まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

〈観〉 の育成

2009-12-23 17:04:35 | 教育のエチカ
何年か前に、「福島の教員スタンダード」 というものを
策定するプロジェクトに加わっていたことがあります。
福島大学と福島県の教育委員会とが協力して、
学校教員が備えるべき資質、能力を明らかにし、
大学での教員養成や、現場での現職研修て活用しよう、
ということで始められたプロジェクトでした。
こうしたものを考えていくにあたって、
アメリカで制定されている 「教員スタンダード」 も参考にさせてもらいました。

このアメリカの 「教員スタンダード」 は10個の項目から成るのですが、
それぞれがさらに3つの要素でできています。
その3つというのは、
knowledge
performance
disposition
の3つです。
よく調べてみると、この3つというのはなかなかよくできた構成です。
日本だったら、「知識」 と 「スキル」 と 「態度」 みたいに分けるかと思うのですが、
そうではなく、knowledge、performance、disposition に分けるというのは、
なかなかの慧眼です。
「知識」 と knowledge は同じなわけですが、
残りの2つが 「スキル」 ではなく performance、
「態度」 ではなく disposition というのが、
なるほどなあと考えさせられました。

今日はこのうちの disposition の話をしたいのですが、
これをどう訳すかで本当に悩みました。
辞書を引いてみると次のような訳語が出てきます。
1.(人の) 気質、性質、性分、性向、性癖、気だて
2.(なにかについての) 心の持ちよう、気分、(心の) 傾向、意向
気質や気だてや気分というのは、どうもスタンダードにはふさわしくありません。
けっきょく上述の 「態度」 みたいなものかなあという気もしてきますが、
個々の項目の disposition の内容を見ていくと、
どうも 「態度」 という日本語ではうまく表現しきれていないように思えます。
「(なにかについての) 心の持ちよう」 というのはけっこう近い気がするのですが、
しかし 「心の持ちよう」 ではスタンダードのなかに用いる訳語としては、
ちょっと冴えない感じです。
それをじゃあ別の日本語でどう表現したらいいのか、
みんなで相当話し合いましたが、なかなかいいアイディアが出ずにいました。

そんなある日、うちの大学の教育方法学の吉永紀子先生が、
「これって 〈観〉 のことじゃないですか
とひらめいてくれたのです。
最初そう言われたときは 「カン????」 ていう感じだったんですが、
説明を受けて 「ビンゴッ」 でした。
つまり disposition というのは根本的な心の構えのことで、
あるものをどのように捉えるか、その根源的なものの見方を意味しています。
だから教師にとっては、
子どもをどのような存在者として捉えるかという 「子ども 〈観〉」 や、
勉強をどのような活動として捉えるかという 「学習 〈観〉」、
学校をどのような場所として捉えるかという 「学校 〈観〉」、
それらすべてを踏まえて、教育をどのような営みとして捉えるかという 「教育〈観〉」 などが、
重要になってくるわけです。
disposition として論じられていたのはまさにそのような、
根本的なものの見方 = 〈観〉 だったのです。

教師のタマゴを育てていくにあたっては、
もちろん知識や技術も必要でしょうが、
それらの根本にある 〈観〉 というものをしっかり育成していく必要がある、
というのが、この disposition という概念に込められた意味だったのでしょう。
そしてこれは、教員養成ばかりでなく、
さまざまな専門家の育成にあたって留意すべきことだろうとも思います。
さらに素晴らしいことに、もしもそうだとすると、
私のような哲学・倫理学というわけのわからない学問をやっている人間も、
専門家の養成に一役買うことができるようになるのです。
例えば私は今看護学校では、
「死生観」、「医療観」、「患者観」、「病気観」、「人間観」 などを育てるつもりで、
授業を行っています。

私は、看護師国家試験に出てきそうなことを教えてあげることはできませんが、
しかし、現場に出た後に自分の仕事の根幹を支える 「ものの見方」 を作っていく、
そのお手伝いくらいはできるかもしれません。
教員をめざしている人にとっても同様です。
専門職業人を育てていくにあたってはそのような 〈観〉 の育成が必要である、
というのは私にとっても大事な気づきでした。
それまで漠然とやってきたことにはっきりとした意味が与えられ、
やるべきことがクリアになってきたのです。
その意味で、〈観〉 の育成というのは今の私の実践の核を成しているといえるでしょう。