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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

札大講座「パラリンピック概論」①

2019-04-12 18:43:00 | 大学公開講座

 パラスポーツの生い立ちを知ることができた。パラスポーツが今やリハビリ的要素から、完全にスポーツ競技化してきたことを知ることができた。今年も札幌大学の公開講座が始まったが、都合のつくかぎり受講したいと考えている。

          

 4月10日(水)午後、札幌大学において札幌大学寄附講座「教員発案型授業A~パラリンピック概論」2019が始まった。この講座は札大の学生が受ける講座を一般市民にも開放してくれるというありがたい講座である。今回は札幌大学スポーツ文化専攻の瀧元誠樹教授が企画立案、そして講義をする講座である。(講師は他にもゲスト講師が数人用意されているという)

 第1回目の今回は、講座全体のガイダンス的意味合いも持ちながら「パラスポーツから考える」と題しての講義だった。講義の概要は以下のようなものだった。

               

               ※ この講座を主宰する瀧元誠樹教授です。

 そもそもパラスポーツの始まりは、イギリス在住の一人の医師の発案から始まったものとされている。その医師の名はルートヴィヒ・グットマンというユダヤ人である。彼は1939年当時ドイツに併合されていたポーランドの都市で医師として勤めていたが、ナチスのユダヤ人迫害から逃れるためにイギリスに渡った。1944年、グットマンはロンドン郊外のストーク・マンデビル病院の国立脊髄損傷センターの所長に就任する。彼は第二次世界大戦の戦闘で障害を持つことになった傷痍軍人たちの治療を通じて、身体的・精神的なリハビリのためにスポーツが最適と考えて、1948年に入院患者を対象としたストーク・マンデビル競技大会を始めたという。この競技大会こそが現代のパラリンピックの始まりとされている。当時パラスポーツの「パラ」は「paraplegia」(下半身麻痺)の人たちのスポーツとされていたが、やがて下半身麻痺の人たちだけではなく、身体に障害のある多くの人たちに門戸を広げるようになり「parallel」(平行なこと)のparaであると解釈され、parallelとOlympicを合わせて「paralypic」という造語が生まれ、「もう一つのオリンピック」として世界に認知されるようになったということだ。

             

        ※ 「パラリンピックの父」と称されるルートヴッイヒ・グットマンです。

 今やオリンピックに続いてパラリンピックが同じ国で開催されることは常識のようになったが、その始まりは1960年のローマ大会とされている。しかし、その時はまだ「国際ストークマンデビル大会」と称していたという。正式にパラリンピックと称した大会は実は1964年開催の東京オリンピックからだそうだが、世界的にはローマ大会がその始まりとされているという。

 そうした経過から、ルートヴィヒ・グットマンは「パラリンピックの父」と称されているそうだが、彼は障害を持った人たちに対して有名な言葉を残している。その言葉とは…、

 “失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ”と。 

 講座ではパラリンピックのシンボルマークについての解説もあった。シンボルマークは、スリーアギトスと称され赤・青・緑の三色でデザインされている。これは人間の最も大切な要素は「心(スピリット)・肉体(ボディ)・魂(マインド)」の三つが重要とされるところから設定されてそうだが、スリーアギトスとはラテン語で「私は動く」という意味があるそうだ。

          

            ※ パラリンピックのシンボルマークです。

 そして講師の瀧元氏が強調されたのが、パラスポーツの競技性についてだった。確かにグットマンが競技大会を始めたころは、障がい者のリハビリテーションの意味があり、障がい者福祉の面が前面に出ていたが、今や各パラスポーツは競技性を帯びたものとなっていると強調された。日本においても国の窓口は当初は厚生労働省だったが、現在ではオリンピックの所轄と同じ文部科学省にその所管が移ったこと、新聞の報道がスポーツ面に掲載されるようになったこと、などが何よりの証であるとし、そのことを強調した動画を何本も見せられた。

 正直に言って、私の中ではまだパラスポーツを純粋に競技として見る目は育っていない。今回の一連の講座をできるだけ出席してパラスポーツについて、その競技性について、理解を深めたいと思っている。