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道南旅物語⑤ 北海道遺産「五稜郭と箱館戦争の遺構」

2022-08-10 15:01:25 | 北海道遺産関連

 「五稜郭」は江戸幕府が幕府直轄の機関として築いた「箱館奉行所」を守るために築いたものであるが、榎本武揚率いる旧幕府軍がその拠点として「五稜郭」に本陣を置き、新政府軍に対抗した「箱館戦争」を起こし、激戦の末「五稜郭」を明け渡すことになった史実が「五稜郭」の名を一段と高めることになったといって良いだろう。

                                          

 8月3日、私は「函館山と砲台跡」、「函館西部地区の街並み」を巡り終えた後、電車で市内を横断し、五稜郭地区へ移動した。そして「五稜郭と箱館戦争の遺構」の関係個所を巡り歩いた。

 その際頼りにしたのが「函館まちあるきマップ」の№15の「真説・五稜郭物語 ~箱館奉行所今時代を超えてよみがえる~」と、№16の「幕末の志士達が駆け抜けた箱館 ~土方歳三 散華の道~」である。

   

   

 市電停留所「五稜郭公園前」から徒歩で15分ほど行くと五稜郭の入口に至る。入口のところには五稜郭全体を眺めることができる「五稜郭タワー」が聳えている。高い所は嫌いではない私だが、今回はパスした。

   

 「五稜郭」について、簡単に説明している文書があるので、それを拝借して「五稜郭」について説明すると「幕末の箱館開港に伴い移転された箱館奉行所を取り囲む西洋式土塁で、ヨーロッパの城塞都市を参考として設計され、稜堡と呼ばれる5つの突角をもつ星形の土塁が巡らされていることから『五稜郭』と名付けられた。」と説明されている。

   

 五稜郭の本塁に入る前に、正面入口を防御するための「半月堡」と呼ばれる三角上の土塁がある。その三角形は高いところからでないと確認できないが、確かに掘に囲まれた土塁を確認することができた。

   

   

   

 二つの橋を渡って本塁に至る間、本塁を護るように石垣が築かれているのがいかにも城という雰囲気を醸し出していた。

 本塁に入ると、奉行所を囲むように、箱館戦争で使われた「大砲」、奉行所の食糧庫だった「土蔵(兵糧庫)「赤松の林」などか目に入った。

   

   

   

   ※ 写真をよく見ると、復元されなかった元の敷地の区角割を見ることができます。

 そして中央に平成12(2010)年に140年ぶりに復元された「箱館奉行所」が建っていた。ただ、現地で見ると復元されたのは、元々は3,000㎡の建造物のうち1,000㎡が復元されたということで、いわゆる正面の部分が復元されたということのようだ。

   

 「箱館奉行所」の内部見学はパスして、「箱館戦争の遺構」を訪ねて訪ねることにして五稜郭を後にした。五稜郭から南西方向に真っすぐ1.3㎞ほど行くと、道路の分離帯のところ「中島三郎助父子最後之地」碑が立てられていた。中島三郎助は箱館戦争当時、箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋を守備していた。新政府軍が箱館を制圧し、降伏勧告を受けたが最後まで拒絶し続け、息子二人と戦死したところがこの地だったという。

   

   

 その中島三郎助が守備していた「千代ヶ岡陣屋跡」が、彼が最後の地となったところか近い千代台公園の一隅にあった。そこには特に石碑などはなく、陣屋があったという説明板が立っているだけだった。

   

   

 ここからさらに1.7㎞先に「土方歳三最期の地碑」があるはずだった。私はマップどおりに歩いたつもりだったが、どうしても見つけることができなかった。その後の経緯は、「道南旅日記」にも記したとおり、ホテルにチェックインした際に、ホテルから至近の距離にあることが分かり、改めて訪れた。

   

   

 土方歳三については私が語るまでもないが、江戸末期に新選組副長として京都の治安維持活動に勇名をはせたことは良く知られるところだが、その後仙台において榎本武揚らと合流し旧幕府脱走軍の陸軍奉行並として旧幕府軍を統率した。明治2(1869)年5月11日箱館総攻撃の際、孤立した弁天岬台場を助けに向かう途中、一本木関門付近(現若松町)で銃撃を受け35年の生涯を閉じたと言われる場所である。(但し、土方歳三の戦死の場所については諸説あるようである)

  石碑の前には、人気者らしく写真や花、あるいはお酒まで供えられていた。

   

   

   

 そしてこの日8月3日ではなく、翌日4日に旧幕府軍兵士たちを祀った「碧血碑」を訪れた。「碧血碑」は函館山のふもとのどちらかといえば人目に付かないところにひっそりと立っていた。そこには「碧血碑」のことを説明する次のような説明板が立っていた。 

 「箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地、箱館での旧幕府脱走軍戦死者の霊を祀っているのがこの碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介の書といわれている。碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と祀るには支障があったことが推測される。 なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。」とあった。

 そこで私は台座裏に刻まれた16文字に興味を抱いたので調べてみた。するとその16文字とは「明治辰巳實有此事 立石山上表厥志」と刻まれているそうだ。その意味は「明治2年、此の事は実際にありました。山上に石を建ててその気持ちを表します」という意味だそうだ。この言葉からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と祀ることをはばかる気持ちが表れていると識者は指摘しているということだ。                                 

   

   

       

       ※ 「碧血碑」の台座裏には碑の建立の理由を16文字刻まれています。

 また「碧血碑」の傍には小さな石碑が寄り添うように立っていた。その碑は「柳川熊吉翁の碑」と説明板があった。そこには「明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた柳川熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め、同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。明治4(1871)年、熊吉は函館山々腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8(1875)年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。」とあった。

   

 調べてみると、函館市内にはまだまだ箱館戦争の遺構はたくさんあるようだ。今回はそこまで足を延ばすことはできなかったが、今後もし機会があればそれらを調べて訪れてみたいと思う。



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