はじめてコマの仕事をした
昭和50年 4月 トップホットの僕にコマのダンシングチームと全国のキャバレーを廻る仕事が入ってきた。
制作はコマの浦さん、構成演出は関学の先輩、岡村さん、振付は宝塚の喜多弘さん 演出部は竹田さん・・
ダンスのショウとヌードさん、それに歌い手南原美紗緒の一座の旅は京都ベラミ(まだ事件の前だ)三宮月世界(打ち合わせでわかったが バンドは殆んど関学軽音のバイトくずれ)赤坂月世界と廻ったとき突然コマから連絡が入る。
旅はもういいから打ち合わせに行ってくれ・・といわれて 田村高広邸というよりかっての阪妻の大豪邸を訪れる。
一緒にいったのが演出の山本紫朗先生、コマの松島さん(中日公演でご一緒だった)、
ずぶの素人が何の準備も無しで打ち合わせもあったものじゃないがコマの六月公演の打ち合わせだった。
田村三兄弟特別公演と銘打った阪妻のかっての愛人さん(大阪キタ新地の料亭の女将)がその間に出来た息子(役者)を売り出しにでっちあげた公演だとわかってきた・・
口上で3兄弟のほかもう一人の兄弟がいますと紹介をしたのは水上保弘という役者であった。
そのまま本公演にも舞台についたのが私のコマデビューだった。
次の月の北島公演にも続いてつく。のちにコマのドル箱公演になる。
北島もまだ一ヶ月公演は無理で短期公演であった。
前年新栄プロから独立したばっかりで 兄弟で固めた音楽事務所も素人集団といった感じだった。
今や大演出家の大野拓克常務も丸坊主姿で初い初いしかった。
ショウはコマの土井丈二先輩の演出で流しのコーナーが売りの普通のショウだった。
「流れ者」という芝居で安達靖人先輩が始めて北島の脚本を書いた。
僕の仕事はお客のリクエストを断ち切る時計係の役だった。
時間が来たら袖から紙を出してリクエスト終了を告げるというわけだ。
本人と客とも微妙な関係を保つという生の舞台の面白さを教えてくれる仕事だった。
大野拓克さんに気にいってもらって この公演だけはコマを辞めてからをも続き 後半は新コマ公演も担当、
平成6年卒業させていただくまで 20年間お世話になった。
コマの演出部の仕事は舞台そでに一人ないしは二人とチーフといわれるは監事室といわれる客席の一番後ろにある部屋で
すべてのキューを一手に握っていた。
いわばその公演の全て握っている立場で 早くその部屋に入りたかったが、意外に早くその仕事は回ってきた。
トップホットが潰れるという噂の中 コマの社員にならないかとの誘いは魅力的であった。
(そのころのコマは文藝部には松島 浦 安達、黒田、平井、岡村がいて
後の制作の竹田はまだ日大芸術学部出の新人だった。
総てを統括する立場で 宝塚出身の竹内伸光がいた
松島さんはショウ専門、浦さんは宝塚から
安達さんはオール読み物の脚本で入賞したばっかりであった
黒田さんは東宝の黒田プロデューサー(ひばりさん他)の弟さん
岡村は関学軽音あがり、ショウが得意だった。
新コマには芝居は谷口守男さんがいた、ショウは西山博之さん、土井丈二さんがいた)
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