杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

ウズベキスタン視察記(その5)~民族交差のサマルカンド

2018-01-08 15:31:41 | 旅行記

 ウズベキスタン3日目の10月15日は、タシケントを朝8時出発の超特急『アフラシャブ号』に乗ってサマルカンドに向かいました。アフラシャブというのは紀元前8世紀ころ、イラン系ソグド人がサマルカンドの町を築いた丘の名前で、もともとは伝説の初代ソグド王の名前でした。

 いにしえの名を冠した超特急は、タシケント~サマルカンド約300㎞を2時間で結ぶスペイン製の新幹線。特等席を予約してもらっいたようで、キャビンアテンダントの美女が飲み物や軽食を配るサービス付き。私は成田空港の免税店で購入した純米吟醸『浦霞・禅』を取り出して、車窓に広がるシルクロードのオアシスの街並みやポプラ並木の台地、広大な綿花畑の景観を酒肴に朝から一杯。日本の新幹線では経験できないぜいたくな列車の旅を満喫しました。

 

 サマルカンドはいにしえの時代、「マラカンダ」と呼ばれ、アケメネス朝ペルシャの支配下で、商才と工芸技術に長けたソグド人が、豊かな文化生活を営んでいました。

 紀元前329年、父王の悲願だったペルシャ東征を継承したアレクサンドロス大王は、ギリシャ・マケドニア軍を率いてこの地を征服。このとき、ペルシャ軍のソグド人武将スピタメネスが、敗走しようとした上司ベッソスを捕らえて敵に引き渡し、自らは徹底抗戦。スピタメネスの美貌の妻ザーラは家族のために降伏してくれと懇願しましたが、彼は妻が美貌を武器に敵に寝返るのではと疑心暗鬼になり、傷ついたザーラは泥酔したスピタメネスを刺し殺し、その首をアレキサンドロス大王に引き渡しました。大王はザーラの所業を不快に思い、彼女を追放した・・・1世紀にローマの歴史学者クルチウスが書いた『アレキサンドロス大王伝』にはそんな悲劇が紹介されています

 アレキサンドロスが紀元前323年に遠征先で亡くなると、後継者セレウコスの支配下に置かれ、次いで、マケドニア軍人と現地支配層によるギリシャ・バクトリア帝国に支配され、紀元前2世紀には遊牧民スキタイ、匈奴の侵攻により分裂。紀元1世紀にはインドのクシャン王朝に支配され、クシャン王国滅亡後は数多くの公国に分裂し、6世紀にはテュルク系民族の統一国家・突厥がビサンチン帝国の後ろ盾を得て中央アジアを治めます。その支配下で、サマルカンドはソグド人がアフラシブの丘に営々と町を再建し、シルクロードの繁栄を象徴する存在となりました。

 

 7世紀、この地を訪ねた玄奘三蔵は西域記で「周囲が1600~1700里あり、東西が長く、南北が狭い。国の大都城は周囲20里あまり。非常に堅固で住民は多く、諸国の貴重な産物がこの国にたくさん集まる。土地は肥沃で農業が十分に行き届き、木立はこんもりとし、花や果物はよく茂っている。良馬を多く産出し機織りの技は特に諸国より優れている。すべての胡国の中心であり、進退礼儀は遠近の諸国とともに、ここにその手本をとるのである。王は剛勇の人で兵馬は豪勢。性質は勇烈で死を視ること帰するがごとく、戦って前に敵がないほどである」と紹介しています。王はソグド固有のゾロアスター教を信仰し、謁見した玄奘も最初は冷遇されましたが、王のために仏教の功徳を粘り強く説き、布教が許されます。

 ちょうどこのころ、アラビア半島で誕生した新たな一神教=イスラム教を布教させるべく、アラブ人勢力が急拡大します。712年、サマルカンドはアラブの総督クタイバに攻略されて陥落。必死に抵抗していたサマルカンドのグレク王は多額の賠償金を支払い、市内にモスク建設を許可し、ソグド兵は置かないことで和睦を結びます。その後、中央アジア民族の抵抗がしばらく続きますが、やがてイスラム勢力に掃討され、それまでのゾロアスター教、仏教、マニ教、キリスト教、その他現地信仰が守ってきた人物や動物の像は「偶像崇拝」として一掃され、貴重な書物も焼かれてしまいました。


 8~12世紀、中央アジアを支配したアラブのサーマーン朝、カラハン朝、セルジューク朝の時代、サマルカンドやブハラには多くのイスラム寺院や神学校が建設され、シルクロードに数多くのキャラバンサライ(隊商宿)や貯水池が作られました。ソグド人もしたたかに町を繁栄させてきたのですが、13世紀、チンギス・ハーンのモンゴル帝国登場によって、ソグドが築いたサマルカンドの栄光は風前の灯火に。

 1220年、モンゴル軍はサマルカンドに侵攻。12万人のソグド人が殺戮され、アフラシャブの丘は無人の廃墟と化しました。13世紀後半から14世紀前半、中央アジアはチンギス・ハーンの長男ジュチと二男チャガタイ、その子らの支配下に。チャガタイの子孫はイスラムに親和的となり、遊牧系のモンゴル貴族との軋轢を生んで内部分裂を引き起こし、モンゴル一強の時代は後退していきます。


 サマルカンドを蘇らせたのは、1336年、サマルカンド近郊に生を受けた英雄ティムールです。父親はモンゴル系部族バルラス一族出身。少年の頃からテュルク語とタジク語を自由に話し、一族の中で頭角を現し、無政府状態のもと各部族をとりまとめ、34歳のとき権力を掌握。イスラム聖職者の支持を得てチャガタイ・ハン国の後継者を宣言しました。

 彼は1405年に病死するまで中央アジア各地で破壊や殺戮を繰り返し、首都サマルカンドに各地から連れ帰った職人、芸術家、学者を住まわせ、町の建設に従事させます。ウズベキスタンでは「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」が定説。今回、私たちが見学したモスクや霊廟も、ほとんどがこの時代に建造されたものでした。

 ソグド、ギリシャ、ペルシャ、アラブ、モンゴル・・・さまざまな民族が生き残りをかけて戦い、混じり合ったサマルカンドは、他民族との接点が極少だった日本人には想像のつかない歴史を背負った町。最後に権力を掌握した者が過去を一掃してしまうのは歴史の常かもしれませんが、できうれば、ソグド人のような、したたかに生き延び、シルクロードを繁栄させ、時空の彼方に消え去った民族の足跡に触れてみたかったな、と思います。

 中央アジア史研究の大家・加藤久祚氏の名著『中央アジア歴史群像』には、こんな諺が紹介されていました。

「思い出が残るように生きよ、お前がこの世から去るときに、この世がお前から解放されるのではなくて、お前がこの世から解放されるように生きよ」



 さて、我々が最初に訪れたのは、ティムールとその一族が眠るアミール・ティムール(グル・アミール)廟。グル・アミールとはタジク語で支配者の墓という意味です。もともとティムールが若くして戦死した孫ムハンマド・スルタンのために建てた廟で、建造して1年後にティムール自身も亡くなり、ともに葬られました。右下の写真、真ん中の黒い棺がティムールの墓石です。

 

 次いで訪れたレギスタン広場は、チンギス・ハーンの侵攻でアフラシャブから移転を余儀なくされたサマルカンドの公営広場。「ウルグベク・メドレセ」「シェルドル・メドレセ」「ティラカリ・メドレセ」という3つの神学校がコの字に並んでいます。1420年に建てられた最も古いウルグベク・メドレセ(写真左側)は、ティムールの孫で天文学者ウルグベクが建てたもの。聡明で人格者だった彼は、ここに100名以上の学生を寄宿させて自ら教鞭を取り、貧しい子どもたちにも数学や天文学を教えたそうです。

 アーチの両サイドに建つミナレット(尖塔)に有料で登れると聞いて、お上りさん気分で挑戦。ビックリするような急階段で縄に捕まらなければ進めず、翌日はしっかり筋肉痛になってしまいました。

 京都や奈良の仏教寺院の大伽藍で、時々、岩登りでもさせられるような急階段を見かけますが、宗教施設に共通した“修行スポット”なのかもしれませんね。(つづく) 

 

 

<参考文献>

〇エドヴァルド・ルトヴェラゼ著『アレクサンドロス大王東征を掘る』

〇加藤九祚著『中央アジア歴史群像』

〇安田暎胤著『玄奘三蔵のシルクロード』

〇ジュリボイ・エルタザロフ著『ソヴィエト後の中央アジア』

〇地球の歩き方・中央アジア~サマルカンドとシルクロードの国々編


 


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