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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

いまだ健在!高石ともやフォークコンサート

2023-04-30 17:10:58 | ステージ & エンターテイメント

 御年81歳である。表情にやや老いを感じたものの、その声、そのギターテクニックには衰えを感じさせないステージだった。因縁浅からぬ高石ともや氏との思い出を交えながら昨日のコンサートをレポートしたい。

        

 昨日(4月29日)、ヘルシーウォーキングを終えた私は、帰宅して昼食を摂るも間もなく、市民交流プラザ・クリエイティブスタジオで午後1時から開演する「高石ともやコンサート」に足を運んだ。

 因縁浅からぬ、と表現はしたが私と高石の最初の出会いは、私が大学2年生の時に彼がギター一本で広い体育館のステージでワンマンライブを行ったのを聴いたのが初めてだった。その時私が20歳だから、彼は25歳、デビュー間もない時期だったと思われる。途中休憩も取らずに2時間歌い切ったことを鮮明に記憶している。

 そして私は道東地方(網走管内、現在はオホーツク管内と称している)の一教師として勤務していた。当時の網走管内には高石ともやファンが多数いたようだ。津別町、置戸町、生田原町…。高石ともやは彼たちの要望を受け、網走管内にしばしば訪れていた。私はその度に駆け付け、彼の歌に耳を傾け、いわゆる彼が歌う元祖フォークソングの魅力を感じていた。そして「いつかは私も彼のステージを…」との夢を育んでいた。

 やがて夢は、私が社会教育主事という職務で東藻琴村(現在は大空町)教員委員会に派遣されたときに実現することになった。村の青年たちと交友を続けていた私は、彼たちに私の夢を語った。すると青年たちは高石ともやの存在を誰一人知らなかったが「やりましょう!」と賛成してくれたのだ。彼らの応援を受け、人口2,900人の村で600人を「高石ともやとナターシャセブンコンサート」(コンサートのテーマ「光と風とナターシャと」)に集めることができ大成功を収めた。(1982年)

 コンサートは私の仕事として取り組んだのではなく、あくまで余暇を利用しての活動だったが、翌年には私自身の仕事(社会教育主事)の一環として高石ともやを村民大学の講師として招請し、「自然と歌と子育てと」というテーマで村民にお話してもらったのも懐かしい思い出である。(1983年)

 そして私は再び教師に戻り、網走市の能取小学校という学校に勤務していた。その時高石ともやはサロマ湖100キロマラソンに参加し、その足で札幌まで走り通すという「ワイルドラン」に取り組むことを知った。能取小学校はそのコースの途上にあったので、私は子どもたちに彼の持ち歌「私の子どもたちへ」(高木透 作詞・作曲)を教えて、彼が通る時にその歌を全校合唱して彼の挑戦を声援したのだった。彼の動静を伝える民放の番組がテーマソングのように子どもたちの歌声を流してくれたのも懐かしい思い出である。(1994年)

 おーっと思い出話ばかりが長くなってしまった。昨日のコンサートである。彼は生ギター一本を手にステージに登場し、15分間の途中休みを挟んで2時間半にわたってのワンマンライブを繰り広げた。その間もちろん立ちっぱなし、ノー原稿、ノー楽譜で観衆を魅了し続けた。声の張りも、ギターテクも衰えは感じさせなかった。彼の故郷・雨竜町での祖父や父との交流のこと、田舎暮らしのこと、そこに彼の持ち歌を交えながら…。もちろん私にとっての思い出の歌である「私の子どもたちへ」も歌われた。童謡の「さっちゃん」はなぜかフルコーラスで3度も繰り返したその意味は今一つ掴めなかったが…。

 ジョンレノンの「イマジン」、笠木透作詞・作曲の「我が大地の歌」「拝啓大統領殿」「陽のあたる道」「陽気に行こう」「谷間の虹」…。メモし切れないほど多くの懐かしい歌を次から次へと披露してくれた。もちろん曲の合間には高石節をふんだんに織り込みながら…。

 まだまだ元気な高石ともやの歌を聴くことができたことは大きな喜びだった。しかし、何百回となくフルマラソンを走り切った高石の強靭な身体だが、ステージから降壇する際の足元がやや不安定に見えたのが気がかりだった。やはり膝・腰には長年の無理が影響しているのだろうか?

 一抹の不安も感じたが、できればまた彼の歌を聴く機会が訪れてくれることを願いつつ今回のレポを閉じることにします。



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