杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

川根のそばを東伊豆で打つ!

2014-02-26 16:42:41 | ニュービジネス協議会

 昨年、静岡県ニュービジネス協議会で、川根本町・かみなか農場のそば作りを視察した記事(こちら)を紹介しました。このとき、参加者で刈り取ったそばを製粉したものを、年末にいただいたのですが、自分ではそばを打てないので、しずおか地酒研究会会員の東伊豆町稲取・誇宇耶の山田慶一さんに「手が空いたら打って」「もし気に入ったら生産者を紹介するので、お店で使ってみて」と、軽~いおせっかいを添えてお願いしたところ、正月明けに美味しい二八そばにして送り返してくれて、「おもしろいから(生産者を)紹介してよ」とのお返事。

 

 

 そんなこんなで、2月18日に上中さん、ニュービジネス協議会の小松専務を稲取の誇宇耶までご案内することになりました。

 

 

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 上中さんの運転で、新東名から開通したての東駿河湾環状道路を抜け、スイスイ行けたのはいいけど、修善寺トンネルを超えて旧天城湯ヶ島町に入ったら、まさに雪国!天城峠では、路肩に寄せた雪が道幅を狭くし、トラックやバスが対面交通できず、大渋滞で、後続車の運転手さんは「昨日もここを通ったけど、峠を越えるのに2時間かかったなあ」とウンザリ顔。観光バスのお客さんも、河津桜や温泉を楽しみに暖かい伊豆へ来たつもりが、思わぬ雪見旅になってしまって、さぞビックリしたことでしょう。

 

 

 やっとのことで峠を越えて河津に入ったら、雪はまったくなくて、河津桜が4~5分咲き。冬から春にいっきにシーズントラベルしたみたいでした。

 

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 東伊豆へはめったに来たことがないという上中さんと小松さんが「せっかくならキンメダイの煮付けでも食べたいなあ」と言っていたのを、「そば屋にそんなゼイタク言っちゃいけませんよ」とそっけなく返事した私。ところが誇宇耶に着いたら、山田さんが、キンメダイの煮付け、シカ刺し、珍味イカの口、山菜天ぷら、特大そばがきなど、3人では食べきれない豪華ご当地グルメで歓待してくれました。

 

 

 

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 互いにかなりマニアックなタイプの上中さんと山田さん、バックヤードの製粉機や貯蔵庫を確認しながら、品種や産地の違い、貯蔵方法など素人にはついていけない専門的なそば談議で盛り上がっていました。

 

 

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 私も必死に会話についていこうと「おお~、製粉機って、“国光(こっこう)”ってメーカーなのか!」と一人盛り上がったりしてたのですが、「マユミさんはこれでしょ?」と山田さんが出してくれた地酒3種(杉錦、白隠正宗、開運)を目の前にしたら、見合いの席の仲人みたいに「あとはお二人で仲良くどうぞ」と戦線離脱(笑)。結局、お昼から午後4時すぎまで居座ってしまいました。

 

 私の中では、大井川流域を“蕎麦街道”にしたいという夢を持つ上中さんに、東伊豆の誇宇耶さんを紹介する意味があるかな・・・という不安もありましたが、全国のそば産地に精通し、名だたるそば職人たちと人脈を持つ山田さんの話に真剣に耳を傾ける上中さんを見ていたら、上中さんのそば生産者としての知名度UPや品質磨きには何かしらのプラスがあったのでは、と思いました。

 

 

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 上中さんのそばが、そば通にちゃんと認知されるようになれば、川根本町という土地がそばの産地として注目され、やがては大井川流域の蕎麦街道プロジェクトにつながるはず。静岡の地酒が、実力ある2~3の銘柄によって全体が牽引された例を見てきた私にとっては、そんな未来予想図が描けるのですが、ご本人たちはどう思ったでしょうか・・・。

 

 

 翌日、山田さんからは「素晴らしいご縁を、ありがとうございました」との感謝メールをいただきました。雪で通行がままならない峠道を必死に越えたら、春が待っていた―そんな縁につながったらいいなあと心から思っています。

 


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マイクロファンドの可能性

2014-02-20 21:12:25 | ニュービジネス協議会

 先日、静岡県ニュービジネス協議会中部サロン(定例会)で静岡キャピタルのチーフインベストメントアドバイザー内藤正英さんからマイクロファンド(小口投資)の話を聞きました。最初は、この頃よく聞くNISA(小額投資非課税制度)に関連した話かと思ったら、まったく違っていて、自分が気に入った事業に対し、一口2万円とか3万円とか、ホントに小遣い程度の小口投資をするという、今まであったようななかったようなしくみのお話でした。

 

 東京のミュージックセキュリティーズという会社が運営するマイクロ投資プラットフォーム「セキュリテ」は、

 

①会員登録(無料)をする

②全国さまざまな地域のさまざまな事業をWEBサイトの中から選び、契約を結んで出資金を振り込む。

 

③事業者は全国から集まった出資金を利用して事業を行う。

 

④出資者は事業の進捗状況を会員専用マイページで確認、出資者限定商品や交流会、ツアーなどに参加できる。

 

⑤契約期間中の売り上げの一部を分配金として受け取る。

 

⑥出資していない事業や商品でも、会員なら買い物可能。

 

 という、いたってシンプルな流れ。

 

 「ミュージックセキュリティーズ」という社名は、この事業が、アマチュアストリートミュージシャンをファンの力でCDデビューさせるため、ファンがオリジナルステッカーやシールを作って資金を集めた、いわゆる“音楽ファンド”から始まったことに由来するそうです。

 

 

 そして、テレビ東京の『カンブリア宮殿』で取り上げられて一躍注目されたのが、全量純米蔵を目指す会(全国20蔵加盟)の「全量純米酒ファンド」です。醸造アルコールを添加しない、米と米麹だけで醸す純米酒は、原料がオール国産米100%なわけですから、製造する全商品を純米酒にするというのは大きなコスト管理・リスク管理が必要となります。

 

 

 私個人は、醸造アルコール(江戸時代は焼酎、今は主にサトウキビを原料とした蒸留アルコール)を添加するのも、品質を安定させる、手頃な価格帯にする尊い技術革新だと思っているので、アルコール添加酒(普通酒、本醸造酒、吟醸酒)も差別なく好んで飲みますが、日本酒本来の伝統に回帰しようという流れの中で、全量純米酒に思い切ってシフトする酒蔵が増えているのは事実ですね。その流れの一端を、一般愛飲者がファンドというかたちで支えるのに、こういう専門の投資会社がからんでいたというのは、今回、初めて知りました。

 

 

 ちょうど内藤さんが用意してくれたのは、カンブリア宮殿で『奥播磨』(兵庫)の下村酒造店さんが取材を受けている録画映像。3年熟成の純米酒を発売するのに、3年分のランニングコストが必要ということで出資を募り、応募者は定期的に酒蔵見学をしたり、試飲会に招待されたり、分配金は少ないけど限定酒を分けてもらったりして大満足の表情が描かれ、「事業者も出資者もWin-Win のありがたいファンドなんだ!」と大納得したわけです。

 

 

 

 酒蔵では、3・11の震災で流された陸前高田市の酔仙酒造が、「酔仙酒造ファンド」を募集し、復興の一助にされています(詳細はこちら)。一般的な募金と違い、出資した資金が、どういう事業に投資されたのか、経過報告できちんとわかって、酔仙ファンはもちろん、一般投資家にとっても安心できるというのがイイですね。

 

 全量純米蔵の雄・神亀は、「神亀ひこ孫ファンド」を2007年から運営し、現在、償還率99%。石川県のぶった農産は特別栽培米コシヒカリの生産事業費を2009年、2010年とセキュリテで集め、償還率100%をクリアしました。

 

 

 他にユニークな事業として紹介されたのは、

 

●天馬らぁめんファンド・・・兵庫県赤穂市の赤穂の焼き塩を使ったご当地塩ラーメン店が、2店舗目を大阪に出店するのに必要な開業資金約1000万円を、小口投資(一口3万円)で募集。

 

●種子島自然発電ファンド・・・種子島自然発電株式会社が鹿児島県西之表市と契約し、計画した約1メガワットの太陽光発電施設の建設費用5740万円を、小口投資(一口5万円)で募集。

 

●実生ゆずのものづくりファンド・・・大阪府箕面市の「実生ゆず」を活用し、100%天然成分でつくるスキンケア商品開発。事業費約1500万円を、小口投資(一口2万円)で募集。口数に応じて新商品プレゼント、実生ゆずの収穫期に採れたてゆずの分別加工作業体験ツアー招待。

 

 ほか、静岡県内だと林業を応援する「天龍杉 明善ファンド」など。現在、ファンド募集中の事業はミュージックセキュリティーズのサイトを参照してください。

 

 

 2013年10月時点で、事業者数は113社、ファンド数は205本、募集総額3,725,826,100円、償還済みファンドは79本という状況。中には継続条件が満たされず、出資金を払い戻ししたという失敗事業もありますが、基本的に事業者は、ミュージックセキュリティーズの主要株主になっている全国の金融機関やベンチャーキャピタルからの推薦をもとに同社の条件審査を受け、募集ゴーサインをもらいます。投資家から集まった資金は、ミュージックセキュリティーズの手数料を除き、事業者の普通預金に入金されます。もちろん返済の必要なしで、基本、使い道も自由。

 

 内藤さんはベンチャー投資に対するスタンスを、「銀行は過去の決算書を見るが、ファンドはこの先3年の見込みで判断する。資金がゼロでも保証がなくても、事業に夢と将来性があれば挑戦する価値はある」とエールを送ってくれました。

 

 

 この話を聞いて、いずれは自分の映画製作も・・・と胸踊る思いになったのは確かですが、その前に、ニュービジネス協議会の会員さんで有望な新規事業があるので、まずはそちらのお手伝いを、と思っています。実際に動きそうになったら詳しく報告しますので、ぜひ応援してくださいね!

 

 


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「静岡市空襲の記録」を読んで

2014-02-03 10:07:23 | 本と雑誌

 今、近所の戸田書店城北店で、フツウの書店にしては珍しく古本市をやっています。古本屋さんは時々探し物があるときに立ち寄りますが(・・・目的もなくフラッと気軽に寄れる雰囲気の古本屋さんってなかなかないんですね)、こういう場所だと、偶然、思わぬ拾い物に出くわします。

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 今回、出会ったのは『静岡市空襲の記録』。昭和20年(1945)、今からちょうど70年前の3月から6月にかけ、B29の爆撃を受けた静岡市民の有志が当時の経験を書き綴った文集です。最初のページに記されていた被害状況を見て、ハッとしました。戦争を知らない世代にとって、ご近所の町名がクレジットされていることに、まず愕然とさせられます。

 

 今年の元日、母と『永遠の〇』を観に行ったとき、「なかなかよく出来たCGだ」「若い世代にも共感しやすい脚本だな」と、素人評論家ぶった目で見た自分とは対照的に、母が「ああいうことは、どこにでもあったんだよ」とポツンとつぶやいたことに胸を衝かれました。戦死した祖父や、その後、祖父の弟と再婚した祖母の写真が脳裏をよぎりました。

 

 母の言う「ああいうこと」とは、特攻隊のようなシンボリックな存在ばかりでなく、戦地に赴いた人、見送った人、還ってこれなかった人、新しい家族を作った人・・・あの時代のすべての人々を生き様を指しているのだと思います。

 

 

 この本を手にとったのは、母のそのひと言と、台本制作&MCでお手伝いしている上川陽子さんのラジオ番組『かみかわ陽子ラジオシェイク』で、以前、賤機山で毎年6月に行われる日米合同慰霊祭を取り上げたことが主たる動機でしたが、本を開いて、まず最初に町名クレジットを目にし、「そうか、今住んでるここも戦禍に遭ったんだ。あの時代は遠い映画の世界の話ではないんだ」とジワジワ実感しました。

 

 

 静岡市は昭和19年(1944)12月7日に長沼地区が初空襲を受けました。以降、

○昭和20年(1945)1月27日 安倍川河原

 

○同2月15日 牛妻ならびに麻機山林

 

○2月20日 山崎新田

 

○3月6日 西島、千代田、春日町、伝馬町新田・・・死者4名・重傷者1名

 

○4月4日 古庄、国吉田、小鹿、池田、沓谷、千代田・・・死者70名・重傷者20名

 

○4月7日 籠上・・・死者2名・重傷者2名

 

○4月12日 見瀬、小鹿・・・死者1名

 

○4月24日 八幡本町、石田、高松・・・死者26名・重傷者3名

 

○5月19日 千代田、上足洗、泉町・・・死者1名・重傷者1名

 

○5月24日 柳町、安西5丁目、田町1丁目・・・死者37名・重傷者1名

 

○5月26日 安西5丁目安倍川河原

 

○6月11日 詳細不明

 

○6月18日 詳細不明

 

○6月19日 全市70%焼失・・・死者1669名・重傷者800名

 

○6月20日 市中心部で艦載機による機銃掃射

 

 

 3・11の1ヵ月後、福島県いわき市の被災地に行ったとき、一つの集落で100人以上が命を落としたと聞いて、「いっぺんに100人も死んだ場所に立っているなんて・・・」と鳥肌がたったことを思い出しましたが、何のことはありません、自分が住んでいる町で70年前、2000人が亡くなっていたんですね。

 

 

 4月24日の空襲では、当時、静陵女学校と校名変更させられていたわが母校・英和女学院の中学2年生三津山登志子さんが亡くなったことが詳しく紹介されていました。

 一緒に下校した後輩の原田さんという方の証言によると、空襲警報が鳴る中、英和のある西草深から西平松(久能海岸近く)まで自転車で帰る途中、八幡の踏み切りあたりで自転車が故障し、近くの自転車店に立ち寄ったとき、上から爆弾が落ちてきた。原田さんは左に、三津山さんは右に逃げたが、気がついたときには当たり一面煙。三津山さんは意識はあったが、セーラー服をたしくあげると鋭利な刃物でえぐりとられたように乳房が切り取られ、鮮やかなピンクに白いぽつぽつがまざった胸が見えた。血はぜんぜん出ていなかったそうです。

 

 原田さんの自転車は目茶目茶に壊れたが、三津山さんの自転車は無事だったため、三津山さんの自転車を借りて迎えに来た家族と一緒に帰宅し、まもなく、三津山さんの訃報を知り、一人だけ助かった自分を責めたと。

 

 

 6月19日の大空襲を綴った記述では、水落町の佐藤ちよさんの「残った肉片と髪の毛」に衝撃を受けました。佐藤さんは夜23時頃の空襲で、避難した防空壕に爆弾が直撃。重傷を負い、表の警戒から戻ってきたご主人に助けられて、城東町にあった練兵場に逃げ込み、一命をとりとめたそうです。一部を転載させていただきます。

 

 「親類の者が手伝って壕を掘りおこした。父は胸と手に血がにじんている。次女(18)は頭がない。マネキン人形の首をとったよう。わずかに、ふさふさとした毛髪のついた肉片がちょっぴり。それをだいじに拾った。

 末娘は顔がやられている。鼻の真下を水平にえぐりとられ、あごと鼻がくっついてしまっていた。(中略)親戚の方が棺おけを用意してくださったので、それぞれ棺に納めた。必勝を信じて数珠を首にかけていた父の姿が痛々しい。次女は学校で集金した物を大事そうにかかえていた。

 (中略)火葬場もいっぱいで焼いてくれないので、特別に許可をもらって土葬にすることにした。リヤカーに3つの棺をのせて墓地に行った。途中いただいたアジサイの3~4本と、山道でキツネのちょうちんと千草の花を折り、墓地にそなえた。

 (中略)私たちはその後母の実家へ身を寄せた。母は夕方暗くなるまで働いてくる。70歳にもなっていたが食糧を集めるため一心に働いてくれた」

 

 

 淡々と事実だけをつづった文章でしたが、行間から佐藤さんの慟哭が聞こえてくるような気がしました。

 

 このほか、呉服町通りが炎上し、本通りに出た人々がお祭りの雑踏のように安倍川方面に避難した様子、最も被害が大きかった番町界隈の様子、静岡駅や郵便局が炎上した様子、日赤を守り抜いた人々、一人の脱獄者も出なかった静岡刑務所の様子など、映画さながらに映像が浮かんでくるようなリアルな記述満載です。

 

 この記録集は昭和49年(1974)、大学教授、歴史家、商店主、公務員、医師、弁護士、学校教諭等の有志で結成された「静岡市空襲を記録する会」が刊行したものです。こういう記録や証言を集め、編集するには、29年という歳月が必要だったのかもしれません。

 

 

 情報化時代の今、3・11の記憶は、スピード感をもってさまざまなカタチで記録されています。それでも、愛する人の不条理な死に直面したときの慟哭は、70年前と同じではないでしょうか。慟哭の深さは同じなのに、世の中のスピードが速くなりすぎて、本当は30年ぐらいかけ、かろうじて振り返ることが出来る辛い記憶を、どんどん“消化”しなければならないとしたら、人の心はちゃんと適応できるのでしょうか・・・。

 

 

 皮肉なことに、今、私はアルバイトで檀家が何百人もいる大きな寺院で雑務をしており、法事や墓参りのお世話もするのですが、普通にお葬式が出来て、お墓参りが出来るって幸せだなってふと思います。位牌が何百本と並ぶ位牌堂を掃除するときも、同僚は「なんとなく背筋が寒くなる」と言いますが、私は「この人たちは、自分が生きた証拠をちゃんと遺せている。誰かにちゃんと、認めてもらえてる」と気持ちが明るくなるのです。

 

 この『静岡市空襲の記録』に書かれた多くの死者も、家族にとっては辛い記憶ですが、家族が生きた証拠になったという意味では非常に価値があると思います。時間がかかっても事実に誠実に向き合い、丁寧に記し遺すことが大事だな、と。

 

 死を意識するとき、生きるということに真剣に向き合える。・・・どこかできいたような台詞ですが、ライターという職業の自分にとっては、いろいろな意味で真に迫ってきます。


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