杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

バスに乗って逝った父

2018-01-07 13:27:02 | 日記・エッセイ・コラム

 ウズベキスタンレポートの連載中ですが、ひと言お礼とご報告を。

 実は昨年大晦日、父が急逝し、2日(火)に通夜、3日(水)葬儀という慌ただしい年明けとなってしまいました。享年84歳。初七日にあたる6日(土)は朝日テレビカルチャー地酒講座で蔵見学引率の仕事が入っていて、訪問した富士高砂酒造(富士宮市)の仕込み蔵に安置されている富士山頂下山仏を拝ませていただき、少し落ち着きましたのでご報告申し上げます。

 

 

 父の訃報は時期が時期なので親族だけに知らせ、こじんまり送ることにしたのですが、3日葬儀後の祓いの食事(仕出し弁当)を頼めるお店が、葬儀社さんでも見つからず、やむを得ず31日夜、フェイスブックにSOSを出したところ、多くの皆さんから情報提供&弔意をいただき、お店も無事見つかりました。偶然、しずおか地酒研究会でもお世話になったことのある両替町の日本料理「新」(あらた)さんでした。

 

 通夜や葬儀には、わざわざ日時と会場を探して参列してくださったり、お花や弔電を送ってくださる人もいらっしゃいました。酒造繁忙期にもかかわらず葬儀に駆けつけてくださったり、わが家へ直接お線香を上げに来てくださったり、御香典を郵送してくださった蔵元さんもいらっしゃいました。自分はその方々に一方的にお世話になっていたものと思っていましたので、思いがけないご厚情に感謝の言葉が見つかりません。こういうときに行動してくださった方々との絆を再認識させてくれた意味で、父にも感謝しなければと思います。本当にありがとうございます。

 父には心臓の持病があり、一昨年、運転免許を返納してからは家に引きこもりがちになり、足腰も弱っていました。実家には障害を持つ弟もいますので、母一人に世話をさせるのは大変ということで昨年11月に私も実家へ居を移し、久しぶりに家族4人の生活を始めました。

 昨年末は私が日替わりで買ってくる蔵の新酒を、父は「まみちゃんの酒はどれも美味しいなあ」と言って喜んで晩酌していました。私が西武池袋本店の仕事で1週間留守をしていたときは、私の酒ストックには手を付けず、安いパックの焼酎でガマン?していたようで、私が戻ってからは、夕方、私が仕事から帰って酒瓶を取り出すのを、まるでおあずけをくらうワンコのように(笑)待っていました。

 直前まで何の異変もなく、亡くなる3日前には一人でバスとJRに乗って用宗漁港の直売所までシラスとサクラエビを買いに行き、亡くなった当日も朝は普通に一緒にご飯を食べて、9時過ぎに清水の河岸の市に魚を買いに一人でバスに乗って出かけたのでした。母と弟もそれぞれ大晦日の買い出しに出かけ、私は家で留守番をしながらウズベキスタン視察記を書いていた10時前、静岡市立病院から、父が心停止の状態で運ばれたとの電話。取り急ぎ一人で病院に駆けつけたところ、1時間近く心臓マッサージを受けている状態で、家族の同意がなければマッサージは止められないと言われ、母に連絡が取れない状況での判断に、一瞬、逡巡したものの、「わかりました」と同意をしました。

 担当医や警察の説明によると、バスがJR静岡駅に到着したとき、乗客から「座席で寝ている人がいるよ」と報告を受けた運転手さんが異変を察して救急車を呼んでくれたようです。・・・美味しい酒の肴を探しに出かけたまま、逝っちゃったんですね。

 

 父は長年、県の土木技師として、静岡県内の道路や橋の建設保守に携わっていました。人付き合いが下手で、県庁内では出世コースから完全に外れ、土木事務所の支所勤めで終わった人ですが、山に入って道なきところに道を造り、橋を架け、市街地では難しい用地交渉をして道路を拡張する仕事に終始、現場で汗を流しました。自然災害が発生すれば休みなしの復旧作業にも従事したものです。

 私が駆け出しライターのころ、SBSの情報番組『そこが知りたい』で働くお父さんのお弁当をリサーチをしていたときに道路工事現場の親方を紹介してくれて、その親方から「あんたのお父さんは早朝でも休みの日でも現場に来て気が済むまで点検するんだよ、こっちも気が抜けないよ」と苦笑いされたことがありました。シンガポールのツアー旅行に参加したときは、自己紹介タイムで「トラックの過積載が道路を痛め、事故のもとになる。荷物の詰め込み過ぎには注意してください」と場違いな挨拶をしてこちらが恥ずかしい思いをしましたが、今思えばそれくらいの仕事人間だったのでしょう。父が手掛けた道路は、私が知っている限りでは安倍奥の俵沢、西伊豆の松崎~下田、西富士道路、焼津の大崩海岸周辺等々。これら付近を通るときは父を偲んでくださいと、施主挨拶で紹介させていただきました。

 道を造るという仕事は、私のような気楽な稼業に比べると、はるかにプレッシャーの大きい仕事だったと思います。休みの日には一人で山に登って写真を撮ったり、時刻表を片手に鉄道路線めぐりをするのが、父の唯一の趣味でした。団体行動が苦手で友人も少なく、定年後は母が山登りに付き合うようになりましたが、心臓の手術を2回やってドクターストップをかけられたのが父の気力を失わせたのだと思います。ちなみに母は60歳を過ぎてから父に付き合った登山に魅了され、日本百名山を踏破し、80歳を超えた今でも月3~4回、登山仲間とウォーキングに出かけています。

 父の手帖には、罫線に沿ってびっちり、その日の行先、距離、時間が記録されていました。登山に行くときも、近所に買い物に行くときも同じ。土木技師らしい記録習慣がそのまんま、残っていたようです。もう一度見たいなと思ったのですが、葬儀後、父の私物を片付けていた母が「あんな意味の分からない数字だらけの手帖なんて捨てちゃったよ」とひと言。女は勁いなあと苦笑いするしかありません。

 生前、父は終活の話を嫌がり、いざというときのことを何も決めていなかったため、病院で渡された葬儀社リストを参考に、昔、親戚が使ったらしい葬儀社に頼み、お経をあげていただくお寺さんはその葬儀社から紹介してもらいました。日頃から自分は仏教に親しんでいたのに、こんなとき何も役に立たないと情けなくなりましたが、紹介されたお寺が、偶然、臨済宗妙心寺派で、自分がいつも坐禅のときに読経している『大悲呪』『白隠禅師坐禅和讃』で送っていただき、『冬山弘真信士』(俗名・鈴木弘敏)というシンプルで分かりやすい戒名を授けていただきました。旅立ったのが、白隠遠忌250年の2017年大晦日の静岡駅前ですから、もしかしたら白隠さんのお近くへ行けたかもしれない、なんて妄想しました。有難い仏縁です。  

 新さんがご用意くださった祓いのお弁当は、市場がお休みで食材が少ない時期とは思えない味わい豊かなお弁当で、父が最期に残した豪華な酒肴だな、と思いました。

 

 フェイスブックのコメントでは多くの皆さんから「幸せな最期だね」と言われました。はいそうですね、とすぐに返せる心境にはまだ至っていませんが、こうして記録し、個人の“死”を、個人の歴史の“史”として物語化していくことで、心の底から父の旅路が幸運だったと実感できるのかもしれません。改めて皆さまのご厚情に心より感謝申し上げます。

 

 


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2 コメント

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「薬師蔵」 (水上悦郎)
2018-01-15 19:07:40
1. 先日の 朝日テレビカルチャー「富士高砂酒造」では 初七日のところを
  引率して頂き、恐縮です。 本文を読んでいて「身につまされる」思いが
  しました。
   私にできることは「良き受講生になる」位のことしか、できませんが、
  今後もお世話になります。

2. ブログ・コピーのあった 9月の(かなや日和)酒場体験、 12月の
  「南部杜氏」の文面と、 そして今回と、 印象深く 私のメモリーに
  入りました。(さすがライターです。)

                          ー 以上 ー
 
返信する
ありがとうございます (鈴木真弓)
2018-01-20 08:51:56
水上さんいつも朝日カルチャー受講ありがとうございます。ブログも読んでいただき感謝します。高砂の訪問では皆さんの笑顔と富士山の晴れ晴れしいお姿に癒されました。今後ともよろしくお願いします。
返信する

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