★Massy’s Opinion
*光陰矢の如し と言う諺があるが、全くいい話が無いのに、月日の過ぎるのは早い。
「決めたことは遣る」努力をしよう...と言うのが、僕の基本的な考え、と言っても最近都知事選が終わって、「これからこの混迷はどうなるんだろう?」と考えると「昔は何を考えて居たのかな?」と思う。書き溜めたブログを見てみると色んな事が思い出される。
*僕は、コンピュターとの関わりは結構古い。IBMが369-40と言うモデルで売り始めた頃からである。当時は、システム全体を大型機種でカバーしようと言う構想であった。当時のメーカーのラインはベルトコンベアーに乗って工程が進められる物で、「移動票」と言うのがボデイーに貼られていて、工程毎に票がちぎられて行くシステムだった。これを参考にメーカーからの出荷から、入庫、新車整備、引き当て、登録、納車、アフターサービスと言うディーラー業務の流れを「移動票」と言う一連のカードを作り360-40に載せたのである。勿論、その後、一連の改良は続けられたが、後にコンピュター部門を別会社にして、企業整理の中で最後の方まで残って居て、株式の売却に至った。リース部も別会社にして最後は住商リースが買い取った。
*こんな経験で会社退職後は、ブログを始めて、よく見てくれる人が多く、継続するようになった。そこで、娘、恵の応援も得て現在のパターンにしたのである。それから、熊本大学の外川先生を皮切りに大学の先生方との交流が始まり、京大の塩地教授研究会に外部研究員として参加させて頂いた。自販連の月刊誌には3年半「拠点別責任体制の実践的展開」と言う事で35回の連載をさせて頂いた。これらの仕事には、コンピュターに本当にお世話になって居る。
*ブログを始めて、本当にいろんな人、素晴らしい人々との交流が始まった。或る時、神戸、芦屋の上野さんと言う人が、「是非、僕に会いたい」とメールが入った。その人もブロッガーで素晴らしい文章を書く人だぅた。「何処で会うのかな?」「芦屋まで行かなくてはいけないのかな?芦屋は大学野球部の時の親友土河君の処へ行って以来だな...」とか、考えて居たら、上野さんは、「来週東京へ行きますから...」「さて、何処で会うのかな?」「六本木の国際文化会館で会いましょう...」中々、上等な場所である。「相当、ビッグな人だな...」と考えて居た。当日指定された時間に行くと他に3人の人が居た。その中に、「慶応読書会」でご一緒に成って、先生の講演の時、に「体育会の部員もゼミを取れるように夜のゼミもお願いしますよ」とお願いした、山口光恒教授がおられた。「あっ、先生今日は又、何で...」「此処に僕の事務所があるんですよ...」上野さんもここが「定宿」もう一人は上野さんの弟さん米国電通を退職とか、神宮球場のネット裏の常連で、読書会での顔見知り、もう一人は福井敏雄さんこの人が自動車業界では有名人。
成城-慶応工学部野球部-日産―トヨタ・ヨーロッパの副社長、JAFのラリー審判部長、非常に珍しい経歴の有名人。日産追浜工場のレイアウトを設計して、体を壊し、退職して療養後、トヨタに入ったと。追浜工場の塗装ブースのレイアウトをしたとか僕と話が合う。後で解った事だが、上野さん兄弟は、朝日新聞の元大株主上野家の次男、三男だった。上野さん兄弟と福井さんは目黒の軟式チームで強いチームがあったが、其処の主力。
上野さんは、クラシック、自分でコントラバスを引く。福井さんはジャズが好き。僕と同じくらいのフアン度。プレイ―ヤーも良く知って居る。古いジャズフアンなら垂涎のジャムセッション “於いてモガンボ”のCDを我が家に持って来て呉れた。この福井さんに「今日産で知って居る人いる?」と尋ねたら「田口君位かな...」と言う返事。「今、確か相模原のテクニカルセンター辺りに居るんじゃないの?」話題は、僕の持論「通行区分の世界統一」からスタート...知的レベル、問題意識、現役時代では、トヨタの人とは、こんな突っ込んだ話はした事が無いような中身に成った。特に福井さんはスエーデンで、通行区分の変更を体験して居たので、貴重な会合に成った。忘れられない想い出である。
*日産に古川幸さんと言う、最後は、日本プラストと言う会社に行って居た人がいる。昔、ブルーバードの担当部署に居て、組合時代はアンチ塩路だった凄く優秀な人が居た。僕は、凄く可愛がられた、定年後、洋画に没頭されて、展覧会に良く呼ばれて行った。年々絵が深みのある絵に成り感心したものである。横浜、馬車道で個展があった時、偶然前記の福井さんの友人田口さんに出会った。古川さんに紹介されて、「福井さんのお知り合いですか?」と尋ねたら、「どうして福井君を知って居るの?彼はトヨタに行って居る筈だけど...」そこで、福井さんとの出会いを話した。古川さんが「君は本当に顔が広いね...」「いや、本当に出会いに恵まれているんですよ...」古川さんはプラスト時代「ステアリングの原料に解体部品の流れを知りたいから中古車の解体屋を案内してくれ」と言われて随分その辺を歩いたものである。結局、昔のパチンコ台のチューリップが一番純度が高くて再利用できると言うらしかった。
*このブログ、会社を辞めた当時は、会社に居た連中が良く見て呉れた。もう、会社を辞めてから「25年経つ、」その連中も殆ど居なくなった。恵は、月1回のアップデートだが、題材柄、読んでくれる人は多い。大学の教授方もコロナ以降集まりが悪くなった様である。古い物を読んで見ると懐かしい。上野克二さんは素晴らしいブロッガーだった。亡くなったら直ぐ、「人生のエンドピン」と言うブログを冊子に纏めた物が送られて来た。さすが{PDCA}のシッカリした人だった。
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