杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

富士の白酒

2015-02-26 11:42:18 | 地酒

 2月23日は静岡県が条例で制定した『富士山の日』(その理由についてはこちらもぜひ)。各地でさまざまな行事が執り行われた中、私は【白隠正宗】の醸造元・高嶋酒造(沼津市原)で早朝から取引先酒販店や飲食店のみなさん70余名が集って行なった【富士山の日朝搾り】のラベル貼り&出荷作業を取材しました。23日未明から搾って瓶詰めしたての静岡県産米「誉富士」精米歩合60%純米生原酒おりがらみ。アルコール度数は16.9度。日本酒度+2、酸度1.2。この数値が示すように低酸でおだやかな、実に静岡酒らしい優麗な味わいでした。

 

 

 西は名古屋、東は町田から集まった取引先のみなさんは、こういう作業に参加するということに大変なやりがいを感じていたようで、作業終了後に蔵元がふるまってくれた朝ごはんのかやくおにぎり&豚汁を美味しそうに頬張り、またこの日の夜、県内各地の飲食店で開催された「しずカパ(2月23日、誉富士の酒で18時30分に一斉に乾杯するイベント)」でもこの酒で大いに盛り上がったようです。私が平成8年(1996)にしずおか地酒研究会を発足したときに掲げた活動テーマ「造り手・売り手・飲み手の和」のカタチが、20年経てこんなに進化したのか・・・と、じんわり感動しちゃいました。もっとも私はこの日、富士~沼津地区で3軒取材をして疲労が重なり、熱を出して自宅でおとなしく寝てました(苦笑)。

 

 現在、各蔵の上槽(搾り)作業を取材していますが、搾りのタイミングというのはもろみの醗酵状況によって実に慎重に計ります。何日の何時に搾るか直前にならないとわからないため、こちらも事前に予定が立てられず、運よくタイミングがあった蔵元にしか行けません。それだけに、2月23日朝に搾ると事前告知し、このタイミングに合わせて醗酵をきちんとコントロールした蔵元杜氏・高嶋一孝さんの手腕には惜しみない拍手を送りたいと思います。ちなみに3月22日は“逆さ富士の日”と銘打って、富士山の日朝搾りを加水火入れして限定発売するそうです。入手可能な取引先酒販店は高嶋酒造(こちら)へお問合せください。

 

 

 

 ところで、私が注目したのは、富士山の日朝搾りのラベルです。初代歌川広重と三代歌川豊国が共同制作した『双筆五十三次・はら』という浮世絵。高嶋さんは所蔵先の国立国会図書館まで出向いて許可を取ったそうです。

 

 ここに描かれた「富士の白酒」。おりがらみの誉富士純米生原酒のラベルに実にぴったりですが、「富士の白酒」自体は今現在、高嶋さんが造っておられる純米酒とは違うスペックのようです。 

 

 実は、昨年来、酒造史料の調査で県立図書館に日参しているうちに、偶然、平成8年(1996)7月に富士市立博物館で開催された企画展『郷土と酒』の図録を見つけて、ちょうどひと月ぐらい前、博物館へ直接出向いて図録を入手したばかりだったのです。私は当時、発足間もない地酒研活動に忙殺され、企画展を見逃してしまったため、図書館で図録を見つけたときは「あ~っも~っ」と声を上げるほど自分にガッカリ(苦笑)。その図録に「富士の白酒」のことが詳しく紹介されていました。

 

 

 それによると、「富士の白酒」が文献や浮世絵に登場し始めたのは江戸後期。北斎の東海道五十三次・吉原(1803~10頃)では「白酒のもろみを石臼で磨く図」、駿河国新風土記(1840~43頃)には「富士酵、糯を焼酎に和して醸す、味美なり」、本市場村明細書上帳(1843)には「立場茶屋、名物白酒商売仕候」等などと紹介されています。本市場(現在の富士市本市場付近)は、江戸時代、吉原宿と蒲原宿の間にある東海道の間宿で、富士川流域の加島平野に位置していた。この地域は“加島五千石”とうたわれた穀倉地帯で、西北にあたる岩本村は1233石を誇り、幕藩体制下の村としては最大規模に近かったそうです。こういう土地で酒造りが活発になり、名物とうたわれるようになるのもナットクですね。

 

 駿河国新風土記に「富士酵、糯を焼酎に和して醸す、味美なり」としか記述がないため、白酒がどのように醸造されていたのかは不明のようですが、白酒の一般的な醸造法を紹介した江戸時代の百科辞典・和漢三才図会によると、

 「白酒は精米したもち米7升を1斗の酒の中に漬け、かたく封をする。これを春夏なら3日、秋冬なら5日たって口を開け、箸でその飯粒をとかす。なめてみて甘味が生じたのを見計らって、このもろみを(石臼)で磨く。白色は乳のようで甘い」

 とあります。富士の白酒の場合、酒ではなく焼酎に漬けていたようです。いずれにせよ、造り酒屋が大々的に造って売り出したというよりも、本市場の農家が間宿で茶店を兼業し、店頭で旅人にふるまったささやかなおもてなし、だったようで、浮世絵でさかんに描かれたということは、さぞかし“味美”で評判だったのでしょう。

 

 東街道覧図略には本市場の茶店にこんな狂歌が残っていたと紹介されています。

 

 「風になひく雲にはあらての旅人のひつかけてゆく富士の白酒」

 「白さけの看板に立つや雪の不二」

 「何みても雪かと斗見せつきの女子の顔も富士の白さけ」

 「年よりて又のむべき思ひきや銭のあるたけふじの白酒」

 

 静岡県産米の誉富士と、静岡県で開発された静岡酵母で、実に静岡らしい純米酒を醸し、それを富士山の日の朝に搾り切り、取引先を集めてもてなした高嶋さんの心意気に感動するとともに、白隠禅師や富士の白酒というかけがえのない郷土の歴史を酒のラベルに載せて発信する姿勢に、酒の蔵元がなぜ地域に必要かを改めて考えさせられます。

 東海道筋に多い静岡県の蔵元は、他県の蔵元が欲しくても得られない「歴史」という財産を持っています。今の若い売り手や飲み手には、すぐにはピンと来ないかもしれませんが、歴史、とりわけ街道という人やモノや情報が行き交う場所で育まれた歴史と、歴史が伝える「物語」は、国内のみならず、世界に誇れるオンリーワンのもの。物語のチカラを、これからの造り手・売り手・飲み手も上手に活かしていくべきでは、と思います。しずおか地酒研究会で歴史部会でも作ろうかな。


酒造の三位一体

2015-02-22 17:15:18 | 地酒

 先日、藤枝市の杉井酒造で、室町時代に奈良菩提山正暦寺で確立した『菩提もと』の再現を取材しました。詳しくは別の機会に紹介するとして、正暦寺は日本清酒発祥の地として知られています。仏教の戒律で飲酒が禁じられているにもかかわらず、なぜお寺で日本酒が造られ、その技術が脈々と継がれてきたのかは、歴史&仏教好きの地酒ライターにとって“永遠の取材テーマ”かもしれません。以前、こちらのブログでちょこっと書いたことがありますが、今回、実際に菩提もと造りを目の当たりにして、さらに突っ込んで調べてみたくなり、別の蔵元の事務所本棚で興味深い論文を発見しました。日本醸造協会誌第109巻第9号に掲載されていた伊藤善資氏の【酒造の三位一体について~酒と神仏(信仰)と金融、三者の深い関係】です。

 

 この論文は酒造と宗教と金融が“三位一体”で古代~中世の日本社会の基盤となっていたというもの。酒造が神事と深くつながっていて、仏教が伝来して神仏混合となってから仏教とも密接になっていったことは理解していましたが、酒が神社や寺院の金融活動の原資となり、社寺の権威を有力農民や新興豪族が利用し、経済を動かしてきたという視点は新鮮でした。新鮮というか現実的というか、人間やっぱり今も昔も変わらないんだなあって。

 

 大陸から稲作が入ってきて農耕社会が構築された弥生時代、もっとも大切にされたのはその年に最初に実る初穂で、初穂には大いなる霊力があると信じられていました。初穂と、初穂で醸された酒を神々に供え、そのお下がりを収穫祭でいただく。穀霊が宿った酒に対する人々の畏敬の念は計り知れなかったと思います。農民は翌年、お供えの初穂を種籾として借り受けて、収穫後、借りた稲に神への謝礼を上乗せしてお返しした。借りた稲が「元本」で、上乗せ分が「利稲(りとう)」。これが日本列島で利息(金融)の起源となったそうです。この習慣をシステム化したのが、律令国家における「出挙(すいこ)」。地方のお役所が農民に稲を貸し、収穫後、元本と利稲を返却するというもので、のちに利稲だけが税金として徴収されました。

 

 6世紀に入ってきた仏教は、このシステムに大きな影響を与えました。昨年、あべのハルカスで聴講した講演会【神も仏も日本のこころ】(こちらにまとめました)で触れたとおり、日本は、土着(神道)と新興(仏教)の宗教が共存共栄した世界でも稀な国。なぜ宗教戦争が起きずに済んだのか、先の講演では思想的な背景を学びました。

 伊藤氏が参考文献にあげた義江彰夫氏著『神仏混合』によると、律令時代、「皇祖神」の威光を持つ朝廷神祇官が国家の祈年祭で霊力で満たした初穂を地方の神社に分け与え、それへの感謝の名目で租税を取り立てることができたが、8世紀後半になり、地方の有力神社やそれを支える地方豪族が初穂を受け取りに行かなくなった。地方には地方の問題が山積する中、国家規模の霊力をありがたがる余裕などないというわけです。そんなときに「悩める神も仏教に帰依すれば救われる」という思想が入ってきて、各地に神宮寺が建立されるようになった。税の徴収を、神への服従と初穂献上にすり替えることが難しくなったと判断した朝廷は、しぶしぶ神宮寺を認め、9世紀に入り、仏教が王権レベルまで浸透していったということです。神仏混合の裏に徴税システムありってすごーく現実的な話ですね!

 

 8世紀末に書かれた「日本霊異記」に、紀伊国の薬王寺で薬草園の基金を増やすために村主の姑に資金(稲)を与えて酒を造らせ、金利を得ていた。村主の姑は酒を人に貸し与えて利息を回収していたという。また讃岐国の郡長の妻が酒に水を加えて増量し、貸すときは小さな枡で、返却させるときは大きな枡で計って大儲けした。稲を貸すときもあくどい手を使った強欲な女だったというエピソードが紹介されているそうです。この時代に女性の酒造家がいたこと、酒が利付き貸付されていたなんてちょっとビックリ!! 寺が稲を農民に貸し出して、その米で酒を造らせ、酒を売って利益にしていた。その後、お寺で酒造りの画期的な技術が開発されたことも、なんとなくつながりますね。

 

 そこで冒頭の疑問。不飲酒戒の仏教寺院で酒造や酒販がOKだったのはなぜか。加藤百一氏著『日本の酒5000年』では「寺院酒造の起源は、寺院の境内にあった鎮守へ進献する神酒造りだった」とし、松尾剛次氏著『破戒と男色の仏教史』では「中世において延暦寺は京都の酒屋を管轄下に置き、税金をとっていた。他人に酒を売らせ、上前をはねていた。おそらく酒屋に対して、延暦寺に金などを寄付することで酤酒(こしゅ=酒の販売)戒を犯したことを償える。寄付は作善の一つだから、それによって酒の製造販売を容認してもらっていたのではないか」とあります。寺への寄付であり善き行いだとみなされ、許されたんですね。

  ちなみに松尾氏の『破戒と男色の仏教史』によると、戒律を守れという厳しいお達しが再三出されたのは、戒律を守らない僧侶がたくさんいたから。当時、男色は官僧では一般的で、東大寺の別当まで務めた宗性という僧侶は95人経験し、100人越えたらさすがにマズイと日記に書いているくらいです。今のモラルや常識では想像できないと思う反面、僧侶の妻帯を是とする今の常識を疑わなくてよいのか・・・とも思う。一方で、今の時代、アルコールレスやセックスレスの若者が増えていると聞きます。ストレスフルの現代社会において、酒造家や宗教家が果たすべき役割は、ご当人方が思う以上に重要ではないかと想像しますが、どうでしょうか?

 

 それはさておき、延暦寺の門前では11世紀頃から「日吉神人」が暗躍していました。神人(じにん)とは俗身分のまま寺社に奉仕し、祭儀やその他雑事を務める一方で、寺社の権威を借りて商売や金融活動をしていた人々。日吉神人には大変な財力があり、その中から土倉(どそう)という専門の金融業者が現れ、延暦寺の鎮守である日吉大社に奉納される米や銭で酒造業を営み、やがて京都の商業・金融業を牛耳っていったそうです。土倉勢力は室町時代にピークを迎え、酒造業も爆発的な発展をみせたということです。

 『菩提もと』を確立した正暦寺をはじめとする僧坊酒も、室町後期~戦国時代に大いに品質向上しますが、この話に行き着くまで、伊藤氏の論文と参考文献を読み解く時間がもう少し必要です。今日はこのへんで。


継醸と継筆

2015-02-14 20:57:13 | 地酒

 今日、訪ねた某蔵で、麹室の前に出麹が並んでいました。風の通りをつくるために、このような筋を刻みます。禅寺の枯山水の庭の白砂に似ているでしょう。白砂にこのような文様を付けるのは、禅が説く「空」の表現だといわれます。酒蔵の麹を通り抜ける風は、酒の神様の吐息なんだろうかと妄想してしまいました。

 

 2月も早や半月。毎朝、3時4時に起きて簡単にデスクワークを済ませ、県内の酒蔵へ取材に行き、寄り道せずにまっすぐ帰って夜22時前には就寝するという禅寺のような?規則正しい生活をしているせいか、おかげさまで風邪一つ引かず、健康的に過ごしています。・・・というか、生活費を切り詰めて酒蔵取材に投資しているので寄り道する余裕どころか、日に一食はカップ麺か缶詰惣菜でしのぐ有様。少しは痩せるかなと思ったけどジャンクフード率が高くなるとダメですね(苦笑)。

 紛争地域で命を落とした後藤健二さんとはレベルが違いすぎる話ですが、食費を切り詰めるしかない暮らしでも気持ちが萎えないのは、目的をもって取材活動できる幸せを噛み締めているから。どんな状況でも取材したい対象があって伝えるべきメッセージがあるなら自分の身は二の次、という思いに駆られるのがフリーランスの取材記者の性(サガ)だろうと思います。

 哀しいかな、私のような請負仕事が多いローカルライターでは、自分が書いたものが読者にちゃんと届いているのか、反応らしいものを得る機会がほとんどありません。書いたら書きっぱなし。発注元から次に声がかかれば、「ああ及第点をもらえたんだな」と安堵する。その声かけが年々減る中で、フリーライターの矜持とは何かに向き合わざるを得なくなり、ライフワークである酒の取材を丁寧にやり直そうと一念発起しました。

 いざ、取材に動いて、自分は少なくとも静岡県内では酒のライターとしてそこそこ知られているんじゃないかと自負していたのが、実際のところ、代替わりした蔵元や杜氏、新規に回る酒販店や飲食店では、一から名刺を差し出して自己紹介するところから始めなければならない。過去に自分が書いたものなんて、まともに届いていないんだという現実に直面します。そんな、自分の慢心に気づかされただけでも、今期の取材は意義がある・・・と実感しています。

 

 先日、就寝前に読んだ山田無文老師の説話集『和顔』に、天龍寺の開山・夢想国師のエピソードが紹介されていました。国師がお若い頃、伊勢神宮を参拝し、神主から「神様は清浄がお好きで、穢れが一番お嫌い。ご神前で金を撒いたり願い事や頼み事をなさらないように」と言われたそうです。神様への願掛け=合格祈願、良縁祈願、病気平癒、家内安全、子孫長久など等は、欲という心の穢れ。人間に必要なものは何もかも承知なさっているのが神様であって、こちらから催促してはいけない。五十鈴川で手を清め、口を清め、参道を静かに歩き、心を清め、ご神前に立ったら柏手を打って「今日も無事暮らさせていただきまして、ありがとうございます」とお礼を申し上げる・・・それが真実の神詣であると。国師はそのように聞かされ、「日本の神様の教えも仏法の教えも同じだ」と悟られたそうです。

 私の慢心を諌めたのは酒蔵におわす神様か、禅僧のような形相で酒造りに勤しむ杜氏や蔵人のみなさんに相違ない・・・。全人格を賭して伝えるに値する取材対象と出合えたことに感謝せねば、と思うのですが、煩悩多き身ゆえ、一筋縄ではいきません(苦笑)。

 

 

 以下は、2月前半に訪ねた酒蔵写真をいくつか紹介します。

 

 磯自慢(焼津市)の多田信男杜氏。多田さんの麹造りはまさに〈神業〉。つねに背筋がピーンと張り詰める、神聖な気持ちにさせてくれます。右の写真は、蒸し米を甑から掘り起こす蔵人の八木さん(イケメン!独身!)と受け止める寺岡社長。社長も現場の大事な戦力です。

 

 2月4日立春の日は、若竹(島田市)で朝6時から取引先酒販店120店余が集まって、「立春朝搾り」のラベル貼り&梱包を行い、大井神社に参拝しました。初めて参加した友人が「ほんとうに日本酒らしい行事!」と感心していました。

 

 杉錦(藤枝市)の生もと造り。味見させてもらったところ、酸味のない、ほのかに甘いヨーグルトのような味。徐々に酸味が湧いてくる=自然に乳酸が生成されるのをじっくり待つわけです。

 

 臥龍梅(静岡市清水区)の鈴木社長が洗米作業を見つめています。杜氏と蔵人計7人。現在、世界13カ国へ輸出されている絶好調の蔵。それだけに社長が背負うものも大きいだろうと思います。一方、右の写真は、たった一人で全工程行なう葵天下(掛川市大須賀町)の蔵元杜氏山中久典さん。最も米の量が多い掛米(留)は蒸し上がりから仕込みまで3時間かかるそうです。一人でやるんだから仕方ないですね。臥龍梅に比べたら造りは小さいものの、背負う大きさは変わらないだろうと思いました。造り手がどうあれ、酒屋や飲食店で並んだら、うまいかどうかの判断だけ・・・ですものね。

 

 このキュートで爽やかな女性は富士正(富士宮市)の蔵元長女・佐野由佳さん。最近マスコミでも紹介されていますね。朝霧フードパークにある富士正の酒蔵では、化学分析室や瓶詰めライン工場で女性が大活躍。「時代が一歩進んだ・・・!」と実感しました。由佳さんはこれからの静岡酒のシンボリックな存在になるはず。精一杯応援したいと思います!

 「継醸」は、牧野酒造(富士宮市)の神棚。ハッとさせられた言葉でした。続けることは生み出すことと同じくらい難しいことですね。私の場合は「継筆」かな。いつまでライター稼業で食べていけるんだろうか・・・わびしい食卓を前についつい膨れ上がる不安や不満をグッと飲み込み、なんとか折り合いをつけながら、日々精進してまいります。


田から生まれるもの~尊徳思想に学ぶ

2015-02-08 19:33:19 | ニュービジネス協議会

 2月7日(土)は(一社)静岡県ニュービジネス協議会西部部会のトップセミナーで、二宮金次郎(尊徳)の人づくりについて、中桐万里子先生(臨床教育博士・関西学院大学講師)の講演を取材しました。NB西部部会での尊徳セミナー開催は2回目(前回の内容はこちらを)。今回講師にお招きした中桐先生は二宮金次郎の7代目子孫にあたる方です。

 

 

 前回記事でも書いたとおり、金次郎といえば薪を担いで本を読むあの少年像。全国の小学校に設置されたことから勤勉の奨励に祀り上げられたわけですが、中桐先生は「大事なのは読書ではなく、背負っている薪と、一歩前に出した足」と指摘されました。〈働くこと〉〈一歩踏み出すこと〉の尊さを表しているという。この見方は新鮮です。実際、本人は「本に真実は書かれていない。本は捨てろ」と言っており、成人した金次郎像は本を持っていません。「(先人が書いた)書物に頼るのではなく、自分で観察し、自分で記録することが大事。自分の眼、感覚、経験で目の前にあるものを認知し理解する」というのが彼のモットーで、日頃手にしていたのは自身の観察日誌でした。

 書物というのは、もちろん、大切な知識の宝庫に相違ありませんが、金次郎が生涯を賭した農業は、人智の及ばない世界です。とりわけ彼が生きた江戸後期は気候変動が激しく、浅間山噴火に端を発した天明の大飢饉(1782~87)、天保の大飢饉(1830年代)は冷夏による日照不足と水温低下、長雨や洪水によって稲作が壊滅状態となり、数万~数十万単位の餓死者を出しました。

 

 天保の大飢饉のとき、小田原藩配下の桜町領の復興にあたっていた金次郎は、ある年、田植えが終わった直後、村人に「植えた苗をすぐに抜け」と命じます。当然、村人は抵抗しますが、彼は「さっき食べたナスが、秋ナスの味だった。これから冬のような寒さがやってくるだろう」と冷夏を予測し、寒さに強い雑穀(蕎麦や稗)に植え替えさせたのです。もちろんナスの味だけで判断したわけではなく、ナスの種の付き方が夏と秋では違うことや周辺に野菊が咲いていたり夏草の葉先が枯れかけていたなど、田畑の様子を日頃からきめ細かく観察し、変化を敏感に察していたからです。結果、桜町領下では一人の餓死者も出さずに飢饉を乗り切ったのでした。

 この有名な秋ナスの奇跡談、企業が経営危機に陥ったときの心構えに例えられますが、中桐先生は「冷夏や冷害は、金次郎にとって危機でもなければ敵視するものでもない」と説きます。米づくりにこだわり続ける限り、冷夏は忌むべき災害。しかし蕎麦や稗が育つと思えば、ピンチをチャンスに変えることができる。稗は文字通り、冷えを取る=冷え性改善の効能があるといわれます。「自然が、冷夏のために稗を与えてくれたと考えればよい」と先生。夏は暑くなくてはいけない、田では米を育てなくてはいけない、という固定観念や既存のモノサシにこだわることなく、その土地に見合った作物を育てようという農業実践者らしい発想が金次郎にはあったわけです。

 

 尊徳思想の言葉として有名な〈積小為大〉。前回記事では「小さなことをコツコツと続けていけば、やがて大きな実りになる」と解説しましたが、中桐先生の解釈は「大きな幸せへと導く宝のタネは、小さな場所に眠っている」。大きな目標を達成するため、というよりも、日々の小さな気づきを大切にすることに重きを置いた解釈です。田植えの直後に食べたナスが秋ナスの味だった・・・それは小さな変化の気づき。日常のいとなみに目を配り、ときには「なんでそうなるんだ?」と関心を持つ。金次郎が西洋の科学者や生物学者だったら、ノーベル賞級の業績を遺したかもしれませんが、彼は19世紀の日本の農業の中で、宝のタネを探し続けました。

 

 講演後に購入した中桐先生の著書【現代に生きる二宮翁夜話】に、こういうエピソードが紹介されていました。

 

 翁曰 聖人も聖人にならむとて、聖人になりたるにはあらず 日々夜々天理に隋ひ人道を尽して行ふを他より称して聖人といひしなり

 (二宮翁は言われた。聖人も聖人になろうとして聖人になったわけではない。日々夜々、天理に従い、人道を尽して行なうのを、他から聖人と呼んだのだ)

 

 

 大飢饉に見舞われたこの時代、耕作放棄地を金次郎は懸命に耕し、荒地を田畑へ、美田へと甦らせます。美田を1枚甦らせたらそれをあっさり売り払い、得た収入で2枚の荒地を購入し、それを美田にして売って、さらに3枚の荒地を買う。こうして無一文の孤児から村のリーダーへとのし上がっていくのですが、中桐先生は「金持ちになるためのすごい仕組み!ではありません。ある意味で彼は、このお話で宣言しているからです。ただただ目の前の荒地と向き合い続けた結果、そうなったにすぎない・・・と。徹底的に日常に向き合い、丁寧に、誠実に、そこに自身の最大限の力を注いで暮らすこと。それこそが尊ばれる歩み方だと・・・。」と締めくくります。

 

 宝物という言葉には、「田から生まれるもの」という意味があるそうです。田から生まれるもの=作物は人間の命をつなぐもの。農業とはまさに、宝物のタネを見つけ、育て、実らせるものといえます。この〈積小為大〉の教えを見事に実践したのが、実はトヨタ創業者の豊田佐吉氏。どんな小さな変化も見逃さない社風を創り上げようと、あえて現場(人や機械の配置)を毎日変化させる=慣れを防ぐというしくみを取り入れ、それがトヨタのカイゼンへと結実したそうです。

 

 農業が製造業に学ぶ時代となった現代、「宝物」の定義も大きく変化しています。それでも普遍的だと思えるのは、〈積小為大〉の敵とは〈慣れ〉であるということ。物事を傍観しているだけ、変化に鈍感な人には「宝物」のタネは見つからないだろうといえる。トヨタのカイゼン方式を日常の暮らしに取り入れるのは無理だとしても、身の周りの人、モノ、出来事に関心を持ち続けることぐらいは出来そうです。

 身の周りのあらゆることに関心を持つ。関心とはプラスの感情です。自分を取り巻くものに興味をもち、時には感謝し、大切に思う感情が育てるものです。今、自分が生かされているのは周りのおかげ。知らず知らずに多くのものに助けられ、今の自分がある。周りから受けた徳に、今度は自分が報いる番・・・「それが、報徳という言葉のほんとうの意味です」と中桐先生。報徳とは、give & take (=見返りを求める) ではなく、take & give (=恩返し)なんだそうです。

 

 禅の講演でもそうですが、ふだんづかいの言葉や思想の本来の意味をあまりにも知らず、曲解していたと気づかされ、大いに反省させられます。先人の書いたものを鵜呑みにするな、自分で観察しろ、というのが金次郎の教えですが、ライターという職業上、先人の思想を正しく学び、伝え継ぐことから始めないと仕事になりません(苦笑)。・・・でもこういうお話を聴くと、自分で何か実践したくなりますね、ホント。

 

 なお二宮金次郎については報徳博物館のサイト(こちら)を参照しました。ぜひ参考にご覧ください。

 


サトウキビからアル添酒へ~dancyu3月号日本酒特集追補

2015-02-06 13:46:00 | 地酒

 もうすぐバレンタインデー。ということで、この時期の酒蔵取材での手土産も、必然的にチョコレートとなります。先日、某蔵へ、チョコではなく(以前取材した)高糖度トマトを差し入れに持っていったら、社長から「最近チョコをもらえなくなったんだよなあ」とポロッと言われちまいまして、帰りに百貨店のバレンタイン特設コーナーをのぞいたら、高級輸入チョコがズラリ。全取材先に配ったら破産しそうなプライスでした(苦笑)。

 疲れがたまるとき、すぐにエネルギーになる甘いものは重宝しますよね。最近、醸造アルコールの原料でもあるサトウキビの歴史を調べてみて、日本酒に対する見識をまた一つ深めることが出来ました。

 

 砂糖の原料となるサトウキビ。発祥の地は南太平洋ニューギニアともインドとも言われているそうで、インドの仏典に砂糖やサトウキビに関する記述があることや、砂糖の英語名「Sugar」の語源がサンスクリット語で「Sarkara(サッカラ=さとうきび)」に由来することから、インド発祥説が有力のようです。

 ハチミツに頼らずに甘味が得られる魔法の葦=さとうきびは、インドから東は中国へ、西はアラビア→ヨーロッパへと伝播しました。日本には鑑真和尚がもたらしたとされていますが、遣唐使がちょこちょこ持ち帰っていたらしく、当時は、お茶と同様、高価な薬として貴族や僧侶など上流・知識階級の間で重宝されていたようです。

 中国では13世紀、元の初代皇帝フビライ・カーンが中国福州にアラビアから技術者を招いて草木の灰による精製法を確立し、白い砂糖が製造されました。これを見たマルコ・ポーロが東方見聞録で「白い砂糖がある!」と驚きの記述をしています。

 15世紀末、コロンブスが西アフリカ・カナリア島産のサトウキビを、西インド諸島の一つヒスパニオラ島に移植し、アメリカ大陸にも伝播していきます。室町期の日本では禅僧を中心とした茶文化とともに、和菓子に使われる砂糖が一般に広まっていきます。また1549年に来日したフランシスコ・ザビエルが、ボーロ、カステラ、金平糖といった南蛮菓子を初めて紹介しました。このあたりは昭和女子大学国際文化研究所の荒尾美代研究員が興味深いレポートを発表していますので、こちらのサイトを参照してください。

 

 コロンブスによってアメリカ大陸にもたらされたサトウキビは、ブラジルやカリブ海を中心にサトウキビ・プランテーション(・・・世界史の授業で習ったなあ)を展開し、現地で生産された砂糖はアフリカから送られる多くの奴隷と交換されるなど国家間の重要な貿易物資となっていきます。サトウキビは糖分のピークを見計らっていっせいに刈り取りを行い、刈り取った後は発酵を防ぐために硬い茎を急いで粉砕し、搾り汁を取ります。これを鍋で煮詰めて冷やして結晶化させたのが砂糖。刈り取り・粉砕・搾り作業は大量の人手を擁し、一気にやらねばならぬ労働集約型産業ですから、黒人労働者たちが酷使された情景を想像すると心が痛みます。昨年アカデミー賞作品賞を受賞した【それでも夜は明ける】は、綿花のプランテーションが舞台になっていましたが、さとうきび農場でも同じような歴史が繰り返されていたんですね。

 プランテーションの過酷な暮らしの中から生まれたのが、サトウキビを原料としたラム酒やカシャーサ(カシャッサ、ピンガとも言う)といった蒸留酒でした。廃糖蜜(サトウキビの搾り汁を煮詰め結晶化させた砂糖をとった残りの液。糖分は約60%)を水で薄め、35~45℃で発酵させた後、それを蒸留して樽に数年間貯蔵したもの。農場主は労働者たちの気晴らしや疲労回復につながるなら、と彼らの飲酒を黙認し、そのうちに自分たちも飲むようになり、オランダから高性能の蒸留機械が持ち込まれたりして酒質が向上したようです。詳しくは東京農業大学名誉教授の中西載慶先生がこちらで解説されていますので参照してください。

 

 サトウキビ・プランテーションとして厳しい歴史を刻んだブラジルでは、カシャーサが国酒として愛飲されています。1789年、ポルトガルに対して起こった独立運動は失敗しましたが、この時、独立を叫んだ若い将校たちが「独立の乾杯はポルトガルワインでなくカシャーサだ」というスローガンを打ち出したことから、独立のシンボルとして一般大衆に浸透し、愛飲されるようになったそうです。現在は大衆向けに一般流通されているカシャーサと、希少価値の高いアルチザン・カシャーサがあります。私はカシャーサをライムと砂糖で割ったカクテル「カイピリーニャ」は飲んだことがありますが、酒造職人こだわりのホンモノのアルチザン・カシャーサ、一度は飲んでみたいものです。

 

 

 そんなこんなで、前置きが長くなりましたが、日本酒に添加される醸造アルコールは、今やサトウキビから蒸留されたエタノールをバイオエネルギーにまで展開し、この分野の先進国となったブラジルから輸入されています。海外から輸入した、しかも米以外の原料で造られた醸造アルコールを日本の国酒に添加するということは、酒の業界の中でも長年、大きな論争になっていますが、本日2月6日発売のdancyu 3月号日本酒特集で、「喜久醉」の青島酒造蔵元杜氏・青島傳三郎さんを取材し、アルコール添加の解説記事を書かせていただきました。醸造アルコールの精製方法や添加方法についてはこの記事(P59)を参照してください。

 

 dancyuというメジャー誌、しかも日本酒の特集雑誌ではダントツの売上を誇るメディアで初出稿させていただくテーマがこれか・・・と、最初はビビリましたが、アル添解説を引き受けた青島さんの「うちがアル添酒を造っているのは事実だし、この機会にうちの考えをしっかり伝えることも大事だと思ったから」という大人な対応に感化され、自分なりの調査や取材経験を加味してみました。レイアウトの都合上、ここに書いたブラジルのさとうきび蒸留史をはじめ、青島さんの個人体験等の記述はカットすることになりましたが、“異物を添加した不純な酒”とみなされがちなアル添酒の背景に、植民地の歴史や砂糖の伝播史があること、現代のアルチザン(職人)が先人の築いた技をどう生かしているのかを知る有意義な取材でした。

 日本酒も大陸から伝わった稲を原料にし、貧しい民が大地を懸命に開墾して稲を育て、豊作の年もあれば凶作に苦しむ年もあり、その中から試行錯誤を繰り返して澄んだ醸造酒を造り上げ、江戸時代には焼酎(蒸留酒)を添加して品質を保持する技術を、明治~大正~昭和と近代化のもとで原料米の不足を補う添加技術を生み出し、戦後、豊かな時代になってようやく米100%の純米酒がフツウに飲まれるようになった。・・・われら日本人の民族の酒が刻んできた変えようのない歴史です。今回の執筆にあたっては、アル添酒を○か×かで論じるのではなく、出来る限り広い歴史観を持って国酒の歩んできた道を認識し、純米酒が支持される時代に造るアル添酒の価値や意義を考えてみました。アメリカ大陸のプランテーションで蒸留酒を育んだ人々への敬意を“添加”して―。

 

 私自身は、アル添の有無にかかわらず、どんなお酒も、そのお酒との出会いに感謝し、アル添ならば美味しいアル添が飲める今の時代を幸せだと思って美味しくいただいています。記事の文末でつづった思いそのものです。dancyu3月号についてはプレジデント社公式サイト(こちら)をぜひ。