まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

セックス・ルール (つづき)

2009-12-27 14:20:11 | 性愛の倫理学
ついでですので、田村さんの議論をもう少し引用しておきましょう。

「ここまで要求されるのかと 「引いて」 しまう男性が多いかもしれない。だが、女性はここまで要求してもよいのである。これらは、男性身体を持つ人にとっては当たり前に実現することだからである。
 これらの条件には、自己決定について、男女が対称的ではないという発想が含まれている。女性が自分に不利な自己決定をしている場合であっても、男性の配慮義務は解除されないということは、女性の自己決定能力を低く見ることでも、女性をパターナリズムで扱うことでもない。女性の自己決定を尊重しつつ、女性のハンデを埋め合わせること。それが、女性のセクシュアリティにおける主体性を尊重するということなのである。
 ここまで考えてきて、筆者は、性の二重基準 [男性には性的放縦を許容・推奨し、女性には貞淑を (受身であることを) 要求する考え方] を解除する観点をつかめたように思う。それは、「セクシュアリティの質 (QOS)」 である。セクシュアリティの質を諦めないことによって、女性は自らのセクシュアリティの主体となれる。
 女性側のハンデを埋め合わせるための義務を負うこと、とりわけ女性側のQOSを重視すること、これらは男性にとって、既得権を失う不愉快なことだろうか? そうではないと期待したい。なぜなら、これらは、男性のQOSをも高めることにつながるからである。セクシュアリティにおいて女性と対等で相互的な人間関係を持てるようになった男性は、「弱みを見せてはいけない」 「戦いに勝たなければならない」 という男らしさの鎧を脱ぎ、男らしさと暴力性の結び付きから自由になれるのではないだろうか。」
                       (日本倫理学会編 『倫理学年報』 第58集、31ページ)

たしかに男性の側も、さまざまな因襲や前提に縛られているように思います。
いまどき、田村さんが言うような、「弱みを見せてはいけない」、
「戦いに勝たなければならない」 と思っている男性はそれほどいないと思いますが、
ことセックスに関しては、「立たなければいけない」、「入れなければいけない」、
「射精しなければいけない」 等々の強迫観念は根強いものだと思います。
また、昨日の⑤とはちょっと違うのですが、
「女性をイカせなければいけない」 と思い込んで、
そのために闇雲に強い刺激を与えようとしてしまう勘違いもあるようです。
これらの妄念に打ち勝って、男女ともにQOSを高めていくべきである、
という田村さんの主張には、基本的に賛同の意を表しておきたいと思います。

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