杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

黒い服を着る機会

2015-09-07 20:07:42 | 東日本大震災

 週末は2年ぶりに福島いわきへ車でひとっ走り。道の駅よつくら港を運営するNPO法人よつくらぶ理事長佐藤雄二さんの葬儀告別式に参列させていただきました。享年59歳。病気が発覚してまもない急死とのことで、ご家族やお仲間はもちろん、なによりご本人にとって、さぞご無念だったと思います。

 

 佐藤さんは生まれ育ったいわき市四倉で建設会社を営むかたわら、趣味の剣道を通して地域の青少年教育やまちおこし活動にも熱心に取り組んでおられました。市町村合併していわき市に編入された四倉の町の絆を大切に守っていこうと町おこし団体(四倉ふれあい市民会議)を立ち上げ、NPOを設立し、民設民営で道の駅よつくら港を創り上げました。

 オープン2年目にして震災に遭い、ふたたびゼロベースからの立ち上げ。この間、取材(こちらのカテゴリーをぜひ)にうかがった私は、道の駅よつくら港での復興活動に尽力されるお姿しか存じ上げませんでしたが、2013年にリニューアルオープンにこぎつけ、2014年には震災孤児・遺児たちのために「チャイルドハウス・ふくまる」を増設。佐藤さんが経営されている建設会社がどれほどの規模かはよく知りませんが、本来、自分の会社を大きくすることに投資してしかるべき時間や労力を地域のために費やした佐藤さんの企業人としての姿勢は惚れ惚れします。

 この写真は道の駅よつくら港の事務所でスタッフの皆さんから「いい表情でしょう?」と見せていただいたもの。2年前の道の駅リニューアル直後の佐藤さんです。

 

 告別式では出身校の日本大学工学部の恩師や剣道仲間、四倉での剣道場のお仲間の弔辞が心に沁みました。企業家が、しがらみの多い地元で公助や共助を実践し続けることができた根底には、武道で鍛えた克己心や義侠心、他者を思いやる懐の大きさがあったのだと解りました。葬儀会場に飾られた花輪、弔電、会場に入りきれない参列者の驚くような数の多さに、佐藤さんが地域でどれほど得難い“人財”であったかが示されていました。

 

 

 ところでお寺のバイトを始めて以来、“葬式仏教”と揶揄される今の仏教や葬儀について内から外から様々考える機会を、意識して持つようにしていたのですが、福島へ行く直前、仏教系の新聞・中外日報の社説【黒い服を着る機会 広まる「身内葬」に思う】という記事を目にしました。最近の傾向として、葬式は身内だけで簡素に済ます「身内葬」や、病院から火葬場へ直接運ぶ「直葬」が増えているそう。お寺で葬式を行なう人は確かに少ないし、広報の仕事を手伝っている友人の食品会社でも「仏事(香典返し)の需要がめっきり減った」と。お墓の問題もそうですね。管理しきれないからと、お墓を移したり閉じたり、ということが比較的抵抗なく行なわれているようです。日本人の宗教感覚はやはり変化しているんだな、と実感します。

 

 ご本人の遺志として仰々しい葬式を望まない、或は人を呼べない特別な事情がある場合を除けば、私自身は縁のあった人を出来るだけ多く招いてしかるべきではないかと考えます。人の人生とは、縁のあった人々と共に刻んだ時間の積み重ねでしょう。葬式は、その人が結んだすべての縁をつなぐ唯一の機会です。

 佐藤さんの場合、建設会社社長として業界での公的役職もしっかり務めておられたこと、剣道の達人で、日大工学部出身で恩師や学友を大事にされ、地域の剣道指南者として子どもたちの面倒をよく見ていたことなど、初めて知る一面を会葬者の顔ぶれからうかがい知ることができました。弔辞を読まれた方以外にも、佐藤さんのいろいろな顔をご存知の方が多くいらっしゃって、お身内が知らないこともあるはず。静岡へ来られたとき、青葉おでん横丁や玄南通りの居酒屋で地酒を飲んで盛り上がったことなども、おそらく存じ上げないでしょう(笑)。佐藤さんと縁のあった人々が、佐藤さんとの思い出を心置きなく語り合い、佐藤さんという人の人生をより深く、より鮮やかに脳裏に刻む・・・それが故人にたいする何よりの供養だなあとしみじみ思いました。

 私自身はこのまま子なし独身で一人暮らしを続けていたら、世間並みの葬式は望めないと思いますが、縁のあった居酒屋で縁のあった人が縁のあった酒を呑んで大いに盛り上がってくれたら嬉しいなあと想像します。今からでも、自分より長生きしそうな飲み仲間を大切にしなくては(笑)。

 

 今まで参列したお葬式では、型どおりの儀式・挨拶だけで、故人について、自分が知る範囲以外のことは分からず終まい・・・というケースがほとんどでした。その意味で、今回の佐藤家の葬儀は、福島まで往復1000キロ車を飛ばして来た甲斐のあった、心に残るいいお葬式でした。ご遺族の皆さま、NPO法人よつくらぶ及び道の駅よつくら港の皆さま、お世話になりました。

 

 

  最後に中外日報の記事を紹介しておきます。

 

黒い服を着る機会 広まる「身内葬」に思う 〈2015年9月4日付 中外日報(社説)〉

病気で亡くなった愛児を生き返らせてほしいと頼まれた釈尊は、その母親に「葬式を一度も出したことのない家からケシの実をもらってきなさい」と言った。母親は家々を訪ね歩いたが、葬式を出したことのない家は一軒もない。母親は、初めて死の現実を受け止めることができたという。

先頃、哲学者としても評論家としても有名な人物が亡くなった。真っ先に訃報を伝えた新聞には、死去の日時や場所、病名等の記載がなかった。本人が葬儀を営んではならぬと遺言し、遺族がそれを守ったため、世間並みの発表が遅れたものらしい。珍しいケースであった。

奈良県在住で、間もなく喜寿を迎えるAさんは、このところ川柳を楽しんでいる。5年前に作った「定年後たまの外出黒い服」は仲間うちで好評だった。仕事を離れた現在は、いつも自宅でカジュアルな服装でいる。ネクタイを締めて出掛けるのは、友人知己の通夜か葬儀のときに限られる、という日常を詠んだものだ。

だがAさんは、この句を詠んで以後「黒い服」を着る機会がめっきり減ったことに気付いた。同窓会からも、職場のOB会からも、訃報が届くことはない。時代の流れで地味な「身内葬」を選ぶ家が増えたためだ。新聞に掲載される有名人の場合も「葬儀は身内で済ませた」の書き込みが目立つ。Aさんは「100円ショップで買い置きの香典袋は出番がなく、色があせた」と苦笑する。

「新聞の川柳欄では、告別式が同窓会に早変わりしたという句を何度も見た。弔いの場を旧交を温める機会にするのは不謹慎と見られるかもしれないが、案外、故人もそれを喜んでくれるかもしれないと理由付けして、典礼会館からの帰途、精進落としの場所を探したものだ。そんな機会が減ったのは寂しいですね」

多くの会葬者の集まる葬式が少ないのは、一般市民が宗教と接する機会が減ることを意味する。仏式,神式にせよキリスト教式にせよ、それぞれの宗教の行き届いた式次第に接すれば、信仰心を高める効果があるはずだ。宗教者の工夫で,華美を避け、質素な中にも心のこもった葬送を創出できるのではないだろうか。

Aさんの趣味は川柳だが、お寺の檀徒には俳句ファンも多い。一部寺院では寺報に文芸コーナーを設けて、檀信徒交流の場としているところもある。こうした配慮で「身内葬」のワクを打破することはできないであろうか。年末に届く喪中はがきで旧友の訃を知るのは、寂し過ぎる。


静岡グルメ王国フェスト2013に福島いわきブース出展!

2013-10-14 21:17:30 | 東日本大震災

 3連休は天候に恵まれ、各地で運動会やら秋祭りやらで盛り上がったことと思います(私は地味にお仕事してました・・・)。

 

 

 今日は、今週末10月19~20日のイベントのご案内です。

 静岡市街中心の青葉シンボルロードで『第3回静岡グルメ王国フェスト2013』が開かれます。静岡市に拠点を置く各種地域団体(静岡商工会議所、静岡観光コンベンション境界、静岡市まちづくり公社、ホテル旅館協同組合、社交業生活衛生同業組合、飲食業生活衛生同業組合)が主催する地産地消グルメイベントで、静岡市内に7蔵ある酒蔵もブース出展します。

 

 

(主な出展者)

●Razza Rossa(イタリア路上Bar)、●茶房山幸(静岡産自然薯のとろろそば)、●しあわせ空間話食の森、●サラデーン(タイ料理)、●鳥幸さつき町店、●たがた(在来作物料理)、●あさひ(居酒屋)、●福助(居酒屋)、わした静岡店(沖縄料理)、●マハラジャ(インドカレー)、●ナマステ(ネパール料理)、●三九(地産地消料理)、●串焼さの竹、●蒲原やましち(桜海老やきそば)、●くいもんや華音(中華居酒屋)、●ヤキトリフード大石、●萬福酒家(中華)、●ビールコーナー、●静岡市産野菜直売所ほか

 

 

 

 清水や由比が静岡市と合併したことによって、静岡市内には英君、臥龍梅、喜平、君盃、正雪、駿河酒造場、萩錦と、7つも蔵元がカウントされるようになったんですね。この7蔵のブースが上記食ブースの間に入っています。

 今回は食が主役で、酒はどっちかというと引き立て役みたいですが、いつかは、志太平野美酒物語のような地域限定型地酒イベントが開かれるようになればいいなあと思います。

 

 

 

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 それはさておき、今回のイベントには、当ブログでも再三ご紹介している、福島県いわき市の道の駅よつくら港ブースが登場します。東北復興支援の一環で、主催者が無料でブースを提供してくれて、道の駅よつくら港の人気商品を販売することになったのです。売り上げの一部は義援金に充てます。

 

 

 震災から2年以上経ちますが、福島の食品生産者の中には、未だに風評被害に苦しんでいる人もいます。でも顔が見える相手からだったら、財布の紐をゆるめてくれるでしょう。今回は、私が8月に道の駅よつくら港へ行ったときに味見したいろんな食材を送ってもらうようお願いしました。旬のナシもたっぷり紹介します。

 

 

 

 こういう小さな取り組みでも、つなげて続けることが大事だと思います。19~20日、青葉シンボルロードのステージ向かって右横に「いわき市の皆さんを励ます会」というブース名でお待ちしていますので、ぜひ来てくださいね!

 

 

 あ、私は時々、酒蔵ブースをウロツクかもしれません(笑)ので、7ヶ所あるブースも漏れなくお回りください!

 

 

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福島いわき再訪(3)~会津坂下の立木観音

2013-08-22 14:43:04 | 東日本大震災

 今回、いわき市には被災地のその後を視察する目的で行ったのですが、過去2回とも、いわき沿岸の被災地しか行っておらず、福島に来た!いわきを楽しんだ!という経験がないまま、またトンボ帰りするのももったいないなぁと思い、ちょっぴり観光も楽しみました。

 

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 四倉ふれあい市民会議のみなさんには、美空ひばりの「みだれ髪」の舞台になり、歌碑が建つ塩屋崎灯台、三崎公園マリンタワー、復興飲食店街「夜明け市場」を案内していただきました。

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 いわき駅に近い中心街にある『復興飲食店街・夜明け市場』は、3・11の後、事業継続が出来なくなった飲食店が再起を期して、昭和の横丁「白銀小路」の空き店舗に2011年11月にオープン。レトロな横丁にイマドキのイタリアンバルや和風ダイニングの店など11店舗が並んでいます。

 

 小さな店ばかりで、四倉ふれあい市民会議の皆さんと私たち全員が入れる店がなかったため、外観だけ楽しみました。今度来るときはハシゴするぞ!

 

 

 

 

 

 

 観光といっても、当初は漠然と、いわきといったらフラガールで有名なスパリゾートハワイアンズあたりかなあと思っていたんですが、18日朝、ホテルでモーニングを取っているとき、偶然、現地の新聞記事で見かけたのが、「恵隆寺の立木観音、17~18日にご開帳」という記事。恵隆寺をスマホで検索してみたら、高さ8.5メートルもある一木彫の千手観音で、年に1度、8月17~18日の例大祭で開帳法要が行われ、一般の人が自由に拝観できると知り、がぜん興味が湧きました。

 

 道の駅よつくら港へお礼に寄ったところ、「立木観音は“コロリ観音”で有名ですよ」とのこと。ご利益がコロリと授かる、あるいは長患いすることなくコロリと死ねる、というわけです。

 ただし恵隆寺がある会津坂下町は、喜多方市と会津若松市の中間に位置し、いわき市四倉からは常越道で2時間弱の、新潟県に近い内陸部。初めて行く土地で、ご開帳の時間に間に合うかどうかわからない不安のまま、とにかく高速を飛ばして一路会津へ向かいました。

 

 金塔山恵隆寺(えりゅうじ)。会津には名刹が多いと聞いていましたが、これほど堂々とした御堂とは、思わず平野さんと「じぇじぇじぇ~」。

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 参拝客の行列が伸びる観音堂(国重文)は、茅葺屋根の伝統的な寄棟造り。鎌倉初期、1190年に創建され、江戸初期の1611年に慶長の大地震で大破、6年後に再建されたものです。

 

 

 本尊の十一面千手観音菩薩(国重文)は、808年に弘法大師が立ち木(根っこがついた状態の木)の状態から彫刻した、身丈8.5メートルの一木彫。根付きの立木仏像では日本最大級の大きさだそうです。お顔は平安期らしい目鼻立ちがくっきりとしたふくよかな表情で、拝顔すれば“コロリ”安らかに逝ける、という言い伝えを素直に信じたくなりました。堂内は撮影厳禁だったため、写真で紹介できないのが残念です。

 

 

 

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 観音さまの両脇には、二十八部集プラス雷神・風神の計30体の仏さまがひな壇のように並んでいました。これがまた圧巻。密教様式を忠実に再現しており、これほどパーフェクトなのは、京都の三十三間堂とここだけ、なんだそうです。いずれも2メートル弱の大きさで、衣の極彩色がところどころに残っています。こういう圧倒的パワーの仏像群を、目と鼻の先、本当に擦り寄れるような近さで観ることができたのです。

 

 国の重要文化財を、ガラスやフェンス越しでなく、直に至近距離で参拝できる寺って、珍しいんじゃないでしょうか。・・・高校生のころから35年余親しんできた仏像鑑賞キャリアの中でも屈指の体験でした。

 

 

 

 

 立木観音恵隆寺がある会津坂下町、来てから気づいたのですが、赤穂浪士の堀部安兵衛、『八重の桜』で黒木メイサが演じた中野竹子、演歌歌手の春日八郎、昭和の作曲家猪俣公章の出身地で、町のメインストリート=旧越後街道のライヴァン通りには、『飛露喜』の廣木酒造、『天明』の曙酒造、豊国酒造が立ち並ぶ蔵の町でした。

 

 

 

 時間がなかったため、蔵見学や街の散策はできませんでしたが、会津屈指の米どころと聞いて、COOPで坂下産コシヒカリと、ちょうど切らしていた味噌をライヴァン通りの老舗・八二醸造で購入し、帰路に付きました。

 

 

 海の町いわきと、山の町会津・・・二つの文化と風土を抱く福島には、静岡人がシンパシーを感じる魅力が秘められていると思いました。

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 いわきの海沿い、漁業やマリン観光で活気のあった町々の今現在、置かれている状況を知ると辛くなりますが、いわきの海の幸と、会津の地酒、2つの食文化を大切に思う気持ちだけはしっかり受け止め、出来る限りの支えを続けていければ、と思いました。

 

  
 この夏、いわき市沿岸では、勿来と四倉、2つの海水浴場が復活しました(勿来は昨年再開)。18日は四倉海水浴場がクローズする日でもありました。美しい砂浜海岸に、真に明るい太陽が恵みを降り注ぐ日が来ることを祈っています。またその日が来るまで、いわきとの絆を大切にしていきたいと思っています。

 四倉の皆さま、本当にありがとうございました。

 

 


福島いわき再訪(2)~ダークツーリズム

2013-08-21 14:54:09 | 東日本大震災

 8月17日午後は、2011年4月に視察したいわき市の沿岸部を再訪問しました。

 

 最初に向かったのは、やはり2011年4月に最初に訪ねたいわき市久ノ浜(こちらの記事を参照してください)。

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 左写真が2011年4月の様子。

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 現在はこのとおり橋が復活していました。

 

 

 

 

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 左写真は2011年4月当時の、津波と火災で焼失した集落。

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 現在は瓦礫が撤去され、家の土台だけが残っていました。

 

 

 

 

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 左は2011年4月の久ノ浜稲荷神社のほこら。右は現在の様子。赤鳥居の脇の旗には、「ここに故郷あり 稲Dsc03119_2荷神社」と記されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 次に訪ねたのは薄磯地区。2011年4月、今でも忘れられないのが、横倒しになった冷蔵庫の中に生タマゴのパックが残っていたこと。

 

 

 

 

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 そして今回もこの地区で強烈な風景を目の当たりにしました。右写真の富士山のような形の足場は、防潮堤の建設予定地。こんな、こんもりとした丘みたいな堤防が、岸辺を延々と覆ってしまうというのです。

 

 大津波から命を守るには、こういう対策を選択するしかなかったんだろうと思いますが、もはや、ほとんどの住民が高台へ移転し、住む人がいなくなった地域に、これが本当に必要なんだろうか、他に予算を投じるところはないんだろうか、せめてコンクリートの壁ではなく、昔みたいな松の防潮林に出来ないのだろうかとふと思ってしまいました。

 

 

 

 津波のリスクは、ここはもちろん、日本国中の沿岸地域にあるものの、ふだんは本当におだやかで美しい白浜のビーチ。

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 この日も岩場で水遊びする親子連れの姿を見かけました。

 

 

 

 

 

 南に続く豊間地区、江名地区でも、防潮堤が造られる予定。海水浴場や磯民宿を営む住民の皆さんにとって、お客さんに、ふるさと自慢の美しいビーチを見てもらえなくなるということが、どれだけ辛いことでしょうか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

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 小名浜港にあるいわき市観光物産センター『いわき・ら・ら・ミュウ』からは、復興過程の小名浜港の様子を観ることができました。

 

 

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 館内ではちょうど、『3・11 いわきの東日本大震災展』をやっていました。

 

 津波被害の写真や映像や復元資料などが並び、被災当事者にとっては辛い記憶を呼び戻すものだったと思われますが、警察や自衛隊でしか撮れなかった救出作業のリアルな現場写真は、今観ても、心打つものがありました。

 

 

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 静岡市消防局の救援活動写真が大きくパネルになっていたのが、ちょっぴり誇らしかった。

 

 

 

 

 

 今回の視察。自分自身は、純粋に取材者として、リニューアルした道の駅の施設を早く観たい、震災1ヵ月後に視察した被災地がどうなっているのか観てみたい、という気持ちで訪ねたつもりでしたが、帰宅後、あれこれ調べてみたら、最近では、死や苦しみの舞台となった地を訪ねる“ダークツーリズム”が、観光ツアー商品になっているんですね。自分にはその自覚がなかったので、ダークツーリズムという言葉を知ったときはちょっとビックリしてしまいました。

 

 

 

 ネットニュースで調べたところ、ダークツーリズムは、とくに目新しいものではないようで、AFP通信のBBNewsが、今年4月、世界のダークツーリズムのベスト8選として、ポーランドのアウシュビッツ(ユダヤ人強制収容所跡)、カンボジア・プノンペン近郊の虐殺記念館(ポル・ポト派による大量虐殺の記録)、広島平和記念資料館などを紹介しているそうです。

 

 東日本大震災の被災地でも、被害を受けた建物を残すモニュメント構想が進んでいます。

 

 注目は、批評家の東浩紀さんが、チェルノブイリ原発が事故から25年の2011年から観光ツアーが解禁されているのを参考に提唱する「福島第1原発観光地化計画」。跡地を更地にせず、周辺の放射能が一定レベル以下に下がった段階で、原発から20キロ程度のところに宿泊施設を備えた「フクシマゲートヴィレッジ」を開設し、原発事故の記憶を伝える博物館や自然エネルギーの研究施設なども併設する。観光客は、ここを拠点に、バスで「サイトゼロ」の廃炉現場に行き、作業を見学する――といった案が練られているそうです。

チェルノブイリが25年かかった観光ツアーの解禁。いまだに放射性物質の汚染水がダダ漏れし、効果的な対策が打てない状況下で、一体いつ実現する話なんだろう、たぶん宇宙旅行なんかのほうが先に実現するんだろうな・・・。

 

 

 とにもかくにも、翌18日は、過去2回の訪問で行けなかった20キロ圏の一般車輌通行止めギリギリのところまで行ってみました。

 

 

 

 静岡ナンバーの車でノコノコ物見遊山するのはどうかとも思いましたが、四倉ふれあい市民会議の皆さんから、「いわきの観光といえばスパリゾートハワイアンズや美空ひばりの“みだれ髪”の歌碑がある塩屋崎灯台が代表格だが、今、観て欲しいのは、そこだ。今の現実をしっかり認識してほしい」と背を押していただいたのです。

 


 

 

 

 

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 沿岸を通る国道6号線・通称「陸前浜街道」沿いには、途中、こういう道路標識が設置されています。

 いわき市を抜け、広野町、楢葉町、富岡町と北上する途中、幹線道路沿いでよく見かける郊外型ショッピングセンター、コンビニ、ガソリンスタンド、カーディーラーが、まったくの無人で、まるで映画村のセットのようでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 楢葉町の『道の駅ならは』、建物はものすごく立派だし、高台にあって津波の被害は受けなかっただろうと思われますが、クローズしたまま、警察の詰め所になっていました。

 

 

 津波被害を受けながら、市民の力で甦った『道の駅よつくら港』とは、車でほんの15分ぐらいの距離なのに、このギャップはきついな・・・。

 

 

 

 

 

 

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 そして、許可車輌以外進入不可の避難指定区域ゲート。他に進入しようとする車両はなく、警察官の眼がいっせいにこちらに注がれ、ビビッてしまいました。

 

 東さんが提唱する「フクシマゲートヴィレッジ」なるものが本当に実現するならば、この一帯の、映画のセットのような、ゴーストタウンのような乾いた空間に、少しは温もりが甦ってくるのでしょうか・・・。

 

 

 

 

 ふと、中山間地で見かける、雑草が生え放題となり、野生動物が往来する耕作放棄地のことを思い起こしました。少しでも人の手が入らなければ、土地というのは荒廃の一途を進むしかない。再生するには途方もない労力と時間が要ります。

 そんな、“放棄地”が、ここでは自治体サイズで広がっているんだとジワジワ実感しました。

 

 

 国土が狭く、7割近くが森林・山岳地帯で、限られた平野部に人口が密集する日本。7割も森林があっても、日本の木材自給率は3割程度。使用する木材の約7割を輸入に頼っているのです。

 

 

 石油や天然ガスが導入される以前、日本のエネルギー資源は木材でした。戦後、膨大な予算を投じて拡大造林政策がとられ、高度経済成長期は建築用材ニーズによって木材自給率は9割を誇っていました。

 

 自給率が悪化したのは、木材輸入の自由化です。後に残された膨大な人工林は放置され、林業は衰退し、森林は手入れがされなくなり、台風や豪雨で山崩れが頻繁に起き、二酸化炭素の吸収力も低下していった・・・。中学生でも理解できる“負の連鎖”です。

 今、問題になっているTPPも、流されるままに自由化という選択を安易に選んでいいのだろうかと考えさせられます。

 

 

 森林を見放し、効率重視で原子力エネルギーに傾注した日本は、津波によって強烈なしっぺ返しを受けたんだろうと思えます。当面、火力発電に頼らざるを得ない状況下で、日本人がすべきことは、森林資源の価値をもう一度見直すことではないでしょうか。

 

 

 なんだか取りとめのない長文になってしまいました。続きはまた。

 

 


福島いわき再訪(1)~甦った道の駅よつくら港

2013-08-20 21:39:39 | 東日本大震災

 今年のお盆は、いつにない時間を過ごしました。

 まず8月10日から15日までは、バイト先のお寺にこもってお盆行事のサポート。加えてお寺のお身内が亡くなって通夜や葬儀の準備に大わらわ。ある意味、お盆らしいお盆だったと思います。この時期の、冷房のない本堂での盆の棚経、通夜、葬儀は“精神修行”そのものでしたが(苦笑)。

 

 

 

 8月17日~18日は、福島県いわき市の被災地に行ってきました。ご縁のあるいわき市四倉の『道の駅よつくら港』がリニューアルオープンして1年。8月11日の1周年記念イベントには行けませんでしたが、17日夜に四倉鎮魂花火大会があると知り、平野斗紀子さんを誘って車を飛ばして行くことに。

 

 

 お盆のUターンラッシュが心配で、静岡を朝4時に出発。拍子抜けするほど道は空いていて、海老名と友部のSAで休憩しがてら、6時間ちょっとで到着しました。

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 常磐道四倉ICを降りて海岸に向かって行くと、、四倉港の手前に鮮やかな道の駅の建物が見えてきました。震災後、2011年の4月と6月に来た時は、津波にやられたままの状態(写真左・記事はこちら)だったので、その見事な再生ぶりに、目頭が熱くなりました。

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 こちらの記事でも紹介したとおり、道の駅よつくら港は、民設民営の地元物産&情報発信施設です。2009年12月にオープンし、わずか1年4ヵ月後に被災してしまいました。関係者のみなさんの心情を想像すると、いたたまれない思いがしますが、「必ず復興する」という強い意志が、2012年8月のリニューアルオープンに結実したのでした。

 

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 もともとの施設は左写真のような雰囲気でしたが、リニューアルした建物は、1階部分が嵩上げされ、万が一津波にやられても2階に避難し、数日間は避難生活が送れるよう準備を整えたそうです。Dsc03104

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 1階嵩上げ部分を支える柱には、多くの人々のメッセージ陶板が埋め込まれていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 店内は1階が物販コーナー。観光みやげ物店&農産物直売市&コンビニが一体となり、多くの人でにぎわっていました。

 

 

 

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 私が大好きなこちらのコーナーもこのとおり充実しています

 

 

 

 

 

 

 

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 2階はフードコート&海カフェ。見晴らしのよさはバツグンです。私たちは会津喜多方「喜一」のラーメンをいただきました。写真の会津水ラーメン(冷やし塩ラーメン)は、使用する塩が「会津山塩」。海塩じゃなくて、グリーンタフ地層に残った太古の海水成分が高温の地下水に溶け出した山の塩なんだそうです。塩素イオンより硫酸イオンが多く、まろやかな風味を感じました。塩辛さがキツくないから、ラーメンスープのようなものにはよく合うんじゃないかな。

 

 

 

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 夜の花火大会は、海カフェに集まった四倉ふれあい市民会議の皆さんに混ぜていただき、馬刺し、馬レバー、あわび、うに焼きをつまみに、会津の地酒を堪能しました。

 持病があって「ヘタな酒を飲むと体調が悪化する」が口癖の平野さんが、翌日、「ぜんぜん残っていない、きわめて快調」と喜んでいたので、ほんとうにいい酒を用意してくださったんだと思いました。


よつくらの皆さんは私が提供した高砂誉富士を「すっきり飲みやすい」とスイスイ空けてくれました。

 

 よつくらの皆さんは口々に、「酒の肴といったら、いわきの戻り鰹。焼津に負けないよぉ。食べさせてやりてえなぁ」と吐露します。

 

 

 

 

 

 

 四倉港はタイ、ヒラメ、アイナメ、カレイ、ハゼ、メバル、シラス、カツオなど、駿河湾沖でもおDsc03107_2
なじみの豊富な魚種で賑わっていた港でしたが、福島第一原発の高濃度汚染水流出が再打撃を与え、港から漁船の姿が消えてしまいました。

 あるのはFRP仕様でなかなか廃棄処理できずに放置されている被災船の山・・・。

 

 

 

 

 被災地沿岸の漁港は、一部、復興したところもあるようですが、福島の漁港の場合は、“海が放射能汚染した”という底知れぬ重荷を背負ってしまいました。

 

 

 

 

 これから旨味が増してくるという戻り鰹、同じ鰹が千葉県銚子沖で獲れば築地でも高値で取引され、いわきの漁港で水揚げされれば築地では見向きもされないそうです。

 

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 小名浜港にあるいわき市観光物産センター『いわき・ら・ら・ミュウ』1階には、焼津さかなセンターのような仲卸業者の直売所がありましたが、並んでいるのは他県産ばかり。地元で水揚げされた魚介類はありませんでした。

 

 

 販売業者さんは、地元の魚がなくても、他から取り寄せれば商売が出来るけど、漁師さんや水産加工業者さんは、地元に魚が水揚げされなければ、どうにも出来ません。・・・こういう売り場をどんな気持ちで見ているんだろうと思うと、辛くなってきます。

 

 

 地元の皆さんも、酒を酌み交わすときぐらい、被災のことを忘れたいと思うのに、地元の魚を酒肴に出来ない・・・。静岡に置き換えて考えてみたら、駿河湾の魚が食べられないのに、(駿河湾の海の幸に合った清酒酵母を使った)静岡の酒をせいせい呑めるだろうか、と、無性に哀しくなってきます。

 

 

 

 それでも、よつくらの皆さんは、「静岡へ行ったとき、おでん街で食べた黒はんぺんが忘れられねぇなぁ」「もういっぺん静岡へ行くよ。今度は焼津や由比の水産加工現場を見たい」と言ってくれました。

 私も、「いつか必ず、駿河湾の鰹と、いわきの鰹の食べ比べを絶対するぞ!」宣言をしました。

 

 交流のきっかけは震災でも、今後は互いの地域の産業や食文化を理解し、“第二のジモト”と思えるくらいの絆に発展させて行きたい、と、切に思います。(つづく)