杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

作り手・売り手・買い手の輪

2010-01-29 17:43:41 | 本と雑誌

 昨年末、取材・編集作業に追われた情報誌が、この月末、立て続けに発行され、私の手元にもやっと届きました。今日はそのコマーシャルを。

 

 P1000001 静岡県総合情報誌『MYしずおか』43号(2010年冬号)は、川勝知事と榊原英資さん(早稲田大学教授)が「食と農」について対談しています。

 かつて大蔵省で“ミスター円”の異名をとった榊原さんが、なぜ農業のハナシ?と、最初は不思議に思いましたが、為替政策のスペシャリストとして世界各国を飛び回っていたころ、訪問先で食事が唯一の楽しみだったとしみじみ語る榊原さんが、現役を離れた後、食文化への造詣を深めていかれたというのは、自然ななりゆきだったのかもしれません。川勝知事とは旧知の仲で、現在は静岡県緊急経済対策諮問委員も務めておられます。

 

 

 榊原さんの発言では「日本は江戸時代に回帰すべき。幕末に日本に渡来した西洋人は“この国は美しいと表現するしかないほど美しい”“親和的な国”“どこに行っても親切。こんな国はヨーロッパにはない”と称賛した。廃藩置県ではなく、廃県置藩こそ日本のポストモダンだ」というのが印象的でした。

 また、「フランスの農事功労章制度(農業に貢献した料理人を表彰する制度)を日本にも導入し、手始めに静岡県からやってはどうか」という提言。知事も早速動き出しているようです。

 

 

 

 日本では、食と農が分離してしまっていて、生産者は収穫物をJAに納めて終わり。なかなか消費の現場につながっていきません。

 「作ったものは必ず食べられるのだから、農と食、生産と消費がひっついていなければダメ」と榊原さん。知事は「静岡県は食材が豊富で質も良く、農に力点があり過ぎて、食に対するデザイン力や情報発信力が足りない。何がどこで作られ、どこで食べられるか、農と食のガイドが必要。地震など自然災害への危機管理の観点からも、食材がどこでどれだけ作られ、どう流通・消費されているか把握しておく必要もある」と応えていました。

 

 

 

 そんなお2人にぜひ読んでいただきたいのがJA静岡経済連季刊誌『スマイル』。出来たてほやほやの42号は、全編「紅ほっぺ」の大特集です。

 

P1000002  当ブログでも取材裏話を披露したとおり、JA遠州夢咲の生産地、生産技術コンサルタントの解説による紅ほっぺ栽培の秘訣(作り手)、浜松市中央卸売市場や遠鉄ストア(売り手)、新宿高野本店やパティスリー・ナチュレナチュール(清水町)を紹介しました。

 

 本文のキャッチコピーには、わがしずおか地酒研究会のキャッチフレーズ「造り手・売り手・飲み手の和」をパクった「作り手・売り手・買い手の輪」を採用。紅ほっぺクラスのメジャーな農産物だからこそ、このように1冊まるごと特集で紹介できるのかもしれませんが、私自身、これまでも、これからも、地元の酒や食を取材するときは、知事がおっしゃるように「どこで作られ、どうやって流通され、どのように消費されているかを把握する」ことが一番大事だと思っているので、ぜひそのような情報発信媒体に、県やJAは予算を割いてほしい!と切に願う次第です。

 

  『MYしずおか』は、県ホームページで閲覧できるほか、県内公共施設・銀行・病院・診療所等に置いてあり、各地の県民サービスセンターに配布用もあります。直接取り寄せも可能(〒420-8601 静岡県広報局まで180円切手同封で)。

 

 『スマイル』は県内主要JA・ファーマーズマーケット・Aコープ等の窓口に置いてありますが、当ブログ読者には私から無料進呈しますので、ぜひ読んでみたいという方、鈴木までメールください(プロフィール欄参照)。

 

 


Shakeしずおか再び!

2010-01-27 14:13:46 | 国際・政治

 25日(月)夜は、上川陽子さんの事務所で『shake(シェイク)しずおか』編集会議が開かれました。

 

 

 shakeしずおかというのは、1997年7月から98年4月にかけて4回発行されたコミュニティマガジン(カラー32ページ)で、静岡市内の主要書店でも1冊500円で販売されていましたから、見覚えのある方もいるかもしれません。発行元は陽子さんの政策コンサルタント会社・グローバリンク総合研究所で、ご本人は当時はまだ衆議院議員になる前。わがまち静岡の履歴書を描いてみたいという陽子さんの熱意に、地元支援者やさまざまに縁のあったエディターやカメラマンたちが共鳴し、ボランティアで作った雑誌でした。

 今振り返ると、カメラマンの水野茂さんや多々良栄里さん、レ・サンクの田嶋清子さんや石垣詩野さんなどそうそうたるプロたちが協力していたんですね。

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 私はご縁のあった陽子さんを、雑誌づくりという自分のスキルを通して応援できるなら、とスタッフに加わり、雑誌のコンセプトを整理し、コーナー設定、タイトル作りをして、『職業(しょくわざ)』という静岡のプロフェショナルたちを紹介するページを担当しました。

  1回目は静岡中央署初代駅前交番所長の及川宣雄さん。静岡県警初の青年警察官長期海外研修生としてイギリスに留学し、県警本部初代国際捜査課係として県内の主に国際犯罪捜査に従事した語学堪能な警察官です。警察関係者にインタビューするのは初めてで最初は緊張しましたが、及川さんはとてもソフトで人懐っこい紳士。「警察官は道端に立つ不動明王たれ」という凛としたお言葉が、昨日のことのように甦ってきます。

 及川さんは昨年7月、(財)静岡観光コンベンション協会で吟醸王国しずおかパイロット版上映とトークセッションを開いていただいたとき、県トラック協会代表で会場に来ておられ、試飲の席で「スズキさ~ん、久しぶり~」と声をかけてくださいました。お会いするImgp1863_2のは10数年ぶりなのに、一目でわかり、思わず大はしゃぎしてしまいました。

 

 ちなみに及川さんを紹介した1997年7月の創刊号は、裏表紙が『忠正』吉屋酒造さんの全面広告です。「宝暦元年創業」の暖簾を、昨年降ろしてしまった忠正さん…なんだか皮肉なご縁です。

 

 

 

 

 2回目は花城ハムの花城光康さん。静岡県で初めてドイツで修業したハムソーセージ作りのマイスターです。モノづくりの職人さん紹介ということで、この回はイラストルポ形式にしてみました。

Imgp1864  私は小さいころは漫画家志望で、独学で線画タッチの絵を描いていて、ライターになりたてのころは、アルバイトでテレビやビデオのコマーシャル絵コンテなどもちょこちょこ描いていました。

 民俗学者でアウトドア作家の遠藤ケイさんのように、活字の原稿とイラストを組み合わせたイラストルポみたいな記事を発表できる機会があったらなぁと願っていて、当時、連載を持たせてもらっていた毎日新聞朝刊『しずおか酒と人』と、このshakeしずおかで実現することが出来ました。

 Imgp1867 私がこういうスタイルの記事を書くことを知らない人も多かったので、そこそこ反響が来て、3号の静清中央卸売市場セリ人の大月隆介さん、4号の馬場製菓・馬場昌子さんも同形式で紹介させてもらいました。

 

 

 …97~98年当時は、しずおか地酒研究会の活動と、毎日新聞の連載と、静岡新聞社刊『地酒をもう一杯』の執筆取材等で、酒の活動にフル回転していたころ。よくこんな手のかかる原稿を描いていたなぁと自分でも感心?してしまいます。一生のうちで、知力体力がみなぎる働き盛りといわれる時期があるとすれば、私のピークはこのころだったかもしれません。

 

 

 雑誌の仕事が減ってしまった今、アナログの極致ともいえるこういうイラストルポをオファーしてくれる媒体は皆無で、自分もペンを持って手描きで何か描く、なんて習慣をすっかり無くしてしまいました。

 

 十二支が一回りした今年、陽子さんから思いがけず、『shakeしずおか』をウェブ版で復活させたいと声をかけられ、久しぶりにshakeしずおかを読み返してみました。

 自分のページ以外にもじっくり目を通すと、高齢者の生き方、婚活、子育て、町内会のつながりや地域の行事の価値など、今に通じるトピックスが満載で、「これは10年先を行っていた雑誌だなぁ」と自画自賛したくなる境地に。私の『職業(しょくわざ)』コーナーだって、NHKプロフェショナルの先駆けみたいだし(言い過ぎか…笑)。陽子さんも「この雑誌づくりが原点だった。もう一度原点を振り返りたい」と真摯に語ります。

 

 

 ウェブ版でどこまでそのエッセンスを復活させることができるか、これは陽子さんの政治活動の応援云々以前に、地域で活動するクリエーターの挑戦ステージ、という気持ちで取り組めたらと思っています。

 新生shakeしずおかについては、こちらをぜひご覧ください。

 

 またアナログなイラストルポが却って新鮮だ!と思われる奇特な方がいらしたら、ぜひお仕事ください(笑)。


日本のお茶は「文化」である

2010-01-24 11:08:36 | 歴史

 引き続き茶文化の話です。20日の小堀宗実さんのお話に続いて、22日は県広報誌の知事対談取材で、経済学者・角山榮先生から含蓄のあるお話をたっぷりうかがいました。

 

 

 角山先生はイギリス近代経済史が専門の元和歌山大学学長。イギリスの伝統的な生活文化に触れるうちに、お茶や時計といった身近なモノに関心を持ち、その歴史をひも解いて、生活史や社会史に通じた経済史研究に新たな分野を開拓された方です。

 

 

 ・・・なんて知ったかぶってますが、先生の存在を知ったのは22日が初めて。御年89歳でステッキを付きながら対談会場に現れた先生は、川勝知事の弾丸トークを受け止められるのか、傍から見てちょっと心配だったのですが、フタを開けてみるとビックリ! さすが現在も堺市教育委員会の顧問を務める現役、知事とは先を争ってドークバトルし始めます。進行役のテレビ静岡・田中宏枝アナウンサーが口をはさむ余地はほとんどありませんでした…。

 

 

 対談記事に構成しにくいパターンだなぁと頭を書きながらも、必死にノートを取るうちに、話の内容が面白く、好きな歴史や、小堀さんから聞いたばかりの茶の湯の話題がたくさん出てきて、胸の内で「へぇ~」「そ~なんだぁ」を連発しながら、リズムよくメモることができました。2人の知の匠から、たっぷり講義をしてもらった贅沢気分・・・。こういう原稿執筆はとてもはかどります。

 未発表の原稿をここで晒すわけにはいかないので、角山先生の著書にも紹介済みのネタだけ紹介しますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イギリスでは紅茶は女性の飲み物と言われますが、その理由は男性がコーヒーを愛好しすぎるから。イギリスの男性は、朝も昼も家で奥さんと食事せず、朝食はコーヒーハウスに集うのが習慣でした。食事時に家を空けるご主人を、奥さんはなんとか家に呼び戻したい。そこで使ったのがお茶です。

 昔は1日2食で、朝食は10時ぐらい、夕食は15~16時ぐらい。つまり断食の時間が長かった。そこで、断食(fast)を破る(break)する愛情たっぷりの豪華な朝食を奥さんが用意した。イングリッシュブレークファーストと言われる所以です。お茶は、女性が男性を家に呼び戻すためのものだったんです。

 

 

 

 

 イギリスにはお茶よりも先に、オスマントルコからコーヒーが入ってきました。首都イスタンブールにはたくさんのコーヒーハウスがあり、イスラムの国なので男性だけが出入りしていた。そこにヴェニスやジェノバの商人がやってきて、コーヒーの愉しみ方を会得したのです。当時のヨーロッパ人はモーツァルトやベートーベンが『トルコ行進曲』を作ったように、中東のエキゾチックな文化に憧れをもっていた。そしてヴェニスやジェノバなど地中海周辺都市の文化に憧れていたのがイギリスでした。

 

 トルコのコーヒー文化はあっという間にヨーロッパに広まり、コーヒーハウスに集まるため、男性が家庭から消えてしまい、怒った女性たちが「コーヒーか私か、どっちを取るの!?」と責め立てたほどです。女性たちはコーヒーに対抗するものとして、トルコよりもさらに東から入ってきたお茶に目を付けた、というわけです。

 

 

 

 ヨーロッパでは文明は東方からもたらされるとされ、アジア全体が憧憬の地でした。たとえば陶磁器。肉料理を食べるヨーロッパ人は、フォークやナイフを使っても傷が付かない中国の陶磁器をチャイナといって珍重した。肉料理に使う臭み除けの香辛料も、インドや東南アジアからもたらされた。アジアには木綿も絹もお茶もある。ヨーロッパの商人は取引したくても、ヨーロッパ産で売れるものがなく、アメリカ大陸から略奪してきた金や銀を交換材料にした。そんな彼らが憧れるアジアのもっとも東にある国が日本であり、日本の茶の湯だったのです。

 

 

 

 

 

 初めて茶の湯の世界を見たイエズス会の宣教師たちは、なぜ一杯の茶を飲むのに隅っこにある小さくて狭い入口から入り、煮えたぎった湯と変な形の細々とした道具を使うのか、しかもその器はイエズス会の年間活動予算より高価だと聞いて大変不思議がる。日本人というのは正月から節分、雛祭り、節句と1年を通してしょっちゅう宴会をやっている。肉食の国の民族からしたら、四季折々で酒や肴を味わい、締めくくりに茶をいただくという宴会スタイルが物珍しかったと思います。17世紀初めに来日して約30年滞在し、『日本教会史』を著した宣教師ロドリゲスが詳しく考察しています。

 

 

 

 

 応仁の乱以降、戦乱の時代になって、四六時中宴会を愉しむゆとりがなくなってからも、堺の町は比較的平和だったため、宴会の最後の茶事だけが、宴会のエッセンスを伝え残すものとして伝承されました。

 

 

 

 

堺で確立された茶の湯の文化とは、人間関係を構築する文化です。つまり、茶室のにじり口が狭いのは、武器(刀)を持っては入れないという意味で、茶室は完全に安全な空間として設計されました。湯のみを、全員の前で回し飲みするのは、茶に毒が入っていない証拠です。宴会のもてなしの論理やエッセンスが凝縮されている茶室という空間に、彼は大いに感動しました。

 

ヨーロッパ人は、何かあれば教会で神と対話することで収拾しようとしますが、アジアは神の代わりに近所づきあいや人間関係を大事にした。これは儒教の教えも影響していたと思われますが、ロドリゲスは「自分たちとは哲学が違う」と実感したようです。

 

 

 

 

 

 

 ロドリゲスの記録には、日本人の行儀作法が驚嘆や憧れをもって事細かく紹介されています。ガラクタに見える茶道具に一千両をつぎ込むこの国の人は、ヨーロッパ人がアメリカ新大陸から持ち込むしかない金や銀も持っている。まさに黄金の国ジパングを見る思いだったでしょう。その日本の文明を吸収しようと、多くの外国船が日本にやってきた。窓口になったのが堺です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その堺市では現在、千利休が残した茶の伝統文化を町のアイデンティティにしようと、小学校で茶の湯を体験させています。子どものときに教わると、一生身に付くでしょう。実際、親御さんからは「行儀が良くなった」と反響があり、市の教育委員会でも利休の哲学を全国に広げようと、文部科学省に提案しているところです。

 

 

 

 

 茶は、文化としての茶と、商品としての茶の2つのとらえ方があると思います。これだけ資本主義社会が進展した中でも、なぜか日本では茶が「商品」になっていない。イギリスでは食堂に入っても茶はタダでは出てきませんが、日本ではタダで出てくるでしょう。角山先生は1963年にイギリスに留学され、帰国してから東京で店に入り、注文もしないのに茶が出てきたとき、改めて考えさせられたそうです。資本主義でもマルクス主義でも、すべての物品は「商品」になるのに、日本における茶とは何だろう、商品じゃなければ「文化」なのかと

 

 

 

 

 

 

 

 日本の食堂の店員が「いらっしゃいませ」と言ってお辞儀をして出すお茶に、利休の茶の哲学をなす「一期一会」「和敬清寂」が生きていると感じます。だからこの一杯の茶は「商品」ではなく、「茶の文化」「もてなしの文化」であるというほかない。これこそ西洋では見られない日本文化、アジア的価値の原点であり、大切にしていきたいと思います。(談)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


茶道の3つの心得

2010-01-21 21:02:31 | ニュービジネス協議会

 昨日(20日)から生温かい陽気になりました。一日東京出張でしたが、暑くなったり寒くなったりで風邪を拾ってしまったみたいです。うー、これ以上高くなるなよ熱・・・!

 

Imgp1857  

 昨日は午後、グランドプリンスホテル赤坂で開催された(社)日本ニュービジネス協議会連合会の賀詞交歓会に参加しました。講師は遠州茶道宗家十三世家元の小堀宗実さん。経営者の集まりで茶道の家元が講師って珍しいなぁと思いました。

 

 私自身、小堀さんのお話をうかがうのは2度目。6年前、静岡県広報誌MYしずおかの誌面で、当時の石川知事、静岡市出身の作家諸田玲子さん、小堀さんの3人が静岡市の名刹・臨済寺で鼎談したのを執筆構成して以来です。

 ちなみにMYしずおかで知事対談・知事鼎談を担当したのはこの時が初めて。鼎談時間はたっぷり2時間、誌面にして6ページにわたる記事を翌朝締切というタイトスケジュールで請負い、無事こなしたことで、このコーナーを継続受注できることになった記念すべき鼎談でした。

 

 久しぶりにお目にかかった小堀さんは、6年前にもまして貫禄や風格をまとい、会場の一番前に元財務相の塩川正十郎さん(現・東洋大学学長)はじめ経済人のお歴々が陣取る席で茶道の道を得々と語られました。

 

 

 面白かったのは、6年前と同じ、メジャーリーガーのイチロー選手を引き合いに出して「基礎があってこそのアレンジ」を強調されたこと。6年前の記事を振り返ると「キャッチボールやバットスイングの基本がしっかりできた上で、彼独自の型を作り上げた。型というのは大切だがマニュアル化してはいけない。基本からいかに発展させるかが大事」と述べておられ、昨日は「(型を)崩すことはいくらでも出来るが、しっかりとした基本をまず押さえることが肝要。イチローは調子が悪くなると基本を常にチェックし、自身でフォーマルを作っていく。カジュアルの早道はフォーマルだ」と。

 私の耳には、6年前は崩しやアレンジを恐れるなと訴え、昨日は基本を怠るな、と訴えていたように聞こえ、この間の心境の変化に興味をそそられました。聴講者が経済人で、こういう景気のご時世だからかもしれませんが、いずれにしても小堀さんはイチローファンなんだなぁと小気味笑いしてしまいました。

 

 

 昨日のお話で心に残ったのは、「つながり」というキーワードです。

 茶道には3つ大切なつながりがあって、一つ目は人と人のつながり。茶をたてるとき、亭主は一度に複数の客人を相手にし、その一人ひとりの好みを考慮する。茶室という狭い空間で、相手がどんな息遣いをしているのか、呼吸や間といったものを読み取りながらもてなす。「相手の息遣いを感じて読み取る能力がないと、今の時代は生き抜けない」と小堀さん。茶室はその鍛錬の場にもなるのですね。

 

 

 二つ目は人とモノのつながり。茶道でいうモノとは茶室を飾る掛け軸、釜、茶碗などの道具類のことです。300年400年の歴史を持つ道具は、一般には美術観賞品扱いで、博物館や美術館の展示コーナーでケースごしにしか見ることができませんが、茶道だけは直接手にし、実際に使うことが許されます。これで、道具を見る眼が養われないはずがありません。もともと日本料理は器を手に持って使う習慣があり、フォークとナイフしか持たない西洋料理よりも格段にモノと人との距離が近い。日本人は知らず知らずのうちに、器に対する高い感性を持っていたわけです。小堀さんは、その大切な独自の感性が食の欧米化で失われつつあることに懸念を覚えると言います。

 

 

 モノといえば、亭主は茶室で必ず扇子をたずさえ、挨拶するときは膝の前に置きます。これはひとつのけじめの印。扇子だからって開いて扇ぐなんてことはしません。その昔、小堀さんのお父様が、英国留学を控えた皇太子殿下に茶の心得を教授されたとき、「人前で扇子を開いてパタパタ扇ってはいけません」と説かれたそうです。

 

 

 よく、「畳のへりを踏んではいけない」と年長者から注意されましたよね。へりを踏んではいけない合理的な理由はわからないけど、子どもは、大人がいけないと言うなら注意しなきゃ、と感じる。「節度」や「けじめ」を大切にする日本人のこういう感性にこそ、昔は価値があったわけです。

 

 

 

 三つ目はモノとモノとのつながり。私は茶道も華道も不心得で、修業経験者の感性には遠く及びませんが、茶室に掛け軸を飾り、花器を据え、季節の花を生ける。その日の茶室の主旨に沿って、主道具と脇道具をそろえて調和をはかることで、ひとつの茶室の世界をしつらえる…これは総合舞台演出家なみの感性が求められる仕事でしょう。修業のし甲斐があるなぁと思います。

 

 

 

 

 最後に小堀さんが紹介された、遠州茶道宗家初代小堀遠州公の遺訓から、講演終了後に塩川さんが感動したとおっしゃっていた一節を。

 『明け暮れて来ぬ人を 松の葉風の釜のにえ音 たゆる事なかれ』 (来るか来ないかわからない人でも、釜の湯をわかし続けて待ちなさい、の意)。

 

 これをお金儲けのヒントを探しに集まっている経済人の方々がどんなふうに聞いたのか、興味は尽きません・・・。

 

 


曽根さんの特派員伝

2010-01-19 11:02:38 | ニュービジネス協議会

 昨日(18日)は(社)静岡県ニュービジネス協議会中部部会の新年賀詞交歓会があり、テレビ静岡の曽根正弘会長が記念講演の講師を務めてくださいました。

 曽根さんは私が一方的に“大人の酒友”としてお慕いしている方で、スコッチウイスキーの美味しい飲み方を教えてくださる師匠でもあります。ふだんはお酒の席でご一緒するばかりなのですが、今回は改めてうかがった曽根さんのキャリアにImgp1852 目がテン…!状態。国際ニュースの現場に居合わせたすごーい“生き証人”でらしたんですね。

 

 

●フジテレビに1964年入社

 

●1970~71年に米国ミシガン州立大学・MITでコンピュータ研修を受け、帰国後はニューメディア開発に従事。

 

●1974年から報道部。大蔵省番では昭和54年度予算の取材。当時の一般会計予算は38兆6千億円(平成21年度は102兆円)、公債発行残高は約56兆円(平成21年度は816兆円)だった。

 

●1979年には通産省番で江崎通産大臣の中東4カ国(イラク、クウェート、UAE、サウジ)“油乞い外交”に同行。イラク出国5日後に政変があり、バクル大統領が辞任してサダム・フセインが就任。日本の交渉相手だった前石油相や副首相が処刑されたと聞いてビックリ!

 

●その後、都庁番、俵孝太郎ニュースの番組デスクに。

 

●1982年から海外特派員に。モスクワ(82~85年)では赴任して半年後にブレジネフ書記長が亡くなり、アンドロポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフの政権交代に立ち会う。ペレストロイカが始まったころ帰国。

 

●モスクワでの生活は24時間監視つき。KGB傘下の外交団サービス公社と称する組織から世話係が派遣され、親しくなった世話係から「毎週あなたの行動を上に報告しているんです」と明かされる。

 

●同じころモスクワに滞在していた日本人が事故を起こし、「シベリア送りかスパイになるか」と迫られ、スパイになることを選択した。曽根さん曰く「(ジャーナリストの)自分ならシベリア送りを選んだ。めったにない経験だから!」。

 

●ポーランド連帯非合法化の時代にワルシャワのグダニスク操船所に潜入取材し、ヤスナ・グラ(カトリック寺院)の僧侶からは「共産主義はたかだか数10年、1000年以上の歴史があるカトリックが負けるわけがない」。またワルシャワ市民からは「ワルシャワ文化宮殿(ソ連が造ったスターリンゴシック調といわれる建物)の景色は、宮殿の屋上から見るのが一番いい(=宮殿が見えないから)」「酒を飲むときは“ソ連の軍艦が沈没しますように”と祈って乾杯する」「日本とポーランドは(ソ連がなければ)本来は隣国同士だ」等など、ソ連共産主義に対する反骨精神みなぎる言葉をたくさん聞いたそう。

 

●1983年9月1日の大韓航空機墜落事件のとき、モスクワで「全員死亡と伝えられているが、実は全員死んでいない、真相が知りたいか?」とネタを売られそうになった。

 

●1985年、帰国後に朝の情報番組モーニングワイドのデスクに就き、早々に日航機御巣鷹山墜落事件。川上慶子さん生存・救出現場の独占スクープを果たす。

 

●1989年からニューヨーク特派員。ラジオシティ副社長とビジネスランチを取る最中に「ベルリンの壁崩壊」の一報を知る。エリツィンが初めての西側訪問としてニューヨークにやってきたときは、記者懇談でモスクワ滞在経験を伝えて握手。鋼(はがね)のような手だったと今でも記憶する。

 

●1990年~94年ロンドン特派員。サッチャー辞任後の初会見、後任のメジャーにも会見。

 作家ジェフリー・アーチャーに単独インタビューをしに自宅を訪問したとき、「日本人はどうして予定時間より早く来るんだ」と裏で怒鳴る声を聞く。日本人はアポイントの時間より前に着くのがマナーだと思っているが、イギリス人は正反対。早く行くのは先方の時間を余計に拘束するマナー違反という発想。

 91年からバルト3国の独立紛争が勃発し、モスクワで旧知の外務官僚からマルチビザをもらってスムーズに取材。8月にゴルバチョフが幽閉され、ヤナーエフ副首相の3日天下が終わって12月にソ連邦崩壊。

 

●フジテレビ本社に帰任し、社長室長、取締役国際局長を経て、98年からテレビ静岡移籍。専務、社長、会長(現職)に至る。*曽根さんは焼津市のご出身で静高OB。

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 私のようなローカルでチマチマとした取材活動をしているフリーランサーから見ると、あまりにもスケールがデカすぎて、スパイ小説の世界のお話を聞くようでした。これだけのキャリアのある方が、私のような者とも対等におつきあいくださるというのは、「酒の効能」に他なりません。私がふだんから「酒にはつなげる力がある」と力説するのも、自分のこういう実感からです。

  

 

 時間が出来たら、ぜひ曽根さんにモスクワ、ロンドン、ニューヨークでの酒の思い出話をうかがってみたいものです…!