杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

ウズベキスタン視察記(その3)~タシケントの独立広場

2018-01-04 22:36:54 | 旅行記

 10月14日、タシケント2日目は日中は市内観光、夜は在ウズベキスタン日本大使館訪問&晩餐会というスケジュールでした。

 前回記事でご紹介したように、〈石の都〉という意味のタシケント。最初に足を踏み入れるシルクロードの都市だけに、石畳のそれっぽい伝統的な街並みをイメージしていたのですが、豈図はからんや、アスファルトの道路が広くまっすぐに整備され、シボレーが行き交い、街路樹が整然と立ち並んだ近代都市でした。私たちが泊まったホテルも日本の永田町みたいな首都中枢エリアにあったせいか、交差点の要所要所には警官が立ち、写真撮影を厳しく取り締まっていて、早朝から街路樹の落ち葉を清掃する市民を数多く見かけました。・・・そうか、旧ソ連の国だったんだなとカメラを引っ込めて目にしっかりとその光景を焼き付けました。

 タシケントは19世紀に帝政ロシアの支配下になってロシア人が大量入植した後、整然と区画整理が行われ、街を流れるアンホール運河を境にロシア人街とウズベク人街に分割統治されました。さらに第二次世界大戦後の1966年4月26日、タシケントを直下型大地震が襲い、街の建物の大半が崩壊すると、ソ連邦から投入された3万人の労働者がわずか数年で近代都市に造り替えたのです。この頃から急激に人口が増加し、タシケントは、ソ連邦の中ではモスクワ、キエフ、サントペテルブルグに次ぐ4番目の都市になりました。

 サマルカンド大学ジュリボイ・エルタザロフ氏の『ソビエト後の中央アジア』によると、ウズベキスタンは旧ソ連内では生活水準が最も低く、人口の45%は貧困レベル以下。持ち家を持つ人は44%、就学率は57%、人口の半分以上が幼児・児童・学生・年金受給者で、トータルでは人口の3分の2が国家の援助を必要としていたのです。社会主義体制の足枷をしっかり抱える国だったのですね。

 ペレストロイカと民主化運動によってソ連の弱体化が始まると、連邦崩壊を食い止めようとモスクワ指導部が主権国家連合として刷新を打ち出します。宇山智彦氏の『中央アジアの歴史と現在』によると、このとき中央アジア各国は連邦維持の下で権限拡大を考えていたそう。バルト三国やウクライナのような剥き出しの民族運動は起きなかったのです。しかし時代の流れは止められず、91年8月、ソ連保守派のクーデターが失敗してソ連解体が決定的となり、8月31日以降、各共和国が続々と独立を宣言。ウズベキスタンも9月1日に独立共和国となり、ウズベキスタン共産党第一書記だったイスラム・カリモフが大統領に就任しました。彼は旧ソ連の負の遺産ともいえる深刻な社会保障問題に直面します。

 

 タシケント市内観光の1カ所目は、その、独立建国の象徴となったムスタキリク(独立)広場。広々とした緑地公園になっていて、朝6時から市民が清掃活動をしていました。広場の一角には戦没者慰霊碑と母子像、そして戦没者・行方不明者の名前を記したおびただしい銅板の記録。ウズベキスタンは第二次世界大戦で100万人がソ連軍に徴兵されたのです。戦争慰霊碑は全国144カ所に置かれていますが、ここは首都だけあって戦没者・行方不明者の全名簿を記録。独立から7年後の1998年に設置されました。

 ソ連時代には造れるはずもなかったであろう、ウズベキスタン国民のための慰霊碑。これを設置したカリモフ大統領には、ソ連の社会主義体制に依存していた国民の意識を改革する意図もあったのでしょう。シンボルとなった像が、戦争や独立の英雄ではなく母の像だというところに、独立後の困難な道のりに臨むリーダーの思いと覚悟のほどが汲み取れます。

 

 今もウズベキスタンでは国家予算の多くを防衛費に充てていて、ロシアの影響下に置かれています。ウズベキスタン軍には4万6千人の兵士が所属しており、国民は18歳から27歳までの間に2年・1年半・1年と3種類の徴兵制が課せられていますが、軍隊から戻ってきて大学を受験するときは試験時にプラス20%の得点が与えられるとか。また1000ドルを払えば1か月で戻ってこられるという裏技も。ただし、運悪く戦争が勃発すれば真っ先に最前線に送られる、とガイドさんは苦笑いしながら教えてくれました。

 

 次いで訪ねたのは、16世紀のシャイバニ朝時代に建てられたバラク・ハン・メドレセ。イスラム教の神学校です。ソ連時代には中央アジアのイスラム本庁が置かれていましたが今では土産物店(苦笑)。向かいにはタシケントの金曜モスクといわれるハズラティ・イマーム・モスク。隣接するコーラン博物館には、7世紀、鹿皮に書かれた世界最古のコーランが展示されています。預言者ムハンマドや玄奘三蔵が生きていた頃か・・・時空を一気に飛び越えた気分です。

 このメドレセやモスクは、私にとって最初にふれるイスラム建造物ですから、アーチやミナレット(尖塔)、アラビアのモザイク模様の幾何学的な美しさに歓声を上げ、すっかりおのぼり観光客になってしまいました。

 ご承知の通りイスラム教徒は一日5回=日の出(BOMDOD)・午後1時(PESHIN)・午後3時50分(ASR)・日没)(SHOM)・夜7時40分(MUFTON)、メッカに向かってお祈りします。5回という回数は義務ではないそうですが、金曜日の13時は必須。会社勤めの人も金曜日は12時から14時まで休憩時間になるそうです。

 

 昼食は初めてのウズベキスタン料理。牛や羊の肉食をイメージしていましたが、意外にもお野菜たっぷり。トマトはどのレストランでも必ず使われていて、お豆類も豊富。ダイエットしていた頃にカロリー制限レシピでよく使っていた食材が多く、ありがたかったです。でも油も結構使われていて、毎食では胃が疲れるかな。中央アジアの主食はナン。サマルカンド・ナンというパイのような厚みのあるナンがウズベキスタン風のようです。

 ホテルに戻って小休止した後、日本大使館を表敬訪問しました。ここで2016年8月から駐ウズベキスタン日本国特命全権大使を務める伊藤伸彰氏より、ウズベキスタンの国情についてレクチャーを受けました。続きはまた。


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