杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

白隠フォーラムin沼津 2014(その1)~白隠さんの地獄絵

2014-11-21 11:28:00 | 白隠禅師

 再三ご案内したとおり、11月9日(日)12時30分から、沼津駅北口プラザヴェルデで【白隠フォーラムin沼津2014(主催/花園大学国際禅学研究所、後援/沼津市)】が開かれました。

 400名定員の会場がすぐに満席となり、サブ会場(モニター聴講)まで設置、トータル700名近い聴衆が集まったビッグフォーラム。一般市民を対象にした歴史講座でこれほどの人が集まるというと、静岡市で開催中の徳川みらい学会ぐらいでしょうか、来年が家康公の400年忌、平成29年が白隠さんの250年忌というタイミングも相まって、歴史学や宗教学のトップランナーが静岡に集結し、県民に貴重な学習の機会を与えてくれる。大変ありがたいことです。この日プラザヴェルデに集まった聴衆の中には、県内で活躍する歴史家・芸術家等、私でも知っている著名人を数多く見かけました。

 

 4時間にわたる密度の濃いフォーラム。3名の講師がそれぞれの得意分野をテーマに講演されました。

 最初に登壇されたフランソワ・ラショー氏(フランス国立極東学院教授)は、フランスにおける日本文化研究の第一人者のお一人。現在、京都大学人文科学研究所でも研究活動をされています。老獪な学者さんを想像していたら、意外にもお若い方で、ご自分の体型を“布袋ルック”と自虐的に紹介されるノリのいい方でした。

 ラショー氏が取り上げたのは、白隠さんの書『南無地獄大菩薩』。2年前の渋谷Bunkamura白隠展で初めて観た時、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経ではなく、なんで地獄の大菩薩?と、まずは言葉の意味に首をひねり、晩年の作というのに小学生のお習字みたいに紙一杯に整列した野太い文字にゾクっときました。でもこのときは、地獄の恐ろしさに対抗するために力をググッと込めて書かれたんだと勝手に解釈していました。

 

 東海道「原」宿の問屋業・長澤家に生まれた岩次郎(白隠の幼名)は8~9歳の頃、母親に連れられて行ったお寺の説法で地獄の恐ろしさを教わり、トラウマになった。13歳の頃、上方からやってきた浄瑠璃一座の芝居で、真っ赤に焼かれた大鍋をかぶり焼き鍬を両脇に挟んでもびくともしない日親上人のことを知り、地獄の業火に耐えられる仏力を自ら得ようと出家した、と言われます。「地獄」は白隠さんにとって終生のテーマだったのでしょうか、白隠さんは地獄の閻魔大王を描いた絵もたくさん描いています。

 ラショー氏によると、キリスト教圏にも地獄を描いた絵がたくさんあり、天国の絵はわりとワンパターンなのに比べ、地獄絵図は多種多様。人が、地獄を想像させる痛みや苦しみを現世で経験するからだと。確かに北欧神話のベルセルク(凶戦士)伝説とか、ダンテの神曲に影響されたミケランジェロ「最後の審判」、ロダン「地獄の門」など等、時代や地域を越え、実に多くの地獄が可視化されています。

 それらに比べると白隠さんの地獄絵はどことなくユーモラスです。松蔭寺のお隣り清梵寺が所有する『地獄極楽変相図』は、上からお釈迦様と両脇の普賢&文殊、真ん中に閻魔大王、その左側にはアーチ型の橋を渡るお金持ちそうな人々が描かれているのですが、この人々は、子ども→青年→壮年→老年と、一人の人間の一生を表現しているそう。閻魔様に一番近いところにいる老人、はたしてどんな地獄の沙汰が待っているのか。恵まれた生涯であっても功徳を積まなければ地獄に落ちるよ、というメッセージが込められているそうです。

 閻魔様の下には地獄で様々な拷問を受ける人々が描かれています。ラショー氏は「キリスト教のテーマは地獄から救われること、禅のテーマは自分の心から救われること。己の心の研究なんです」と説きます。

 

 芳澤先生は『南無地獄大菩薩』の意味を、「地獄と極楽の当体は同じもので表裏一体なものにほかならない」「地獄は単なる懲悪のシステムであるだけではなく、そのまま救済の方便にもなっていたのである」と説きます。白隠さんがその絵の中で、美と醜、地獄と極楽といった対極的なものを一体化させるのは、表裏一体という教えがベースにあるようです。

 そういえばレオナルド・ダビンチの名言に似たような言葉があったっけ。

 

 美しいものと醜いものは、ともにあると互いに引き立て合う。(レオナルド・ダビンチ)

 

 白隠さんは、引き立てあう“美醜”をさらに発展させ、“美醜は本来一体”と考えたのかな・・・。

 

 とにもかくにも、地獄の絵を見てそのような深遠なメッセージを理解できた人が、当時どれだけいたのでしょうか。白隠さんが生きた時代は、五百羅漢や七福神のような愛嬌のある、ゆるキャラみたいなアイコンがブームになっていたようです。また当時は中国からやってきた黄檗宗の僧たちが本場で流行していた“唐様”の書道を持ち込んで、知識層の間では王義之のような大家の書がもてはやされていた。白隠さんはそういう世の中のトレンドをある意味きちんと分析し、わかりやすさや親しみやすさを加味しつつも、画賛や絵の構図によって〈心を識る禅の教え〉を伝えようとした。

 その、白隠画の真意を読み取るリテラシー能力が当時の人々にあったのだとしたら、現代人よりもはるかに教養があったのではないかと想像します。我々は、芳澤先生のような翻訳家がいなかったら、白隠さんのことをただユニークで個性的な書画を描く和尚さん、としか判断できないけれど、考えてみると江戸時代の庶民の識字率は都市部に限れば80%近くあり、当時の国際社会では突出した数字。しかもラショー氏によると「江戸の中期、庶民の関心は地方や海外に向いていた」。富士講や伊勢参りがブームになったのもこの頃です。

 ダビンチの名言の中で一番好きなこの一説を想起しました。

 

 最も高貴な娯楽は、理解する喜びである。(レオナルド・ダビンチ)

 

 私は、白隠さんが戦国期や幕末のような革命ルネサンス時代ではなく、日本が比較的穏やかで、人々も文化活動を楽しむ余裕や外界への好奇心を持っていた一方、社会の隙間にさまざまなひずみが生じ、将来に対する漠然とした不安感や厭世観がただよっていた・・・そんな、今の平成ニッポンみたいな時代に生まれた人、というところに面白さを感じます。

 東海道という人・モノ・情報が行き交い、人々は目新しいものに飛びつきやすく、飽きっぽい、静岡人気質そのものという土地に生まれ、その土地で生涯を終えたというのも非常にユニークです。地政学から見て、駿河という土地が白隠さんの業績にどれほどの影響があったのか・・・今、自分が白隠さんを学ぶ根源的な意義がそこにあるような気がします。

 

 知るだけでは不十分である。活用しなければならない。意思だけでは不十分である。実行しなければならない。(レオナルド・ダビンチ) 

 


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