インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

正気か、狂気か? ~買い物文化から、生命の文化へ~

2009-07-03 20:10:53 | 聖なる木を創る、地域通貨
 聖なる木について熟考するためには、酒を飲み、狂わなければならない(先週のパターンだ)

 この世の中は資本主義が完全に出来上がっています(聖なる木は生えません)

 冷静に考えて、実現は困難極まりない。このブログとて、タダだから読まれるのであり、仮に『聖なる木の世界』とか書いて自費出版しても、恐ろしい結果になるであろう。前もって、1000人とか必ず買われることが分かるなら、刷れるかもしれないが(これがドリームブッククラブの趣旨である)。

 果たしてどれだけの人間を獲ることができるか。人間の、生命の、内部に突き刺す本能(instinct)に訴えることが出来るか? どれだけの人を巻き込むことが出来るか?

 ストレス多きこの世界で、労働者は狂いたがっている。だから酒を飲み、踊る。それが生命の本質ではないか?

 酒や踊りは良くないという人もいるが、確かに精神をかき乱す面もある。しかし、それなら肉体を持って生まれてきたこと自体が、悪ではないのか?

 社会がここまで発展してきたのも欲望の結果で、それこそ『マネー神の崇拝』の結果である。古代部族の殺し合いのごとく、現代の市場競争システムで、企業は闘っている。血を流し闘うこと、死をもたらす闇の勢力が、人間を踊らせる(労働の隠喩)。

 本当に死を意識するのなら、これはもう狂うしかない。大地でるのである。生命の声に耳を傾けてみると、そこには次元の違う今が見えてくる。

 聖なる木の目的は、光を求めることであるが、光は暗黒の世界でこそ輝き、認識できるのである。火を囲んでってみれば、己の肉体を創り出した大霊と触れ合うことが出来る。

 マネー神の崇拝とは、生命が求める欲望の充足であり、生命力ある自分の崇拝である。聖なる木は、活力溢れる世界のことだ。

 人間の欲望に応えること、円天もこれで伸びた。しかし「円天」は残っても、「円」は消えてしまった。それは円天世界が円で仕入れるマーケットのみで、事業をやって外の世界に働きかけていなかったためだ。価値を生産していない。

 円天の世界にあるのは従来と同じ買い物文化であり、豊かな目的を送るというリアルな目的の価値(円天)である。それなら円を利用するままでいい。
 この聖なる木では、命の声を忠実に聞く。買い物文化ではなく、生命の文化を創るでのである。

 思い返してみれば、そもそもこのブログの読者傾向は、シャーマニズムであり、インディアンだけでなく、ニーチェ、サネヤ・ロウマン、シルバーバーチなどの霊的世界に近づくために、ハイアーセルフを見出すことであった。

 出口オニ三郎が目指した、霊的社会主義が実現できれば良いのだが、現実のこのグローバル経済の流れには逆らえないので、組合組織のような聖なる木を創ろうというのである。

 現代のパワーは買い手にあり、買い手の意識が全てを決定する。

 強欲な人間を買い手が排除するしかない。その買い手は閉鎖的経済団体を作り、生命の文化を築き上げるのだろう。すべては繋がっている。すべては文化である。シンボルが必要である。

 ダンスホールで組合員はるのである。価値を創るのである。

 安いからといって外国の商品を使い、勝者なき自由競争をバカみたいにやっているから、地方には何にもなくなり、ますます古臭い伝統にしがみつくことになるのである。流血する地方マネーを押しとどめねば、どうやって地方経済を守ることが出来るのだ?

 本来は生活必需品を扱う組合組織である農協(JA)がやるべきではないのか?

 種類が多すぎる。健康なものが一品あればそれでいい。買い物文化ではなく、生命の文化にエネルギーを。

 カネがあっても孤独で生命力がなく、幸せを感じない人も多いのだから。 

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