マスをかくこと、モノを書くことは得意だが、
モノを描くことは・・・まぁ、苦手ということはないが、けっして得意ではない。
よくいうでしょ、鉛筆の時点では「まあまあ巧い」のに、絵の具に手を出すと途端に下手になるっていう、自分はそんなタイプだ。
いやその前に、マスかきが得意ってのはなんだ。
回数を指してのことか、あるいは技術なのか。
回数ね、回数。
興味ない?
悪かったな。
で、絵を描くことについて。
先日のこと―。
泥酔状態でCSのTBSチャンネルを観ていたら、『金八先生』の再放送が流れていた。
第8シリーズ、忽那汐里が帰国子女役で出たやつね。
その回のメインテーマは、内気な優等生が美術の課題(写生)を他者に描いてもらい提出、
美術教師と金八先生は「彼が描いたものではない」ことを見破るが、
彼の両親は彼が描いたことを信じて疑わず、なぜこれが代表に選ばれないのかと学校に抗議する―というもの。
課題作文の「代行」を請け負っていたこともある自分、「あぁ、分かる分かる」なんて呟きながら観ていたが、思い出したことがもうひとつ。
小学3年のころだったか、
学校ではなく市が企画する写生コンクールみたいなのがあって、当時は「漫画家になりたいなぁ、、、なんつって」と、自信はないが「絵を描くこと」に興味はあった自分はこれに参加した。
市役所ちかくの運動場を写生した、、、と記憶する。
参加特典として弁当くらい出たはずだが、自分以外に参加したクラスメイトは居なかった・・・からだろうか、
「ひとりでできるもん」と思ったのに、父親が同伴した。
「景色や事物のありさまを見たままに写し取ること」が写生であるから当然のことだが、
観客席の椅子の感じやグラウンドの白線などを正確にチマチマチマチマ描いていると、散歩しているはずの父親が何度も自分の絵を覗き、
「そんな、ひとつひとつを正確に描いてもしょうがないんだから」
とか、
「もっと大胆に、太い線一本で仕上げちゃっていいんだよ」
とか、
いろいろうるさくいってくる。
10分に1度くらいの頻度だったかなぁ、
巧く描けていると思っていたものだったから、軽くショックを受けた。
そして、こう思った。
あれ、うちのとーちゃん、そういうこといってくるひとだったかな・・・と。
あらゆる面で放任主義だったはずだから、ふだんはそんなこといわない。きっと、早く帰りたかったんだろう。
同伴を頼んだわけでもないのに、
しかしアレコレいわれ続けるのもかなわん、
もう少し自分というものを「持って」いたら自分流を貫いたろうが、そこまでの反骨心もない、だからイヤだったが、父親のいうとおり大雑把に仕上げた。
写実のつもりが、大袈裟ではなく抽象画に見えた。
しかし父親はそれを見て、「うん、いいんじゃないか」などといった。
マジか?
自分で描いたのに、自分の絵には思えなかった。
黒く、塗りたかった。塗りつぶしたかった。
そして、このことがきっかけで、しばらくのあいだ父親のことが嫌いになった。
自分を貫けなかった自分自身のことも嫌いになった。
絵や音楽、文章だってそうだが、究極的には自分だけのもので、好き勝手に仕上げればいい。
「てにおは」だって習う必要はない、繰り返すが究極的にはね。
それが商品である場合にかぎっては、いろいろなひとの意見を聞く必要があるけれど。
子どものうちは、そんなこと考えないほうがいい。
好き勝手をやらせた結果、とんでもないものが生まれる可能性だってあるわけで。
『金八先生』では後半、彼の両親が教育委員会に訴えるなどと吠えていて、そんな親居るのかなぁ、、、なんて思って観ていたが、
成績や親なんかがからむと、面白くてスリリングなはずの表現行為は途端に退屈なものになってしまう。
世の親御さんたち。
主要科目には口挟んでいいかも・・・だけど、正解がひとつでないものは、その子の導き出した答えを最優先にしてあげてくださいね。
家庭持ってないヤツだから説得力はないかもしれないが、その代わり、似非とはいえモノカキだからね、そこで少々の説得力は生まれるんじゃないかな。
※トップ画像は、スコセッシ×コッポラ×アレンによるオムニバス『ニューヨーク・ストーリー』(89)から、
スコセッシ担当の第1話『ライフレッスン』より、その撮影現場を。
左がスコセッシ、右は主役の画家を演じるニック・ノルティ。
※動画は、『ライフレッスン』のダイジェストをストーンズの名曲で。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『灰皿の下に、なにかを敷きますか』
モノを描くことは・・・まぁ、苦手ということはないが、けっして得意ではない。
よくいうでしょ、鉛筆の時点では「まあまあ巧い」のに、絵の具に手を出すと途端に下手になるっていう、自分はそんなタイプだ。
いやその前に、マスかきが得意ってのはなんだ。
回数を指してのことか、あるいは技術なのか。
回数ね、回数。
興味ない?
悪かったな。
で、絵を描くことについて。
先日のこと―。
泥酔状態でCSのTBSチャンネルを観ていたら、『金八先生』の再放送が流れていた。
第8シリーズ、忽那汐里が帰国子女役で出たやつね。
その回のメインテーマは、内気な優等生が美術の課題(写生)を他者に描いてもらい提出、
美術教師と金八先生は「彼が描いたものではない」ことを見破るが、
彼の両親は彼が描いたことを信じて疑わず、なぜこれが代表に選ばれないのかと学校に抗議する―というもの。
課題作文の「代行」を請け負っていたこともある自分、「あぁ、分かる分かる」なんて呟きながら観ていたが、思い出したことがもうひとつ。
小学3年のころだったか、
学校ではなく市が企画する写生コンクールみたいなのがあって、当時は「漫画家になりたいなぁ、、、なんつって」と、自信はないが「絵を描くこと」に興味はあった自分はこれに参加した。
市役所ちかくの運動場を写生した、、、と記憶する。
参加特典として弁当くらい出たはずだが、自分以外に参加したクラスメイトは居なかった・・・からだろうか、
「ひとりでできるもん」と思ったのに、父親が同伴した。
「景色や事物のありさまを見たままに写し取ること」が写生であるから当然のことだが、
観客席の椅子の感じやグラウンドの白線などを正確にチマチマチマチマ描いていると、散歩しているはずの父親が何度も自分の絵を覗き、
「そんな、ひとつひとつを正確に描いてもしょうがないんだから」
とか、
「もっと大胆に、太い線一本で仕上げちゃっていいんだよ」
とか、
いろいろうるさくいってくる。
10分に1度くらいの頻度だったかなぁ、
巧く描けていると思っていたものだったから、軽くショックを受けた。
そして、こう思った。
あれ、うちのとーちゃん、そういうこといってくるひとだったかな・・・と。
あらゆる面で放任主義だったはずだから、ふだんはそんなこといわない。きっと、早く帰りたかったんだろう。
同伴を頼んだわけでもないのに、
しかしアレコレいわれ続けるのもかなわん、
もう少し自分というものを「持って」いたら自分流を貫いたろうが、そこまでの反骨心もない、だからイヤだったが、父親のいうとおり大雑把に仕上げた。
写実のつもりが、大袈裟ではなく抽象画に見えた。
しかし父親はそれを見て、「うん、いいんじゃないか」などといった。
マジか?
自分で描いたのに、自分の絵には思えなかった。
黒く、塗りたかった。塗りつぶしたかった。
そして、このことがきっかけで、しばらくのあいだ父親のことが嫌いになった。
自分を貫けなかった自分自身のことも嫌いになった。
絵や音楽、文章だってそうだが、究極的には自分だけのもので、好き勝手に仕上げればいい。
「てにおは」だって習う必要はない、繰り返すが究極的にはね。
それが商品である場合にかぎっては、いろいろなひとの意見を聞く必要があるけれど。
子どものうちは、そんなこと考えないほうがいい。
好き勝手をやらせた結果、とんでもないものが生まれる可能性だってあるわけで。
『金八先生』では後半、彼の両親が教育委員会に訴えるなどと吠えていて、そんな親居るのかなぁ、、、なんて思って観ていたが、
成績や親なんかがからむと、面白くてスリリングなはずの表現行為は途端に退屈なものになってしまう。
世の親御さんたち。
主要科目には口挟んでいいかも・・・だけど、正解がひとつでないものは、その子の導き出した答えを最優先にしてあげてくださいね。
家庭持ってないヤツだから説得力はないかもしれないが、その代わり、似非とはいえモノカキだからね、そこで少々の説得力は生まれるんじゃないかな。
※トップ画像は、スコセッシ×コッポラ×アレンによるオムニバス『ニューヨーク・ストーリー』(89)から、
スコセッシ担当の第1話『ライフレッスン』より、その撮影現場を。
左がスコセッシ、右は主役の画家を演じるニック・ノルティ。
※動画は、『ライフレッスン』のダイジェストをストーンズの名曲で。
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明日のコラムは・・・
『灰皿の下に、なにかを敷きますか』