インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

皆、悪魔な側面を持っている。

2008-02-18 22:16:26 | 悪魔か、踊りか、占いか、禅か、無か
 『マネー神の崇拝』でseesaaにはDS(ドロップシッピング)機能が充実しているので、商品を並べて置いた。かなり高額な品が多かったので、「たっけー!インディオは悪魔みたいな奴だわい」と思ったかも知れぬ。まあ、シーサー側から仕入れた値段にちょこっとプラスしたらそうなっただけで、インディオの儲けは大してないと思う。どっちみちインディオの儲けがゼロ(すなわち仕入れ値で売る)としても、買い手はほとんどいないだろう。客は集まるのだから、何かしないと面白くない。一銭にもならない小説を書いて、自己満足だけでは勤まるものではない。まあ、読者側としても、毎回アクセスしていて、アルファポリスなんかのクリックすらケチっているのだから(面白くなかったのか?)、悪魔みたいなのはお互い様である。それにしても、DSは仕入れ値が高いような気がする(相場に詳しくない素人商売です)。

 天使みたいなキレイごとを書いても、それでは本当の支持は得られぬ。現実世界はストレスや苦しみの連続であるからだ。誰も死にたくないが、毎日どこかで誰かが死んでいる。死は避けられないが、死に方は選べるかもしれない。年をとり、自宅の布団や病院のベッドで死ぬのが楽かといえば、決してそうではあるまい。むしろ自殺をした方がましな場合もあるくらいだ。

 マヤではイシュタム (Ixtab) といって、自殺の女神が崇拝され、首つり自殺、戦士、生贄、出産時に死亡、神官といった死に方をした魂を、宇宙樹ヤシュチェの木陰にある楽園へといざなうと信仰されていた。死の神もいたが、最高峰に君臨するのは闇の神テスカトリポカであったから、あまり有名ではない。この神について書いた小説を、悪魔のような読者に捧げよう。「滅茶苦茶なこと書いてやがる」って、「個人の命は地球より重い」わけはないのだ。インディアンの精霊崇拝は甘くはない。「個人の命が、ウサギ一匹と同等なら、皮を剥ごうが、肉を食おうが、何をやっても許されるわけだ」。インディアンが無法者集団であるのは、ある意味で当たっているのだ(だからインディオも無法者なのだ)。肉体を持ったスピリチャルは血を見ることを必要とする。かくしてインディオは無法者の小説を連載することとしたのであった。→ 煙る鏡