インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

記号はどうなった? ▽○☆

2012-12-19 18:52:22 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  仕事から帰ってポストを開けると、尾道市水道局から「滞納お知らせ通知」が来ていた(緑色の紙)。給水停止になるようで、2ヶ月分(4400円)払わないといけないわけであるが、毎度のことだから別に違和感はない。

  家賃とガスは引き落としになっているが、電気と水道は振込なので、吾輩の場合、「送電のお断り」「断水のお知らせ」が来てから支払うというパターンになっている。そういう性格なのである。

  税金とてしかり。電気や水道はなければ困るが、税金は源泉徴収でないなら、どうしても、ズルズル…、差押になってしまうのかもしれない。まったく、これも2ヶ月で差し押さえてくれたら、滞納金利が4万円もなかったろうに、と思ったりする。

  払わないのが悪いのであるが、何年もダルマにさせるというのは、何か取りはぐれのない高利貸しをやっているような(太らせて食べるってか)

  さて、最近、▽とか○とか記号がとんと表現されなくなったが、実は水面下で勝手にどんどんやっている。高橋容疑者も愛読したカスタネダ本であるが、あれは呪術が学問のごとく発展し、得体の知れない概念が頻発するのである。

  たとえば、「第2の注意力」。もちろん、「第1の注意力」「第3の注意力」まであり、さらには「夢見の注意力」まである。さらに、「エネルギー体」とか、いろいろ出てくるわけで、頭の馬力(エンジン)がそれほど高くない?吾輩には理解が難しい。

  『カスタネダ解釈教室』とか発売されていれば買うのだろうが、

  そんな魔法大学校の受験テキストのようなものは売られているはずがない。

  そこで吾輩は勝手に「エネルギー体=★」として、5文字を1文字に圧縮したり、「第2の注意力;B」「夢見の注意力;b」とか、「集合点=☆」、「集合点の移動=☆S(siftの略)」、「集合点の固定=☆F(fixedの略)」とか理論を演算?しているわけである。


     (例)夢から目覚めてもう一つ別の夢に入った時、夢見の第二の門に辿り着く。

       G2in;☆Fr(=○)→ ☆S→ ☆F1(=★)→ ☆S→ ☆F2(=★)

 
   …と、まあ、こんな感じである(Gate2に入る;現実=集合点がリアルの位置に固定した状態…)

  どんどん追求していくと、★を鍛えるということは、Bやbを鮮明になるよう訓練することだから、B⊇b≒★ということであり、

  同じ概念を言葉を変えて表現しているだけなのではということか(本来表現できないものを無理やり、か)

  下手な小説を書くより、こっちのほうが採用率が高いかもしれんわい(マニア向けか)

  理論より、実践した結果を書くことのほうが重要ですね(何かしでかして容疑者にならないようにして下さい)

 

吾輩の夢見

2012-12-08 07:34:17 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  寒い。10.5度、かなり腰痛を感じる。

 さて、このブログはカスタネダの検索からやってきた方が多いので、本日もそれについて、昨夜の体験談でも書こうかと思う。

 古代メキシコの呪術とかあるが、一見過ぎるわけであるが、本来ナワールがいなければ体験できないような別の世界を夢見したことがある人は、もう確実な信奉者となるわけである。

 昨夜は昔懐かしの音楽やらカスタネダの『夢見の技法』などに接して一度寝て、再び起きて、また寝た時に生じた。あの頭がボーッとした時がいいのか。全身がピリピリし、寝ていた吾輩は、空中をムーンサルトして着地した。そこはやはり田舎の生家であった。

 やはりスタートラインはここかと思いながら、夜空をの星を見つめつつ、吾輩は寂しい道をとぼとぼ歩いた。途中、吾輩は体外離脱しているのだから自由にどこへでも行けるのではないか、と思って、移動を意図すると、一気に、光のように、大都会へ飛んだ。

 面白くないので、人が多いところがいいと思ったのだろうか。商品が沢山並んでいる薬局の様なところに入り、太った人とか色々眺めたり、実験してみた。

 そのうちエネルギーが衰えたのか、吾輩は現場から消えてしまった。半分意識が消えていた(眠っていた?)状態で、面白かったのでもう一度行きたいと思ったところ、全身が震え、再びムーンサルトした。

 二度目は、カスタネダの言葉が過ぎり、「凝集力・均一性」なるものを意識し、夢の画面を鮮明にしようと思ったせいか、一度目よりもリアルになった。が、冴えない現場で、暗い男たちが群がっていた牢屋のような場所だった。受付の事務の女性がマスクをして、薬を調合していたのを覚えている。面白くない、逃げ出したいと思ったのか、吾輩は夢から覚めた(しばらく動けなかった)。

 夢見の注意力をもっとまともなところに使うべきだったと思う。次は、夢の中で視点を保つのをもっと意識すべきか(自分の手を見るのは忘れていた)。

 それにしても、非常に面白いのであるが、こんなことをして本当に大丈夫なのかと思ったりする。『夢見の技法』には「呪術師の道にあるものはすべて生か死かという問題に直結しているが、夢見の道ではこれが百倍にも大きくなっているんだ」(p136)とあるように、非有機的存在という化け物の餌食になってしまう恐れがある。

 カスタネダの本がなければサメがそこらじゅうにいる海の中に裸で飛び込むようなもので(いや、そもそも夢見をしないか)、何をどうしたらよいかわからず、パニックになって自滅してしまうに違いない。いや、古代の呪術師のようにサメの腹の中で生きるか、逆にサメになるかして生きるのかもしれないが、吾輩もドン・ファンたちのように自由を求めたいものだ(現代の呪術師)。

 しかしながら、本を読んで、吾輩もカスタネダ同様、非常に古代の呪術師に近いような気がして、同じような罠にはまっていくような気もする。「弟子を非有機的存在への贈り物にするのは、古代の呪術師がよくやっていたことだ」とかあり、吾輩も何となく生贄にならなければならないような強迫観念に取りつかれることもあり(昔はそんな物語を書いていた…)、もっと自由を求めることを意識しなければならない。

 その現代の呪術師が求める自由は、たぶん『沈黙の力』に描写されてあり、無限なるものと、自分との輪を強くする(生き返らせる)という感じか。現在の生活環境ではなかなかそこまで気が回らないかもしれないが、とりあえず、これまで生きてきた39年間を事細かに「反復」してみようと思う。

 自尊心に使うエネルギーは減ったが、まだ執着心に使うエネルギーが残っていたり。この辺か。

 

夢見 ~宙に浮いたら~

2012-12-01 19:57:11 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  今朝、アパートのコタツに足を突っ込んで寝ていると、久々に神秘体験をした(幽体離脱か)。

  別にゲートウエイ・エクスペリエンスやらヘミシンク音楽を聴いていたわけではなく、ただ、カスタネダの『夢見の技法』を精読して寝た(第三章辺り)。

  うとうとしていると、コタツに突っ込んだ足を基点として、頭と背中が浮いた。「おお、やった!」と思いつつ、ウチワのように身体を立ったり寝たりしていたのを繰り返していた。足首辺りだけが離れなかった。

 天井が見えて、これは「体を抜け出したのではないか?」と思っていると、地に着いた足(足かせ)が取れ、自由になった。多分、寝ている自分を見ようと、「ひっくり返ろう」と意図したからだと思う。

 吾輩は実家付近の田舎を歩いていた。隣町も歩いた。途中、何故か田舎なのに栄えていて、飲食店とか多くて、駅もあり、戸惑った。

 幻惑された後、目が覚めた。

 枕元にあるカスタネダの本があり、やっぱし、これは凄いな、と改めて価値を認識した。

 この本がなければ、夢の中で慌てふためき、どんな境地に流されていたかわからない。田舎を歩いている時、竹やぶの闇を凝視した。

 恐怖を感じたが、闇の一点を見て、非有機的存在を想像したりした(途中でやめた)。

 毎日、夢ばかり見ているが、ここまでリアルに体が宙に浮く夢を見ると、古代メキシコの呪術師の世界を信じないわけには行かない。

 こうなるのに、別にゲートウエイ・エクスペリエンスは必要ない。カスタネダの夢見の教科書と、蓄積したエネルギーで十分か。

 そういえば、コタツが下半身を暖かくし、体外離脱を促進するのかもしれない(?)。

 古代の呪術師のように、夢見で破滅しないように、カスタネダの本を今から熟読しよう。

 ただこの本は読解ストレスが半端でないのだわい(物語風な?博士論文です)

 それで読んでいるうちに眠くなり、夢見をするのですね(ナワールとして、読者に仕掛けていたり)
 

目の輝き

2012-08-29 06:57:35 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  知覚の次元を変化させる(集合点の移動)にはどうしたらいいか? 『沈黙の力』によると、目の輝かせ方を変えることだ、という。

 確かにそういう傾向がある。冗談半分に目つきをしばらく変えてみると、「本当に吾輩は吾輩なのか?」という異質な精神状態を体験したりする。本書でも、カスタネダの師匠であるドン・ファンが、いつもはキラキラ輝いている呪術師の目をしているのだが、カスタネダをパニックに陥らせるため(集合点を移動させ、憐みのない場所に)、目の輝きを無くして老人に化けたりしている。

 沈黙の知、何もかもが直感的に分かっていた太古の人間は、目の輝きが現代人とは全く異質のものだったとする。

 集合点の位置(意識の次元)は、「沈黙の知」の地点にあるときは、キラキラ輝いており、その先駆けである「憐みのない場所」の地点あるときは、キラッと輝いている。

 そして現代人の集合点の位置は、「理性」の地点にあり、それは我々の目の輝きか。しかし、呪術師やら凄い人間の目をみると、ドキッとするには違いない。

 ナワールに出会って、その目を見た場合、集合点が移動するという。ナワールは、精霊であり、抽象であり、表現不可能なもの、測り知れない言語に絶する力、「意志」とじかに結びついているからだと。

 「呪術師によれば、意志は理性とではなく、目とともに体験される」「意志が目によって意図される」とか表現されている。

 まあ、目を見れば、相手がどんな人間かはなんとなくわかるものだ(ヒヨコの目です)

 だから自分の世界を変えようとするならば、目つきを変えなければならんということだわい(これが究極の自己啓発のアドバイスだったり)

 

人間の悲惨の元凶とは?

2012-07-31 07:02:38 | カスタネダ『呪術の実践』 !
呪術の本を読んだり、実践していると、不思議なことに気づいたり、体験したりして、「凄いことではないか?」と思ったりする。

  上には上がいるわけであり、実際には大したことがないのであるが、自分を大切だと思う心は、自分が価値ある存在であり、他の人とは違うのだ、という自我意識を助長したりする。

  まあ、自由とか、個性尊重とか、人権尊重とか、そんな教育を受けてきたわけで、自分にもキラリと光る良いところがあり、長所を伸ばし、誇りに持とう(?)と刷り込まされている。

  本を読んでテクニックを身につけ、錯覚に陥るプチ呪術師が増殖するのも仕方がないし、実際、自分だってそうかもしれない、

  はっきりいって、現代(日本?)は生ぬるいのである。理不尽な権力によって抑圧され、何もかもむしりとられ、「明日どうやって生活するの?」な状況に追い込まれるくらいでないと、呪術の力(=沈黙の力)はその姿を現さない。カスタネダ風に言えば、「集合点が移動しない」のである。

  『沈黙の力』によると(p192)、

 うぬぼれとは、人間の自己イメージによって生み出される力であり、その正体は、自己憐憫であるという。そしてこれを攻撃し、破壊するために、ありとあらゆることを行う、というのである。

 「自己憐憫こそが、人間の悲惨の元凶であり、真の敵なのさ。自分に対する憐みを持たなければ、人は今のようにうぬぼれてはいなかったはずだ。一度うぬぼれの力が働くようになると、それ自身の勢いが生まれてしまう。この一見独立したように見えるうぬぼれの性格が、それに何か価値があるかのような偽の感覚を作り出すのさ」


  うぬぼれを無くすためには、自分に対する同情を失うことが必要なのだわい(自己イメージも固定しません)

  自分に対する憐れみをなくすのですか(こんなヒヨコなブログで…)

カスタネダの翻訳について

2012-07-16 05:41:32 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  『未知の次元』(訳者;名谷一郎、監修;青木保)という絶版になった本(講談社学術文庫)をアマゾンで調達して読んでいると、「おやっ、どっかで見たことのあるような文章だ」が幾つか出てきている。それもそのはず、『時の輪』(訳者;北山耕平)と重なる部分があるからだ。

 後者は多分、カスタネダ・シリーズを読破した後、復習として読むのだろうが(マニア向けか?)、理解の仕方が違うので、心すべきことかもしれない。

 たとえば、『時の輪』p120では、

 戦士は自分がすでに死んだものと考えている。だから、彼にはなにひとつ失うものなどない。最悪のことは、すでに自分の身に起きたのだ。しかるゆえに頭は冴えわたり、心は落ち着いている。その行いや、あるいは言葉から判断するかぎり、彼がなにもかもを目撃しているのではないかと推測したりするような人間はまずいない。


 『未知の次元』p46では、

 (蛾のような化け物を見て)「戦士に説明できないものは、この世には存在しない。いいか、戦士は自分が死んだと考えているのだから、もはや失うものは何もないのだ。すでに最悪のことは起こってしまったのだ。だから、戦士は沈着、かつ冷静だ。その行為や言葉から判断して、戦士がすべてを目撃しているなどと思うものはいないだろう」

 …となっており、やはり文脈の中で理解する方が断然わかりやすい。大学の入試とかもそうだが、傍線部だけを訳すというのでは大抵意味が通じないわけで、かならずある程度のまとまりの文章を読んだ上で、翻訳(意訳?)するのが正しいのだろう。

 ということで、『時の輪』は万人のためにあるものではなく、カスタネダ(マニア)のためにあるものだといえよう(たぶん)。

 翻訳者も人間であるからして間違いがあり、真崎義博の『沈黙の力』でもp112の「呪術師には親指の法則がある…」というのは「rule of thumb」を直訳しているのだろうと推測し、慣用句で調べれば「経験則」があったりする。ただ『沈黙の力』は全体的には素晴らしい翻訳本であると思う。


 話変わって、尾道水道に化け物が現れた(あれは何だ?!)

 巨大アヒル、尾道に出現 広島の「海フェスタ」




何となく似ていますね(ヒヨコにすればよかったのに)

『パラダイス・リゲイン』~知識の声~

2012-07-08 17:53:20 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  知識を学び、物事を考えれば考えるほど、泥沼に陥っていくというのは、あり得ることである。

 アマゾンで『パラダイス・リゲイン』なるドン・ミゲル・ルイスの本を注文して読んでいるところである。

 『四つの約束』を読んだ後だから(カスタネダも関係ありそうだ)、実によく分かる。このブログでは『四つの約束』の序文の全文が丸ごとうつされているが、「三千年前、呪医になろうとしていたある男…」というのは、実はミゲル自身だったことが分かるのだわい(第四章、砂漠の一夜 無限なるものとの出会い、を読んで)

 やっぱし、文章というのは書き手の実体験を話した方が、読み手に衝撃を与えられるわけで、小説に限らず、会話でも一般論より、己の体験が強い。恋愛経験がなくては、恋愛小説が書けないように(?)、スピリチュアルな体験なくして、スピリチュアルな文は書けないだろう。

 このブログは、あくまで一個人が勝手に考えていることである。あまりにも似ていることを考えているな、と感じても、読み手は「自分のこととして受け取らない」ことが必要なわけである。

 究極的には(?)、ドン・ミゲル・ルイスが書いていることでさえ、疑わなければならないのかもしれない。たぶん、ミゲルも、カスタネダの書物を読んでいると思われるし、「熟考のポイント」なるものが各章末にあり、何かミイラ取りがミイラになっているような気がしないでもない(物書きという職業上仕方がないのか)。

 「幼い子供のころは完全だった」とはいえ、「では、そのまま森の中へ放置しておいたり、無口のばあや一人に育てられたりしたら、理想的な状態になるのだろうか」と疑問に思ったりする。

 一度積み木で自分の世界を作っておかないと、崩そうにも崩れない。最初からバラバラの積み木の状態で、バラバラのまま世界を認識していくのが呪術であるからして、説明しようにも説明のしようがないわけである。

 だから、「積み木をばらしたが、その後はどうするのか?」となる。論理的に積み上げて考えていくという科学的思考法からバイバイするわけであるから、「恐怖」に直面するに違いない。「本当にこれでいいのか?」という自信が持てなくなるだろう。

「直感で道に迷ったし、ロト6も外れたし…」と、目を閉じたまま歩くような状況である。

 内的な対話をなくせば、何も考える必要がなくなる(直感で物事が上手くいく)、というのは真理なのであろうが、本書では対比論法が展開され、「目を閉じたままの歩き方」までは言及されていない。

 著者も映画好きなようで、『ビューティフル・マインド』『エクソシスト』『ゴッドファーザー』などが、引っ張り出されているのだわい(何も信じるな、ですね)

 

頭の中の会話を止める方法

2012-06-30 06:06:04 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  アクセス解析で当ブログに来られた「検索キーワード」なるものを面白半分にクリックしたりしていると、偶然面白いブログを見つけたりする。

 ITスペシャリストが語る芸術 ~ソフトウェア開発技術者、神道家、タオイスト、神秘思想家Kayのブログ。当ブログは、ライブドアブログに移転いたしました。移転先は、http://www.kaynotes.com/です。

 …とあり、「頭の中の会話を止める」という記事を思わずプリントアウトした(「ドンミゲルルイス宗教」で逆検索)。

 「内的会話を止める」(=「内的沈黙」。カスタネダの世界の柱)のに、いろんな方法があるようだ。まあ、あまりにも他人とべらべら話さないことが大切なのかもしれないが、相手がこちらの状況を無視して話し続けてきたりすると、応答しなければならないし(「無視きゃ!」)、耳がついている以上、相手やテレビが話している内容が聞こえてくるのである(耳栓がない時は、「自分のこととして受け取らない」)。

 このブログも目がついている以上、読みたくもない?長文が続くことになるが、活字の場合は読み飛ばせるから対処しやすいかも。

 役に立つ内容があれば、そこの所だけメモするなり、プリントアウトするなりして、とって置けばよいのであり、全部読む必要はない。

 沢山食べても、消化不良で終わっている場合があり、読書も食事同様、十分に咀嚼することが重要だろう(その点、人生もすべてそうかもしれず、ただ長生きするだけでは、あまり意味がないのかもしれない)。

 「高藤聡一郎」なる人の本が、我が本棚にもあったので(マニアか!)、パラパラめくるに、「頭を白紙にするテクニック」のところで、

『秘術! 超能力気功法奥義』p144より

 ①気功法の初歩の人は、心の独り言をやめようと思ったら、絶えず呼吸に意識をかけ続ける訓練をする。気功法をやっている時だけでなく、何もしないでボーっとしている時も、心のおしゃべりが始まったらすぐ自分の呼吸に意識を向けるのだ。そしてどういう呼吸状態のとき、一番心のおしゃべりが起こらないか調べていく。

 ②気の感じがわかる人は、心のおしゃべりが始まったらすぐに目を閉じる。そして、閉じた瞼の裏を眺めていく。別に何も見えなくても構わないから、ただ見つめ続けるのだ。同時に、頭の皮膚とか肩の筋肉などに緊張がないかどうかを見ていく。
 ほとんどの人が気づいていないが、意識が浮かび上がる際には、どこかの筋肉に軽い緊張状態が生まれる。そこでそれが出現したら、すぐそこの緊張を取り去ってやるのだ。
 そのコツがわからない人は、何かが浮かぶたびに目をパチパチさせたり、動かせるなら頭の皮膚をピクピクさせてもいい。
 こうしたことをいつも意識させていると、頭は白紙の状態になりやすくなる。

 …とある。とりあえず呼吸に意識を向けることだわい(歯が痛くても、頭は白紙になるのか)

沈黙の知②

2012-06-28 05:56:09 | カスタネダ『呪術の実践』 !

  ドン・ミゲル・ルイスの『四つの約束』も、やはり人間の意識に寄生する存在について触れており、人生の問題とは、いかに自分の内面を食い荒らしていく虫を追っ払うか、ということにあるのだろう。

 とはいえ、こうやってカタカタ叩いている間、べらべら喋っている間にも、吾輩にとり憑いている虫は活躍し、いや、ほとんどそいつらが語っているのかもしれない。

 カスタネダとか(ニーチェとかも)、「戦士」という単語が飛び交っているが、それは「自分の内面と、意識に巣食う敵と、戦うこと」を意味するのであり、 「戦いが戦士にとっての自然な状態で、平和の方が例外なのだ」「だが戦士にとっての戦いは、個人や集団の愚行でも、悪意に満ちた暴力でもない。戦士の戦いとは、人間から力を奪い取ろうとする個々の自我意識との戦いなんだ」

 戦いに勝利できれば、「新しい感覚」を獲得することができ、それは「沈黙の知」であり、「アカシックレコードにアクセスできる」という褒美を手にすることのようだ。

 この「沈黙の知」のさきがけが、「憐みのない場所まで集合点を移動すること」であり、

 そのさわりのようなものは実生活で、吾輩も体験したことがある。なかなか到来しない瞬間であり、今如何になまくらな状態かよく分かっている。

 カルロス・カスタネダによると、その感覚は以下のような感じだ。 ドン・ファンが忍び寄りの術でカスタネダを揺さぶった(だました)エピソードより(具体的には、殺人未遂で捕まりメキシコの刑務所にぶち込まれるような状況にしたのである)。

『沈黙の力』p182

 「その瞬間だった。私は突然、抑えられない強烈な衝動にかられた。まるで体と頭が切り離されたみたいだった。私は包みを全部かかえて、車まで歩いて行った。そして不安や恐怖などはこれっぽっちも感じないままに、トランクを開けて包みを放り込み、それから運転席のドアを開けた。

 ドン・ファンは車の歩道側に立って、呆けたように私を眺めていた。私は彼に冷たい目を向けた。生まれてこの方、こんな感じを持ったことはなかった。それは憎悪でもなければ、怒りでもなかった。彼のことで頭を悩ませてすらいなかった。あきらめを感じたわけでも、我慢していたわけでもなかった。 まして、やさしさでもなかった。むしろそれは冷たい無関心、恐ろしいほどの憐みの欠如というべきものだった。その瞬間に、ドン・ファンや私自身の身に何が起こったとしても、気にかけなかったろう。

 ……私は何一つ、警官に向かって喋る必要もなかった。自分の中の何かのせいで、自分が厳しく、冷淡で、有能だと感じながら、黙っていた…


『沈黙の力』p188

「 沈黙の知は、誰もが持っている。それはすべてに対して完全な統御力を発揮し、あらゆる事柄に関する完全な知識を持つ。だが、それ自身は思考することができない。だから、知っていることを話すことはできんのだ。

 呪術師の信ずるところでは、人間は自分が理解しているということを知り、その理解の内容を意識したいと思うと、却ってそれを見失ってしまうんだ。言葉で説明することのできない沈黙の知――それがもちろん、意志であり、精霊であり、抽象なのさ。日常生活の中でのように、それを直接的に知ろうとするのは、誤りだ。その気持ちが強くなるほど、相手ははかなく消えてしまうんだ」

「ドン・ファン、もっと簡単に言うと、それはどういうことなんだろう?」

「人間は 理性の世界と引き換えに、沈黙の知を手放したということだ。理性の世界にしがみつこうとすればするほど、意志はつかみどころがなくなってしまう」

『四つの約束』③  ~死の天使に降伏する~

2012-06-18 06:58:15 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  『四つの約束』を読んだ。カスタネダと内容は重複しているが、こっちはドン・(ミゲル・ルイス)たるナワール自身が語っているからか、断然わかり易い。人間は飼い慣らされている。そして寄生体に「間違った言葉を、個人的に受け取り思い込みをして」流している血を吸われている。人間が感情的に苦しみ、煩悶すればするほど、寄生体は踊って喜ぶというわけである。

 長生きしたい、死ぬのが怖い、という感情も、それは人間に取り付いている寄生体が「お前が死んだら俺も死んでしまう、だから死んではいけない」と刷り込ませているのである。

 人間は心を寄生体に支配され、寄生体の心を自分の心だと勘違いして生きているわけで、死ぬまで寄生体から逃れることができないのだろう(カスタネダの捕食者の話と同じ)。

 「死の天使」は救いである。あと一週間しか生きられなかったと知ったら、ふつう、寄生体は最後に暴れだす。死そのものよりも、死の恐怖で、人間は麻痺してしまうのだろう。もう一方で、開き直ってしまえば、寄生体から自由になり、短期間ではあるが充実した生を過ごせることができるのである。

 そういえば、今朝天災が起こるような夢を見たし(2012年12月末か? 吾輩のツイッターに記載)、遅いか早いかの違いで、誰でも死ぬのである。

  『四つの約束』第六章 トルテックの自由の道~古い合意を破ること   

   死への入門:死の天使の抱擁 
 p95~99  より。


  死の天使は、私たちに、毎日を、人生最後の日として生きることを教える。私たちは、毎朝、こういって、その日を始めることができる。「さあ、目が覚めた。太陽が出ている。私は、太陽、全てのもの、全ての人に感謝を捧げよう。私は生きているからだ。もう一日、私は生きるからだ」。

 これが私の人生に対する見方である。そして、これが死の天使が私に教えてくれたことである。全てに対して開かれており、何も恐れることがないことを知ることである。もちろん、私は、愛する人に対して、愛を持って接する。なぜなら今日が、どのくらいその人たちを愛しているかをいえる最後の日だからである。私は、もう一度、あなたに会えるかどうかわからない。だから、喧嘩をしたくないのである。

 もし、私があなたと大げんかをして、あなたに対して持っている感情の毒を全てさらけ出し、そして、あなたが明日、死んだとしたらどうだろうか。さあ、たいへんだ。「裁判官」は、ひどい罪を宣言するだろう。私は、あなたの言った全てのことに対して、非常に罪の意識を感じるだろう。私は、どのくらい愛しているか、あなたに言わなかったことに対しても罪の意識を感じるかもしれない。私を幸福にする愛は、あなたと分かち合うことのできる愛である。なぜ、あなたを愛していることを否定する必要があるだろうか。あなたが私を愛しているかどうかは、問題ではない。私は、明日死ぬかもしれないし、あなたが明日死ぬかもしれない。私を幸福にするのは、今、あなたにどのくらい愛しているのかを告げることである。

 このようにして、人生を生きることができる。そうすることで、あなたは死への入門を準備する。死への入門で起こるのは、あなたの心の中にあった古い夢が、永遠に死ぬことである。あなたは寄生体の夢を持っている。しかし寄生体は、永遠に死ぬのである。

 死への入門で死ぬのは、この寄生体である。死への入門が困難なのは、「裁判官」や「犠牲者」が、全力で死に抵抗するからである。彼らは、死にたいと望んでいない。そして私たちは、死ぬのは自分だと思っており、死を恐れるのである。

 この地球の夢の中に生きていると、まるで自分たちが死ぬように感じる。しかし、死の入門に生き残った者は、もっとも素晴らしい贈り物を受け取る。それは「再生」である。再生を受け取る者は、死から身を起こし、息を吹き返し、再び、ありのままの自分になる。再生とは、子供のようになることである。しかし子供のように荒々しく、自由であるが、そこにはひとつの違いがある。違いは、私たちが無邪気さの代わりに知恵を持っていることである。私たちは飼い慣らしの絆を断ち切って、自由になり、心を癒すことができる。死の天使に降伏すれば、寄生体が死に、健康で、完全な理性を持って生き返ることがわかる。その時、私たちは、自由に自分の心を使い、自分の人生を生きることができるようになる。

 これが、トルテックの道において、死の天使が教えることである。死の天使は、私たちのところにやって来て、こういう。「ここにある全てのものは、私のものである。それは、おまえのものではない。おまえの家、おまえの連れ合い、おまえの子供、おまえの車、おまえの仕事、おまえの金、全ては私のものであり、いつでも望む時に、おまえから奪い取ることができる。しかし、今はおまえに使わせておいてやる」。

 もし、私たちがこの死の天使に降伏すれば、私たちは永遠に幸福である。なぜか。死の天使は、人生を続かせるために、過去を奪い取るからである。過ぎ去っていくあらゆる瞬間、死の天使は死んだものを受け取り、私たちは現在に生き続ける。寄生体は、私たちが過去を担い続け、生きることをとても重く感じることを望む。過去に生きようとすれば、現在を楽しむことは出来ない。未来を夢見る時、なぜ、過去の重荷を担い続けなければならないのだろうか。これが死の天使が私たちに教えることである。

『四つの約束』 序文  煙に覆われた鏡②

2012-06-14 07:42:57 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  不思議な夢を見て、本当に現実にいそうな有名スポーツ選手が悩んでいてカウンセラーをしていた。バレーのオリンピックに出るぐらいの実力で、企業チームに属していた(Vリーグ?)。評判を気にしすぎ、ストレスから成績が下がり、どうすればいいのか吾輩に相談してきた。吾輩は渡された日経新聞を読みながら(なぜかスポーツ紙ではない)、「こんなものを読むから、ストレスが溜まるだけで、自分が知らなければ、何事にも気をとめる必要はないのだ」とアドバイスした。夢のポイントは、(有名人になっても?)、「テレビも、新聞も、週刊誌も、インターネットもやらない方がいい。余計な神経、エネルギーを使うだけだ、時間も、カネも?なくなるだけだ…」だったような気がする。

 
 さて、昨日の続き。アクセスが多く、興味をもたれた方も多いようだ(別の記事か??)

  ついでだから序文を全部書こう。

  『四つの約束』序文 続き


  この短い間に男はすべてを理解した。胸は高鳴り、心は平安で満たされた。自分が発見したことを人々に一刻も早く伝えたいと思った。しかしこうしたことを説明する言葉がなかった。説明しようとしても、人々には理解することができなかった。みんなは彼が変わったことや、その目や声が、何かとても美しいものを放っていることがわかった。みんなは、男がもはや何事に対しても、批判を持たないことに気づいた。彼は、もはや誰にも似ていなかった。

 (誰も裁かず、すべてを許すとオーラが変わってくるということか)

  男は、どんな人のことも非常によく理解できたが、逆に誰も彼のことを理解することができなかった。人々は彼を、神の生まれ変わりであると信じた。これを聞くと、彼は笑ってこういうのだった。「確かにそのとおり。私は神である。しかし、あなたがたもまた神なのである。私たちは光のイメージなのである。私たちは、神なのだ」。しかし、それでも人々は彼の言うことを理解しなかった。

 (あらゆるものに神が宿るという、アニミズム、インディアンな思想であり、日本人の神道に通じるか)

  男は、自分が人々の鏡である、ということがわかった。その鏡の中に、男は自分の姿を見るのだ。「あらゆる人は、お互いの鏡である」。彼は、全ての人々の中に自分自身を見た。けれども誰も彼のことを自分たち自身である、と見ないのである。彼がわかったのは、誰もが夢を見ている、しかし夢を見ていると気づいていないということだ。自分たちが本当は何であるのか、知らないままに夢を見ているのだ。人々が彼を見ることができないのは、鏡の周りに霧や煙の壁を張りめぐらしているからだ。こうした霧の壁は、光のイメージの解釈から成り立っている。これが人間の「夢」なのである。

 (すべての原因は自分の意識のあり方にあるということか)

  彼は、やがて自分も学んだことをすべて忘れてしまうことがわかった。自分が見たヴィジョンを全て覚えておきたいと思い、自分を「煙に覆われた鏡」と呼ぶことにした。そうすれば物質はすべて鏡であり、その間にある煙が、本当の私たちを見ることを妨げていることを、いつも思い出すことができる。彼は言った。「私は、煙に覆われた鏡である。私は、あなた方の中に私自身を見る。しかし私たちはお互いの姿を見ることは出来ない。なぜなら煙が、私たちの間にあるからだ。その煙こそ『夢』であり、鏡はあなた、夢見る人である」

 (リアルな世界でさえ、肉体を持った夢に過ぎないということか)

  
  …かくして、『四つの約束』の序文をすべて写し終え、

 「第一章 飼い慣らしと地球の夢」はどうしようかと迷うのであった(やって良いのか)




『四つの約束』 序文  煙に覆われた鏡

2012-06-13 05:44:53 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  一昨日、『四つの約束』(ドン・ミゲル・ルイス)という本がアマゾンから届いたので、読んでいるところである。

  
四つの約束
ドン・ミゲル・ルイス
コスモスライブラリー


 110ページちょいで薄いが、どこかで読んでことがあるような内容が詰め込まれてあり(カスタネダだ)、しかもそれは物語口調ではなくて、難解な表現がすくないのでとても読みやすい。古代メキシコのシャーマンについて、ストレートに(素直に?)知りたい方はこちらを読むべきだろう。

 序文に「煙に覆われた鏡」とあるが(昔、小説のネタにしたことがあるぞ)、カスタネダが説明した言葉が、一言一言を解釈しようという意図なしに(素直に)語られている。そこには「古代メキシコのシャーマン」「呪術」「夢見」「第一の門」「光り輝く球体」「洞窟(地球の応援)」「エネルギー体」とか、ほとんどない(いや、カスタネダで頭を悩ませた後だからわかり易いだけなのかもしれない)。

  『四つの約束』 序文 煙に覆われた鏡より。

 三千年前、あなたや私と全く同じような一人の(呪医になろうとしていた)人間が山々に囲まれて住んでいた…。

 ある日、洞窟の中で眠っていた時、この男は自分自身の眠っている姿を夢の中で見た。彼は洞窟を抜け出して、新月の夜の中を歩き出した。空には雲がなく、無数の星がまたたいていた。その時、男の中で何かが起こり、その人生を永久に変えてしまった。自分の手を見、自分の体を感じ、自分自身の声がこういうのを聞いたのである。「私は光から作られている。私は星から作られている」。

  (夢の中で洞窟を抜け出したのか、目覚めてからなのか、不明ですが、「もう一人の自分」ということにしましょう)

 男は、もう一度、星を見た。その時に、星が光を作っているのではなく、光が星を作っているのだ、とわかった。「全ては光から作られている」と男はつぶやいた。ものの間の空間は、何もないのではない。存在するもの全ては、一つの生き物であり、光は生命の使者なのだ、とわかった。なぜなら光は生きていて、そこには全ての情報が含まれているからである。

  (光が物質を作っている、光が意識を作っている、ということ)

 自分が星から作られているとはいえ、自分自身は星ではないこともわかった。自分は、星の間のものだ、と彼は思った。そこで彼は、星をトナール、星の間の光をナワールと呼んだ。そして「生命」、または「意志」が、二つのものの間の空間を作り出していることがわかった。「生命」がなければ、トナールもナワールも存在できない。「生命」は、絶対で至高なるものの力であり、全てを創造する「創造者」なのだ。

  (深く読めば、かえって混乱してきます)

 男が発見したことは、こうである。存在するもの全ては、私たちが神と呼ぶ一つの生きた存在の顕現である。全ては神である。彼は、人間の知覚は、単に光を感受している光に過ぎない、という結論に達した。そして物質は鏡であること、全ては光を反射する鏡であり、その光によってイメージを創り出すことを見た。すなわち、この幻影の世界、「夢」は、ちょうど鏡を覆う煙のようなもので、私たちの本当の姿を映すのを妨げているのである。「本当の私たちは、純粋な愛であり、光なのだ」と彼は言った。

  (光は、意識のあり方なのですね)

 この認識が男の人生を変えてしまった。いったん、本当の自分が何であるかを知ると、彼は周りを見回して、そこで見たものに驚嘆した。彼はあらゆるものに自分を見た。あらゆる人間、樹木、水、雨、雲、大地の中に自分を見たのである。彼は、「生命」は、トナールとナワールの異なった組み合わせによって、生命そのものの何百万もの形を顕現しているとわかったのである…。

  (パソコンに打ち込んでいる吾輩は、パソコンのような人間なのですねそういう面があったり)

 こういう思想を土台として、四つの約束

 ①正しい言葉を使うこと
 ②何事も個人的に受け取らないこと
 ③思い込みをしないこと
 ④常にベストを尽くすこと

 …が語られているようで、また次回に、打ち込みます(あの小説は間違った言葉を使って書いたのか)
 

 

沈黙の知

2012-06-05 06:27:09 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  10代の後半だったろうか、すべての思考を言葉に変換して物事を考え始めた。

 言葉というものを絶対視し、「言葉を熟知し、言葉を的確に操る能力がある人」=「頭が良い」と考えている時期があった。

 今はそうではない。

 単に「言葉を巧みに操りながら自分は賢いのだと自負している」人としか感じられない。

 本当に賢い人間は、言葉を酷使して考えたり、長々と言葉で伝達しない(喋らない)と思う。

 このブログとてそうだが、長く書けば書くほど、閲覧者は同調するどころか、「おやっ?」と思い、離れていく。

 実生活でも、説得したり、助言をしたりしているつもりが、逆効果で、「本当にそうなのか?」と解釈されていく。

 
 カスタネダの『沈黙の力』の中で、「知と言語は独立している」という命題があるが、

 これもジャガーやらヒグマ等の賢い動物を想像すれば分かる。

 それら大きな動物(原住民から神と崇められている!)は「(物事を)理解してはいない」が、「(獲物がどう動くか)知っている」、という(よって、出くわした人間は逃れられないということか)。

 吾輩も、呪術を言葉で学ぼうとしている(ブログで説明しようとしている)が、これも実に怪しい(不可思議な実体験を書くしかないのか)。


 カスタネダ『沈黙の力』序文より

 「…時間が経てば、それで呪術が学べるというものではない。そうではなくて、今お前が学んでいるのはエネルギーを蓄えることだ。そのエネルギーのおかげで、今はまだお前が近づけずにいるエネルギー・フィールドの幾らかが、いつかは扱えるようになる。そして、それこそが呪術だ。通常の世界を知覚するためのものではないエネルギー・フィールドを使う能力だ。呪術とは、意識のあり様だ。呪術とは、通常の知覚では捕まえられない何かを知覚する能力なのだ。
 わしがこれまでお前に言ってきたことも見せてきたことも、全てはお前に、世界には目に見える以上のものがあるということを納得させるための仕掛けだったんだよ。誰かに呪術を教えてもらう必要などまったくない、学ぶことは本当は全くないんだからな。わしらに必要なのは、必要不可欠な力が自分たちの手の届く所にあることを納得させてくれる師だ。なんとおかしな逆説だろう! 知への道を歩く戦士は、誰しも自分は呪術を学んでいるというふうに考えがちだが、実際にしていることと言えば、自分の中にその力があり、それをものにできると自分自身に納得させることなのだからな」

 

 

目に見えぬ存在との戦いにおける策略 ~捕食者~

2012-05-29 06:09:46 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  昨日の『無限の本質』の続きであるが、なぜ人間がグダグダ考えたり、内省したり苦しんでいるかというと、目には見えない存在であるが(非有機的存在)、宇宙にはそれを餌として食べている化け物がいるからだという。

 それを捕食者、「飛ぶ者」(暗がりであちこち飛び回る)という。これは何も固定観念が植え付けられていなくて、純粋に物事を見ることができた幼児期に「見る」ことができたが、「あんまり恐ろしいもんだからそれらについて考えるのをやめてしまう」という。

 なるほど、吾輩も、小さい頃は暗がりが死ぬほど恐ろしくて、そこから立ち去ろうといつも走っていたものだ。

 古代メキシコの呪術師によると、幼児期というのは、エネルギーのまゆの上に光り輝くコーティング(オブラード?)がまるごと展開されていたわけであるが、幼児は成長するにつれていろいろ教育され、固定観念を植え付けられる。

 (コーティング=「意識の光る上着」がじりじり減っていく)

 幼児は子供になり、次第に「あれこれ考える心」が発生する。この「心」というのは、宇宙において確かに存在する、異なる種類の意識(捕食者)のエサであるといい、その捕食者の食物を生み出させるために、我々人間には、捕食者から心が与えられているというのだ。

 人間とは、捕食者の囚人である。捕食者は、人間の内省につけ込み、「意識の炎を作り出し、捕食者特有のやり方で、冷酷に食い尽くしていく」という。

 つまり、生き生きとした不思議な存在である人間は、ただの肉片に過ぎなくなり、さらに肉片である我々は、捕食者からナンセンスな問題を与えられ(思考し)、焼肉にされているのだ!(なんてことだ!)

 この状況から脱出するためには、我々は修練によって、捕食者の口に合わないような、「まずい肉片」になるしかない。

 その修練とは、「予期してもいない困難な事態に平然と立ち向かう能力」であり、

 捕食者によって引き起こされた内的対話(グダグダ考えること)を止め、内的沈黙で責め立てる。

 そもそも「自分の心」とは「捕食者の心」である。


 『無限の本質』p280より

 大昔の呪術師たちの並外れた策略は、「飛ぶ者の心」に修練の重荷を背負わせることだった。

 彼らは発見した―― 飛ぶ者の心を「内的沈黙」で責め立ててやると、「外来の装置」が逃げ去って、それにより、この策略にかかわっている者は誰でも、心は外部に起源をもつという確信が得られることをな。

ウォーボンネット→ イーグル→ 意識の暗い海

2012-05-23 05:49:12 | カスタネダ『呪術の実践』 !
 ピースフル・ヒッピーマーケットで検索ヒットされているようだ(昨日は10人ぐらい)。

 羽飾り(ウォーボンネット)が欲しいところだが、10万円もする(これで街中を歩いたら…)

 
 被って歩くのも命懸けの勇気(のそのそ母日記)がいりますね(クリックしてみてください→ ナバホ族ウォーボンネット)

 
 代官山恵比寿のインディアンジュエリー<LittleCloud☆リトルクラウド> オーナーisarockブログ

 インディアンの羽根飾り「WAR BONNET」 【ウォーボンネット】あります(笑) より

 それにしても、これで商売が成り立っているのだから、世の中は面白い(貴金属が主か)。

 インディアンジュエリー専門店【パインリッジ】
 ホピ・ズニなどのジュエリーリングやバングル約5000点以上の品揃え

 それにしても、羽飾りにはヘビーな意味があるようだ。平原インディアンの特色~羽根冠ウォーボンネット によると、命懸けの勇気が羽飾りの一枚を表しているわけであるが、現代では風変わりな趣向の、10万円で買った無駄遣いな人間にしか思われないか(?)。

 カラスやニワトリの羽ならともかく、イヌワシの羽など手に取ってみたことすらない。

 よく森林浴中に旋回している鳥を見かけるが、あれがトビか、ワシか、タカか区別すらつかない(多分、トビだと思うが)。

 「イーグル」なんて、古代メキシコの呪術師の得体の知れない世界を彷彿してしまう(▽△○…。最近、ご無沙汰である)。

  イーグルは、無限の宇宙エネルギーであり、意識の暗い海である、とする。

  最後に、人間の知覚自体が、宇宙からのサイバーになっているような世界観を紹介します(何を言っているのかわかりませんか)
  
   ※反復とは、言ってみれば「追体験」のことです。


  カルロス・カスタネダ、『無限の本質』より。

   ドン・ファンは次のように説明した。

   古代メキシコの呪術師たちは、宇宙全体が輝く繊維の形をしたエネルギー場で構成されているのを「見た」。

   どの方向を「見て」も、彼らには無数のエネルギー場が「見えた」。

   彼らはまた、それらのエネルギー場が輝く繊維の流れへとみずからの姿を変えるのを「見た」。

   その流れは宇宙における一定不変の力なのだ。

   そしてそれらのうち、「反復」に関する繊維の流れを呪術師たちは「意識の暗い海」と名付けた。

   またの名を「イーグル」ともいう。

   呪術師たちはさらに、宇宙のあらゆる生き物は、光を発する丸い点で「意識の暗い海」にくっついているのを発見した。

   この光を発する丸い点は、生物がエネルギーとして知覚されるときに、くっきりと姿を現す。

   古代メキシコの呪術師たちは、この光を発する丸い点を「集合点」と呼んだ。

   ドン・ファンによると、この点に、「意識の暗い海」の側面によって知覚が集められているのだという。

   ドン・ファンは、人間の「集合点」に、宇宙全体から無数のエネルギー場が輝く繊維となって集まり、貫通していると断言した。

   これらのエネルギー場は感覚データへと変換され、さらに感覚データが解釈されて、我々の知っている世界として知覚される。

   輝く繊維を、感覚データへと変えるのは、「意識の暗い海」である。

   呪術師たちはこの変質を「見て」、それを「意識の輝き」と呼んだ。

   集合点の周囲に、かさのように広がる光輝である。

   それからドン・ファンは、これから重要なことを話すからよく聞けよと、私の注意を促した。

   それは「反復」の及ぶ範囲を把握するのに肝要であると呪術師が考えているものなのだそうだ。

   彼は一語一語強調しながら以下の話をした。

   我々が有機体の「五感」と呼ぶものは意識の程度にほかならない。

   五感は意識の暗い海であるということを受け入れるなら、五感が解釈データを解釈したものもまた、意識の暗い海であると認めなければならない。

   我々が現にしているようなやり方で、周囲の世界に立ち向かうのは、人間誰もが備えている人類の解釈システムがもたらした結果なのだ。

   存在する有機体はみな、一つの解釈システムを備えていなければならない。

   そうして初めて有機体は環境の中で機能できるのである。