出身。明治初めに大阪に出て岡山の干拓事業、秋田の鉱山事業等を手掛け、さらに鉄道、電力、新聞など明治の近代化をけん引した事業で成功をおさめ、大阪商法会議所二代目会頭を務めました(初代会頭が、朝ドラ『あさが来た』でディーンフジオカさんが演じた五代友厚ですね)。藤田は若いころから能や茶道をたしなみ、古美術にも造詣が深く、明治の廃仏毀釈で貴重な仏教美術が海外へ流出するのを憂いて私財をなげうち、美術品の収集に努めました。

 

 曜変天目茶碗は藤田が水戸徳川家から買い取ったもので、もともとは徳川家康が所蔵し、水戸家へ譲渡されたようです。南宋(12~13世紀)に作られた、宇宙に浮かぶ星々のように瑠璃色の斑紋を描く奇跡の文様。世界に現存するのは3つのみで、大徳寺龍光院、静嘉堂美術館、藤田美術館が所有していますが、昨年末にテレビの『なんでも鑑定団』で第4の曜変天目が見つかったと話題になり、真贋論争が巻き起こっていますね。

 私は数年前にここ藤田美術館で初めて見て強烈な印象を得、今回再確認し、今年5月には東京国立博物館の『茶の湯』展で静嘉堂美術館所蔵品も拝見しています。ネットに上がっていた第4の曜変天目なる茶碗はホンモノが有する品格、きめ細やかな斑紋の美しさ、深みといったものが感じられず、素人目にみても紛い物だと思えるのですが、テレビ番組的にはどうなったのでしょう・・・。

 この日は長期休館直前ということで、もともと藤田家の土蔵だったという展示会場に大勢のギャラリーが押し寄せ、館内は蒸し風呂状態。国宝をゆったり鑑賞する雰囲気ではありませんでしたが、ロビーで紹介されていた藤田家と美術館の歩みを眺めるにつけ、長州出身者が徳川家の秘宝を現代に守り伝えて来たことに、歴史の面白さを感じました。(つづく)

  解体予定の展示館(藤田家土蔵)前で

 

 

 

 


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