このシリーズ (その1、その2) もいよいよ最終話ですが、さらにわけわからなくなってきます。
ふつう 「殺し」 と言えば、命を奪うことですので、
地球上であれ地球外であれ、とにかく生き物 (生物) を殺すのが 「殺し」 でしょう。
では、ドラえもんはどうでしょうか?
ドラえもんは21世紀からやってきたネコ型ロボットです。
ロボットというのは要するにただの機械ですから、命をもっていません。
となると、ジャイアンが暴れてドラえもんを徹底的に破壊し尽くしたとして、
それはたんなる 「器物損壊」 なのでしょうか?
日本の現行法ではその通りですが、のび太君はきっとこう叫ぶでしょう。
「この人殺しぃ」
たぶんアムロ君はガンダムを壊されたとしても 「人殺し」 とは叫ばないでしょう。
兜甲児もマジンガーZが壊されて 「人殺し」 とは思わないでしょう。
ガンダムやマジンガーZとドラえもんの違いは何か?
それは操縦士がいるかいないかということです。
ドラえもんは自律型のロボットです。
ドラえもんの眼がカメラになっており、耳はないけどどこかにマイクが仕込まれていて、
それらを通して未来人がのび太の様子をモニタリングしていて、
のび太の要求に合わせて何かボタンを押し、
それによってドラえもんにポケットからタケコプターを取り出させるよう、
未来で誰かがドラえもんを操縦しているわけではありません。
ドラえもんの中に埋め込まれたコンピューター (集積回路) が、
のび太の動きや音声を捉えてその意味を分析し、
それに対してどのように反応したらいいかを判断して、
「はい、タケコプター」 という音声を発すると同時に、
ポケットの中からタケコプターを取りだし、のび太君に渡すという動作を行っているのでしょう。
もちろん、それでもコンピューターにすぎませんから、
もともとプログラミングされているとおりの反応の中から、
どれかを選んで動作しているだけかもしれませんが、
それにしてはドラえもんの応答はあまりにもその場にふさわしすぎますので、
自己学習機能も備えているものと思われます。
とはいえ、つきつめるところドラえもんはただのロボットであり、
コンピューターにすぎません。
つまり、ドラえもんは意識をもっているわけではなく、ただの機械なのです。
しかし、のび太君にとっては、
ドラえもんには意識はなくたんなる機械にすぎないとはとても信じられないでしょう。
自分の言葉には正しく答えを返してくれ、
自分の要求に対してはそれにふさわしい物をいつも提供してくれるのですから、
お父さんやお母さんと話しているのとなんら変わりはないはずです。
そのような機械をはたして機械だと思い込むことができるでしょうか。
むしろ逆に、哲学には昔から 「他我問題」 という難問があって、
自分に心 (意識) があるのは自明だけれど、
他人にも本当に心 (意識) があるかどうかを証明することができないのです。
つまり、お父さんやお母さんだってよくできたロボットかもしれないのです。
こちらの言動に正しく反応さえしてくれれば、
こちらは勝手に、相手には心 (意識) があると判断してしまうのですが、
しかし心 (意識) なんて手に取って見ることができませんから、
肝心なのはけっきょく、こちらの言動に合わせた相手の反応 (表情や言葉や行動) が
あるかないかだけだということになるのでしょう。
つまり、お父さんもお母さんもドラえもんも同じことになるのです。
さらにこの問題が難しくなるのは、
人間の脳もけっきょくのところ、
今あるコンピューターをちょっと複雑にしただけだということがわかりつつありますので、
この先、順調にコンピューターが進歩していった場合、
どこかの時点でそれが心 (意識) をもつようになることがありえる、ということです。
そういう世界を描いたのが、『ブレードランナー』 でした。
そこに登場するレイチェルは、外見も人間そっくりのロボットであるだけでなく、
心 (意識) も持ってしまっているのです。
『ターミネーター』 でもスカイネットというコンピューターが、
意識をもって自分で判断し始めてしまうという未来世界が描かれていました。
さて、そうなってしまった場合に、生命は持たないけど意識は持っているロボットに関して、
たんなる機械と同じ扱いですむのでしょうか。
命がないのだから、それを壊してもたんなる 「器物損壊」 にすぎないのか、
心 (意識) を持っていて、それを奪うわけですから、
それはやはり 「殺し」 に含まれることになるのか。
大事なのは命なのか、心なのか。
どうです。
もうわけがわからなくなってきたでしょう。
「非生物殺し」 というものが成立するのかどうか。
冬休みのあいだにアニメや映画を見ながら、よーく考えておいてください。
ふつう 「殺し」 と言えば、命を奪うことですので、
地球上であれ地球外であれ、とにかく生き物 (生物) を殺すのが 「殺し」 でしょう。
では、ドラえもんはどうでしょうか?
ドラえもんは21世紀からやってきたネコ型ロボットです。
ロボットというのは要するにただの機械ですから、命をもっていません。
となると、ジャイアンが暴れてドラえもんを徹底的に破壊し尽くしたとして、
それはたんなる 「器物損壊」 なのでしょうか?
日本の現行法ではその通りですが、のび太君はきっとこう叫ぶでしょう。
「この人殺しぃ」
たぶんアムロ君はガンダムを壊されたとしても 「人殺し」 とは叫ばないでしょう。
兜甲児もマジンガーZが壊されて 「人殺し」 とは思わないでしょう。
ガンダムやマジンガーZとドラえもんの違いは何か?
それは操縦士がいるかいないかということです。
ドラえもんは自律型のロボットです。
ドラえもんの眼がカメラになっており、耳はないけどどこかにマイクが仕込まれていて、
それらを通して未来人がのび太の様子をモニタリングしていて、
のび太の要求に合わせて何かボタンを押し、
それによってドラえもんにポケットからタケコプターを取り出させるよう、
未来で誰かがドラえもんを操縦しているわけではありません。
ドラえもんの中に埋め込まれたコンピューター (集積回路) が、
のび太の動きや音声を捉えてその意味を分析し、
それに対してどのように反応したらいいかを判断して、
「はい、タケコプター」 という音声を発すると同時に、
ポケットの中からタケコプターを取りだし、のび太君に渡すという動作を行っているのでしょう。
もちろん、それでもコンピューターにすぎませんから、
もともとプログラミングされているとおりの反応の中から、
どれかを選んで動作しているだけかもしれませんが、
それにしてはドラえもんの応答はあまりにもその場にふさわしすぎますので、
自己学習機能も備えているものと思われます。
とはいえ、つきつめるところドラえもんはただのロボットであり、
コンピューターにすぎません。
つまり、ドラえもんは意識をもっているわけではなく、ただの機械なのです。
しかし、のび太君にとっては、
ドラえもんには意識はなくたんなる機械にすぎないとはとても信じられないでしょう。
自分の言葉には正しく答えを返してくれ、
自分の要求に対してはそれにふさわしい物をいつも提供してくれるのですから、
お父さんやお母さんと話しているのとなんら変わりはないはずです。
そのような機械をはたして機械だと思い込むことができるでしょうか。
むしろ逆に、哲学には昔から 「他我問題」 という難問があって、
自分に心 (意識) があるのは自明だけれど、
他人にも本当に心 (意識) があるかどうかを証明することができないのです。
つまり、お父さんやお母さんだってよくできたロボットかもしれないのです。
こちらの言動に正しく反応さえしてくれれば、
こちらは勝手に、相手には心 (意識) があると判断してしまうのですが、
しかし心 (意識) なんて手に取って見ることができませんから、
肝心なのはけっきょく、こちらの言動に合わせた相手の反応 (表情や言葉や行動) が
あるかないかだけだということになるのでしょう。
つまり、お父さんもお母さんもドラえもんも同じことになるのです。
さらにこの問題が難しくなるのは、
人間の脳もけっきょくのところ、
今あるコンピューターをちょっと複雑にしただけだということがわかりつつありますので、
この先、順調にコンピューターが進歩していった場合、
どこかの時点でそれが心 (意識) をもつようになることがありえる、ということです。
そういう世界を描いたのが、『ブレードランナー』 でした。
そこに登場するレイチェルは、外見も人間そっくりのロボットであるだけでなく、
心 (意識) も持ってしまっているのです。
『ターミネーター』 でもスカイネットというコンピューターが、
意識をもって自分で判断し始めてしまうという未来世界が描かれていました。
さて、そうなってしまった場合に、生命は持たないけど意識は持っているロボットに関して、
たんなる機械と同じ扱いですむのでしょうか。
命がないのだから、それを壊してもたんなる 「器物損壊」 にすぎないのか、
心 (意識) を持っていて、それを奪うわけですから、
それはやはり 「殺し」 に含まれることになるのか。
大事なのは命なのか、心なのか。
どうです。
もうわけがわからなくなってきたでしょう。
「非生物殺し」 というものが成立するのかどうか。
冬休みのあいだにアニメや映画を見ながら、よーく考えておいてください。