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俳人杉田久女(考) ~「墓に詣り度いと思ってをる」について~(76)

2016年10月15日 | 俳人杉田久女(考)

昭和21年1月の久女の死から10ヶ月程しか経ってない昭和21年11月に、久女の師高浜虚子は自身の主催する俳誌『ホトトギス』に、不思議な一文「墓に詣り度いと思ってをる」という文章を載せています。

この文章は二つの部分から成っていて、前半は久女、後半は尾形余十という俳人の死を悼む形になっています。二人を並べていますが、虚子のねらいは久女にあるのは明らかです。
<高浜虚子 1874-1959>

久女の長女昌子さんには、母、久女から託された、句集を出版するという大きな仕事がありました。母の師、高浜虚子へ母の死を知らせると、折り返し悔やみの手紙が届き、そこには「悼句でも出来たら差し出したいと思っている」との言葉がありました。 その言葉は昌子さんを力づけ、「もしかすると悼句で句集を飾って頂けるかもしれない」という希望が湧き、恭順な手紙を虚子に出させることになったようです。

その昌子さんからの手紙を、虚子は「墓に詣り度いと思ってをる」の冒頭で、〈ここに一つの手紙がある。それは杉田久女さんの娘さんからの手紙である〉という書き出しで紹介しています。

長くなるのでその手紙は書き写しませんが、昌子さんはその手紙の中で虚子に心を許し、「母は病気でありました」、そして「我儘で手が付けられない」と見ていましたなどと、母の師、高浜虚子を信じればこその打ち明け話を書いています。

もし母が虚子の不快をかったことなどあれば、病気の為と許してほしいとの気持ちを込めてこう書いたのでしょう。

が、高浜虚子はその昌子さんの言葉に言いかぶせたと思われる、次の様な妙なことを書きました。〈この手紙にあるように、或る年以来の久女さんの態度には誠に手が付けられぬものがあった。久女さんの俳句は天才的であって、或時代のホトトギスの雑詠欄では特別に光り輝いていた。其れがついには常軌を逸するようになり、いわゆる手がつけられぬ人になってきた〉と。

田辺聖子さんは著書「花衣ぬぐやまつわる...」の中で、高浜虚子がこう書いたことで、常軌を逸した久女のイメージが固定化し、久女伝説のあらゆる現象はここに胚胎していると思っていると書いておられます。私も全く同感です。

娘の昌子さんが母を「我儘で手が付けられない」というのと、虚子が「常軌を逸して手がつけられない」というのとでは、まったく意味が違うと思います。

娘が母をかばって身内的謙遜をするのと、高浜虚子が断定するのとでは質がまったく違います。私はそのことを虚子は判っていて、言いかぶせたのだと思います。

上にある様に、この短い文章の中で虚子は、「手がつけられない」という言葉を2回使っています。「常軌を逸して手がつけられない振る舞い」、「狂気説」を人々に印象付け、同人除名の理由を明かさぬまま、人々に久女が狂っていたとの風説が浸透するのをねらった様に感じます。

「墓に詣り度いと思っておる」は前半には上の様なことが書いてあり、次に虚子らしい執拗さで、最後に久女に会った箱根丸での見送り風景を書いています。この部分は今日、高浜虚子の明らかな虚構文であると指摘されています。

次はそう指摘されている箱根丸見送り風景を書いた部分を見ていきましょう。

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