杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

両足院ーいま開かれる秘蔵資料

2021-11-23 21:28:48 | 朝鮮通信使

 11月20日(土)、大阪のTKP心斎橋駅前カンファレンスセンターで、令和3年度NPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会総会が、2年ぶりにリアル開催されました。私が所属する地域史研究部会で、敬愛する片山真理子さんが建仁寺両足院の通信使関連所蔵品について解説されるというので、万障繰り合わせて参加しました。

 改めて紹介しておくと、私は2007年の大御所四百年祭記念事業で静岡市が製作した映像作品『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の制作に関わり、朝鮮通信使研究の第一人者である仲尾宏先生(京都文化芸術大学客員教授)はじめ、通信使ゆかりの全国各地の美術館・博物館の研究員の皆さんとご縁をいただき、以来、朝鮮通信使の調査取材をライフワークの一つにしています。2007年当時、京都の高麗美術館学芸員だった片山さんには撮影等でひときわお世話になり、その後も折に触れ、さまざまな知識や情報を授けていただいています。片山さんは現在、花園大学歴史博物館に籍を移され、今月末から同館で始まる『両足院ーいま開かれる秘蔵資料』(こちらを参照)の準備に奔走されています。

 京都祇園の中心に位置する建仁寺は、静岡人ならお馴染み、お茶を伝えた栄西禅師が1202年に建立した京都最古の禅寺で、1258年に入山した聖一国師がさらに発展させました。

 両足院(りょうそくいん)は、建仁寺・南禅寺・天龍寺の住持を務めた龍山徳見(りょうざんとっけん・1284~1358)を開基とする建仁寺の塔頭寺院。徳見が葬られたときは「知足院」という名称でしたが、時の天皇の諱「知仁」にかぶるということで、両足(如来の尊称)に改称したそうです。

 徳見は千葉の香取出身で、10代の頃、鎌倉五山の寿福寺で出家し、漢文の才能を認められて中国へ留学。苦学を重ねた末、日本人として初めて中国(当時は元王朝)の官寺(国立のお寺)の住持となり、当時廃れていた臨済宗黄龍派を再興するなど、つごう40年余り、現地で活躍した人物です。

 やがて室町幕府を開いた足利尊氏・直義兄弟に帰国を請われ、貞和5年(1349)、18名の弟子を伴って帰朝します。このとき来日した弟子の一人・林浄因(りんじょういん)は、日本に饅頭の製法を伝えたとされる人物です。

 私はかつて、奈良市の林(りん)神社の饅頭まつり(例大祭)を取材したことがあります。林浄因を祀る日本で唯一の饅頭神社として知られ、毎年4月29日の例大祭には全国から菓子業者が集まって家業繁栄を祈願するのです。林浄因の饅頭は当時、評判を呼び、宮中へも献上され、林家は足利幕府から「日本第一本饅頭所」の看板を許されます。屋号は『塩瀬』とし、江戸時代は将軍家ご用、明治以降は宮内庁御用達の『塩瀬総本家』として発展したのですが、一般に、饅頭を最初に伝えたのは聖一国師、という説が知られていますよね。

 2019年に駿河茶禅の会の研修旅行で博多承天寺を訪問したとき(こちら)、訊いてみたところ、聖一国師が宋から酒饅頭の作り方を伝えたのは確かなようで、この技を継いだ虎屋に、国師が揮毫したといわれる『御饅頭所看板』が残されています。一方で、聖一国師よりも先に宋へ渡った道元が、1241年(聖一国師が帰国した年)に著した名著『正法眼蔵』の中で、饅頭の食べ方について言及しているとのこと。誰が最初に饅頭を伝えたのか証明するものはないみたいです。

 それはともかく、両足院は、開基徳見の後、2世から8世まで林浄因の子孫が務めたそうです。

 そして10世雲外東竺(うんがいとうちく)が、江戸時代の延宝5年(1677)から2年間、対馬の以酊庵22世住持を務めました。ここからが朝鮮通信使の登場です。

 

 以酊庵(いていあん)はかつて対馬にあった禅寺で、現在は厳原市の臨済宗南禅寺派西山寺となっています。江戸時代は朝鮮外交の最前線として位置づけられ、徳川幕府は漢文に長けた京都五山(南禅寺=別格・天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)の学僧を輪番交替制で以酊庵に派遣し、朝鮮との往復書簡や通信使の接待にあたらせていました。なぜ京都五山の学僧が派遣されるようになったかは、4年前のこちらのブログ記事を参照してみてください。

 両足院からは、10世雲外東竺の後、13世高峰東晙が安永8年(1779)に、14世嗣堂東輯が文化4年(1807)と文化12年(1815)に、15世荊叟東玟が天保14年(1843)と嘉永7年(1854)と文久4年(1864)に派遣されました。ちなみに朝鮮通信使の使行は文化8年(1811)が最後です。

 最初の10世東竺から14世東輯まで130年間にわたる派遣期間で、通信使の来日時期とぶつかる機会はなくとも、以酊庵には朝鮮側からも外交担当役人がたびたびやってきたでしょうし、さまざまな交流を重ねたことでしょう。結果として、両足院にも「朝鮮通信使来日時のもの」「朝鮮通信使に関連する以酊庵輪番関係のもの」が数多く伝わりました。

 

 私は2009年に両足院で初公開された朝鮮通信使の書画を鑑賞したことがあり、300点近い関連資料が最近になって発見されたと知って驚きました(そのことを書いた当時のブログ記事(こちら)を、今回の講演で片山さんが紹介してくれて、ビックリ赤面してしまいました)。

 その後、2017年から2019年まで韓国の文化財団から助成を受け、花園大学歴史博物館と禅文化研究所が両足院の秘蔵資料について調査を行いました。なんでもお蔵の雨漏りをきっかけに全収蔵品を整理し、工芸品は京都国立博物館に、書画は花園大学歴史博物館が預かることになり、花園大学禅文化研究所と協働で本格調査をすることになったそうです。

 11月29日から年明け2月3日まで花園大学歴史博物館で始まる『両足院ーいま開かれる秘蔵資料』(こちらを参照)は、その成果の一部を垣間見ることができるようです。事前予約が必要ですが入場無料ですので、年末年始、京都へ旅行を計画されている方はぜひ!

 

 

 


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清水と相良の歴史アーカイブ

2020-11-22 13:36:03 | 朝鮮通信使

 コロナの影響で休会続きだった静岡県朝鮮通信使研究会の今年初めての例会が11月21日に開かれました。テーマは『宗像神社の鳥居を寄進した興津忠通~朝鮮通信使崔天秀殺害事件と入江一族の子孫たち』。我らが先導役・北村欽哉先生が今回も大いに知の刺激を与えてくださいました。

 このテーマを聞いてパッと内容が解る人は、たぶんいらっしゃらないだろうと思います。静岡県の朝鮮通信使研究のトップランナーである北村先生でさえ初見のネタということですから、我ら門弟が理解しようもありません。そんなトリビアがまだまだ身近に散在していたとは、歴史好きにとって朝鮮通信使は知の金脈に違いない!と再認識した次第。

 前置きはさておき、今回も北村先生が綿密に調査された内容を、キーワード別にかいつまんでご報告したいと思います。

 

①宗像神社と興津氏

 世界遺産に認定された北九州の宗像神社は天照大神の三人の姫を辺津宮(本土)、中津宮(大島)、沖津宮(沖ノ島)に祀り、田心姫神を祀る沖津宮は女人禁制の孤島として知られています。全国に7千余ある同系神社のうち、静岡市清水区興津にある宗像神社は、沖津宮の田心姫神が米俵に乗ってこの地にやってきて弁天様として祀られ、沖津⇒興津という地名になったとか。

 平安中期、駿河国司として赴任した藤原時信の子惟清(これきよ)は、入江地域の土地開発を行い、〈入江庄〉を作って入江姓を名乗ります。その一族が吉川、船越、矢部、三沢、岡部、興津などに分かれて土地開発を行い、豊かになった民衆がそれぞれの土地を守るために武力を持つようになり、武士階級となって台頭、やがて鎌倉幕府の御家人として活躍するようになります。

 ちなみに入江一派の御家人たちは、源頼朝に義経のことを讒言し頼朝死後に幕府を追放された梶原景時と清水の狐ヶ崎で合戦し、梶原一族の滅亡に加担したことでも知られます。このあたりは再来年の大河ドラマ〈鎌倉殿の13人〉でも描かれるでしょう。楽しみですね! 

 

 興津氏は、その名の通り興津エリアを収めた入江一族の一派。入江惟清が藤原氏の氏神である春日神社を、吉川氏が鶴岡八幡宮を勧請したのに倣い、興津の弁天様にゆかりのある宗像神社を勧請しました。

 今回のお話に登場する興津忠通は江戸中期の人で、初代入江惟清から21代後。現在、興津の宗像神社に立つ三の鳥居には〈宝暦九己卯年九月 藤原朝臣忠通建〉との刻印が残っています。現鳥居は昭和47年に再建されたもので、その脇に、安政大地震で倒壊したとされる鳥居の柱片が安置されており、ここにも確かに〈忠通建〉の文字が残されています。

 忠通は、宝暦7年(1757)に大坂町奉行に任命され、赴任のため、この地を通行しており、地元の郷土史愛好家がまとめた『興津地区年表』によると、通行中に奥さんが急に産気づき、難産だったため、弁天様にご祈願したところ無事出産。そのお礼と先祖の地たる縁として弁財天の逗子と石鳥居を奉納し、10両を寄進したそうです。

 北村先生は、興津忠通が大坂に赴任した宝暦7年と、石鳥居が建立された宝暦9年の“2年差”に着目し、調査を重ね、

●妻がこの地で出産した記録はなし。出産間近の身重の妻が大坂まで同行したとも考えにくい。

●宗像神社の石鳥居は大坂原産の桜みかげ石=駿河では採れない石。

●昭和48年に宗像神社を大改修した際の記録が見つかり、鳥居は大坂で設計施工し、船で運搬されて奉納されたことが判明。

ということで、興津忠興が大坂町奉行の就任祝いに大坂で造って寄進しただろうとの結論に至りました。奥さんの出産は確かにドラマチックなエピソードですが、史実に余計な “盛り” だったようですね。

 ところで、最初に入江氏が本拠地を置いたのが現在の清水区春日町~桜橋あたり。私は実は桜橋にあった松永産婦人科医院で産声を上げたので、その話を聞いてがぜん親近感が湧いてきました!

 

②朝鮮通信使崔天秀殺害事件

 第1回(1607)から第12回(1811)に及ぶ朝鮮通信使の歴史の中で、特筆すべき大事件が、第11回の宝暦14年(1764)4月に大坂で起こった朝鮮通信使殺人事件です。殺されたのは崔天秀(チェ・チョンジョン)という中官。犯人は対馬藩の通訳鈴木伝蔵。些細な諍いがきっかけのようですが、理由はハッキリせず、鈴木は犯行後に逃亡。朝鮮通信使は江戸時代、日本唯一の正式な外交使節団ですから、外交官が道中、日本人に殺されたとなれば一大事です。

 朝鮮通信使の通行は対馬藩が幕府から運営委任されていたので、まずは対馬藩で検死を行うことに。他殺では大問題になるから自殺で処理しようという向きもあったようですが、犯人の鈴木が逃亡したことが明らかとなり、幕府への通報もやむなしということで、大坂町奉行だった興津忠通が処理に当たることになりました。事件発生から11日目、江戸から目付役が到着した日に鈴木は有馬温泉で逮捕されます。

 取り調べで鈴木は犯行の理由について、崔天秀から日本人を侮辱する発言があり、反論したら人前で鞭で打たれ辱めを受けたためと供述。この時の通信使正使・趙曮(チョ・アム)はこれを否定し、逆に鈴木が崔天秀所有の鏡を盗んだため馬鞭を加えたと反論します。

 この第11回朝鮮通信使は、ソウルを8月3日に出発し、帰着は翌年7月8日。この事件以外にも大雨等で河川通行止めが相次ぎ、実に11カ月(通常は7~8カ月)に及び、途中で病死する随行員も続出。正使趙曮はイライラの頂点にいました。使行録には日本側を「狡猾な倭人」等と罵る記述がある中、「大坂城代の阿部正允が江戸の沙汰を待たずに犯人を迅速に逮捕し、刑罰について自分たちの意見を尊重してくれた」「大坂町奉行の興津忠通も調査を厳密に行う気骨ある人物だった」と評価。滞在中に鈴木は処刑され、趙曮も面目を保ったということです。

 

③相良と入江氏のつながり

 朝鮮通信使殺人事件はたちまち世に知れ渡り、歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなりました。通信使が通った東海道筋から離れた榛原郡相良町の川田家文書にも「五月中旬の咄シニ、唐人未大坂二留逗ト及聞、此訳中官ころされ、其せんぎ大分むつかしきよし之上なるよし也」との記述。事件から1カ月過ぎで相良の村まで届いたのですから、かなりのビッグニュースだったというか、当時は我々が想像する以上にニュースが伝搬するスピードが速かったようです。

 ところで、北村先生のお話の中で、ひときわ心に残ったのが、清水の入江一族と相良とのつながりでした。

 相良町の般若寺には県指定文化財の大般若波羅蜜多経(大般若経)が残されています。大般若経はご存知玄奘三蔵がインドから持ち帰り漢訳した全600巻にも及ぶ仏教の基礎的教典で、長い歴史の中で多くの人々の手によって写経され、伝わってきました。

『相良町埋蔵文化財調査報告書4:花ノ木遺跡』によると、この大般若経には「藤原(入江)惟清」「久能寺」「村松八幡宮」「有度八幡宮」が関係しており、もともとは駿河国府中周辺で写経されたもののよう。最古の第373巻に入江惟清の署名があることから、入江一族の配下にあった久能寺や村松八幡宮、有度八幡宮が所蔵していたものが、遠江国相良庄に伝来したと考えられます。

 私は入江一族拠点の清水桜橋で生まれましたが、私の父は相良町の生まれ。何やら不思議な縁を感じ、この経典が駿河国入江庄から遠江国相良庄へ伝来した理由を知らずにはいられず、午前中の研究会が終了後、車を飛ばして牧之原市史料館まで行って『相良町埋蔵文化財調査報告書4:花ノ木遺跡』のコピーをいただいたのでした。

 『相良町埋蔵文化財調査報告書4:花ノ木遺跡』には、

●大般若経が国家や地域の安穏を祈念する経典として地域社会にとって極めて重要なツール。

●鎌倉後期の段階でそれ以前に各地で書写されたものが相良庄に寄せ集められていた。

●それ以降も、巻によって散逸・盗難・焼亡・劣化等のたびに新たに書き加えられ、江戸後期に現在の般若寺所蔵のものとなった。

●その間も駿河国から遠江国へと国をまたいで移動があり、清水港と相良港という海運の存在を考えないといけない。

と書かれていました。

 

 北村先生によると「今川時代に入江庄の新田開発を行って今川から所有を認められた人物が、大井川河口の新田開発も手掛け、同様に土地を安堵されたことが関連しているのでは」とのこと。その人物について現段階ではよくわからないため、この先の宿題としておこうと思います。

 

 夕方、牧之原市史料館から興津の宗像神社まで移動し、興津忠通が寄進した石鳥居をくぐり、弁財天様に手を合わせてきました。

 北九州の沖ノ島から米俵に乗ってやってきたという姫神にも、その裏で実際に社を勧請した人物がいたはず。地域の神社や寺は、我々が想像するよりはるかに広く深く、人間の行動や移動の記録・記憶を孕んだ貴重な地域史アーカイブであることを、改めて噛み締めた一日でした。

 

 

 

 


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朝鮮岩のネーミング

2020-02-18 21:43:22 | 朝鮮通信使

 ちょうど今、ある商品のネーミングで脳内格闘中。改めて、名前を付けるというのは本当に難しいし責任が重いと痛感しているところですが、2月16日に参加した北村欽哉先生の朝鮮通信使講座@静岡市長田生涯学習センターでは、地名のネーミングに秘められた光と影の存在を知りました。

 

 講座のテーマは『朝鮮岩の謎に迫る~消えた朝鮮ヶ谷・起木梅伝説』朝鮮岩というのは静岡市民ならご存知の方もいらっしゃると思いますが、静岡と焼津の境にあり、日本坂につながる満願峰(標高470メートル)ハイキングコースの眺望ポイントですが、なぜ朝鮮岩と呼ばれるのかハッキリした理由はわかっていないようです。

 

 そもそも日本坂も、1834年に記された『駿河国新風土記』に〈日本坂という地名は神祖(=徳川家康)がこの地に遊行した折、この地を朝鮮ヶ谷と命名したという説もある〉と紹介されており、家康命名説は『なこりその記』(1842)、『駿国雑志』(1843)にも紹介されています。

 また朝鮮岩から見た長田地域一帯を朝鮮ヶ鼻と記した記述が1806年の『東海道分間延絵図』に登場します。

 

 今から12年前の2008年に静岡県朝鮮通信使研究会で同じテーマで先生が講演されたとき、日本坂一帯に朝鮮の地名が多く残る理由を「秀吉の朝鮮侵攻で拉致されてきた被虜人がこの一帯に住んでいたのかもしれない。彼らは奴隷売買されて各地に連れてこられたから」と推測されましたが、朝鮮岩に関しては今回、新たな説を披露されました。

 郷土史家春田鉄雄氏がまとめた『おさだ留帳』(1989)によると、朝鮮というはもともとは晁川(ちょうせん)という表記が正しく、晁(ちょう)というのは天平の時代、阿倍仲麻呂が唐に渡ったときに使用していた姓。つまり晁川とは阿倍(安倍)川のことで、安倍川の西にある岩だから晁西岩(ちょうせいいわ)。それがなまって朝鮮岩になったというのです。親父ギャグみたいな話ですが、1808年に池田安平という人が書いた『日古登能不二』に「晁川(あべかわ)*ルビは本文のまま  の辺に釣を垂れ、はやはすなどを得たり。彌勒のかたへ来たりて・・・」という記述があり、晁川が安倍川を指す証拠にもなっているんですね。

 

 

 一方、日本坂を指す朝鮮ヶ谷や朝鮮ヶ鼻という表記は、今は残っていません。残っていないどころか、1861年の『駿河志料』には"日本坂は日本武尊が越えた坂" と書き換えられており、これが今に至るまでの定説になっています。

 静岡には日本平もありますが、こちらも やまと平(日本武尊が平定した地)という意味付け。平凡社の『静岡県の地名』(2000)、角川書店の『静岡県地名大辞典』(1982)、静岡新聞社の『静岡大百科事典』(1978)など最新の調査結果に基づいたであろう地名関連書籍などでも、この説を採っています。つまり1861年の『駿河志料』以降の文献には、日本武尊のことしか載っていないのです。

 唯一の例外は1956年に松尾書店から発行された『史話と伝説』。日本坂は徳川家康が狩りの時にここに来て、日本一の景色だと褒め称えたことから日本坂と言うようになったとありますが、〈朝鮮〉の二文字は見当たりません。

 

 〈朝鮮〉の表記が消えた事例は、他にもあります。国道1号線の丸子から岡部・藤枝方面に向かう途中の赤目ヶ谷に長源寺という寺があり、境内に起樹天満宮という小さなお社があります。1843年の『駿国雑志』によると、神社の梅の木が街道側に傾いて、朝鮮通信使の行列の妨げになるので切り倒そうとしたところ、一夜にして梅の木は神社側に起き上ったという故事があるそう。

 また延享4年(1747)の史料にも、“朝鮮通信使が通る道に支障があってはいけないと、並木や枝を整えるよう代官がこまかく指示をした”という記述があります。梅の木が一夜にして起き上ったという説は天満宮らしいファンタジーだと思いますが、実際のところは、旗鑓を高く掲げて行進する通信使一行の支障になるから梅の木を剪定したのだろうと想像できます。
 ところが1861年の『駿河志料』では、建久元年(1190)に源頼朝が上洛するとき、社前の梅が駅路に横たわっていたので枝を切ることになったが、梅の木は一夜にして起き上ったとあり、それ以降の文献やガイドブックはこの頼朝説のみを採用しています。つまりここでも、何の脈略もなく突然、頼朝伝説が登場し、1861年の『駿河志料』以降、完全に塗り替えられたというわけです。


 
 なぜ、日本坂や起樹天満宮の縁起が、日本武尊や頼朝伝承に書き換えられたのか、朝鮮通信使研究家たる北村先生が疑問に思わずにいられないのも無理からぬこと。『駿河志料』の筆者は、わずか27年前に書かれた『駿河国新風土記』にある日本坂=家康の朝鮮ヶ谷命名説を無視し、さらにわずか18年前に書かれた『駿国雑志』にある起樹梅=朝鮮通信使通行説を無視して、頼朝説を用いたのです。これを明治以降の研究家も踏襲した。古い文献を無視して『駿河志料』の説だけを採る理由を、北村先生は『駿河志料』が書かれた時代背景にあると指摘されました。



 今、巷を賑わせる新型コロナウイルスじゃありませんが、駿河志料出版の3年前の1858年、江戸で約1万2千人が命を落とすコレラが大流行しました。当時の人はもちろんコレラ菌が原因だなんて判りませんから、狐憑きだと恐れ、キツネを退治してくれるオオカミを祀った神社のお札を買い漁ったのです。さしずめ今のマスクみたい?

 このキツネはそもそも1853年に突如現れた黒船が海の向こうから連れてきたのだと噂になり、さらに1854~55年にかけて安政の大地震ー今で言う南海トラフ巨大地震と一連の地震が各地を壊滅させます。巨大地震と疫病が連鎖する歴史なんて、絶対に繰り返さないで欲しいと願わずにはいられませんが、とにかく、駿河志料が書かれた頃、目に見えない恐ろしい不可抗力に襲われ、人々は厭世観に陥ったに違いありません。

 

 徳川政権が長く続き、社会に様々なひずみが生じていた18~19世紀にかけ、国内では徳川が信奉する儒学に対抗する意味で、国学論者の声が大きくなってきます。それがやがて尊王論=天皇を中心としたナショナリズムの萌芽につながっていきます。

 ここ駿府の地でも、尊王論を説いて幕政批判し死罪になった山縣大弐の兄で野沢昌樹という国学者が、京を追われて丸子の長源寺に寓居します。彼の元に駿府の有力町人や武士が集まり、ちょっとした国学ブームが。本居宣長を熱心に学んだ彼らは清少納言の枕草子にある〈森は木枯らしの森〉の記述をもとに、安倍川と藁科川の合流点に木枯森碑を建てたのでした。

 ちなみに野沢が寓居した長源寺は、前述の起樹天神宮のある寺。であれば、国粋主義者たちが起立梅について朝鮮の二文字を消し、さらには朝鮮ヶ谷の家康命名説をも消すよう働きかけたのではないかと想像してしまいますね。幕府がガタついていたとはいえ、まだ治世者だった徳川方の威光があれば、神君家康や家康の功績である朝鮮通信使のことを無きものにするとは考えにくい。となると『駿河志料』のような地方誌を書いた市井の物書きレベルにも、反徳川・国学至上主義が浸透していたと想像できるのです。

 

 国学を熱心に学ぶことは日本人として正しいとは思いますが、「日本エライ」「日本スゴイ」が行き過ぎると排他的な思想に陥りがちだろうことは、その後の日本がたどった歴史からもわかります。

 お寺好きな私にとって、明治政府の廃仏毀釈は本当に愚策。朝鮮とは何百年も戦争をせず平和友好関係を築いた世界史でも希有な隣国同士だったのに、それが徳川前政権の功績だからと全否定するのも浅はか。仏教や儒教は確かに外国産の宗教かもしれないけれど、島国日本の先人たちはそれを受容し、一千年以上かけて日本的にアレンジし定着させた。陸の国境を持たない海洋国家・日本は、万事そのようにして独自の国づくりをしてきたのに・・・。先生のお話を聞いているうちに、偏った国粋主義者たちへの怒りが湧いてくる一方、自分が駿河志料を書く立場だったらと想像し、時代の風に抗う難しさを痛感しました。

 

 それにしても、なぜ朝鮮岩だけが、朝鮮の二文字を残すことができたのかは謎のままです。私にその謎解きができる能力があれば挑戦してみたいところですが、とりあえずは今直面するネーミングの仕事をなんとか完遂させなければ。
 

 


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興津宿朝鮮船漂着一件から学ぶ

2019-08-25 20:10:23 | 朝鮮通信使

 前回ご案内したとおり、8月24日(土)夜、興津生涯学習交流館で『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の上映会&トークショーが開かれました。50名定員での募集でしたが、蓋を開けてみたら100人近い方々が駆けつけてくださり、映画を初めて観るという方も多かったので大変感激しました。ご参加の皆さま、開催に尽力された朝鮮通信使静岡ネットワークの皆さま、本当にありがとうございました。

 

 北村欽哉先生とのトークは時間が限られていましたが、地元興津の方と思われる質問者から「興津宿朝鮮船漂着事件のことを紹介してほしい」とリクエストがあり、北村先生が駆け足でお話されました。日韓関係がギクシャクしている今、この歴史秘話は多くの人に伝える価値があると思いましたので、当ブログに2013年5月に投稿した記事を再掲します。

 

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 『興津宿朝鮮船漂着一件』とは、江戸中期の明和7年(1770)5月5日、清水の興津宿の海岸に、13人の朝鮮人が乗っていた朝鮮船が漂着した事件のことです。

 船は済州島の商船で、1月28日に出航し、朝鮮半島南部の所安島というところへ向かったのですが、嵐に遭遇して数ヶ月も漂流していたそう。日本海で遭難した船が、太平洋側の駿河湾に漂着したというのはビックリですが、興津宿の医師と交わした筆談した記録がちゃんと残っています。要訳すると―

 

(医師)みなさんはどこの国の、どちらにお住まいの方々ですか?

(船員)朝鮮国全羅郡都領厳県(=済州島)拝振村の者です。

(医師)どこに行こうとして遭難したのですか?

 (船員)我が国の所安島に行こうとしたら、嵐に遭い、航路を見失ってしまいました。船の道具や帆や様々なものを失ってしまい、何ヶ月も海上を漂流し、5月にここに到着しました。

 (医師)国を離れるときは何人乗船していたのですか?

 (船員)34人乗っていましたが、21人が溺死してしまいました。海上がひどく荒れていました。

 (医師)数ヶ月、船中で何を食べて生き延びていたのですか?水はなかったと思われますが、どうされていたんですか?

 (船員)はじめは天から降る雨を集めて使い、一日3回ご飯を炊きましたが、その後は久しく雨が降らず、生米を食べてしのぎました。

 (医師)13人のお名前と年齢を教えてください。

 (船員)金取成、34歳。船頭を務めています・・・

 (医師)朝鮮国の人は何を食べているのですか?

 (船員)我が国では猪、鹿、鶏、牛、魚、豹などの肉を食べています。

 *『落穂雑談』『一言集』より

 

 彼らの救出から1ヶ月後の明和7年6月、13人に対して一人1頭ずつ馬があてがわれ、長崎を経て帰国の途に。難破船も、港から港へと継送しながら大坂まで運ばれ、長崎→対馬経由で送還されました。

 馬に乗せるというのは、当時では国賓待遇。難破船も扱いも大変丁寧です。幕府はわずか1ヶ月の間に、彼らを厚遇しながら帰国せよと各藩に通達したわけです。これは、朝鮮通信使の招聘によって、日朝両国の間に相互協定が出来上がり、諸藩にもその認識が共有されていたことを裏付けます。

 当時、このようにして漂流民を送還した例は、記録にあるだけで197例。朝鮮船の場合は上記のように、当時の外交窓口であった長崎奉行所を経て、対馬→釜山の倭館へと送還されたそうです。

 

 話は逸れますが、釜山の倭館というのは朝鮮王朝と幕府の仲介役を担う対馬藩士や対馬商人が常駐するいわば在外公館のようなもので、敷地は約10万坪。当時、長崎にあった出島は4千坪、長崎唐人屋敷は1万坪程度だったことを考えると、破格の規模ですね。

 対馬藩は現地から絹、生糸、高麗人参などを仕入れ、長崎経由で入ってくるものと同等品質のものを格安で販売し、京都で人気を集めました。これに目をつけた越後屋がダミー会社をつくって独占販売し、江戸で大儲けしたそうです。時代劇の「越後屋、おぬしもワルじゃのぅ」の台詞はこんなことから生まれたのかな(笑)。

 

 朝鮮通信使外交は、秀吉が引き起こした文禄慶長の役(1592~98)という理不尽な侵略戦争からわずか9年後の1607年にスタートしました。最初の使節団が来日したとき、彼らは日本の担当者に鉄砲が欲しいとオファーしたそうです。高性能の鉄砲がなかったため、朝鮮軍は日本との戦いで苦戦したんですね。いくらなんでも、ちょっと前まで対戦国だった相手に大胆な注文です・・・。

 でもこのとき、家康は、「もし仮にふたたび戦争をする羽目になってしまったら、戦わなければならないが、そのとき、兵器を持たない相手と戦う気はさらさらない。いわんや、大切な隣国が欲しいというのになぜ止められようか」と答えたのです。

 家康が、秀吉の侵略戦争の後始末で、交渉相手だった松雲大師に「自分はこの戦争に参加していない。朝鮮に恨みは一切ない」と弁明し、相手の機嫌を取ったことは承知していましたが、こんな具体的な言葉で反省の意思を表明していたとは・・・。「武器が欲しいならどうぞどうぞ」と聞けば、日本側が本当に再び戦争を起こしやしないか“探り”を入れていた第1回目の通信使にも、それなりの説得力があるというものです。

 通信使はこのとき、堺から大量の銃を持ち帰りました。銃器を欲していた主な理由は、朝鮮半島北部から女真族の侵攻が危ぶまれ、その防衛対策のためでした。家康側がそういう背景をリサーチした上で対応したのなら、大変に優れた外交インテリジェンスといえるんじゃないでしょうか。このエピソード、映画制作時に知っていたら脚本に書いていたのになあ・・・残念!

 

 ところで朝鮮通信使外交が順調に推移していた元禄時代、江尻の高札場に『竹島渡航禁止の御触書』なるものが掲げられました。もちろん江尻だけじゃなく、全国の港町にも。

 内容は「日本人は竹島に絶対に渡ってはいけない」というもの。ここで言う【竹島】とは、問題になっている島根沖の竹島ではなく、韓国領海内の鬱陵(ウルルン)島のこと。この島は倭寇の拠点で、海賊行為を働く日本人のみならず、朝鮮人、中国人など周辺国出身のヤバイ連中の根城だったんですね。朝鮮王朝はこの島に対し、空島(無人)政策をとっていたのですが、アワビの宝庫でもあったため、日本の対馬あたりの漁民がひそかに渡ってアワビの密漁をしていたそうです。

 そのことが朝鮮国内で発覚し、「日本人が勝手に漁をしているのに、なんで朝鮮人はダメなのか!」と騒ぎになります。対馬藩は「鬱陵島はうちらの領土だ」と開き直り、幕府内でも賛否両論。元禄バブル絶頂期のこと「いっそのこと戦って奪い取れ!」と強硬論も出てきます。「今まで苦労してようやく対朝関係が安定し経済が潤っているのに、戦争なんかもってのほか!」と対馬藩内でも論争となり、徳川将軍の「日本人は渡航不可!」の最終結論で一件落着。この穏便な解決が、その後の漂流事件のスムーズな解決にもつながったと言われています。

 

 もちろん今とは政治状況が異なり、一概に比較はできません。外交とは、武器を持たない戦争とも言われますが、自己を正当化し、主張を押し通すだけが外交ではないんだろう、ということを歴史は教えてくれます。

 「この興津沖の一件はぜひ韓国側にも知っていただきたい」と力強く締めくくられた北村先生。 世界を見渡しても、いがみ合いや紛争がまったくないという隣国同士は皆無でしょう。それでも国境を接するもの同士、一生付き合っていかなければならないのですから、衝突があってもどこかで妥協し、譲り合っていくしかない。韓国朝鮮半島は陸続きではないにしろ、日本にとっては取り換えようのない隣人なのだから、感情論に走らず、叡智を活かし、現実的な判断をした先人に学ぶべきだとつくづく実感します。


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朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録 興津上映会のご案内

2019-08-13 10:36:56 | 朝鮮通信使

 久しぶりに映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の上映会が開催されることになりました。2007年の製作から12年。20代30代の方はこの作品の存在すら知らない人も多いと思いますので、時を経てもこのような上映会を企画していただけるのは作り手名利に尽きるというもの。本当にありがたいことです。

 

 今回の上映会は、朝鮮通信使の顕彰事業を行う静岡市内の5団体(在日本大韓民国民団静岡支部、静岡に文化の風をの会、NPO法人AYUドリーム、興津地区連合自治会朝鮮通信使興津保存会、静岡県朝鮮通信使研究会)が連携した協働団体〈朝鮮通信使静岡ネットワーク〉の発足事業の一環で企画されました。

 会場は興津生涯学習交流館(こちらを)。意外にも興津での上映会は初めてです。なんといっても興津には徳川家康が最初の朝鮮通信使をもてなした清見寺があり、通信使が清見寺に遺した漢詩がユネスコ世界記憶遺産にも登録されたことから、地元団体(AYUドリーム、自治会連合会)が毎年、朝鮮通信使再現行列のイベントを開催して盛り上げています。

 映画の中でも清見寺の場面は終盤のハイライトですが、なぜか今まで興津で上映する機会がありませんでした。今回、朝鮮通信使静岡ネットワークの発足事業で記念講演を依頼された北村欽哉先生が「ならばこの作品を上映しよう」と企画し、私にもお声かけをしてくださったのでした。

 

 ご承知のとおり、日韓関係は今、複雑な局面に立っています。映画の序盤でしっかり紹介した長崎県対馬では、1980年頃から地元商工会が中心となって毎年8月の厳原港まつりの目玉に朝鮮通信使行列を開催するなど市を挙げて日韓交流イベントに注力してきましたが、今年の厳原港まつりでは、元徴用工問題や日本の対韓輸出規制強化などによる関係悪化を受け、韓国にある2つの友好姉妹都市の職員計約20人が出席を取りやめ、釜山市から寄港予定だった通信使の復元木造船の参加も中止になりました。

 それでも朝鮮通信使行列は8月4日、韓国から「草の根レベルの交流は絶やしてはいけない」という有志60人が参加し、計260人の行列イベントが無事催行されたそう。その決断と行動に敬意を表したいと思います。

 

 顧みると徳川家康は、秀吉が戦争を仕掛けた相手国との難しい戦後処理や国交回復をわずか9年で成し遂げ、朝鮮王朝側も攻め込んできた相手国に、国を代表する超一級の文化人を使節団として送り込んだのでした。紙の文書しか通信手段のない時代、これは本当に、リスク承知で将来を見据えた明確な政治判断があったのだと実感します。

 今の世の中、民意によって選ばれたリーダーが家康や朝鮮国王と同じような政治決断は簡単には出来ないと理解しつつも、相手の真意を探り、関係改善を図ろうとしたとき、どのような決断・行動をとるべきか、人間の判断能力は400年前も今もさほどの差はないような気がする。だからこそ、現代人はテレビや映画等でさかんに制作される歴史検証作品を通して温故知新を図りたいと願うわけです。

 日韓関係が難しい今、このタイミングで、家康が通信使をもてなした興津でこの作品を上映できる意義をかみしめながら、当日を迎えたいと思います。入場無料ですので、ぜひふるってお越しください。

 

 なお席に限りがありますので、主催者に電話で事前申込みをお願いします。申込先=NPO法人AYUドリーム事務局 TEL 054-369-1154


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