杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

下田吟醸伝

2010-05-30 16:24:51 | 吟醸王国しずおか

 5月24日(月)~25日(火)と下田に行ってきました。24日は月曜日でしたが、下田市の植松酒店さんが、取引先の飲食店や旅館ホテル従業員、地元の自営業の方々を集め、『吟醸王国しずおかパイロット版試写&初亀を楽しむ会』を企画してくれたのです。

 

 場所は町のど真ん中にあるコミュニティホールで、初亀の蔵元・橋本謹嗣社長のトーク、私のプレゼン&上映で90分ほどの会を、15時~、17時30分~の計2回やり、終了後は地元料理店で初亀全種類の大試飲会! とっても有意義である意味ぜいたくな会でした! 会の様子はこちらをぜひご覧ください。

 

 

 

 24日はあいにくのお天気でしたが、翌25日は初夏らしい清々しい晴天にめぐまれました。午前中、時間があったので、下田のまち歩きを楽しみました。

 下田は、伊豆修善寺出身の母親の親戚がいたので、小さい頃から第2・第3の故郷のように親しみ、ライターになってからも再三取材に歩いた町ですが、今まで気がつかなかったところや、昔とはすっかり雰囲気が変わった一角が結構ありました。一番変わったのは、いたるところに掲げられた『下田龍馬伝』の幟旗かな(苦笑)。

 

 大河ドラマの人気にあやかって、下田でも龍馬でまちおこしに乗り出したことImgp2457 は以前、ブログでも少しふれましたが、ここで龍馬が大活躍したとか、あちこちに足跡が残ってるというわけではなく、江戸から京都へ船で向かう途中、嵐に遭い、下田に足止めされていた山内容堂に、京都から江戸へ向かう途中に同じ嵐で出港待ちしていた勝海舟が、龍馬の脱藩を許してもらったというエピソードが残っています。

 山内容堂が滞在した宝福寺は、もともと唐人お吉の墓で有名な寺で、古いガイドブックを紐解くと、お吉ネタのほかに「下田奉行所が置かれた」「江川太郎左衛門の農兵調練所だった」等と紹介されています。しかし龍馬が関係していたという記述は見たことがなかったなぁ・・・。

 

 

 まぁとにかく、久しぶりに宝福寺に行ってみたら、門の前に木彫りの龍馬像がドーンと建っていて、看板には龍馬とお吉の絵が並んで描かれていました。お吉は教科書で見たことのある本人の写真の顔ですが、龍馬のほうはどうみても大河ドラマの主演俳優の顔…。こんな悪ノリ、いいんだろうかと苦笑い(さすがに写真は撮る気になれませんでした)。

 

 

Imgp2450  平日なのに観光バスが次々とやってきます。やっぱり龍馬伝にあやかっただけのことはあるんですね。…団体様ご一行の後ろにくっついてお吉の墓や、山内容堂&勝海舟謁見の間を見学しました。

 ハリスの接待役を務めたお吉は激しい差別を受け、自害しますが、遺骸を葬ろうとした宝福寺の住職も“村八分”にあい、下田を追われ、晩年にやっと戻ってこれたとか。今では立派なお墓が建っていますが、これは「唐人お吉」を演じた歌舞伎役者や舞台女優が作ったもので、本当の墓はその横にある小さなほこら。…サイズの違いに胸を打たれました。

 

Imgp2452  

 私が愛読する歴史教科書のひとつ・漫画『風雲児たち~幕末編12』によると、ハリスは初代アメリカ領事を務めただけあって、当時、西洋の知識人に多かった禁欲主義者で生涯独身を通したとか(お吉に手をつけたかどうかは確かめようもありませんが…)。

 ハリスの通訳だったヒュースケンがお福という侍女にベッタリだったのに比べ、お吉は早々にお役御免に。その後、下田や江戸のアメリカ領事館に奉公に上がった女性はほかにも何人かいたものの、お吉さんだけが一人、ハリスの愛人と蔑まれ、後ろ指をさされながら悲劇の人生をたどります。お福さんは母親が改名させて遠くへ嫁がせたため、お吉の二の舞を踏まずに済んだのでした。

 

 

 一方、山内容堂と勝海舟が謁見した間では、酒豪の容堂が下戸の海舟に大杯の酒をすすめ、「全部飲み干したら(龍馬の脱藩を)許してやる」とふっかけて、海舟がイッキ飲みしたという逸話が残っています。

 海舟は「飲んだ席での口約束は当てにならないから一筆Imgp2455書いてください」と切り返し、容堂は自分の扇に瓢箪の絵をサラサラっと描いて、「歳醉三百六十日。鯨海醉候」と署名。“自分は一年のうち360日は酔っぱらってるんだから、酔って約束事を忘れるなんて粗相はしないよ~”って意味です。なんだか洒落て粋な殿様ですよね~(大河ドラマでは肝心のこのシーンがなくて、容堂自身は随分エキセントリックな悪役に描かれていますが・・・)。そのときの大杯と扇(レプリカ)が飾ってあり、団体ツアーのおじさまおばさまは大喜びで見入っていました。

 

 

 

 お吉&龍馬という幕末スターゆかりの寺として売り出し中の宝福寺から、歩いて5分もかからないところに、ペリーと幕府が『下田条約』を結んだ舞台・Imgp2447仙寺があります。境内は満開のアメリカジャスミンの香りに包まれ、団体ツアー客は、幕末史の舞台というよりも、花の名所としてのたたずまいを満喫しているようでした。

 

 

 了仙寺から続く“ペリーロード”では、地Imgp2458 元中学生たちが校外授業か何かでスケッチをしていました。

 

 少し歩くと、今度はロシアのプチャーチンと幕府が『日露和親条約』を調印した長楽寺が。プチャーチンが乗ってきたディアナ号は、安政大地震の津波で損傷を受け、人目のつかない港で修理しようと戸田まで曳航中に暴風雨でImgp2459 沈没。このときロシア人500人を命がけで救った戸田の漁師と、プチャーチンの求めに応じて西洋船の建造に乗り出した日本人の大工たちの活躍は、誉れ高い伊豆の史話ですね。

 

 

 地元の人によると、「下田はまちおこしのネタになる歴史ドラマが多すぎる。どの寺も、自分のところを“主役”にしたいから、なかなか共同歩調がとれない」とのこと。・・・たしかに3か所ちょこっと回っただけでも、教科書に出てくる幕末有名人目白押しのスゴイ舞台なわけだし、他の町にしてみれば贅沢な悩みに見えるかも。ただし、どこも“見せ方”が中途半端なような気がします。横浜、神戸、長崎なみにとは言いませんが、幕末開国の舞台、そして日本の国際交流の先駆けとなった港町として特色を出してほしいですね。

 

 

 

 静岡県の吟醸酒を例に考えると、静岡県はもともと吟醸酒に適した軟水タイプの水と、豊富な水量に恵まれ、吟醸造りの仕込み温度5~8℃は冬場の一時期に限られますが、暑すぎず寒すぎず、温度管理しやすい環境にあります。氷点下以下になる地域では蔵の中に暖房を入れる必要もあるんですね。そして原料米は手配すればなんとかなる。

 

 ・・・でもこれだけで静岡が『吟醸王国』になったわけではなく、静岡型の吟醸造りで特色を打ち出そうと静岡酵母を生みだし、この酵母の特色を十分発揮させるため一切手抜きなしの完璧な造りに、各蔵がある程度足並みをそろえて取り組んだ成果です。一社二社がポンと飛び出ても、その蔵のネームバリューが上がるだけ。今のように、業界通からも「吟醸酒といえば静岡県」とイメージされるようになったのは、地域ぐるみで取り組んで努力してきたからでした。

 

 

 

 港町といえば、朝鮮通信使&ポニョの舞台となり、龍馬のいろは丸事件の舞Imgp2461 台ともなった広島県福山市鞆の浦。このブログでも再三紹介してきましたが、江戸時代に鞆で造られていた薬草酒『保命酒』を、下田の酒屋・土屋商店さんで発見し、ビックリしました(この酒屋さん、古い蔵を街角ギャラリーにしていて、楽しかったです!)

 

 

 Imgp2495保命酒の醸造元は、私も行ったことがある鞆の岡本亀太郎本店で、ラベルにはペリーの絵が。

 当時、老中職で黒船対策に奔走した福山藩主阿部正弘が、ペリーやハリスを接待した幕府主催の饗宴で食前酒に故郷自慢の保命酒を用いて大いに喜ばれたそうです。これってサミットの晩さん会乾杯酒で磯自慢が評判をとったようなもの!? 

 商品パンフレットには『350年の健康酒の歴史と150年のもてなしの心』と粋なキャッチコピーがついていました。

 

 

 保命酒は鞆の浦に行くたびに買い込んで、家に何本もストックがあるのですが、「これは下田でしか買えないだろう」と嬉しくなって買ってしまいました。土屋商店のおかみさんから「鞆の浦って下田と雰囲気が似ているらしいですよ、同じ風待ち港で」と言われて初めて気がつきました。

 

 鞆の浦も、今年は大河ドラマブームにあやかって龍馬をウリにしているんでしょうか。いや、できれば龍馬というスター人気に安易に乗っかるんじゃなくて、風待ち港として刻んできた長い歴史のひとコマひとコマをていねいに紡いでほしいと思います。…鞆の浦のシーンをふんだんに入れた映像作品『朝鮮通信使』、ぜひ下田で見てもらいたいなあ。

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 昼からは、静岡の地酒を扱っている下田市内の飲食店を2軒はしご取材し、下田で唯一残っている鰹節やさん・山田鰹節店を覗いて帰りました。魚がおいしい港町なのに、鰹節やさんが1軒しかないって、ちょっとさびしいですね。

 

 鰹節は味見をさせてもらい、お土産にはプロの料理人が好んで使うという鮪節「糸賀喜」を買って帰りました。

 

 半日しか回れなかったけど、久しぶりに歩いた下田は、コンパクトに歩けて、歴史や伝統に関心が持てる大人世代が楽しめる街だと思いました。目の肥えた大人たちが知識欲を刺激されるような情報発信基地があれば、もっと面白くなると思います。一過性のブームに踊ることなく、地に足のついたまちおこしに期待したいですね。

 

 …個人的には、山内容堂が勝海舟に飲ませた酒は何だったんだろうと思います。土佐の酒か伊豆の酒か、はたまた保命酒か…? 今のアメリカ人は日本酒より保命酒を気に入るのか? この論争をするだけで「下田酒サミット」ができるんじゃないですか?

 


酒銘の守り方―千寿の場合

2010-05-29 10:02:47 | 地酒

 磐田市にある千寿酒造は、吟醸王国しずおかHPの『読んで酔う静岡酒』に紹介したとおり、蔵元の山下家と、不世出の名杜氏河合清さん(新潟杜氏)とその弟子たちとの強い絆で酒造の灯を守ってきました。

 

 

 15~16年前、最初に蔵へうかがったときは、河合さん(故人)の弟子の中村守さんが顧問で、中村さんの弟子の高綱孝さんが杜氏で、高綱さんのもとには東京農大醸造学科を卒業した若い鈴木繁希さんが杜氏見習いで付いていました。その後、高綱さんが引退し、鈴木さんが社員出身の初めての杜氏に。社員杜氏とはいえ、新潟流儀をしっかり継承した立派な新潟杜氏さん。杜氏技術のバトンタッチとしては理想的だし、当時は専務だった山下高明さんも、大学卒業後に大手ビール会社で流通を学び、マネジメントに長けた若く意欲的な蔵元後継者。いずれ、山下―鈴木コンビが千寿の新時代を切り拓いていくだろうと頼もしく感じました。

 

 

 そして、昨年10月の地酒まつりで久しぶりにお会いしたら、なんと、鈴木さんの名刺には「代表取締役社長・杜氏」の肩書が! 創業者一族以外の生え抜き社員が社長になる例は、静岡県では聞いたことがありません。…そもそも、中小企業の多くが社長業はいまだに世襲制が多いというのに、最も保守的な酒造業で随分思い切った継承をしたものだ…とビックリしました。

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 これは、改めて蔵へうかがい、鈴木さんからじっくりお話を訊きたいと、仕込みがひと段落したこの時期におじゃますることに。久しぶりにうかがった酒蔵は事務所棟の規模が縮小されていましたが、仕込み蔵のたたずまいはそのまま。日本酒の仕込みがひと段落した後は、醸造調味料、吟醸粕焼酎、梅酒等の仕込みが始まっていて、ぷ~んと酒の香りがただよっています。「あぁ、現役バリバリで動いている蔵だ!」とホッとしました。

 

 

 会長顧問職に退いたという山下さんにお会いすることはできませんでしたが、経営が難しくなった、後継者がいなくなったと言って、蔵をたたむという選択をした蔵元を何人も見てきただけに、自身が退いても社員に継承させ、『千寿』という酒銘を守ろうとした山下家の選択は、呑み手や売り手関係者への責任を果たしたという意味でも価値があると思いました。前日におじゃました『萩の蔵』のように、別の蔵の酒銘を引き受けるという“守り方”がある一方で、『千寿』は、自社で培われた新潟流酒造りの伝統を守るという使命を自覚していたのでしょう。

 

 …我々呑み手は、そんな蔵元が必死に守ってきた酒造の伝統の上で、好き勝手に美味い不味いを謳います。

 一般の呑み手は、もちろんそれでもいいんですが、私のようなポジションの人間は、どんな酒でも造る人のドラマを知り得るだけに、「スズキさんのおススメ銘柄は?」「好きな銘柄は?」なんて聞かれても気軽に応えられないんですよね…。「たまには県外の酒も呑みなよ」と薦められても、静岡の銘柄があると、やっぱりそれしか呑めない。その酒の去年と今年じゃ“ドラマの筋書き”が違うし、ましてや10年前と今では全然違う。違って当然です、人間が、米や微生物を相手に育てるんですから。

 …そして、そのドラマは静岡だけでも20数通りあるわけですから、私の利き酒能力からしたら、静岡で精一杯なんです。

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 ちょっと話が脱線しましたが、晴れて“蔵元杜氏”になった鈴木さんは、「仕込みの量は減りましたが、代わりに自分で挑戦してみたい酒をいろいろ造っていきますよ」と意欲的。数年前から始めたという山田錦70%精米の山廃純米酒や、農水省認定“地産地消仕事人“41人の一人に選ばれた浜松の料理人・高林秀幸さんとコラボ企画した酒みりん・純米料理酒など、新しい商品が次々と生まれています。

 

 

 大学を卒業したら、農業・畜産・バイオテクノロジー等、生物関係の仕事に進もうと思っていた鈴木さん。「自分が新卒で入社した昭和58年は、酒造業は斜陽産業になっていましたが、なんだか面白そうだったんですよ。実際、面白いって思わなければ続けられない仕事ですが」と苦笑いされますが、ご本人を見ていると、前日お会いした『萩の蔵』の萩原さん同様、漢(オトコ)が人生を投入して後悔しないと思える魅力が酒造の世界にはあるんだな~と実感します。代々造り酒屋に生まれ育った蔵元さんにはないモチベーションなのかもしれませんね…。

 

 老舗の看板を継ぐという重みはご本人が一番感じているはずです。 鈴木さんが指揮する新生千寿酒造。我々も長い目で応援していきましょう!


『駿河酒造場』復活ものがたり

2010-05-26 11:13:08 | 吟醸王国しずおか

 取材や出張が続いています。今月はGW中は1週間ほとんど家に籠りきりだったので、その反動からか、外へ出ると自分でも異様なくらいテンションが高くて、一昨日、下田で初亀試飲会&パイロット版試写会をやっていただいた夜も、地元のみなさんと二次会のカラオケで大はしゃぎしたことしか記憶にない…(苦笑)。覚えているのは地元の観光旅館のおやじさんから「あんた、明るくて、幸せそ~な顔して酒呑むなぁ」と褒められたぐらいかな。まぁそれでもいいんです。静岡の酒は、飲んでいて幸せな気分になるんですって周りに伝われば。

 

 

 ブログで紹介する時間がなくて遅くなってしまいましたが、先週は、かねてからじっくり話を訊いてみたいと思っていた蔵元2軒を訪ねました。『萩の蔵』と『千寿』です。

 

 

 『萩の蔵』は、平成16年から「株式会社曽我鶴・萩の蔵」として掛川市の旧曽我鶴酒造の蔵で稼働していました。

 曽我鶴酒造は創業者の柴田家が酒造業から撤退し、7年ほど蔵が休眠状態になっていたのですが、「萩錦」(静岡市)の親戚筋にあたる萩原吉宗さんが、第二の人生を酒造家として生きよう!と脱サラで酒造りの世界に入り、曽我鶴の蔵を借りて始めました。それまで曽我鶴で杜氏を務めていた小田島健次さん(南部杜氏)が引き続きバックアップしてくれるということで、萩原さんは、小田島さんが務める県外の酒蔵でひと造り修業をし、さらに小田島さんが務める『小夜衣』で1年半修業をして、小夜衣の蔵元で『萩の蔵』の最初の仕込みを行います。「小夜衣の仕込みで覚えようとしても、どこか甘えが出てしまう。自分はいずれ蔵元になるのなら、自己責任で造らねば」との思いだったそうです。

 ちなみに小田島さんという杜氏さんは、小規模の酒蔵を何軒も掛け持ちする器用な杜氏さんです。

 

 

 

 Dsc_0014 平成16年に晴れて蔵元デビューした萩原さん。萩原さんの父覚三さんは、静岡では『萩錦』の販売部門を担当していた人で、昭和初期にはご兄弟で酒を造っていたそうです。

 

 その後、造りは現在の『萩錦』一家が継承し、萩原さんは大学卒業後、まったく酒とは関係のないエンジニアの世界へ。国分寺にある日立製作所中央研究所で、今のカーナビ、携帯、ICカード等の基礎技術となったマイクロコンピュータの開発を担当しました。その後、半導体事業部に移り、200人の技術者を束ねるプロジェクトリーダーに。技術オタクが研究だけやっていればいいというポジションではなく、販売や売り上げにも責任を持たされ、「中小企業の経営者になったような経験だった」と激務を振り返ります。

 

 

 やがて、日本の半導体産業が韓国や台湾の追い上げにあい、競争力を失っていく状況を現場担当者として実感し、「どうせ苦労するなら、技術者として、やりがいがあるもの、他の人には真似できない、価格競争に巻き込まれないものを造りたい」という気持ちに…。そんなとき、脳裏によぎったのが、亡き父が果たせなかった酒造りの夢でした。

 

 

 家族を東京に残して、単身、酒造りの世界に飛び込んだ萩原さんは、『曽我鶴』の酒銘を残してほしいという掛川市民の声に応え、『曽我鶴』『一豊』『掛川城』といった掛川ご当地銘柄をそのまま継承し、自身では『萩の蔵』『天虹(てんこう)』という新しいブランドも作りました。

 新ブランドの評判が少しずつ広まる一方で、いつまでも旧曽我鶴の酒蔵を間借りしているわけにもいかず、いずれは移転も…と考えていた矢先の昨年夏、突然、旧曽我鶴側から年内で明け渡してほしいとの通達。大慌てで移転先を探し、いったんは掛川市北部で計画が進み始めたのですが、蓄積していた疲労やストレスが災いし、脳梗塞で倒れてしまいます。倒れたのが東京で家族と一緒の時だったので、幸いにして処置が早く、一命は取り留めました。

 

 

 掛川市内での移転がストップしたとき、昨春に廃業した静岡市の『忠正』の蔵元・吉屋酒造から、酒造免許を譲ってもいいというオファーが。さらに暮れの11月、かつて父が兄弟と一緒に酒を造っていた場所に建っていたスーパーマーケットが閉店したという話が飛び込んできます。現在の『萩錦』とは目と鼻の先の距離ですが、長く静岡を離れていた萩原さんには、地元や親戚同士のしがらみに悩む前に、「…天のお導きだ!」と思えたのでしょう。一命は取り留めたものの、東京での入院や辛いリハビリ生活が続いていたときだけに、その思いはひとしおだったと思います。

 

 

 萩原さんは東京の病室で設計図を書き、電話やメールで機械や道具の手配をし、ものの3カ月で「株式会社駿河酒造場」を立ち上げてしまいました。

 

 建物は閉店したスーパーのバックヤードや冷蔵庫を改装し、機械の多くは吉屋酒造から運び、従業員の何人かも吉屋酒造からそのまま異動してもらいました。4月2日に開業し、すぐさま機械の試運転がわりに酒造りをスタート。今期は6月初旬まで仕込みを続ける予定です。

Dsc_0008  杜氏は、小田島さんの弟子だった小林和範さん。他に曽我鶴・萩の蔵時代から一緒に造ってきた蔵人2人に、萩原さんの甥大吾さんが加わり、『曽我鶴』『萩の蔵』『天虹』も途絶えることなく継承できることになりました。

 

 

 そして今度は静岡市民の要望で、『忠正』も継承することになりました。なんとも豪華なラインナップを任されることになった萩原さんですが、「他の人が真似できない技術者としての生き方」を貫きたいという思いが、消えつつある伝統の酒銘を復活させ、自身も三途の川を渡りそうになったところを引き返す、とんでもないエネルギーになるんだな…と感動してしまいました。

 

 

 酒造の世界には、このように、ときどき常人では真似できないことを成し遂げる逸材が出現します。人を、それだけ熱く駆り立てるものが、酒造りにはあるということを、私も自分のつたない筆や映像の力を借りて伝えて行きたい、と熱く熱く、再認識させられます。

 

 翌日訪ねた『千寿』も、酒造の灯を守るための紆余曲折を乗り越えた酒蔵です。今日は書くスペースがなくなってしまいましたが、吟醸王国しずおか公式サイト『読んで読む静岡酒』に、1997年に書いた千寿の記事を紹介しましたので、まずはそちらを予習替わりにお読みいただければ。


吟醸“出張”王国SBS学苑パルシェ校

2010-05-22 09:56:48 | しずおか地酒研究会

 5月18日(火)夜、SBS学苑パルシェ校の日本酒講座「日本酒の楽しみ方」で『吟醸王国しずおかパイロット版』の試写をしていただきました。SBS学苑の日本酒講座にお招きいただくのは、一昨年のイーラde沼津校以来。さすが、お金を払って日本酒の勉強に来る人たちだけあって、パイロット版の画面を食い入るように観てくださいました。

 

 Imgp2381 SBS学苑パルシェ校日本酒講座の講師は、河原崎吉博さん(丸河屋酒店)。パルシェ校では梅酒や地ビールなどいろいろなお酒講座を持つ人気講師です。

 最初に私のことを紹介するとき、「この人に初めて出会ったのは20年以上前、七間町の映画館近くにあった居酒屋(現在は両替町の“狸の穴”)で、毎週金曜日の夜、必ず独りで日本酒を飲んでいたオネエさんでした」といきなり切り出すので、びっくり&赤面・・・。でもとっても懐かしく思い出されました。

 

 

 七間町の映画館街は毎週金曜日がレディースデーで、1000円で映画が観られるので、ほとんど毎週のように金曜日に映画を観て、観る前か観た後、狸の穴で“地酒修業”をし、狸の穴へお酒を納入していた河原崎さんともちょくちょく顔を合わせていました。

 当時の狸の穴は、私の酒の師匠だった県酒造組合顧問の栗田覚一郎さん(故人)や河村傳兵衛先生の行きつけの店でもあったので、運よくお2人に会えると、直にいろいろ教えていただけたのです。SBS学苑の生徒さんたちには申し訳ないけど、今思うと、呑み代を差し引いても大変ぜいたくな“授業”でした。

 

 

 そんな私の修業時代をよく知る河原崎さんだけに、私が「しずおか地酒研究会」を立ち上げた頃はいろいろとサポートしてくれて、自分自身も「きき酒師」「日本酒学講師」等の資格勉強を重ね、プロの酒販店として恥ずかしくない地酒伝道のスキルアップの努力をしてこられました。

 

 

 

 静岡新聞社から98年に『地酒をもう一杯』を発行した後、SBS学苑で日本酒講座をやりませんか?とオファーをもらったのですが、酒を業務にされている方の中に相応しい人がいるし、自分のような素人が講師役なんて失礼なので…とお断りし、地酒伝道のプロのスキルを持つ寺田好文さん(浜松校)や河原崎さん(パルシェ校)を推薦し、彼らも快く受けてくれました。

 

 SBS学苑は、いくら内容がよくても、受講生の数が減ったら継続できない厳しい掟があるそうですが、河原崎さんは講座を持って8年、いまだに盤石な人気を保っています。これは、内容もさることながら、教室の中をつねに、「また来たい」と思わせる楽しい雰囲気にしようと頑張って来られた河原崎さんの努力の賜物だと思います。

 

 

Imgp2377  今回の講座は、メールで1~2回やりとりしただけで、さして準備や打ち合わせもせず、パイロット版DVDを持ってフラッと来て、ひととおり挨拶をして、映像を観てもらって、あとはおまかせ。河原崎さんは、映像に出てくる6蔵の酒を用意し、その蔵元が映像に登場するタイミングに合わせて酒を出すというニクい演出をしてくれました。

 

 

 

 その後は、受講生のお一人で、静岡市葵区鷹匠の薬膳カレImgp2379ー「いわと」さんが作ってくれた特製酒肴をつまみながら、6種を思い思いに試飲し、感想をレポートにするというスタイル。酒の解説や講釈は一切不要でした。

「・・・これってただの飲み会?」と最初は戸惑いましたが、受講生一人ひとりに声をかけると、「日本酒が好きだけど周りに飲む人がいない、毎月1回ここへ来れば同志に会えるから」「酒蔵見学をしたときは夏場の休業中だったから、(映像を観て)実際にああいう仕込みをしているんだって解ってすごくよかった!」「(唯一無濾過純米原酒だった)始郎だけちょっと味が違うと思ったけど私の味覚がおかしいのかな」等など、積極的に感想や質問をくれて、ただの飲み会ではない、日本酒に対してしっかりとした価値基準と学習意欲を持っている人たちだから、放っておいてもちゃんと受信しているんだと実感しました。

 

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  最後は、観たばかりのパイロット版に感動してその場で映像製作委員会に入会してくれた受講生の一人が、全員に「みなさんも入会しましょう!」とゲキを飛ばしてくれたりして、こちらも感動してしまいました。

 

 講座終了後は、みなさんの勢いに飲まれるように?二次会へ。“はしご酒”でおなじみ静岡駅南銀座の『湧登』の暖簾をくぐったら、カウンターに望月正隆さん(「正雪」蔵元)、高島一孝さん(「白隠正宗」蔵元)が。受講生のみなさんも「はしご酒のときより豪華なメンバーになった」と大喜びで、正雪と白隠正宗をありがたく頂戴しました。

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 河原崎さん&SBS学苑パルシェ校日本酒講座第16期のみなさん、本当にありがとうございました。みなさんたちのような明るい酒徒がいる限り、静岡の酒の未来も明るい!と確信しています。

 講座の様子はこちらもぜひご覧くださいな!


シズオカ文化クラブ5月定例会2~今川伝説の再発見

2010-05-20 16:47:33 | 歴史

 シズオカ文化クラブ5月定例会の講演は、宝台院に隣接する旧アソカ幼稚園2階講堂で開かれました。開始前には、幼稚園の真向かいにある『中村屋』の親子丼(特上!)で腹ごしらえ。前回ブログにも紹介したとおり、民俗学者の中Imgp2374 村羊一郎先生に、『今川伝説の再発見』という講話をしていただきました。

 

 

 今年2010年は、今川義元が織田信長に桶狭間の戦い(1560年)で討ち取られてから450年の節目に当たります。映画やドラマに出てくる義元って、お公家かぶれしたダメンズに描かれることが多いですよね。でも今川時代というのは、静岡(駿府)にとって大変意義深い時代でした。

 

 

 戦国時代、「安倍七騎」と呼ばれる7軒の旧家が安倍川流域にあり、彼らの家には今川家の朱印状が残っています。中山間地のには、寄り親・寄り子のような主従関係が存在していて、戦(いくさ)が起こると寄り親は地域の戦闘集団のボスとして寄り子を従え、戦った。彼らにしてみれば、自分を地域のボスとして認めさせ、治安維持の担い手たる身分を保証してくれる存在が必要で、それが今川家だったというわけです。

 今川義元が信長に討たれ、後を継いだ氏真も武田家に滅ぼされると、彼らは武田家から朱印状をもらいます。今川に殉じる義理人情はなく、故郷の地の安寧こそが大事。その後、武田家が滅び、豊臣・徳川時代になると、兵農分離が徹底され、故郷の土地を守りたいなら武器を捨て、それが嫌なら故郷を捨て町へ出てこいと二者選択を迫られる。このとき、最後まで故郷の地を離れなかった誇り高き人たちが「安倍七騎」と呼ばれたそうです。

 

 

 

 一方、武将の中にも、戦国の騒乱をしたたかに生き抜いた者がいます。摂津伊丹城の当主一族だった伊丹康直は、戦乱のさ中、今川義元にその勇猛ぶりが評価されて今川家の水軍の将となり、次いで武田家に仕え、焼津の花沢城の戦いで徳川家と戦った際は、「敵ながらあっぱれ」と徳川家に讃えられ、スカウトされてそのまま徳川大名となって家名を残しました。いわゆるスパイ工作で寝返ったというわけではなく、正々堂々と闘って敵軍に“再就職する”ことも、この時代は可能だったんですね。

 

 

 誇り高き者、したたかに生き抜いた者がいる一方で、『松野のボッカー様』伝説のような話も残っています。松野というのは安倍川中流の里で、正月に餅つきをしてはいけないという暗黙の掟があるそうです。昔、ボッカー様と呼ばれる姓名不詳の殿さまがいて、「自分が戦から戻ったら正月祝いをしよう」と言い残してそれきり音沙汰なし。正月になって、とある家で餅をついたら、その家が火事で全焼してしまった。ボッカー様の祟りだというわけです。

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 似たような話は富士山麓の十里木にもあって、ある落武者親子がこの地にやってきて、村人の家の正月飾りの餅を盗んで食べた子を、父が「武士の恥だ」と言って斬り捨てた。翌年からその村で餅をつくと、血の色に染まるようになり、以来、正月に餅をつけなくなったそうです。

 

 一方、静岡市の沓谷に長源院という今川の重臣によって建立された寺があり、「満福舞」という伝統芸能が伝わっています。開祖が寺を建てようとした土地は、地ならしがうまくいかず難儀をしていると、満福と名乗る老人が現れ、柄杓で水をかけると、たちまち地ならしができた。その老人は、かつて大火傷を負った武士を助けたことがあるとか。大晦日に寺では「満福、満福」と唱えて踊るようになったそうです。

 似たような話が井川にも残っており、井川の特産めんぱは、ひのきを薄い板状にしてそれを柄杓を使って丸める技術が要ります。この地にやってきた旅人が、板を蒸して丸太に巻きつける方法を村人に伝授してくれた。感謝する村人に「ひよんどり=火伏せの踊りを毎年やりなさい」と言い残して去ったという。井川のひよんどりは、大晦日の真夜中に柄杓で井戸水を汲んで飲むのがならわしになったそうです。

・・・中村先生曰く「諸国に残る伝説には、ひとつのパターンがあるようです」とのこと。

 

 これらの伝説にどんな意味合いがあるのかわかりませんが、戦国時代というのは、それまで続いていた荘園的秩序を破壊した武士が、新しい秩序を築きあげようともがいた時代であり、荘園時代の秩序を守っていた農民と武士の間には、当然、摩擦もあったし相互理解もあった。また、農民が暮らす村と、武士や商人が暮らす町とは、戦乱の時代も活発な交流があったことがわかります。ちなみに、菊川市棚草というところには、「今川さま」というほこらがあり、水利の恩人として尊ばれているそうです。

 

 今川という大きな「破壊者」が静岡を良くも悪くも変えたことは確かですが、中山間地には、荘園的秩序の名残りといえる「田遊び」や「ひよんどり」のような伝統芸能が今も残っています。…これも考えてみると大変興味深いことです。

 

 

 歴史と言えば、史料に頼った「表舞台」の話しか注目されないけれど、地域のフィールドワークを積み重ねていくことで、別の“時代考察力”が磨かれるのだと実感しました。

 貴重な学習の機会をいただき、中村先生およびシズオカ文化クラブのみなさんには心より感謝いたします!