まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

人殺しの外部関連問題 (その2)

2009-12-16 17:59:58 | 生老病死の倫理学
前回は人殺しの外部関連問題として、人間以外の生物殺しについて考えてきました。
その続きですが、まずは地球上の生物ばかりでなく、
地球外生物のことも考える必要があります。
宇宙からやってきた生物を殺すことは倫理学的に言ってどうなのでしょうか?

その場合、宇宙人と宇宙怪獣を分けて考える必要があるでしょう。
同じく地球外生命体といっても、宇宙人には理性があります。
理性がない場合は宇宙怪獣ということになります。
理性があるかないかは、どうやって地球にやってきたかで見分けます。
自分たちで作った空飛ぶ円盤や宇宙船でやってきた場合、
彼らには理性があると判断することができます。
その場合、彼らは言語を話す可能性があり、
言語を用いているのであれば、
通訳が可能となり意思疎通ができるようになる可能性もあります。
その場合は闇雲に殺すのではなく、
まずは意思疎通ができないかどうか試してみる必要があるでしょう。

バルタン星人E.T.とかは理性もあり言語ももつ宇宙人ですね。
『未知との遭遇』『インディペンデンス・デイ』 では、
はじめのうち、言語での意思疎通はできなかったものの、
音と光を用いてなんとか意思疎通を図ろうと試みていました。
宇宙人相手の場合、まずは意思疎通を図り、
相手が地球にやってきた理由や意図を知ろうとするというのが正しい応対なのです。
つまり、相手が宇宙人の場合は、人間に対するのと同様の対応が必要になるのです。
友好的な相手とは共存の道を模索しなければなりませんし、
有無を言わさず地球を奪取しようと目論んでいる相手などに対しては、
犯罪者に対するのと同様の対応が許されることになります。
『メン・イン・ブラック』 ではそのようにちゃんと区別して接しています。
地球外生物だからといって無闇に殺すことは許されないわけです。

それに対して、相手が宇宙怪獣だったらどうしたらいいのでしょうか。
宇宙怪獣というのは要するに地球外で生まれた動物のことです。
キングギドラのように、自分の翼で地球に飛来する場合もあるでしょうし、
エイリアンのように、人間が訪問した先の星に生息していて、そこで人間を襲ってくるとか、
人間が乗っていったロケットに勝手に入り込んできてしまって、
地球に持ち込まれてしまうという場合もあるでしょう。
宇宙怪獣が暴れ出したときには、これはもう交渉の余地はありませんので、
殺すしかありません。
むろん、殺さずに元の星に戻してあげて、2度と地球に戻ってこさせないという、
うまい手があるのであれば、それに越したことはありませんが、
なんにせよ相手は動物なので、自由意志による選択はできませんから、
人間の側が相手をどうするかを決めなければなりません。
これは地球上の動物を相手にするのと同様の手続きと言えるでしょう。
したがって、安全性と味さえ保障されれば、
殺して食べるという選択肢だってありえるわけです。

なんで宇宙人や宇宙怪獣のことでこんなに大まじめに語れるのかですって?
人間の理性というのは、現実には存在しないものや事柄に関しても、
想像力を働かせて考えることができるので、
どうせ考えるのならば、徹底的にすべてのケースを想定して考えておきたいわけです。
宇宙人や宇宙怪獣が本当にやってきてから議論したのでは手遅れでしょ。
というわけで、この話はまだ続きます
とりあえず今日はここまで。

パクリ?

2009-12-15 19:45:34 | お仕事のオキテ
このあいだの週末は花粉症で調子悪かったので、
ずっと家にこもって昔見た映画をもう一度見直していました。
(こないだの 『サイダーハウスルール』 もそうだけど、なんか最近、懐古趣味)
そこで今さらながらに気づいたことを。

ひとつは 『バックドラフト』 という映画を見ました。
消防士の活躍を描いた映画で、ウィリアム・ボールドウィン主演、
カート・ラッセルも準主演、ロバート・デニーロが共演、
大好きなスコット・グレンが脇を固めるという豪華なキャストです。
公開当時は火災の炎をみごとに映し出したということで評判になった映画です。
わざわざ映画館まで見に行ってけっこう気に入っていた映画でしたが、
久しぶりに見てみたらちょっと気になった点が…。

連続放火事件が発生して、
ウィリアム・ボールドウィンとロバート・デニーロがその捜査をしていくのですが、
なかなか犯人像がつかめず、捜査が難航しているところでどうしたか。
主人公が、監獄に収監されている連続放火魔のところに話を聞きに行ったのです。
この放火魔は火を愛していて、火災現場の情報から犯人像を割り出してしまいます。
しかし、彼はすぐには答えを教えてくれません。
彼は主人公に子どもの頃の記憶 (現場で亡くなった消防士だった父のこと) を話すよう要求し、
それと引き替えに犯人像を教えてあげるのです。
そうです。
これは 『羊たちの沈黙』 とまったく同じパターンではありませんか。
あれほどおどろおどろしくはないけれど、
2人の会話は、スターリング捜査官とレクター博士のやりとりを彷彿とさせるものでした。

どちらがパクったのでしょうか。
『バックドラフト』 は1991年の映画ということで、
私の印象では、『羊たちの沈黙』 のほうがもっと最近の映画だったような気がします。
ただし、『羊たちの沈黙』 の場合には原作があるので、
それが何年に書かれたのかも確かめなくてはなりません。
調べてみたところ、映画 『羊たちの沈黙』 は 『バックドラフト』 と同じ1991年公開、
小説 『羊たちの沈黙』 はそれに先立つ1988年の刊行でした。
どうやら 『バックドラフト』 のほうがパクったようです。
映画が同年に公開されたというのは奇遇でしたね。
『踊る大捜査線THE MOVIE』 では狙った上でのパクリでしたが、
(小泉今日子がレクター博士役)
『バックドラフト』 のパクリ方はそれよりはいやらしいと言えるかもしれません。

もう1本。
『デーブ』 という映画も見ました。
大統領のそっくりさんが影武者のバイトをしていたら、
本物が意識不明の重体に陥ってしまい (まだ死んでないけどいわゆる腹上死)、
憲政の危機を心配した側近たちに頼まれて、
そのまま大統領のフリを続けることになるという映画です。
ケヴィン・クラインが大統領と2役、
大統領夫人がシガニー・ウィーバー (まだ若い!)、
副大統領がベン・キングズレー (ガンジーを演じた人)、
大統領警護官にヴィング・レイムズ (『M.I.』シリーズでトム・クルーズの仲間の黒人)と、
キャストも豪華な私好みのコメディです。

(ここから先はネタバレ気味なのでお気をつけください!)
これも1993年公開と、けっこう古い映画なので、
細かいストーリーなどはすっかり忘れていましたが、久しぶりに見直してみると、
随所で昨年の月9ドラマ 『CHANGE』 とダブってくるのです。
まずもって、政治の素人が傀儡として国家元首にさせられるのだけれど、
まわりの不安をよそに善政を行ってしまうという大枠の設定がかぶっています。
それを仕組んだフィクサーがワルであるというのもいっしょです。
自分がやったわけではない汚職で窮地に追い込まれるところも同じです。
国会演説中に倒れてしまうところ、
そして最後のまとめ方など、
「なんだ、リメイクだったの?」 と思ってしまうほどの重なり具合です。

ただし、影武者が大統領のフリをするというのと、
政治の素人が本当に政治家になり首相になったというのとでは、
やはり基本設定が大きく違っていますし、
2時間の映画と1クールのドラマとでは描き込める情報量が違いますので、
単純にパクったとは言い難いでしょう。
ストーリー展開として参考にしたとか、影響を受けたといったぐらいなのだろうと思います。
逆に言うと、名作というのはそれぐらい影響力をもつものなのでしょう。
他の作品に影響を与えることのできる作品、のちの人びとにパクられるような作品、
それこそがまさに 「古典=クラシック」 なのではないでしょうか。

冬のチキンレース

2009-12-14 18:12:01 | ドライブ人生論
「チキンレース」 とは、ウィキペディアによれば、
「度胸試しのためのゲームを指す言葉。
 チキンレースに負けた者は「チキン(臆病者)」と罵られることになる。」
ということだそうです。
『理由なき反抗』 でジェームズ・ディーンがやった、崖に向かってクルマを走らせて、
先にブレーキを踏んだりクルマから飛び降りてしまったほうの負けというゲームが有名です。

さて、福島では毎年、「冬のチキンレース」 という名のゲーム (命名は私) が、
全県民によって戦われています。
冬用のスタッドレスタイヤに履き替えずにどこまでがんばれるかを競うゲームです。
ルールとしては、
1.人よりも早くスタッドレスタイヤに履き替えてしまったら負け。
2.雪が降り出したのにまだ履き替えていなかったら負け。
の2つで、雪が降り始めるギリギリまで夏用タイヤでがんばれた人が勝ちとなります。
私はいつも、我慢しすぎて2で負けるというパターンが多かったです。

2の負け方は厄介で、崖に向って走るゲームなら死んでしまうわけですが、
この冬のチキンレースでも、雪が降ってしまうと、
その日、家に帰り着くまでの運転が命がけになりますし、
(雪がやんですっかりとけるまでクルマは捨て置くのが正解)
それからタイヤを履き替えに行くと、オートバックスなどは大混雑で、
何時間も待たなければならなくなり、
自分の判断ミスを思い知らされることになります。

というわけで、本来なら早めに替えるのが正しい行動なのですが、
近年の温暖化のせいなのか、せっかく履き替えてもまったく雪道を走る機会がなく、
アスファルトでどんどんスタッドレスが削れていってしまってるかと思うと、
どこまで頑張れるか、限界までチャレンジするぞという気になってしまうのです。
ただし今年は、私はいちはやく冬のチキンレース敗退を決めてしまいました。
11月に南会津の舘岩中学校に行く前に、あちらではもう初雪が降ったという情報を聞き、
恐れをなしてスタッドレスに履き替えてしまいました。
11月の初旬に履き替えちゃうなんて自分史上最高のチキンではないでしょうか。
けっきょく南会津では雨には降られたものの雪に遭遇することはなく、
その後もガリガリとアスファルトで削られていく毎日ですが、
しかし、とっても安心してクルマを利用することができます。
夜から天気が崩れて雪になるかもしれないという日でも、
遅くまで平気で残業していることができます。
ケチな心でビクビクしながらチキンレースを戦うのではなく、
早めの準備で、この心の平安を手に入れたほうがよっぽど精神的にいいでしょう。

おっと、今日も予報では雪になると言っていて、
たしかに怪しい雲行きになってきたではないですか。
でも安心して残業していこうっと

人殺しの外部関連問題 (その1)

2009-12-13 18:05:33 | 生老病死の倫理学
数年前まで、福島大学の共通教育 (いわゆる一般教育) の 「倫理学」 の講義では、
「人殺しの倫理学」 というタイトルで授業をしていました。
まあ、いまどきの学生さんの興味関心をひくために、
わざとそういう物騒なタイトルをつけているわけですが、
中絶や安楽死や脳死臓器移植などのテーマを扱うのに、
それらを個々別々のものとしてではなく相互に関連する問題として捉えてもらうためにも、
「人殺し」 という大きな枠組みで一度見てもらいたかったわけです。

この講義ではまず最初に学生たちに、
「人殺しはよいことですか悪いことですか?」 という問いを投げかけて、
自分の価値判断を下してもらいます。
みんなこの問いには、それぞれの根拠をもって答えていくのですが、
その次に、「ところで、そもそも人殺しって何ですか?」 と定義について聞いてみると、
各自がイメージしている 「人殺し」 はてんでバラバラであり、
しかも、ひとりひとりに、「じゃあ中絶は人殺しですか?」、
「脳死臓器移植は人殺しですか?」、「死刑はどうですか?」 と聞いていくと、
自分なりの定義もどんどん揺らいでいくのです。
そこで、「人殺しとは何か」 についてきちんと答えられないのに、
「人殺しがよいか悪いか」 について正しく答えることはできないはずなのに、
多くの人は定義をすっ飛ばして、価値判断を下しがちである、と説明していくと、
素直な学生たちは、なるほどと思ってくれるのです。

人殺しについて考えていくとき、人殺しにもいろいろあって、
それをもっと細かく分類していくという作業が必要です。
それとは別に、人殺しには含まれないけれども、
人殺しと関連しているような問題を整理しておくことも必要になります。
私はそれを 「人殺しの外部関連問題」 と呼んでいましたが、
これを列挙していくのって楽しい仕事でした。
話がどんどん脱線していき、どんどんSFじみていくのですが、
みんながだんだんキョトンとしていくのを見ているのが好きというか…。

「自殺」 なんかは境界線上の問題であり、
人殺しの中に含まれると考えるか、外部関連問題と位置づけるか、
これはそもそも人殺しをどう定義するかによって変わってくるでしょう。
「中絶」 もそれに類した問題ですね。

それに対して 「動物殺し」 は完全に外部関連問題であると言っていいでしょう。
これは人殺しとは完全に区別して論じられるべき問題ですが、
「人殺しは悪い」 という価値判断を下す際に、
「命はかけがえのないものだから」 ということを根拠に立論してしまうと、
じゃあ動物も殺してはいけないのかという話になってしまいます。
逆に言うと、人殺しは×で動物殺しは○という場合には、
命が大事だからというだけではすまない、区別の論理が必要になってきます。
また、最近の環境倫理学者の中には動物の中にも区別を持ち込もうとする人たちがいます。
牛や豚はいいけど、クジラやチンパンジーはいけないなどです。
区別するには区別するなりのロジックが必要になってきます。

「植物殺し」 はどうでしょうか。
「命はかけがえのないものだから」 ということを根拠に、
だから人間同様、動物も殺してはいけないと主張する人たちはいて、
そういう人はたいていベジタリアンだったりするのですが、
しかし、植物も生物であり生命をもっているということを忘れてはいけないでしょう。
なぜ動物の命は奪ってはいけなくて、植物の命は奪ってもいいのか、
区別の理由を考えておく必要が出てきます。

生命の中にはさらに細菌やウィルスなども含まれます。
「細菌殺し」、「ウィルス殺し」 についてもその是非を問うことは可能でしょう。
それもいけないと言ってしまうと、病気に対抗することができなくなってしまいますが、
「殺菌」 という言葉は、細菌を死滅させることも
「殺し」 の一種であることを端的に表明していると言えるでしょう。

以上、地球上の生命について考えてきました。
ここから先はSFまがいになっていくのですが、
なんかまだまだ終わりそうにないので、今日はひとまずここまでにしておきましょう。
続きはまた近いうちに。

サイダーハウス・ルール

2009-12-12 23:52:41 | 性愛の倫理学
録画してあった映画をまた見てしまいました。
10年前の映画 『サイダーハウス・ルール』 です。
スパイダーマンのトビー・マグワイアが主演、
イーオン・フラックスのシャーリーズ・セロンも美しい裸体を披露してくれる、
私のお気に入りの映画です。
お気に入りというのはヌードのことではなく、
この映画が倫理学的問題の宝庫だからです。

基本のテーマは中絶 (=堕胎) の是非です。
舞台は戦時中で、望まれない赤ちゃんの分娩や中絶を行っている孤児院です。
そこの院長は、望まぬ妊娠をしてしまった女性のために中絶や出産をしてあげています。
中絶した場合は焼却処分、
出産した場合は孤児院で引き取り、里親を探してあげ、
引き取り手のいない子どもはずっと育てていきます。
主人公はそこで育てられた孤児で、院長を手伝って出産や中絶の技術を身につけています。
しかし、彼自身は中絶には反対です。
自らの経験に照らして、焼却されてしまうよりも、
孤児としてでも育ててもらってよかったと考えているからです。
日本では現在再び 「赤ちゃんポスト」 が問題となっていますが、
そうした問題を考えるのにも参考になるでしょう。

中絶問題に関しては、この映画を見てよく考えてみてください。
この映画が扱っているのは、他にも近親相姦の問題、不倫の問題、
人種問題、教育問題、福祉問題など様々です。
それらすべての問題を貫いてつけられたタイトルが 「サイダーハウス・ルール」 なわけですが、
このタイトルには深い意味がこめられています。
主人公は物語の中盤、孤児院を飛び出して、友人のリンゴ園でリンゴ摘みの仕事をします。
それは普通、アフリカ系アメリカ人たちが季節労働で各地をめぐりながら行う仕事です。
摘んだリンゴはそのまま出荷したり、リンゴジュース (=シードル、=サイダー) にします。
彼らはリンゴ摘みを行う間、サイダーハウスという倉庫のような建物に寝泊まりします。
そこには、そこを利用する者のために利用規則が貼り出されていて、
それが 「サイダーハウス・ルール」 なのですが、
アフリカ系アメリカ人たちは字が読めないので、そこに何が書いてあるかわかりません。

ここには、ルールや倫理というものに対する根源的な皮肉がこめられています。
ルールや倫理を考え出すのは、実際の当事者ではない。
つまり、サイダーハウスを実際に利用するわけではない人間がルールを作り、
実際の利用者はそのルールを理解することはおろか、読むことすらできない。
映画の中ではこれ以上明言されるわけではありませんが、
おそらくタイトルにこめられた意味は、
中絶に関するルール (当時の堕胎法) などもけっきょく同じことで、
ルールというものは、当事者 (=女性) のことをまったく無視して勝手に作られており、
弱者の幸福や救済には役に立たない、ということだったのではないかと思います。
この映画のメッセージは 「どんな人生でも人の役に立て」 です。
ところがその裏には、ルールや倫理や法に対する深い懐疑が存していて、
そのあたりは倫理学者にとってはとても耳の痛いところです。
「サイダーハウス・ルールにすぎないじゃないか」
なんて言われないですむような倫理を構築していけるのか、
本当に人を助けてあげられる倫理とはどのようなものなのか、
倫理学者が試されているといっても過言ではないでしょう。

目からウロコがおちた話

2009-12-11 17:08:41 | グローバル・エシックス
世界って、私たちの考え方やものの見方をほんのちょっと変えるだけで、
ガラッと変わってしまうんじゃないかと思っています。
私はもう何年も大学で 「科学技術と環境の倫理学」 という講義を行っていますが、
そうやって環境倫理学を学生に語っている私が、
数年前にテレビを見ていて愕然としたことがあります。
それこそ目からウロコが落ちたとでも言うんでしょうか、
おお、そんな考え方があったんだぁ、と心が揺さぶられたのです。

内容はそんな大した話じゃありません。
ニュース番組か情報番組の中で、そこらへんの普通の人に、
「なにか環境にいいことやっていますか?」 と聞いていくコーナーでした。
その中で、スーパーで買い物をしている女性がインタビューを受けて、こう答えたのです。

「牛乳は、できるだけ古いのを買うようにしています。」
これには驚かされました

1リットルの牛乳パックって、ただでさえ飲みきれなかったりしがちですから、
できるだけ新しいやつ、賞味期限が先になってるやつを、
ショーケースの奥のほうから引っ張り出してきて買ったりしていたんです、私は。
その行動は、牛乳と私のお腹のためにベストな行動であって、
別の選択肢 (オルターナティブ) があるなんて微塵も思っていなかったんです、それまで。
しかし、たしかにみんながみんな私のような行動を取っていたら、
スーパーの売り場には古い牛乳が大量に残って廃棄されることになってしまいます。
その女性は、多くの人がそういう行動を取りがちなことを知っていて、
彼女のうちは大家族なので牛乳が消費しきれないという心配もないからでしょうが、
とにかくわざわざ古いのを選んで買っていたわけです。
彼女がそうすることによって廃棄牛乳が激減するということはないかもしれませんが、
世界中の人が彼女のような考え方をし、彼女のような行動を取るならば、
世界はガラッと変わっていくはずです。

カッコいい大人だなあと思いました。
それに比べて私は倫理学者のくせに、いつも牛乳売り場では、
這いつくばるようにして奥のほうの新しい牛乳を漁っていたなんて、
なんとカッコ悪いんでしょう
言われてみれば至極当然のように思えますが (ひょっとしてみんなもうやってました?)、
言われるまではそういう行動がありえるなんて思ってもみなかった、
そういう選択肢がこの世にはまだまだたくさんあるのではないでしょうか。
そういうオルターナティブを見つけて世界に広げていくだけで、
世界を変えることができる、そう私は信じています。

アレルギー反応

2009-12-10 16:48:33 | 人間文化論
昨日の午後くらいから、くしゃみ・鼻水・鼻づまりに悩まされています。
新型インフルエンザかと一瞬ビビりますが、
それらに加えて、目が痒くて痒くてしかたなく、涙が止まらない、
という症状も付いてきているので、
おそらくインフルエンザというよりはアレルギー反応なんでしょう。

こんな季節になんでとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、
花粉というのはスギ花粉だけではないので、
1年中なにかしらの花粉が飛んでいるそうで、
それぞれにアレルギー反応を起こす人がいるということのようです。
私も数年前からスギの花粉症が発症しているんですが、
まだ比較的軽症です。
むしろ昨日から今日にかけてのこの正体不明のアレルギー反応のほうがひどくて、
日常生活に支障を来すほどのつらさです。

とにかくモーレツに目が痒いです。
目玉を取り出してジャブジャブ洗いたいくらいです。
そして、涙がウルウルと出てきます。
それを拭ったりすると、よけいに目が痒くなるので悪循環です。
なので、今朝は涙を拭わずにダーダー泣きながら登校しました。
たぶん変な人だと思われていたことでしょう。
くしゃみ・鼻水・鼻づまりは目の症状に比べるとまだ軽症ですが、
しかし、時間を置いて波がやってきます。
波が来ると、くしゃみが止まらず、ずっと鼻をかみ続けていないといけません。
おっと、今はセキが出始めました。これは新しい展開です。

大学内だとどこにいても症状が出ます。
研究室の中にこもっていても関係ありません。
登下校のときに外を歩いていても発症します。
自宅に着いてもずっとです。
寝るときは目をつぶれるので目の痒みはおさまるのですが、
鼻水が出てくるので何度も夜中に起きなくてはなりません。

アレルギー反応というのは、人間の免疫系の正常な働きに由来するのだそうです。
つまり、免疫系は体内に入ってきた異物を排除するための大事な仕組みであり、
それによって人間は病気にかからずにすんだり、
かかってしまった病気を治癒することができるわけです。
ところが、この免疫系が、
人間にとって大して害になるわけでもない花粉などに対して過剰に反応して、
是が非でも体外に排出しようと、くしゃみや鼻水、涙などを出し続けてしまうのが、
アレルギー反応であり、花粉症なわけです。

そう考えると、アレルギーというのは人間の本能が壊れてしまった結果だとも言えるでしょう。
もちろん、この場合は生まれつき本能が壊れていたというよりも、
後天的に壊れてしまったわけですが、
本来、人間が自らを守るための身体の仕組みが壊れてしまって、
異常に働きすぎてしまって、人間の日常生活を脅かしているわけです。
ですから、昨日から今日にかけて私は、鼻をかんだり涙を拭いたりするたびに、
「ああ、人間は本能の壊れた動物だなあ」 と思い知らされているのです。
この症状は確かに辛いですが、自分の理論が証明されるのは悦ばしいことです
半分苦しみ、半分ほくそ笑みながら、体液を垂れ流し続ける今日この頃でした。

ゴルフの賞金王

2009-12-09 18:33:49 | 人間文化論
この数週間スポーツの世界では、ゴルフの賞金王の話題がよく流れていました。
女子では横峯さくらが逆転で賞金女王に輝いたとか、
男子では、石川遼が世界最年少の賞金王になったとか。
どちらも明るいニュースでとてもいいと思うんですが、
ひとつ気になることが。
賞金王ってエライんですか?
ていうか、シーズンの終わりになんで獲得賞金の多さ少なさでこんなに盛り上がれるんですか?

私はプロ野球ファンです (でした) が、
今年の最高年俸が誰だったのか、
あるいは、オールスターやシーズンや日本シリーズのMVP賞金とかを含めて、
獲得金額が一番多かったのが誰か知りません。
今も契約更改中ですが、誰が最高の年俸を獲得しようが知ったこっちゃありません。
それよりも重要なのは、シーズンでどこのチームが優勝したのか、
個々の選手がどんな成績を収めたのか (勝敗、防御率、打率、打点、本塁打、等々) です。
ゴルフの場合、なぜ純粋に成績で年間の1等賞を決められないんでしょう。

まあ、その答えはわかっていて、年間の出場試合が選手によってまちまちだからなんでしょう。
他のプロスポーツはだいたい年間の試合数が決められていて、
だからその中での通算成績を競うことができるわけです。
ゴルフはそこのところを統一できないので、
最多勝 (優勝回数) とか最小順位賞 (毎回の順位を全部足して一番少ない人の勝ち)
といった形で競うことができないのでしょう。
そうするとプロアマ戦とかちっちゃい大会ばかり出続けて、
優勝回数を水増しするなんて人も出てくるかもしれないし、
全英・全米マスターズとか海外の由緒ある大会に挑戦するよりも、
国内の試合でとりあえず勝ち星を稼ごうなんていうことになってしまうのかもしれません。

でも、なんかいい方法があるんじゃないかなあ?
試合によって賞金金額は異なっているんだから、
たまたま高額賞金のときに勝ったけどあとはボチボチでしたなんて人もいるかもしれないし、
海外でけっこういい成績収めたけど、
今年は円高のため日本円での賞金金額は目減りしたなんてこともあるだろうし、
賞金の多寡でその年の一番強い選手が決められるっていうのは、
どうも納得いかないんですよね。
試合前の報道もヘンでしたもん。
「○○選手が何位以上で、△△選手が何位以下なら、○○選手が賞金王に輝きますっ
なんてホントどうでもいいし
それでも、横峯さくらみたいに最後の試合で逆転優勝して、逆転で賞金王にも輝いたというのは、
まだすっきりしていて心から「おめでとう」と言えるけど、
男子のように賞金王争いが最終戦までもつれ込んだのはいいけど、
「最終戦、石川は19位、池田が23位で、石川遼が史上最年少の賞金王に輝きましたっ
なんて言われてもなあ。
「ていうか、その試合で優勝したのは誰よ?
 その人のことをもっとフィーチャーしてあげようよ
と言い返したくなってしまいます (優勝は丸山茂樹ですよ、知ってました?)。

金額の多さで競おうとすると、どうしても最後はショボイお話になりがちですよね。
(相手が予選落ちしてくれれば、何位以上に上がってこなければ、みたいな)
ゴルフも何とか工夫して、もっと本当の強さやうまさを測れる指標を作ればいいのに。
それと、年間最少スコア王とか、最多バーディ王とか、最少パット王みたいに、
細かい記録で競うことも可能なんではないでしょうか。
一番たくさん賞金をもらったのは誰かって、
なんかスポーツとしてあんまりカッコよくない気がするのでした。

スケベな桑田佳祐と Mr.Smith 問題

2009-12-08 12:45:59 | 性愛の倫理学
一昨日、Mr.Smith 問題をご報告いたしました。
今日もそれに関連する話題です。

むかし KUWATA BAND ってありましたね。
その2枚目のシングル曲は 「スキップ・ビート (SKIPPED BEAT)」 でした。
これがやっぱり Mr.Smith なのです。
いや、別に Mr.Smith という人名が出てくるわけではありませんが、
同じ過ちを犯しているのです。

歌詞カードには 「SKIPPED BEAT, SKIPPED BEAT」 と書かれています。
それを桑田佳祐氏は 「【スッ】ケベー 【スッ】ケベー」 と、
「ス」 にアクセントを置いて強く歌っていくのです。
おわかりのように 「SKIPPED」 は発音記号では [skipt] で、
1音節の単語であり、i という母音以外を強く発音することはできません。
桑田流に歌うとしてもせいぜい 「ス【ケッ】べー」 にしかならないはずです。
たぶん桑田好きの英米人たちは、カラオケで歌詞を見ながらこの曲を歌おうとして、
途方に暮れていたことでしょう。

ただし、これは桑田氏が英語の発音に弱いということではないと思われます。
ウィキペディアではこの曲に関して次のように説明されていました。

「タイトルの 『スキップ・ビート』 に深い意味はなく、ただスケベと語感が近かったからという当て字の英語である。ふと 『スケベ〜スケベ〜』 と繰り返すフレーズを思いつき、仮歌の段階でどうにか曲にしようと考えたが、他に語呂のいい英語がなかったために選ばれたのが 『スキップ・ビート』 であると桑田自身は語っている。」

「タイトルでもある 『スキップ・ビート』 という単語は後付けであるため、歌唱でははっきりと 『スケベ』 と言い切っている。」


つまり、「スケベ (=助平)」 ありきの英語タイトルだったのです。
ところが語呂のいい英単語がなく、やむなく 「SKIPPED BEAT」 に落ち着いたわけです。
実際、「【スッ】ケベー 【スッ】ケベー」 に合わせられるような英単語って、
いろいろと考えてみましたが、なかなか見当たりません。
su- のスペルの単語は 「ス」 ではなく、「サ」 と発音するほうが多いからです。
(suck,such など)
しかし、外語大卒の元英語講師としては負けを認めたくはありません (誰に?)。
そして、とうとうこんなタイトルを編み出してしまいました。

「SUIT KEBOB」

どうです。
これなら 「【スー】ケベッ」 と連呼できるはずです。
意味ですか?
ただの当て字なので、あまり英語の意味は詮索しないでほしいのですが、
「KEBOB」 は 「KEBAB」 とも綴るトルコの串焼き肉料理のことです。
「串」 を意味する 「シシ」 を付した 「シシカバブー」 なら聞いたことあるでしょう。
実は 「shish kebab」 もけっこう 「【スッ】ケベー」 に近いのですが、
やはりどうしても 「【シッ】ケベッ」 止まりなので、
「KEBOB」 に動詞の 「SUIT」 を組み合わせてみました。
「ケバブに適している」 「ケバブにお似合い」 という意味になります。
まあわけがわかりませんが、
最近では 「肉食系男子」 とか 「肉食系女子」 なんて言葉が流行っていますので、
「肉料理がふさわしい」 という英語タイトルは、
なんとなくこの曲のスケベさを体現していると言えるかもしれません。
肉を串で刺して燃やすというケバブのイメージもなかなか意味深だし…。
どうです、桑田さん?
「SUIT KEBOB」 っていうタイトル、買い取ってくれませんか?

人間発達分類学?

2009-12-07 12:03:21 | お仕事のオキテ
事務の方から、「こんなものが届いているんですが、
小野原先生はお心当たりありますか?」 と聞かれました。
それは一通の封書です。
表書きにうちの大学の住所が書いてあり、それにこう続いていました。

「福島大学人間発達分類学
    小野寺 雅夫 様」

こういうのが届くと事務としては困惑して、
誰に配達したらいいのか悩んでしまうと思いますが、
まあこれはどう考えても私宛てでしょう。
開封してみたところまちがいなく、非常勤先から私への通知でした。

それにしてもこれには笑ってしまいました。
小野原を小野寺にまちがえられるというのはよくあることです。
小野原というのは聞き慣れない苗字でしょうから、
自分が知っている小野寺に置き換えてしまうというのは、
いかにもありそうなことです。
まあ、事務文書で相手の名前をまちがえるというのは、
お仕事のオキテとしてあってはならないことですが、
しかし人間のやることですから、ミスはしかたありません。
問題は 「人間発達分類学」 のほうです。

これは学問名称なんでしょうか?
たぶん福島大学のことをよくご存知ない方は、
これが何のまちがいなのかおわかりにはならないでしょう。
うちの大学は5年前から学部ではなく、学群・学類という制度になっていまして、
私の所属先は元の 「教育学部」 が名称変更して、
「人間発達文化学類」 という長ったらしい名前になってしまっているんです。
その所属先名称を書こうとしたんでしょう。
それが 「人間発達分類学」 という斬新な学問名称になってしまったんですね。

こんなまちがいはめったに見られませんから、
いろんな人に自慢して見せてしまいました。
しかし、笑ってばかりはいられません。
「教育学部」 をまちがえる人はいないでしょうが、
こんな長ったらしい名前にしてしまったばっかりに、
事務のプロである大人の方がこんなわけのわからない勘違いをされてしまうのですから、
たぶん一般の高校生がこの学類名を覚えてくれるなんていうことは、
まずありえないでしょう。
名前も覚えていないような学部 (ではなく学類) を受験してくれる人がいるでしょうか?

改組の段階で、いろいろな案があった中で、
こういう名前にせざるをえないもろもろの事情があったので、
当時の歴史的状況のなかではしかたなかったとしか言いようがありませんが、
そうした状況も変わりつつある現在、
もう少しわかりやすい名称に変更するということはできないのでしょうか。
当時 「教育」 という言葉を使えない状況にあったので、
その言い換えとして 「人間発達」 という4文字熟語が選ばれたわけですが、
うちの学類は、学校ばかりでなく、企業や官公庁も含めて、
教育のエキスパートを育てていくことを一貫して追求しているのですから、
「教育文化学類」 とか 「文化教育学類」 など、
せめて6文字くらいに収めたいところです。

それともやっぱり 「学類」 というのがわかりにくいのでしょうか?
だから 「分類学」 になってしまうのでしょうか?
しかし、学群・学類制度を元の学部制度に戻すというのは、
ちょっと難しいだろうなあ。
こちらのほうが、ここには書けないような深い政治的判断の産物なので…。
うーん。だとするとやはり、今の名称をどんどん売り込んでいくしかないのか。
高校生の皆さーん、うちは 【人間発達】 【文化】 【学類】 でーす
幼小中高の教員免許が取れまーす
教員採用率はあいかわらず高いですが、
学校教員をめざしていない人もたくさん学んでいて、
企業に勤めたり、公務員になった卒業生もたくさんいまーす
このところ倍率が下がっているので今が狙い目でーす
さあ、ここにアクセスするのだっ

発音引っかけ問題

2009-12-06 23:32:49 | 人間文化論
福島大学に就職するまでは、長らく横浜の塾で講師をしておりました。
中学生相手に英語と数学を教えていました。
哲学とかを勉強している人は、高校生相手に小論文の指導とか、
あとは社会科 (高校なら公民科) の講師を務めるのが普通みたいですが、
私の場合、人に教えるなら英語か数学のほうがラクだなあと思って、
もっぱらそればかり教えていました。

さて、そんな塾講師をやっていた頃に私が考えた発音の引っかけ問題です。
次の英文を見せて音読してみて、と頼みます。


Mr.Smith read a book.


皆さんも口に出して読んでみてください。
さあ、みんな正しく発音できたでしょうか?






この問題、中学生相手というよりも、
塾で一緒に働いている英語の先生たち相手に作った問題です。
read に三単現の s (うう、懐かしい) がついていないので、
[ri:d] と読んだら間違いで、[red] と読まなければいけない (過去形)、
というのは中学校2年生でも半数くらいの子はわかります。
しかし、実はこの発音問題でチェックしているのはそこではありません。
注意を動詞の read に引きつけておいて、
別の単語の発音をチェックしようという底意地の悪い問題なのです
さて、皆さんはこの引っかけ問題に引っかからずにすんだでしょうか?
もう一度口に出して読んでみましょう!






たぶんわからない人は全然わからないだろうと思います。
塾の英語の先生たちもほとんどの人が間違えていましたし、
間違いを指摘されても意味がわからないという人がけっこう多かったです。
その意味で、これは日本人の英語に共通した根本的欠点ではないかと思っています。
この問題でチェックしていたのは、Mr.Smith の読み方です。
本来この人名は、1音節しかありませんので発音問題の対象にすらならないはずなのですが、
ほとんどの日本人はこれを、
「ミスター・【ス】ミス」 と 最初の 「ス」 にアクセントを置いて発音してしまいます。
そう発音した時点でこの語は [sumiΘ] と2音節の単語となってしまいます。
Sumith というスペルの語であればそう発音することも可能ですが、
Smith ですから母音は i しかありません。
したがって、この人名は 「ミスター・ス【ミ】ス」 と、
「ミ」 にアクセントを置く以外の読み方はありえないのです。
(というか1音節の単語なので本来アクセントという概念が成立しえない。)

しかし、私が習ってきた英語の先生たち (日本人) はみんな
「ミスター・【ス】ミス」 と発音していました。
けっこう流暢に英語を操る先生が Mr.Smith だけはなぜか日本流なのです。
これがカタカナ英語の落とし穴だと私は思っています。
日本語はすべての子音に母音がつき、全部が音節になってしまいますので、
「Smith」 は 「スミス」 となって、3音節の単語に変わってしまいます。
そうすると理論的には 「ス」「ミ」「ス」 のどこにでも
アクセントを置くことが可能になってしまうのです。
ちょっと英語を勉強した人なら、
少し長めの単語だったらアクセントはどこかを気にしてちゃんと調べるのですが、
この1音節の人名はなぜかみんな 「ミスター・【ス】ミス」 になってしまうのです。
まあ、私が英語を習ったり教えたりしていた20年ぐらい前の話ですので、
今はもう Mr.Sumith なんていなくなっているかもしれません。
小学校をはじめとしてネイティブ・スピーカーが各クラスに入ってくれているようなので、
みんな Mr.Smith になってくれているのでしょう。
だったらそれはけっこうなことです。
あとは私と同世代のロック少年少女の皆さん、
子どもたちの前で 「エアロ【ス】ミス」 なんて言わないように気をつけましょう。

ユニクロでお買い物

2009-12-05 18:50:55 | 幸せの倫理学
今日は久しぶりにユニクロに来ました。
ヒートテックのアンダーウェアがあったかくて着心地がいいという噂を聞いて、
冬に備えて寒さ対策の買い出しが第1の目的ですが、
このところ服を買うヒマもなく、一週間単位のローテーションが崩壊しかけていたので、
あわよくば新戦力の補強もしてやろうという野望も抱いての来店です。

駐車場にはわりとすんなり入れたので、かつてほどの勢いは衰えたのかと思いきや、
店内はいつも通り、というか今まで以上のお客さんでごった返しています。
ヒートテックはやはり大人気ですが、人混みをかき分け、
クルーネック、Vネック、タートルネック、タイツをゲットします。
新戦力に関しては買おうかどうしようか悩んだあげく、
最近ダメになったジャケットやパンツの代わりになるものを買うことにしました。
そうこうしているうちに、ユニクロにもかかわらずけっこうな額の大人買いになってしまいました。

レジで精算を終えたところ、クジを4枚渡されました。
クジは箱の中から引かせてもらえるわけでもなく、
お買い上げ5,000円につき1枚のクジを店員さんから直接渡され、
その場でめくると、そこに結果が書いてあるというシステムです。
なんだかワクワク感もドキドキ感もないクジだなあと思いながら、
事務的にめくっていくと、次々と 「残念」 の文字が現れます。
チッ、どうせオレには外れクジしか渡してくれなかったんだろうと、
ふて腐れながら最後の1枚をめくると、なんとそこには 「アタリ」 の文字がっ

「えっ? アタリなんてあるんだ」 という私の素直な感想にかぶせるように、
レジの店員さんが店中に響き渡るような大きな声で、
「ウワーッ、おめでとうございますっ」 と叫びます。
すると、別のレジで会計をしていた店員さんたちも次々と、
「おめでとうございますっ」 と叫んでいくのです。
「ブックオフかっ」 とツッコみたいところですが、
付近にいたたくさんのお客さんたちの注目を浴びてしまってそれどころではありません。
なんでもいいから早く賞品をもらって退散したいところです。
賞品は何だろうと思っていると、奥からエライ人が出てきて封筒を渡してくれました。
なんと中には一万円札が入っていました。

あとで知ったのですが、ファーストリテイリングは創業60周年だそうで、
(福島大学と同い年ですね)
その記念キャンペーンで、10万人に現金1万円が当たるというクジだったのでした。
なんだ10万人か、だったらアタリはバンバン出ているのでしょうか。
たまたま知り合いの福大生がこのユニクロでバイトしていて、
ばっちり一部始終を見られたらしく (うー、恥ずかしい)、
パンツの裾上げを待ってるあいだに声をかけられました。
彼女に聞いたところによると、1店舗につき1日に2~3名しか当たらないのだそうです。
それもけっこうな高確率ですが、しかし、これだけごった返している店の中で、
自分がその当たりクジを引けるというのは、とても有り難いことです。
なにかに祝福されているのでしょう。
こういうおめでたいお金は、なにかいいことに使いたいと思います。

とりあえずファーストリテイリングにお返しをしておきましょう。
みんな、今、ユニクロはキャンペーン中だよ。
本当に現金1万円が当たるよ。
運試しに5,000円以上の買い物をしよう
たとえ外れても、景気回復には役立つはずだっ
クリスマスだし、年末だし、財布のひもをゆるめてあったかいヒートテックを買って、
日本経済を救おうではありませんか。

女の常識・男の非常識(その2)・洗い場ルール

2009-12-04 12:15:13 | 性愛の倫理学
温泉とかスーパー銭湯 (福島で言うなら「極楽湯」とか) なんかに行きますね。
頭洗って、身体洗って、ゆったり湯船につかって、若干順番のちがいはあれ、
人間ならだれでもお風呂では同じように行動してると思うじゃないですか。
ところがこれが、男と女でやってることが全然ちがうんですねぇ。
そして、こういうことってなかなか互いの情報が伝わらないから、
たぶんこのちがいに気づいたのは日本で私が初めてではないでしょうか。
その私の世紀の大発見を発表いたします。
男性諸君、驚けっ!

温泉に行ったとき、女性は脱衣所で服を脱いでお風呂場に入っていって、
まず最初に何をするか?
イスと洗面器を取って洗い場に行き、
持参したシャンプーやら洗顔クリームやらの一式を空いてる洗い場に置きます。
これが第一の行動なのです。
イスと洗面器をもって洗い場に行く、というところがすでに男性と異なっていますね。
男湯の場合、よっぽど早い時間でもない限り、
イスと洗面器はすでに洗い場にひとつずつ配置されています。
これに関しては後述します。
問題は持参したグッズを洗い場に置く、という行為です。
これはたんに、最初のかかり湯をしたり、身体を洗うための準備行動ではありません。
この行為には別の意味がこめられているのです。
男性の皆さん、何だと思いますか?

これはマーキングなのです。
ここの洗い場は私のものよ、と占拠したことを表しているのです。
そこでかかり湯をするだけか、身体を洗っちゃうか個人差はあれ、
いずれにせよ女性たちは間もなくその場を離れて湯船につかりに行きますが、
その際、グッズはそこに置いたまま湯船に向かうのです。
その人がゆったりお湯につかっている間、
彼女が占拠した洗い場は彼女のものですから、
他の人が使用することは基本的に許されません。
すべての洗い場が使用中 or 占拠中だった場合、
他の人はどこかが空くのをじっと待っていなければならないのです。
占拠されているだけで使われていない洗い場があるにもかかわらずです。
どうです、男性の皆さん、驚いたでしょう

そして、湯船 (露天風呂とかサウナとかも) と洗い場を何度か往復して、
身体も髪も顔もすべてキレイにし、もうこれ以上、洗い場を使用しなくなったとき、
女性は洗面器とイスを所定の場所に戻し (だから最初の行動が必要になるわけです)、
自分のグッズをグッズ置き場 (男湯にもスチールラックとかがありますね) に移して、
占拠解除を世に知らしめるのです。
男性の場合は、洗い場というのは現に使用しているときだけ自分のもので、
グッズがある人は、洗い場を離れるときにはグッズ置き場に置いて、
(イスと洗面器はその場に置きっぱなし。次の方ご自由にお使いください。)
もう一度洗い場に戻るときには、またどこか新しい空いてる洗い場を探しますよね。
たくさんの人間で有限個の洗い場を利用することを考えると、
この男湯では当たり前のシステムはとても合理的で、
これ以外のシステムがありえるとは想像できなかったのですが、
お隣の女湯では全然別の文化が栄えていたのです。

もちろん女性たちのなかには、
女性が築き上げたこの文化、このシステムを無視するならず者もたまにいます。
マーキングしてあるグッズをどけて、
占拠されているはずの洗い場で身体や髪を洗い始めてしまうオバサンです。
たまたまこういう被害にあった女性から、
そのオバサンに対する恨みつらみを聞かされて、
最初私はなんの話かまったく理解できなかったのですが、
一生懸命聞き取り調査をしていく中で、
やっとこの女湯特有の洗い場ルールを発見することができました。
どうです。
こんなことでも男と女はこんなにちがっているのです。
相互理解のための努力がどれほど重要か、わかってもらえるのではないでしょうか。


P.S.
女性の皆さん、今回の私の世紀の大発見は、
複数の女性の証言に基づいて書きましたが、
まだまだサンプル数が足りないことは自覚しております。
私の理論を裏付けるものであれ反証するものであれ、
この件に関する情報をお待ちしております。

やっちまったなぁー

2009-12-03 18:13:07 | お仕事のオキテ
久々にやってしまいました。
会議のすっぽかしです。
今朝の9時半からちょっと大事な会議が入っていたんですが、
完全に忘れておりました。
昨日は23時まで働いていたし、
今日は2限、3限、4限と連続授業だし、
裁量労働制の私たちとしては、少しは身体を休めなければと、
今朝はギリギリまで寝て、9時37分発の電車で登校してきたのでした。
もうその時点でアウトです。
9時47分に金谷川駅に着き、10時ちょっと前に研究室に着き、
10時20分からの2限の授業の準備をしようとして椅子に座ったら、
たまたま留守電のランプが点滅しているのに気づきました。
それを聞くまで会議のことはまったくスッコーンと抜けてしまっていました。

私は 「アル中ハイマー」 と呼ばれているだけあって、
昔から会議すっぽかしはよくやっていました。
一番ひどかったのは、自分で招集した会議をすっぽかしてしまった事件です。
福大に来て2年目の学生生活委員だった頃、新入生合宿を担当することになり、
1年生全クラスの助言教官 (今でいうオリエンテーションクラスアドバイザー) と、
各クラスのオリター (新入生の面倒を見てあげる上級生) を私の名前で招集したんですが、
その会議のことを完全に忘れてしまって、そのときは今回よりもひどくて、
会議の開始時間というのに当の私が来ていないということで、
事務の人が自宅に電話をかけてきてくれて、
その電話で初めて目が覚めたという体たらくでした。
そのときはけっきょくまったく間に合わず、
他の委員の方が代わりに会議を仕切ってくださいました。

そのときにものすごく反省して、二度とこんなことはすまいと誓ったのですが、
それでも年に1、2回ポカをやらかしてしまいます。
最近は手帳できちんと管理するようになって、
だいぶポカの頻度が下がってきていたのですが、
ちょっと気を抜くとまたこれです。
今日なんてひどいもんです。
そもそも今日の9時半から会議が開かれることになったのは、
私の都合のつく時間がなくて、この日程にしてもらったのでした。
手帳にもそのときにしっかりと書き込んであります。
にもかかわらず、朝、家でケータイを手にしたとき 「12月3日」 というのを目にして、
あれ? 12月3日ってなんかあったような気がするなあ、
とまでは考えたのですが、頭の中で検索したあげく、
そうだ、今日は3コマ連続授業があったあと、夜は飲み会だ
という結論を出してしまって、手帳を確かめなかったのです。
研究室に着いたときに留守電のランプの点滅を見ても何も気づきませんでしたし、
その留守電が同じ会議に出席するはずのA先生からだとわかったときも、
「Aさん、こんな朝早くに珍しいなあ、何の用だろう?」 と思うだけで、
まだ何も気づかず、伝言を全部聞き終わってやっと事態を理解したのでした。
完全にボケ老人です。
「2限が始まる前にちょっとだけでもいいから来てください」
という悲壮なメッセージを聞いて、あわてて会議室に向かい、
関係者の皆さまに平謝りに謝ったのでした

会議の日程を組むということは、つまり、みんなで約束をしたということですから、
それをすっぽかすというのは倫理学的に悪い行為となります。
大人のマナーとしても、職業人の心得としても、
会議を忘れるなんて許しがたいことですし、
会議の時間に遅れるというだけでも糾弾されて然るべき行為だといえるでしょう。
まともな大人をめざしている皆さんは、
私のような残念なことになってしまわないよう、
自分なりの時間管理の方法を身につけておくようにしてください。
それでも人間ですから、時としてやらかしてしまうかもしれません。
そのときは誠心誠意謝る、これしかないでしょう。
関係者の皆さん、本当に申しわけありませんでしたっ

MFT(その5)・クリスマス

2009-12-02 17:20:49 | 幸せの倫理学
福島駅前もライトアップされました。
街はクリスマス気分が高まってきています。
クリスマス、大好きなんです。
クリスマスそのものというよりも、クリスマスに向けてだんだん盛り上がっていく感じかな。
そういうクリスマス気分が大好きで、
うちにはクリスマス・ソングのCDが5、6枚あります。
12月に入ると毎日聴いてる感じです。
階段箪笥のディスプレイもクリスマス仕様に変更です。
写真ではわかりづらいかもしれませんが、
クリスマス・プレートの間に、ツリーとキャンドルとサンタクロースが立っています。

なんでこんなにクリスマスが好きなんでしょうか。
私の誕生日が年末の28日なので、
子どもの頃はクリスマス・パーティと私のお誕生会が同時に開催され、
1年の中で最も大きな行事として盛り上がっていた、
という子どもの頃の楽しい思い出が影響しているのかもしれません。
私は3人兄弟の長男で、そのWパーティのときには、
妹や弟とは格段にちがう豪勢なプレゼントをもらっており、
やっぱ長男はトクだよなあとひとり悦に入っていたのですが、
長じてからよく考え直してみると、
妹や弟は自分の誕生日には誕生日プレゼント、
クリスマスにはクリスマス・プレゼントと年に2回もらっていたのですが、
私は誕生日プレゼントとクリスマス・プレゼントが兼用なので、
2人のクリスマス・プレゼントよりも豪華だったのだというカラクリに気づきました。
自分の頭の弱さに呆れましたが、
しかし子ども時代はそれでものすごくうれしかったのだから、
まあ、それはそれでよい思い出なのでしょう。

とにかくそういう幼少時の記憶もあって、クリスマスは私の大のお気に入りなのです。
クリスマスが近づいていくこの12月は、
もうホントに気分が浮かれて浮かれてしかたありません。
ライトアップ
クリスマス・ツリー
シャンパン
ケーキ
プレゼント
サンタクロース
ああ、どれも心躍る単語じゃないですか。
うーん、考えてるだけで幸せになってくる
年末までに片づけなきゃいけない仕事が山のようにあるけれど、
とりあえず幸せだあ
メリー・クリスマス