5月24日(月)~25日(火)と下田に行ってきました。24日は月曜日でしたが、下田市の植松酒店さんが、取引先の飲食店や旅館ホテル従業員、地元の自営業の方々を集め、『吟醸王国しずおかパイロット版試写&初亀を楽しむ会』を企画してくれたのです。
場所は町のど真ん中にあるコミュニティホールで、初亀の蔵元・橋本謹嗣社長のトーク、私のプレゼン&上映で90分ほどの会を、15時~、17時30分~の計2回やり、終了後は地元料理店で初亀全種類の大試飲会! とっても有意義である意味ぜいたくな会でした! 会の様子はこちらをぜひご覧ください。
24日はあいにくのお天気でしたが、翌25日は初夏らしい清々しい晴天にめぐまれました。午前中、時間があったので、下田のまち歩きを楽しみました。
下田は、伊豆修善寺出身の母親の親戚がいたので、小さい頃から第2・第3の故郷のように親しみ、ライターになってからも再三取材に歩いた町ですが、今まで気がつかなかったところや、昔とはすっかり雰囲気が変わった一角が結構ありました。一番変わったのは、いたるところに掲げられた『下田龍馬伝』の幟旗かな(苦笑)。
大河ドラマの人気にあやかって、下田でも龍馬でまちおこしに乗り出したこと は以前、ブログでも少しふれましたが、ここで龍馬が大活躍したとか、あちこちに足跡が残ってるというわけではなく、江戸から京都へ船で向かう途中、嵐に遭い、下田に足止めされていた山内容堂に、京都から江戸へ向かう途中に同じ嵐で出港待ちしていた勝海舟が、龍馬の脱藩を許してもらったというエピソードが残っています。
山内容堂が滞在した宝福寺は、もともと唐人お吉の墓で有名な寺で、古いガイドブックを紐解くと、お吉ネタのほかに「下田奉行所が置かれた」「江川太郎左衛門の農兵調練所だった」等と紹介されています。しかし龍馬が関係していたという記述は見たことがなかったなぁ・・・。
まぁとにかく、久しぶりに宝福寺に行ってみたら、門の前に木彫りの龍馬像がドーンと建っていて、看板には龍馬とお吉の絵が並んで描かれていました。お吉は教科書で見たことのある本人の写真の顔ですが、龍馬のほうはどうみても大河ドラマの主演俳優の顔…。こんな悪ノリ、いいんだろうかと苦笑い(さすがに写真は撮る気になれませんでした)。
平日なのに観光バスが次々とやってきます。やっぱり龍馬伝にあやかっただけのことはあるんですね。…団体様ご一行の後ろにくっついてお吉の墓や、山内容堂&勝海舟謁見の間を見学しました。
ハリスの接待役を務めたお吉は激しい差別を受け、自害しますが、遺骸を葬ろうとした宝福寺の住職も“村八分”にあい、下田を追われ、晩年にやっと戻ってこれたとか。今では立派なお墓が建っていますが、これは「唐人お吉」を演じた歌舞伎役者や舞台女優が作ったもので、本当の墓はその横にある小さなほこら。…サイズの違いに胸を打たれました。
私が愛読する歴史教科書のひとつ・漫画『風雲児たち~幕末編12』によると、ハリスは初代アメリカ領事を務めただけあって、当時、西洋の知識人に多かった禁欲主義者で生涯独身を通したとか(お吉に手をつけたかどうかは確かめようもありませんが…)。
ハリスの通訳だったヒュースケンがお福という侍女にベッタリだったのに比べ、お吉は早々にお役御免に。その後、下田や江戸のアメリカ領事館に奉公に上がった女性はほかにも何人かいたものの、お吉さんだけが一人、ハリスの愛人と蔑まれ、後ろ指をさされながら悲劇の人生をたどります。お福さんは母親が改名させて遠くへ嫁がせたため、お吉の二の舞を踏まずに済んだのでした。
一方、山内容堂と勝海舟が謁見した間では、酒豪の容堂が下戸の海舟に大杯の酒をすすめ、「全部飲み干したら(龍馬の脱藩を)許してやる」とふっかけて、海舟がイッキ飲みしたという逸話が残っています。
海舟は「飲んだ席での口約束は当てにならないから一筆書いてください」と切り返し、容堂は自分の扇に瓢箪の絵をサラサラっと描いて、「歳醉三百六十日。鯨海醉候」と署名。“自分は一年のうち360日は酔っぱらってるんだから、酔って約束事を忘れるなんて粗相はしないよ~”って意味です。なんだか洒落て粋な殿様ですよね~(大河ドラマでは肝心のこのシーンがなくて、容堂自身は随分エキセントリックな悪役に描かれていますが・・・)。そのときの大杯と扇(レプリカ)が飾ってあり、団体ツアーのおじさまおばさまは大喜びで見入っていました。
お吉&龍馬という幕末スターゆかりの寺として売り出し中の宝福寺から、歩いて5分もかからないところに、ペリーと幕府が『下田条約』を結んだ舞台・了仙寺があります。境内は満開のアメリカジャスミンの香りに包まれ、団体ツアー客は、幕末史の舞台というよりも、花の名所としてのたたずまいを満喫しているようでした。
了仙寺から続く“ペリーロード”では、地 元中学生たちが校外授業か何かでスケッチをしていました。
少し歩くと、今度はロシアのプチャーチンと幕府が『日露和親条約』を調印した長楽寺が。プチャーチンが乗ってきたディアナ号は、安政大地震の津波で損傷を受け、人目のつかない港で修理しようと戸田まで曳航中に暴風雨で 沈没。このときロシア人500人を命がけで救った戸田の漁師と、プチャーチンの求めに応じて西洋船の建造に乗り出した日本人の大工たちの活躍は、誉れ高い伊豆の史話ですね。
地元の人によると、「下田はまちおこしのネタになる歴史ドラマが多すぎる。どの寺も、自分のところを“主役”にしたいから、なかなか共同歩調がとれない」とのこと。・・・たしかに3か所ちょこっと回っただけでも、教科書に出てくる幕末有名人目白押しのスゴイ舞台なわけだし、他の町にしてみれば贅沢な悩みに見えるかも。ただし、どこも“見せ方”が中途半端なような気がします。横浜、神戸、長崎なみにとは言いませんが、幕末開国の舞台、そして日本の国際交流の先駆けとなった港町として特色を出してほしいですね。
静岡県の吟醸酒を例に考えると、静岡県はもともと吟醸酒に適した軟水タイプの水と、豊富な水量に恵まれ、吟醸造りの仕込み温度5~8℃は冬場の一時期に限られますが、暑すぎず寒すぎず、温度管理しやすい環境にあります。氷点下以下になる地域では蔵の中に暖房を入れる必要もあるんですね。そして原料米は手配すればなんとかなる。
・・・でもこれだけで静岡が『吟醸王国』になったわけではなく、静岡型の吟醸造りで特色を打ち出そうと静岡酵母を生みだし、この酵母の特色を十分発揮させるため一切手抜きなしの完璧な造りに、各蔵がある程度足並みをそろえて取り組んだ成果です。一社二社がポンと飛び出ても、その蔵のネームバリューが上がるだけ。今のように、業界通からも「吟醸酒といえば静岡県」とイメージされるようになったのは、地域ぐるみで取り組んで努力してきたからでした。
港町といえば、朝鮮通信使&ポニョの舞台となり、龍馬のいろは丸事件の舞 台ともなった広島県福山市鞆の浦。このブログでも再三紹介してきましたが、江戸時代に鞆で造られていた薬草酒『保命酒』を、下田の酒屋・土屋商店さんで発見し、ビックリしました(この酒屋さん、古い蔵を街角ギャラリーにしていて、楽しかったです!)
保命酒の醸造元は、私も行ったことがある鞆の岡本亀太郎本店で、ラベルにはペリーの絵が。
当時、老中職で黒船対策に奔走した福山藩主阿部正弘が、ペリーやハリスを接待した幕府主催の饗宴で食前酒に故郷自慢の保命酒を用いて大いに喜ばれたそうです。これってサミットの晩さん会乾杯酒で磯自慢が評判をとったようなもの!?
商品パンフレットには『350年の健康酒の歴史と150年のもてなしの心』と粋なキャッチコピーがついていました。
保命酒は鞆の浦に行くたびに買い込んで、家に何本もストックがあるのですが、「これは下田でしか買えないだろう」と嬉しくなって買ってしまいました。土屋商店のおかみさんから「鞆の浦って下田と雰囲気が似ているらしいですよ、同じ風待ち港で」と言われて初めて気がつきました。
鞆の浦も、今年は大河ドラマブームにあやかって龍馬をウリにしているんでしょうか。いや、できれば龍馬というスター人気に安易に乗っかるんじゃなくて、風待ち港として刻んできた長い歴史のひとコマひとコマをていねいに紡いでほしいと思います。…鞆の浦のシーンをふんだんに入れた映像作品『朝鮮通信使』、ぜひ下田で見てもらいたいなあ。
昼からは、静岡の地酒を扱っている下田市内の飲食店を2軒はしご取材し、下田で唯一残っている鰹節やさん・山田鰹節店を覗いて帰りました。魚がおいしい港町なのに、鰹節やさんが1軒しかないって、ちょっとさびしいですね。
鰹節は味見をさせてもらい、お土産にはプロの料理人が好んで使うという鮪節「糸賀喜」を買って帰りました。
半日しか回れなかったけど、久しぶりに歩いた下田は、コンパクトに歩けて、歴史や伝統に関心が持てる大人世代が楽しめる街だと思いました。目の肥えた大人たちが知識欲を刺激されるような情報発信基地があれば、もっと面白くなると思います。一過性のブームに踊ることなく、地に足のついたまちおこしに期待したいですね。
…個人的には、山内容堂が勝海舟に飲ませた酒は何だったんだろうと思います。土佐の酒か伊豆の酒か、はたまた保命酒か…? 今のアメリカ人は日本酒より保命酒を気に入るのか? この論争をするだけで「下田酒サミット」ができるんじゃないですか?