児童生徒を評価することについて考えてみたい。
相対評価にしろ絶対評価にしろ,
形成的評価にしろ総括的評価にしろ,
明示的にせよ暗示的にせよ,
ある予め定められた目標なり規準なりに対する到達度を
評価しているのである。
したがって,
目標なり規準なりが設定されていない事柄については,
評価できないということになる。
つまり,児童生徒は,
教師が予め予期した範囲での
パフォーマンスを求められており,
その範囲を超えてしまった場合は,
たとえそれが優れたものであっても,
評価対象とはならないのである。
ところが,教師―児童生徒関係は,
人間と人間の関係であるから,
教師が,教育目標などを離れて
一人の人間として児童生徒を見る場合,
児童生徒の思いがけない「よさ」を認めることになる。
むろん,これは評価とは普通呼ばない。
いっそのこと,思い切って,
学校から,
評価に関するものをすべてなくしてしまったら,
どうなるだろうか?
通知表,内申書,試験などなど,
すべてなくしてしまうのである。
目標や到達度などという言葉を
すべてなくしてしまうのである。
そうすると,
新しい授業や学びの豊かな地平が
広がってくるような気がするのだが…。
相対評価にしろ絶対評価にしろ,
形成的評価にしろ総括的評価にしろ,
明示的にせよ暗示的にせよ,
ある予め定められた目標なり規準なりに対する到達度を
評価しているのである。
したがって,
目標なり規準なりが設定されていない事柄については,
評価できないということになる。
つまり,児童生徒は,
教師が予め予期した範囲での
パフォーマンスを求められており,
その範囲を超えてしまった場合は,
たとえそれが優れたものであっても,
評価対象とはならないのである。
ところが,教師―児童生徒関係は,
人間と人間の関係であるから,
教師が,教育目標などを離れて
一人の人間として児童生徒を見る場合,
児童生徒の思いがけない「よさ」を認めることになる。
むろん,これは評価とは普通呼ばない。
いっそのこと,思い切って,
学校から,
評価に関するものをすべてなくしてしまったら,
どうなるだろうか?
通知表,内申書,試験などなど,
すべてなくしてしまうのである。
目標や到達度などという言葉を
すべてなくしてしまうのである。
そうすると,
新しい授業や学びの豊かな地平が
広がってくるような気がするのだが…。
○各教科や総合的な学習の時間の学習に関する所見
○特別活動に関する事実及び所見
○行動に関する所見
○進路指導に関する事項
○生徒の特徴・特技,学校内外における奉仕活動,表彰を受けた行為や活動,知能,学力等について標準化された検査の結果など指導上参考となる諸事項
○生徒の成長の状況にかかわる総合的な所見
これらの記入に際しては、生徒の優れている点や長所、進歩の状況などを取り上げることが基本となるよう留意することが望まれています。
したがって、記事中の「目標なり規準なりが設定されていない事柄については,評価できない」「児童生徒は,教師が予め予期した範囲でのパフォーマンスを求められており,その範囲を超えてしまった場合は,たとえそれが優れたものであっても,評価対象とはならない」という話は、虚偽の内容です。
このような虚偽の内容を示されるmadographosさんの意図を教えていただければと思います。
>評価に関するものをすべてなくしてしまったら,どうなるだろうか?
私にも、こういう発想を夢見ることがあります。
事務的な意味をもつ「評価」に何の教育的な価値があろうかと思います。
また、それらは、一定の枠組みをもっていて、とても私は好きになれません。
「評価」は「学び」の中に生きてこそ有効なのではないかと想像しています。
その「評価」は、指導者に向けられる「評価」に直結しそうな気がします。
「児童生徒は,教師が予め予期した範囲でのパフォーマンスを求められており,その範囲を超えてしまった場合は,たとえそれが優れたものであっても,評価対象とはならない」を虚偽であるという証明に、貴殿のあげた項目に当てはめて具体を記述してはどうか?
ことばだけで、実践がまったく見えません。
「目標なり規準なりが設定されていない事柄」のうち、
>教師―児童生徒関係は,
>人間と人間の関係であるから,
>教師が,教育目標などを離れて
>一人の人間として児童生徒を見る場合,
>児童生徒の思いがけない「よさ」を認めることになる。
という話の「よさ」にあたる事柄を、madographosさんにご紹介いただけるだけで、この問題は解決されるのですが。
まさか、そんな「事柄」はこの世に存在しない、という話ならまた別の問題になりますが・・・。
素人さんのご質問に簡単にお答えいたしますと、「指導要録」には、「学校内外における奉仕活動,表彰を受けた行為や活動」に対する評価を記入することができます。
ピアノの○○コンクールで優勝、とか、○○という自治体の○○標語コンテストで優秀賞を受賞とか、地域の清掃活動に毎週日曜日、年間○○回参加したとか、「予期した範囲」にない「よさ」は意外とたくさん見つかるものです。これらは受験のときも考慮される場合があります。こういうことに関心を持とうとしない教師や担任集団にお世話になった子どもたちは不幸・不利であると思われませんか?
とありますが、単純な2点について。
madographosさんは、教員の能力がそんなに低いものとお考えですか?
教育目標にかかわりのない、子どもの「よさ」とは具体的にどんなことを表していますか?
・・・まさか、「想定範囲」を超えたことなので、「思いつかない」なんてことはないでしょうが・・・?
それと、評価については、「想定範囲内」で何の問題もないのでは?
むしろ、きちんとした目標や評価規準を設定し、それを実現するための指導を行って、その指導の成果としてどんな目標がどれだけ実現できたか、それを評価することはとても重要なことではないですか?
規準を超えたものは評価できないとありますが、「規準を超えて優れている」という評価で何がいけないのですか?
なぜそれが「弱点」なのか、もう少しわかりやすくご説明いただきたいと思います。
蛇足ですが、「私の主張する内容があなたの評価規準を超えてしまっている」という上から目線のコメントは、腹が立ってからついしてしまった奢りの表現ですか?
非常に不愉快です。
この例が「予期した範囲」にないとは思いませんでした。
ネピアのティッシュより薄くてスカスカな評価ですね。
親の立場としてこのような評価を見た時の感想は、
「いちいち書かなくても知ってるよ」ですね。
“常識人”を目ざして頑張ってください。